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<大学院受かった 来週東京に引っ越す>

<発つ前に会って話したい 時間作れる?>

 一か月ぶりに受信した種ヶ島からのメッセージには、そう書かれていた。彼が夢へと続くステップを勝ち取ったことに心から安堵しつつ、改めて覚悟を決めなければ、と白石は瞳を伏せた。二月が終わろうとしている。風はまだ切るように冷たく、再び巡って来るはずの春は、まだ来ない。

 もうすぐこの街から、優しいあの人がいなくなる。

 

  ◆

 

 

「久しぶりやな」

「お久しぶりです。大学院、ほんまにおめでとうございます」

 白石の家からそう遠くない交差点で、待ち合わせていた種ヶ島は明るく笑って白石を迎えた。その仕草に救われて、白石もなんとか頬を緩め、心を込めた言葉を返すことができた。「おーきに、お前のおかげやな」と、ダウンジャケットのポケットに手を入れた種ヶ島が微笑んだ。

 いつもどおりに笑う体と、しくしく痛み続ける心とが切り離されて宙ぶらりんに浮かび、ひとかたまりだった自分がばらばらに壊れている感覚がする。壊れているのに、それぞれが勝手に動き、痛み続けている。現実の中にちゃんと立っている感覚がなくて覚束ない。少し前まで自分はどのように存在していたのだったか、思い出せない。たった一人との別れがこんな世界をもたらすことを、白石は初めて思い知らされていた。

 種ヶ島は、明日この街を離れる。

「部屋、もう引き払ったんですか」

「うん。今最後の立ち合いして来たとこ。夜には新幹線の中や」

「そうですか」

 白石は、しぼむ気持ちをどうにもできないまま相槌を打った。今日、この最後の時間が終わったら二人は別れ、種ヶ島がほんとうに去っていくその時を、白石はどこか別の場所で過ごすのだろう。そのことがとても寂しかった。幾度も二人で過ごしたあの部屋も、もうどこにもなくなってしまった。

「で、話やねんけど、長居するつもりはないから、そこの公園じゃあかん?寒いしどこか店がええとは思うんやけど、静かなとこがええねん」

 種ヶ島が指したのは、白石の家にほど近い、二人の日々が始まった小さな公園だった。

「ええですよ、種ヶ島さんの話しやすいとこで」

 そう言って頷くと、種ヶ島は「ほなこれ」とポケットから出したカイロを握らせた。久しぶりに触れた肌に切なく心が揺れたのは、束の間だった。白石の目は、すぐに種ヶ島の右手に奪われたからだ。

 ない。ただの一度も外される日のなかった、あの銀色の指輪が。

 白石の目線の先を辿った種ヶ島は、肩を竦めて苦く笑った。

「……よかったんですか、外して」

 自分のしたことが、種ヶ島に外したくないものを外させてしまったのではないか。そんな心配が過って、白石は慎重に聞いた。種ヶ島は何もついていない右手を数秒眺め、頷いた。

「うん、これでええねん」

 薬指を見つめる深い伏し目が何を思っているのか、白石は読めなかった。昔の恋人のことを抜きに、白石だけに向き合って話すという意志の表明だろうか。尋ねるのは野暮に思われた。

「さ、行こか!」

 種ヶ島は空気を変えるように、ぱっと表情を変えて笑いかけた。

 その時だった。交差点から伸びた道路の向こうから、ドォン!と空気を震わせる轟音が響き渡った。凍り付いたように身が竦み、音のした方を振り返る。見ると、二、三百メートル先で、白い自動車が電柱に衝突していた。反対側の歩道を跳ねるように通り過ぎた小さな影は、猫か何かだろうか。自動車はそれを避けようとしたらしい。通行人が駆け寄っていく。

「びっ……くりした……」

 種ヶ島の声が、ヘッドホン越しのように遠く聞こえた。白石は全身を硬直させたまま、頭が真っ白になって放心していた。聞いたばかりの轟音が頭の中を反響している。

「――し、……白石?おい、白石!しっかりせえ!」

 呼ばれる声で、ようやく我に返った。心配そうに眉を寄せた種ヶ島の顔が大写しになっている。白石は、まだ地に足のつかない心地でその光景を見た。

「白石、わかる?大丈夫か?」

 両肩に置かれた種ヶ島の手が、固くなったままの体を優しく撫で解いていく。白石はこくこくと頷き、一度大きく息を吐いた。周りの音と体の感覚がようやく戻り、ほっと胸を撫でおろす。種ヶ島は、まだ用心深く白石を見ている。

「顔真っ青やで、ほんまに平気なん?おかしいとこないか?」

「大丈夫、大丈夫です。すんません、俺交通事故に遭ったことあって、ああいう音、トラウマなんかもしれません。今までこんなんなかったんですけど……でも、もうなんともありません」

 凍った体の中でばくばくと忙しなく脈打っていた鼓動も、一呼吸ごとにいつものリズムに戻って行く。呼吸もちゃんとできている。白石が自信を持って笑うと、心配顔はそのまま、種ヶ島はようやく覗き込んだ顔をひっこめた。それから、

「ちょっとでもおかしいとこあったら言うんやで」

と念を押した。

 もう一度音のした方を振り返る。運転手らしき女性は自力で立って歩いているし、同乗者はいなかったらしい。通行人が何人も助けに行っているようだし、とりあえず大丈夫そうだ。

「種ヶ島さん、行きましょ」

 貼りついてしまったかのように不安げな表情を崩さない種ヶ島に、白石は極力明るく笑いかけた。種ヶ島はようやく少し表情を緩めると、頷いた。

 大丈夫、ちゃんと歩ける。種ヶ島との別れに散り散りに砕けている心と体までも元どおり、というわけにはいかず、心だけは泣くように沁み続け、相変わらず世界を曖昧にしていたが。

 

  ◆

 

 

 二人の日々が始まった公園には、相変わらず華奢なすべり台とブランコだけが置かれている。その二つは、まるでそこだけ時間が経っていないみたいにそのままなのに、白石にとっては全く違っていた。空はあの日の青空には似ても似つかぬ薄曇りだ。緑が生い茂っていた栗の樹はひとつ残らず葉を落とし、砂は乾いて、空を映す水溜まりも、雨上がりの匂いもない。きんと冷えた冬の空気が、一切の湿度や香りを地中深く閉じ込めてしまったように、地上には何も漂っていなかった。何より、あの夏の日、世界はくっきりと明るく、間違ってもこんな虚ろで恐ろしいものではなかった。

「お、意外に冷たないわ。日向やからかな」

 木の下のベンチに恐る恐る腰を下ろした種ヶ島は、そう言って笑うと白石に隣を勧めた。あの時と同じように、一人分の間を開けて隣に座る。かつて近いのか遠いのか図りかねた距離は、今の二人には、きっとちょうどいい。

 種ヶ島の横顔は、すっきりと明るく、前向きに見えた。一歩夢へと近づき、春から待ち受ける明るい日々がそうさせているのかもしれない。白石は、安心と、どうしようもない寂しさを覚えて小さく笑った。

 種ヶ島にしてみれば、あの日前触れもなく突然に、一方的に別れを告げられた形であったはずだ。寂しがり屋の彼が、白石に連絡を取らないよう心掛けながら、その後どのように暮らしているかと心配していたのだ。これまでの種ヶ島のことは分からないけれど、今のこの様子なら、きっと大丈夫だ。この人は、東京でもしっかり生きていけるに違いない――俺がいなくても。

「話いうんは、発つ前にけじめつけときたかっただけやねんけど」

 種ヶ島は、少しも湿っぽくなく、からりと穏やかに話し始めた。そして白石の方を見てやわらかく笑うと、まるで睦言を口にするように優しく言った。

「別れよ、俺ら」

 なぜかあたたかいその言葉が、ゆっくりと胸に落ちていった。それがいい。白石は切なく、しかし心から共感して微笑むと、丁寧に頷いた。種ヶ島は瞳を緩め、大事そうに白石を見つめてから、前に向き直って口を開いた。

「あれから俺も考えてみてん。お前と、お互い楽しゅう付き合っていける方法ないもんかなぁって。でも、見つからへんかった。それに、やっぱり、こんなんもう続けたらあかんと思って」

 種ヶ島はそこまで言って、懺悔するようにふっと視線を落とした。

「俺、今でもお前といたいけど、あいつありきでお前のこと見てるんは、お前に対してあんまりや。一緒におるのはお前やのに、俺はお前を見とるような顔して、もうありもせえへん別の人間見とるんやからな。そんなん、一緒におっても一緒におることにならへんよな。……お前は、それは辛抱できる言うたけど、あかん。そんなん、俺があかん。散々お前に余計なもん重ねて来といて、ほんま今更やけど、これ以上お前をそんな風に扱いたない」

 ちら、と紫色の瞳が白石を見て、眉を下げた。

「長い間ひどいことして、結局苦しめてもうた。お前は謝られたないやろうけど、やっぱり謝らせてほしい。ほんまにごめん」

 真剣な顔で、種ヶ島は頭を下げた。白石は首を横に振りかけたが思い直し、「はい」と一つ頷いた。そうしなければ、この人の罪悪感は行き場なく残ってしまい、それを拭う機会は二度と訪れないと思ったのだった。ただ、一つ付け加えた。

「俺は幸せやったって、今でも思いますよ」

 種ヶ島は顔を上げると、申し訳なさそうに笑って頷いた。それから再び前を向くと、白く曇った空を見上げて続けた。

「考えたんよ。お前とおる時は、あいつのこと一旦置いといて、いつもお前のことだけ見とけるようになれへんかって。……けど、無理や。それは、お前とずっと一緒におりたいなら、ずっとあいつのこと忘れとかなあかんってことになる。でもな、俺は――」

 精悍な横顔が、遠くを見てくしゃりと笑った。不意に日差しが強まり、細められた瞼の中で、種ヶ島の瞳がきらり、一瞬淡い紫色に輝く。

「どうしても思い出したい。あいつとのこと、一生、思い出しながら生きていきたいねん」

 日の光を弾く小麦色の頬には一滴の涙も伝っていないのに、白石には、愛おしそうに笑う種ヶ島が泣いているように見えた。涙だけが、目の奥に押しとどめられているような気がした。

 帰らぬその人への想いの大きさに触れ、痛み続ける白石の胸はさらに締め付けられた。胸を押さえて崩れ蹲ってしまいたいほどだった。この人は、こんな想いをこれからも抱えて、一人きりで歩いて行くのだろうか。どんなにその人を重ねられたっていいから、辛くてもいいから、その背を支えられるところにいたい。他でもない種ヶ島がそれをよしとしないというのに、そう願わずにはいられない。

 種ヶ島の右手が見える。やっぱり俺のために無理をしてあの指輪を外してきたのではないか。そう思えて謝りたくなったが、確証もないままでは何も言えなかった。

「お前を見てあいつのこと思い出すの、ゼロには絶対できへん。せやから、あかんわ」

 種ヶ島はそう言って白石へと向き直ると、にっこり笑って白石の両頬を優しくつねった。よほどひどい顔をしていたのだろう。そんな顔するな、と言うように、種ヶ島は白石の頬をふにふにと弄った。それから、ふうと一つ息をつくと、何か決意したような顔で言った。

「俺はこれ以上お前に甘えたらあかん。あいつはもう戻って来うへんってこと、ええ加減受け入れて暮らさな。せやから、お前の連絡先は消すし、俺も変えさせてもらうわ。そうせんと俺、しんどい時またお前をあてにしてしまうと思うから」

 それは想定外の宣言で、壊れたままの体と心にぐらぐらと響いた。これでもう二度と会うことはないだろうと思いつつここへ来たのだというのに、種ヶ島との間に垂れるか細い糸まで一本残らず切られることを思うと、ひどく堪えた。しかし、受け入れない理由は見つからない。もとよりそういう覚悟をしてきたはずだった。白石は痛みを押し殺して頷いた。

「さ、話はこれだけや。最後まで悪いけど、送らせてな」

 種ヶ島は明るく笑って言った。もうベンチを立ってしまった彼を引き止めたい気がしたけれど、できなかった。もう引き止められるときは過ぎてしまったのだ。彼にはもう、今夜乗るべき電車があって、全てはそこへ向かって動いているのだから。氷を押し付けられたように痛み続ける心を放ったまま、立ち上がるしかない。

 家までの道を、二人並んでゆっくりゆっくり歩く。いよいよひしゃげていく心に耐えていると、不意に種ヶ島が口を開いた。

「お前は一回も泣かへんかったな」

 白石は首を傾げた。

「なんや俺ばっかり泣いとったなぁ」

 種ヶ島は苦笑いで続けた。白石は、回らない頭でちょっと考えてから答えた。

「人前で泣いたり怒ったりするの、昔からできひんくて」

「俺の前でもあかんかった?」

「はあ……染みついとるんやと思います」

「さよか。お前は型にはまらん方が、のびのび生きていけると思うけどなぁ」

 曇り空を見上げて、独り言のように種ヶ島は言った。それから、急にまっすぐこちらを見ると、こう続けた。

「なあ、いつか必ず見つけるんやで。お前が何も考えんと、胸借りて泣ける人」

「……そんな人、おるんやろか」

「必ずおるわ。ほんまは俺がなりたかってんけどな」

 残念、と種ヶ島は苦く笑った。

 単純に、人前で泣いてはいけない立場であった時間が長すぎたのだ。おかげで、そんな立場を離れた今でも、人前で泣くのは良くないことのように思えて、一人きりでしか泣けない。でも、この人の胸でなら、俺でもいつかは泣けたのかもしれない、と白石は思った。白石が勝手に自分自身に巻き付けている戒めを優しく解いて、泣かせてくれる日も来たのかもしれない。もし二人がずっと一緒にいられたなら。

 俺だって、なりたかった。あなたを一番力強く支えてあげられる人に。でもそれも、もう叶わない。

「種ヶ島さんも、見つけてください。その人みたいに、あなたを幸せにしてくれる人」

 白石は控え目に種ヶ島の右手を指して言った。自分が叶えられない願いを、まだ見ぬ誰かに託したかった。頷いてほしかったけれど、種ヶ島は曖昧に笑うだけだった。それから、柔らかく微笑んで言った。

「俺は、お前とおったときもめっちゃ幸せやったよ」

 

「ほな、これでお別れや!」

 白石の自宅であるアパートの前に着き、種ヶ島はさっぱりと言った。白石は、とてもそんな爽やかな気持ちにはなれなかった。これが本当のお別れだ。大好きな種ヶ島さんとの。胸はじくじくと痛むし、言わなければいけないことがいくつもある気がするのに、胸に詰まってひとつも出て来やしない。

「今まで、本当にありがとうございました。お元気で」

「うん」

 結局、そんなありきたりな言葉しか口に上らなかった。種ヶ島の目を見られなくて、顔はどんどん下を向いた。彼のように明るく、笑顔で別れなければならないのに、痛みに負けた顔が歪んでいく。すぐそこから、種ヶ島の優しい声が別れの言葉を重ねていく。

「ずっと元気でいてな。病気せんと、怪我もせんと、元気で」

 頷くことしかできず、顔を上げられない白石を、種ヶ島はしばらくの間じっと見ていた。悲しみと、寂しさと、悔しさと、あとは何だろう。判別のつかない痛みに飲みこまれ、そのままどれだけ時間が経っているのかも認識できない。

「なあ、こっち見て」

 無言の時間が続く中、種ヶ島がそれまでよりも静かな声で囁いた。白石は急いで笑顔を作ろうとしたが、どうしてもうまくいかない。すみません、ともかくそう謝ろうとしたとき、それより早く声がした。

「頼むわ。……これが最後でええから」

 その語尾が、今日初めて微かに震えた。声の端がほんの僅か、泣き出しそうに滲んだ気がして、思わず白石は顔を上げた。種ヶ島は、切なそうに眉を寄せていたけれど、泣いてはいなかった。目が合うと、その表情はするりと緩んだ。種ヶ島は、愛おしそうに、何度も重ねて焼き付けるように、隅々までゆっくりと白石の顔を眺める。最後に何かを探すようにしばらく瞳を覗き込むと、満足そうに笑った。

「ありがとう。……今までずっと、ありがとうな」

「……俺の、方こそ」

 種ヶ島が一歩、二歩、そっと離れた。手を伸ばしても届かなくなった場所で、種ヶ島はいつものように優しく笑いかけた。

「さよなら、蔵ノ介」

 同じ言葉を返そうとした喉は引きつり、とうとう声を出せなかった。心とばらばらになった体が小さく小さく頷くと、種ヶ島はふわりと笑い、広げた右手の指を小さく曲げてから、くるりと背中を向けた。

 頭が空っぽになって何も考えられず、小さくなっていく背中を立ち尽くして見ながら、白石は、種ヶ島が初めて「蔵ノ介」と呼んだことに気付いた。甘やかな響きが遅れて胸に染み込んで、こんな時でさえ流すことのできなかった涙がぽとりと落ちた。

 種ヶ島の背中が小さくなっていくにつれ、中に鉛が落とされていくように少しずつ、頭が痛くなっていく。胸も痛ければ目も熱いし、息もうまくできなくて、もうどこが痛いのかよく分からない。背中は、いつの間にか見えなくなっていた。

 ふらふらと部屋へ戻ると、いよいよ痛みはひどくなった。涙が止まらない、胸と頭がガンガンと痛む。不意に、さっき耳にしたドォン!という轟音が頭の中に響き、頭痛が鋭く強まる。白石はたまらずベッドに体を預けた。また一つ、また一つと同じ音が聞こえる。

 そのうち、白石は気付いた。これはさっきの音ではない。

 これは、高校三年生だった一昨年の十二月、交通事故に遭ったときの音だ。さっき聴いた音がトリガーになったのか、フラッシュバックしているらしい。今までこんなことはなかったのに。

 対処法が分からないまま、目を閉じ、体を丸めて痛みに耐えていると、今度は違う景色が差し込まれた。白い天井と壁、視界の左端にピンク色のカーテン。これはあの後入院していた病室の光景だ。その中で、ちょうどさっき見たのと同じように心配そうに顔を歪めた種ヶ島の顔が大写しになっている。

 ――種ヶ島さんの顔?

 白石ははっと目を開けた。交通事故に遭ったのは、種ヶ島に出会う四ケ月も前のことだ。当時の記憶の中に種ヶ島がいるのはおかしい。記憶が混線して、合成写真のような光景を見せているのだろうか。それにしては、本当に見たようにくっきりとした記憶だ。それに、いくらなんでもこれほど必死に歪んだ心配顔を、白石は見たことがなかった。まだ目の前をちらつき続ける種ヶ島の顔は、それほど追い詰められていた。知らない種ヶ島だ。それがなぜ、あの病室にいる?

 少し頭痛が引いた隙に、白石はなんとか体を起こし、回らない頭を叱咤して実家へ電話をかけた。感じたことのない嫌な胸騒ぎが呼吸を浅くしていたが、平静を装って話す。電話を取った妹の由香里は、「急に何?」と戸惑いつつも質問に答えてくれた。

「あの時、病室に家族以外に誰かおったっけ」

「家族以外?……お医者さま?あ、救急車呼んでくれた人?途中で帰らはったけど」

「……、それ、どんな人?」

「真っ白な髪の毛で、背高くて、ごっつイケメンの大学生さん」

「……」

「もしもし?」

「……そんな人、俺がちゃんと目覚ましたときにはおらへんかったよな?」

「クーちゃんが最初に目開けたとき、あたしとおとんのこと分からへんようになっとって、次に目覚ましたとき混乱するかもしれへんからって外に出されたって話したやん。その時帰りはった。えらい心配そうやったけど、知らん人がおってクーちゃんに悪影響があったらあかんし、こういう時は家族だけの方がええって気遣てくれたんよ。怪我が軽いのだけ分かったからええって。おとんが名前聞いたんやけど、名乗らへんまま行ってもうた」

「……、」

「もしもし?クーちゃん?」

 頭が再びずきんずきんと痛み出し、白石は眉を寄せて息を詰めた。

「ごめん、切るわ」

 なんとかそれだけいつもの声で言うことに成功し、電話を切ると、そこからは何も考えられなくなった。痛みなのかもよく分からない感覚が体中に充満して、意識を失うように眠ってしまったのだ。

 

 

 

  ◆

 

 それから、無重力の空間をどこまでも漂っていくような感覚と共に、長い長い夢を見た。

『おーい、ノスケ!じゃんけんポン、あっち向いてホイ!……俺の勝ち。先にやらせて貰うわ!』

 

 夢は、そんな軽やかな声から始まった。大きな背中に「JAPAN」の文字、型破りに風に靡く赤い袖。古いフィルムのリールが回るように、映像が次々と映し出されていく。

 強敵としなやかに渡り合う背中を見た日。行き止まりから救い上げてくれた夜。見守る眼差しを感じながら星を見つけた日。二人同じコートで戦った日。砂浜で抱きしめられた日。ソファに身を寄せ合い月を見上げ、朝日の中でキスをした日。大阪駅の改札を出て来た姿に手を振った日。一人暮らしのアパートを訪ねた日。初めて体を重ねた日。喧嘩をした日。仲直りをした日。どの場面にも、明るく笑う紫色の瞳があった。

 

『ほい、誕生日プレゼント』

『……、これ』

『ペアリングってやつやな。こっちが俺の。見てみ、裏に石が埋め込まれてて、色がちゃうねん』

『あ、ほんまや!……あれ、この色……』

『アハハ、ええやろ。高校じゃつけられへんやろうけど、俺大学でつけるし、片方持っといて』

『はい!ありがとうございます!ああ、はよ高校卒業したいな』

『おーおー喜んでくれとるなあ』

『なんや、めっちゃ嬉しいです……』

『え、ノスケ泣いとる?』

 

『いやいやさすがにそれはないでノスケ。そうか、ボケやな。ボケと言うてくれ』

『え?良うないですか、このコケシ柄のマグカップ』

『個人の趣味にケチつける気はないけどな、ペアの食器選びに来とるんやで?俺にもそれ使わせる気なん?』

『うーん、そうか……あかんか……』

『めっちゃ残念そうやん……他にもええのあるて。探そ!』

 

『え、これ……』

『買ってもうた。あのソファにめっちゃ似てへん?』

『確かによう似てますけど、それで買ったんですか?』

『ついなぁ』

『あはは!思い切りましたねぇ。ほな一緒に座りましょ!……うわ、こらすごい』

『おー!あの時のまんまやん!』

『青い毛布があれば完璧ですね!』

 

『大学に新しいカフェできてん。街中にあるカフェの分店でな、ほれ、このチーズケーキがめっちゃうまいらしい。蔵ノ介好きやろ』

『うわあ写真が……写真が間違いないやつや……』

『俺の大学受かったら一緒に行こ』

『もちろん!絶対受からな』

 

 きらきらと瞬く星のような、数えきれない場面が過ぎていく。物語が、終わりに近づく。

 

『――蔵ノ介!蔵ノ介‼目閉じたらあかんで、今救急車呼んだから……!』

 固く冷たい地面に横たわる俺に向かい、夜空と街灯を背景に必死で呼びかけている人がいる。潤んで揺れている紫色の瞳を頼りに振り絞っていた意識が、流砂のように沈み、閉じていく。

 ああ、いけない。俺はこの人を見ていたい、のに。

『蔵ノ介、あかん、目開けえ!待って、待ってや、蔵ノ介―――』

 

『――蔵ノ介、蔵ノ介。分かる?病院におるんやで。もう大丈夫やからな』

『――……、……?……あの、どちらさまですか』

『……え……?』

 

 狭く曖昧な視界の中で円い目が見開かれ、物語は、そこでふつりと切れて暗転した。

 それは、かつてあった美しい日々の夢だった。

 修二さんに出会い、あたたかな愛に包まれるようにして過ごした、三年間の夢だった。

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