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13

 暗くなった廊下に照明が灯った頃、白石は、冷え切った体をなんとか立ち上がらせた。再び開くことのない慣れ親しんだドアをもう一度撫でる。さっきからずっと、このドアの向こうで種ヶ島の二度目の涙を見た日のことを思い出していた。

 

 種ヶ島が大学二年だった時のことだ。進路に悩みながら大学生活とテニスを続けていた種ヶ島が、その年の大会後、白石に切り出した。現役を退こうと思う、と。近くその日が来ることを予感していた白石は、遂に聞くこととなったその言葉にぎゅっと拳を握り締めたが、種ヶ島の横顔は存外穏やかだった。ただ満足そうに、懐かしむように、長年の友を看取るように――、静かに涙を流したのだった。

 テニスのコーチになるのが新しい夢だと、種ヶ島は少し控え目な声で告げた。そして言ったのだ。

『コーチもええなと思ったのは、蔵ノ介のお陰やと思うねん。W杯で、どうしてもお前を助けたいと思って、ほんのちょっとやけどアドバイスみたいなことして、そしたらお前、とんでもないテニス見つけよるんやもん。あの時俺、なんやもうめっちゃ嬉しくてなあ。またあんな経験できるかもしれへんなら、コーチも悪ないなぁて』

『……そう、やったんですか』

『ん、お前がくれた夢や』

 照れ隠しのように抱きついて来た種ヶ島の顔も、沸き上がるような感じたことのない喜びも、今は昨日のことのように思い出せる。白石が記憶を失っている間も、種ヶ島はその夢に向かって努力を重ねていた。講義を聴いているとき、卒論を書いているとき、いつも真剣だった横顔を思う。

 「お前がくれた」と種ヶ島が笑ったあの時、その夢にずっと寄り添っていきたいと強く思った。できることなら、その夢が叶う瞬間をこの目で見たいと。そのために種ヶ島が東京へ越さねばならないことが分かっても、遠くからきっと支えていこうと思っていた。かつて胸を熱くさせたその思いも、今はこの体の中に確かにある。それが失われていた一年間などなかったかのように、こんこんと湧き出している。

 白石は顔を上げた。急に体に力が漲る。行かなければ。追いかけなければ。絶対に、このまま一人でなんて行かせやしない。自分を叱咤するように吐いた息は、夜の空気を濃い白に染め、炎のように揺れて溶けていった。空っぽのドアをきっぱりと離れ、白石は来た道をしっかりと踏みしめて歩き始めた。

 

  ◆

 

 

 二日後、白石は東京へ向かう新幹線の中にいた。窓の外では朝日が眩しく輝いている。

 種ヶ島のアパートから戻った後、白石は一晩をかけて、今現在も種ヶ島と連絡が取れる人物に繋がりそうな中学時代の仲間たちに残らず連絡を取った。それに対していち早く有力な情報で応えてくれたのは、少々意外な人物だった。通知音が鳴るなり、白石はスマートフォンに飛び付いた。カーテンの隙間から見える空が白んで、間もなく日が昇ろうとしていた頃だった。

<二刀流のあんちゃんなら知っとるんちゃう?電話番号あるで>

 朝練か遠征のために早起きをしていたのだろう。プロを目指して多忙な日々の中にあるはずの遠山金太郎は、W杯の決勝でダブルスを組んだ高校生にして、当時種ヶ島に最も近い人物であった大曲竜次と現在も親交があるらしい。大曲と白石、両者のひととなりをよく知り、気安さがあるためか、遠山は本人に断った様子もなく、ぽいと大曲の電話番号を投げて寄越した。

 ひとの連絡先を無断で他人に渡すんじゃありません。いつもであれば、そう説教のひとつもしてやらねばと思うところだが、今回ばかりはただありがたいとしか考えられなかった。夜明け前という非常識な時間であることも忘れ、白石はその希望の光を夢中で手繰り寄せた。

『もしもし。突然のお電話本当にすみません。W杯で一緒やった四天王寺の白石です。修二さんのことで、大曲さんにどうしても助けていただきたいことがあります。ご連絡ください』

 繋がった留守電に、縋るような思いで吹き込む。

 種ヶ島に再び会うならば、こんなことをしなくても、四月になって彼の進学した大学院を訪ねればいい。だが、来月までなど待っていられない。一秒でも早く辿り着きたい。種ヶ島の連絡先を知っている人物として、大曲は最有力候補だ。どうか繋がりますようにと願い、白石はスマートフォンを置いた。

 ひたすら長く感じた数時間の後、大曲からの連絡は、朝八時を回った頃にやって来た。

『おう、元気にやってっかよ』

 耳に当てたスマートフォンから、聴く者を落ち着かせてしまう響きのする低い声が聴こえて来た。一見不愛想だが情に厚く、一本気で頼もしかった大曲の気質をそのまま音にしたような、懐かしい声だ。

『修二がどうした?今なら時間あっから、話してみろし』

 あいさつもそこそこにそう尋ねた声に励まされ、白石はこれまでの事情を残らず話した。

『……そんなことになってたのか』

 電話の向こうで、大曲は唖然とした声色を隠さなかった。

『信じていただけるんですか、こんな話』

『俺を騙そうってんなら、もっとありそうな話を作んだろ。それに……、気を悪くさせたら悪ィが、修二がおめぇと付き合ってること、俺は聞いてた。それが、一年前に大阪で修二と飲んだ時は、あいつその話をしたくねぇ様子でよ。それ以上聞かなかったが、とにかく何かおかしいと思ってたし。おめぇの話と辻褄が合う』

 白石と種ヶ島に起こったことは、当事者以外には非現実的に思われてしまうであろうことだった。悪戯か何かだと判断され、取り合ってもらえない可能性を心配していた白石は、大曲が戸惑いつつも納得してくれたことにひとまず胸を撫でおろした。

『せやから、どうしても修二さんに連絡を取りたいんです。今の連絡先、ご存じありませんか』

『あいつから最近連絡先が変わったって報告は来てねえし。恐らく引っ越しだなんだで後回しになってんだろうよ。俺に来てねえんじゃ、他の奴らも同じ状況だろうな』

『そう、ですか……』

 がっくりと肩が落ちる。これでは、他の仲間たちから種ヶ島に辿り着けるとも思えない。八方塞がりの状況に白石が言葉を繋げられずにいると、大曲が様子を窺うように話し始めた。

『あいつはあれでマメな奴だ。数日中に新しい連絡先を寄越すと思うが?』

『……その時は、俺に教えてもらえへんか聞いていただけませんか』

『そりゃ構わねえが……。それじゃ遅ぇんだな?』

『居ても立ってもいられへんのです。一刻も早う思い出したって知らせんと、修二さん、今も』

『……』

 この瞬間も苦しんでいるであろう種ヶ島のことを思う。もしかしたら、レンタカーで暗い海を見に行ったあの時のように、一人で泣いているかもしれない。そんな気がしてならない。白石は手をぎゅっと握りしめた。

『……あの、ありがとうございました。修二さんから連絡あったら教えてもらえますか』

『おめぇはどうする気だし』

『修二さんが進学する大学の場所だけは調べられるんで、とにかく東京に行って、近くを探してみます』

『あ?あてもねえのにか』

『ここにおってもできることないし、もし連絡あったらすぐに会いに行きたいんで』

 数秒の沈黙の後、電話越しに聞こえたのは大きなため息だ。それから、少々ぶっきらぼうな声で大曲は言った。

『おい、実を言うとよ、あいつの新居の場所だけは知ってる。俺の家から遠くねえし、先週、物件回りに付き合ったからな』

『えっ、ほんまですか!』

『ああ。だがよ、俺も今はあいつに連絡を取れねえし、おめぇの話は一応信用するが、四年以上も会ってねえ奴に勝手に家の場所を教えちまうのはさすがに気が引ける』

『……』

『……明日の朝十時、まずは俺に会いに来れるか。他に時間は取れねぇ。直接ツラと誠意見せろや。おめぇに会ってどう思うか分からねぇが、修二の居場所を教えてやる気になるかもしれねえ』

 思わずばっと立ち上がった。跳ね飛ばされた椅子が後ろでがたんと音を立てる。急に部屋が明るくなったような気がして、白石は丸一日ぶりに笑顔になって電話の向こうに答えた。

『行きます!十時ですね』

『……明日だぞ?修二と会わせてやれる保証もねえが?』

『構いません!ありがとうございます!』

 再び聞こえた深いため息の後、やはりぶっきらぼうで、しかし律儀な声で大曲は言った。

『住所言うぞ。自力で来れるな』

 

 新幹線はまたひとつトンネルを抜けた。ぱっと窓の外に現れた、まだ水の張られていない冬の田んぼが続く景色の上で、空が明るくなっていく。

 白石は、窓枠に置いた自分の右手に目をやった。種ヶ島がずっとつけていてくれたあの指輪と同じ指輪が、薬指に嵌まっている。ところどころメッキが剥がれくすんでいた種ヶ島の指輪よりも随分ときれいで、まだ新品同然だ。昨日、種ヶ島を探しに東京へ向かう準備を思いつく限りこなしながら、大急ぎで梅田の実家に寄って取って来た。「クーちゃんどないしたん?」「ご飯ぐらい食べて行かへんの?」と怪訝そうにしていた家族には、後で何か言い訳を考えなければなるまい。

 自室にひとつだけある鍵つきの引き出し。その奥が、この指輪の定位置だった。中学時代から毎日つけていた大量のテニスノートの山をどけてやれば手が届く、紺地に金色の文字で店の名前が印刷された箱がそれだ。高校では身に着けることが難しかったこの指輪を、それでも二人で会うときは必ず着けていたし、そうでない時も、何度も取り出しては眺めていた。裏側に埋め込まれた石を。

 白石は、薬指から慎重に指輪を外すと、窓の外から差す朝日を当てて裏側を覗き込んだ。小さな紫水晶(アメジスト)がきらきらと光っている。W杯から日本へ戻る船の上で、一緒に太陽が昇る瞬間を見たとき、初めてキスをしたとき、目の前で淡く輝いていた種ヶ島の瞳と同じ色だ。

 忘れられない、はずだったのだ。

 新幹線が再びごお、と音を上げてトンネルに入る。空が消え、真っ暗闇の中に強張った自分の顔が映し出される。

 別れを告げに来たあの日、種ヶ島の右手から指輪がなくなっていた。このペアリングは、四年前、初めて二人で迎えた白石の誕生日に贈られたものだ。以来、片時も外されることなく彼の右手にあり続けた指輪。それが外されていたことと、あの時種ヶ島が「蔵ノ介」とかつての呼び名を添えて別れの言葉を口にしたことの意味を考え始めると、不安が心を暗く曇らせる。

 あの交通事故以来何度も何度も傷ついた種ヶ島は、これ以上苦しまないために白石から離れたのかもしれない。白石を巡って揺れることも痛みを覚えることもこれ以上は嫌だと、あらゆる連絡を取れないようにまでして離れて行ったのかもしれない。もしそうなら、白石が会いに行き再び種ヶ島の心をかき乱すことは、別離のために費やされた種ヶ島の痛みや苦しみを無下にする行為となる。

 新幹線がトンネルを出ないまま微かに速度を下げ、車内アナウンスが流れ始めた。間もなく次の駅に停まるらしい。

 考えても仕方がない。小さなため息と共にそう開き直り、白石は指輪を薬指に戻した。どうしてももう一度会いたい。その気持ちが変わることはないのだ。たとえ、種ヶ島が会いたくないと言ったとしても。

 新幹線がトンネルを抜け、駅に近づいて緩くブレーキをかけた。前の座席と膝の間で、がた、と傾いた大きなキャリーバッグを直してやる。必要ならいくらでも東京に滞在するつもりで荷物をまとめて来た。都内の医大に通う忍足謙也は、事の次第を理解するや否や、親友の思いがけない恋愛事情への戸惑いなど欠片も見せず、「何日でも俺の家に泊まったらええ」と彼らしい真摯な声で手を差し伸べてくれた。来月までかかるようなら大学に提出してもらうべく、休学届を薬学部の仲間の一人に預けて来た。バイトは、迷惑を承知で頭を下げ、辞めさせてもらった。引き継ぎをリモートで行うことになっている。

 修二さんに出会ってからの三年を忘れたままの俺なら、ここまでの無茶はしなかったろうな、と白石は少し笑った。けれど今の白石は、種ヶ島と出会った白石だ。誰が決めたのかも分からない規範の中でしか振る舞うことができなかった白石を、種ヶ島が変えてしまった。エゴで、我儘でいい、それは大切にすべきものなのだと、優しく鎖を解いてくれた人のおかげで、今の俺にはもう、何よりも欲しいものに手を伸ばさないことなんてできないのだ。

 必ず見つける。絶対に取り戻して見せる。あの美しい日々を。

 

  ◆

 

 

 大曲の自宅があるというマンションは、東京駅で電車に乗り換えた先、都心から離れたとある駅から十分ほど歩いたところにあった。物件の名前と部屋番号を確かめ、エントランスを通る。目的の部屋の前に立ち、白石は少し緊張して息を吐いた。

 ここで種ヶ島の居場所を教えてもらうことができれば、最短ルートだ。もしかしたら、今日中にも会うことができるかもしれない。ともかく、嘘をつかず、自分を良く見せようなんて思わず、正直に大曲と話すことだ。決して生易しい人ではないが、金太郎のことを今でも気にかけてくれ、修二さんが今も頼りにする人情深く律儀な先輩だ。誠意が伝われば、きっと力を貸してくれる。

 一度拳をぎゅっと握り、白石は意を決して呼び鈴を鳴らした。部屋の中で足音が近づき、開錠音と共にドアが開く。

「おはようさぁん……って、……え……?」

 白石は目を見開いて硬直した。朗らかな声に続いて顔を出したのは、会いたくてたまらなかったその人だった。きれいに波打つ白銀色の髪、小麦色の肌、見開かれた紫色の瞳、美しい体躯。いつしか、見ているだけで愛しさでいっぱいにされてしまうようになった姿。四月、大学で初めて会った日に覚えたのは、この膨大な愛しさの欠片だったに違いない。胸がいっぱいになって瞬きもできず、一言も発せないまま涙が溢れていく。

 最後にその姿を見たのはたったの三日前だというのに、数年ぶりにやっと会えたような気がする。出会ってからずっと傍にいてくれた大切な人が、今ようやく目の前にいる。白石は、言うべきこともすべて忘れて種ヶ島を見つめた。

「……なんでここに」

 きょとんと目を見開き、種ヶ島が独り言のように言った。白石は嗚咽を堪えながら答える。

「お、れは、……大曲先輩の家に」

「ここ俺の家やで?俺、りゅ……その大曲を待っとったんやけど」

 大曲の計らいだと白石は悟った。自身の家の住所であるかのようにして教えてくれたのは、種ヶ島の新居の場所だったのだ。しっかりやれ、そう力強く背中を押されたような気がして、白石はみっともなく声が震えるのも構わず呼んだ。

「修二さん」

 状況が飲み込めず戸惑っていた円い瞳が動きを止める。それからまたひとつ揺れ、彼にしては下手な笑みを顔に貼りつけて言った。

「なに、突然名前なんて呼んで」

 引きつった声が、まだ俺を守ろうとする。わっと泣き出したくなるのを抑え、白石は言った。

「修二さん、俺思い出したんです。修二さんとのこと全部、思い出したんです」

「……なに……?」

 貼り付けられた歪な笑顔が剥がれ落ちる。種ヶ島はみるみる表情を失い、目だけが信じられないものを見るように白石を凝視していた。わからへん、唇が弱くそう紡ぎ、瞳があちこちへ揺れ始める。

「……とにかく、寒いから入り。まだ何もないけど」

 種ヶ島は動揺を隠せないまま、しかし白石を気遣って大きくドアを開けた。白石は涙を拭って頷くと、招かれた玄関へと足を踏み入れた。

 

 そこは、寂しい空間だった。部屋には、つやつやしたフローリングと真っ白い壁が反射する真昼の光が白く充満しているばかりで、何もない。

「今日ベッドとか届いたら、もうちょっと部屋らしくなるんやけど」

 種ヶ島が苦笑した。くるりと部屋を見回すと、一つだけ家具と言えるものがあった。かつての家にもあった、あのソファ。日本へ帰る船の中で大切な時間を過ごしたソファに似ているからと、種ヶ島が買ったもの。白石は目を細めてそれを見た。

「あー……で、なんやって……?どういうこと?」

 戸惑った笑みに口許を引きつらせ、種ヶ島は白石と目を合わせないまま問いかけた。

「修二さんが行ってしまった後、急に頭とか胸とかしんどなって、眠ってしまったんです。丸一日近く眠って、起きたら思い出しとって」

「え……頭、今はなんともないん?」

「はい、起きたらすっかり」

「さよか……よかった」

 種ヶ島は一瞬硬く強張らせた顔をふっと緩めて言った。一年三か月前のあの出来事が種ヶ島に与えた恐怖と衝撃の一端を垣間見た気がして、白石はぐっと唇を噛んだ。種ヶ島はしばらく口を開いたり閉じたりしていたが、言葉が見つからないらしく、やはり目を逸らしたまま困ったように笑った。

「なんやろな、願ったり叶ったりのはずやのに。そんなんあると思ってへんかったから……、信じられへんっちゅうか、なんや飲み込まれへん……何かの、間違いとちゃうん」

 弱々しく萎んだ声が、空っぽの部屋に落ちていった。白石はぎゅっと拳を握り、種ヶ島の右手を取った。あ、と微かに慌てた声が聞こえた。骨ばったきれいな薬指には、あの日外されていた指輪が元どおりに嵌められていた。何か言い訳をしようとしたのか、種ヶ島の唇が開きかけたが、その動きはぴたりと止まった。見開かれた円い双眸が凝視する先に、白石の右手に光る同じ指輪がある。二つ揃うのはいつ以来だろう。

「……これ、」

「最初の俺の誕生日でしたね、これくれたの。高校じゃつけられへんやろうけど、片方持っとってって。俺、潔く高校でもつけといたらよかったのに、大学になったらつけようって大事にしまってもうて」

 ゆっくりと、二人の言葉が連なり始める。確かめるように繋がっていく。

「……二人のときにはつけてくれたやん」

「それはそうですけど。でも、そんなんやから、先輩のこと忘れたのにも気づかれへんかったんや。誰にも先輩と付き合うてること言うてへんかった。撮った写真もみんなパスワードつきのフォルダに閉じ込めとったんです」

「それは、俺らの関係を守るためでもあったんやろ。気に病むこととちゃうで」

「……船の上で、初めてキスしましたよね」

「うん、朝の海きれいやったなぁ。お前の目も」

「俺があんまり修二さんのところに通うから、テニス選手が休息を疎かにしたらあかんって叱られて、俺がむきになって、初めて喧嘩した」

「あれは、俺も言い方が下手やったから」

「ふふ、先輩いつも上手やのに、付き合うてから俺が相手やと時々下手になりましたよね」

「否定できへんから言わんといて」

「一緒に夢の国行きましたね」

「行ったなあ」

「修二さんがやたら不意打ちで俺の写真撮るから困った」

「びっくりした顔かわええねんもん」

「仕返しに、帰りの新幹線で寝てるとき一枚だけ修二さんの寝顔撮ったったんですよ」

「え?知らんでそれ」

「今初めて白状しました」

「そんないじらしいことしとったん?」

「テニスも、結局ずっと相談に乗ってもろて」

「お前は、修二さんみたいにやれへーんとか言うてぐずってな」

「ふふ、そう。修二さんは、『そんなん当たり前や』言うて。俺落ち込みそうになったけど、でも、『お前のところには後輩がよう相談に来うへんか?』って」

「お前『なんで分かるん、エスパーですか』て本気でビビっとったな」

「見とったみたいに言い当てるからですわ。修二さんは、後輩の方から深い相談を受けることは実はほとんどなかったって言うてましたね」

「うん、茶化されそうと思われるんか、見透かされそうと思われるんか、まあまあ警戒されるタイプやった」

「『俺みたいにできへんことはあるやろうけど、俺にはできへんことやっとるやん』って言うてくれた」

「……よう覚えてんなあ」

「めちゃくちゃ救われましたから、俺」

「お前は自ら相談しに来る数少ない後輩やったわ」

「だって修二さん、ひとがほんまに苦しんでるのを茶化したりはせえへんし。それに、修二さんには全部見えてもうてもまあええかと思えたんで。そんなん思えたの、修二さんだけやったし」

 いつの間にか視線は深く交わり、種ヶ島はあたたかく微笑んで白石を見ていた。銀色の指輪が輝く右手が伸ばされ、白石の頬を優しく拭う。いつの間にかまた泣いていたことに、白石はその時初めて気がついた。見つめる種ヶ島の目からも、ぽろりと涙が落ちる。

「……くらのすけ」

 確かめるように頬に触れながら、種ヶ島が消え入りそうな声で囁いた。二人が恋人になってから呼ぶようになり、この一年は決して呼ばれることのなかった名前。その呼び名に積み重なって来たものを忘れてしまった白石をそう呼ぶことは、種ヶ島にとって悲しすぎたのだろう。白石はたまらなくなって、微笑む唇に寄りそうように口づけた。

 珍しく戸惑っている種ヶ島の唇を労わるように、弱く、優しく食む。朝日の中で最初にしたキスはただ甘受するだけで、俺はなにひとつしていなかったっけ、と白石は小さく笑った。あれから、種ヶ島を真似て、たまには教えてもらいながら覚えた、ペースと呼吸を合わせ、感情の繊細な色彩を感じ合い、互いを同じだけ満たすことができるキス。『見違えるほど上手になったなぁ』と蕩けた瞳で褒められたのは、いつの頃だったか。

 種ヶ島が、徐々に明確にキスに応え始め、白石はまた一粒涙を零した。

 いくつも重なった言葉より、ただ一度のキスの方が雄弁なことがある。ゆっくりと、しかしどこか必死に甘えるように懐く種ヶ島の唇が、言葉の追い付かない想いを伝えて来る。種ヶ島が抱えて来た寂しさと恋しさの、痛々しいまでの純粋さが白石の胸を濡らした。

 ああ、届いたのだ。一年余りの間種ヶ島が隠し通したそれらを受け止めながら、白石はようやくそう実感し、微笑んだ。合わせた種ヶ島の唇も、穏やかに弧を描いていくのが分かる。

 不意に種ヶ島の呼吸が乱れ、急に唇が離れてがばりと白石を抱きしめた。長い腕の中に収まり、自分があるべき場所に戻って来たような安心感が白石の体中を満たしていく。やがて種ヶ島の肩は抑えきれず激しく震え始め、触れ合った胸がその奥に押し殺された嗚咽を聞いた。白石は抱き返し、広い背中をそっと促して、種ヶ島をゆっくりと床に座らせた。

「ごめんなさい」

 白石は、涙に震えた声で一度だけ言った。途端に、種ヶ島が大きく何度も首を振るので、ひとつ頷いて口を噤む。お前は悪くない、種ヶ島がそう激しく主張するに違いないことは分かっていたけれど、あの事故から彼が負ってきた傷のすべてに――経緯はどうあれ、この手がつけてしまった傷のすべてに、どうしても謝りたかった。

 声を殺して泣く種ヶ島の嗚咽に、やがて白石のそれが重なる。まだまっさらな部屋の中心で、フローリングにぺたりと座り込んで抱き合い、白石と種ヶ島は時を忘れて涙を流し尽くした。

 

「修二さん」

 二人の涙がようやく止まる頃、白石は静かに尋ねた。

「もう一度俺と付き合うてくれますか」

 種ヶ島は腕を緩め、真っ赤な目できょとんと白石を見た。白石のごく真剣な顔をしばらく見つめると、種ヶ島は濡れた頬で破顔した。

「当たり前やろ。『別れよう』なんか少しも言いたなかったわ。あんなんなしや、なし!」

 種ヶ島らしい太陽のような笑顔を、白石は久しぶりに見たような気がした。白石は再び涙がこみ上げるのを感じ、種ヶ島の胸にもう一度頬を寄せた。種ヶ島の腕が、もう離さないと言わんばかりに強く白石の体を包んだ。それから、おかしそうに言った。

「やっと泣き顔見たわ。前はよう泣いとったのに、泣けへんようになってもうたんかと心配したんやで」

「よう泣いとったって……。俺はここ(・・)以外じゃ泣きませんわ。……ずっとそうでしょ」

 白石は少し唇を尖らせ、震えそうになる声を誤魔化して答えた。種ヶ島がくすくすと笑う。大きな掌があやすように髪を撫でる。いつだってすべての枷を外してしまった大きな腕は、今はもう、あの頃と同じあたたかさで白石の背を抱いていた。

 

  ◆

 

 

「ごめんな。色々嘘ついたし、騙すようなこともしてもうて」

 空っぽの部屋のソファの上で、かつてのように右隣に座った種ヶ島が赤い目を伏せて言った。

「ずっと謝りたかってん」

「そのお陰で修二さんといられたんやから、ええのに」

 白石は笑い、消沈している種ヶ島の髪を撫でた。

「……俺といたいって思ってくれたからでしょう?」

 問いかければ、紫色の瞳がちらりとだけこちらを見て、しょんぼりと頷いた。長い間白石に嘘をつき続けたこと自体が堪えているらしい頭をもう一度撫で、白石は祈るように種ヶ島を抱きしめた。

「俺は嬉しいです。せやからもう気にせんで」

 緩く抱き返し、しばらくの後渋々といった様子で頷いた種ヶ島に、思わず苦笑する。なかなか自分を許せないらしい。いじけたように丸まっている背中を、あやすように撫でてみる。

「ほんま、いっつも助けに来てくれる」

 不意に、種ヶ島が肩口でぼそりと言った。白石は「え?」と聞き返したが、種ヶ島はぱっと体を離して笑った。

「何でもない。……ありがとうな、来てくれて」

 やわらかな笑顔で言われた言葉は、ずっと前にも一度聞いたことのあるもので、白石はおや、と思った。やっぱり先ほど聞き逃した言葉を問いただしたくなったたが、種ヶ島は躱すように両腕を上げて元気に伸びをすると、ソファに背を預けて座り直してしまった。仕方ないので口を閉じる。

「あーあ、竜次にでっかい借りができてもうたなぁ。たい焼き百匹ぐらい奢らな足らへんわ」

「大曲先輩、このために今日修二さんの家に来る約束してくれたんやろか」

「いや、元々今日引っ越し手伝ってもらう約束があったんよ。あ、やば、竜次に新しい連絡先教えてへんやん」

 かつて種ヶ島と共にいた優しい先輩の強面を思い浮かべる。遠山が今も彼を慕っている理由が、今日少し分かったような気がした。本当に何と礼を言ったらいいのか見当もつかないけれど、後で揃って会いに行かなくてはなるまい。

 白石は種ヶ島を真似て伸びをした。生き返るような心地がして、清々しい気持ちで改めて部屋をぐるりと見渡してみる。さっきは冷たい寂しさが充満して見えた部屋は、いつの間にかとてもあたたかい部屋に変わっていた。窓からはたっぷりと日が入り、かわいらしい出窓が一つついている。空っぽの空間も、今からここに二人で新しい部屋を作るのだと思えば心が弾んだ。白石は急に張り切ってすっくと立ち上がると、勝手に零れてくる笑顔を隠さず種ヶ島を振り返った。

「引っ越し手伝います。段ボールも開けてしまいましょ。新しい家具はいつ来ます?」

「なんやなんや、突然楽しそうやな!」

 つられるようにして種ヶ島もくしゃりと破顔した。

「楽しいですよ。修二さんが一緒ですから」

 白石は迷わずそう返すと、種ヶ島の手を引いてそっと立ち上がらせた。もう一度二人で明るい部屋を見渡すと、種ヶ島がくっくっとおかしそうに笑い始めた。

「うん、そうやな……こら楽しいな」

 二人は顔を見合わせると、積み上がった段ボールのガムテープを剥がしにかかった。力任せに剥がされて悲鳴を上げる段ボールの音にすら笑い転げる二人の声が響き、まだ何もない部屋を満たしていった。

 

 封を開けた段ボールの中からは、いくつもの昼と夜とを二人きりで過ごしたあの部屋を彩っていたものが次々に出て来た。二人で選んだペアの食器、初めての種ヶ島の誕生日に白石が贈った壁掛け時計、高校二年のクリスマスに選んだマフラー、それから――タオルでぐるぐる巻きにされたフォトフレーム。

 段ボールの中、大事にタオルで守られていたそれは裏返しになっていたが、かつて種ヶ島の部屋の小さなテレビの横に置かれていたものだと、白石には一目で分かった。この一年、テニス用品などと一緒に種ヶ島の部屋から消えていたものの一つだ。どこかに隠していたのだろう。

 部屋の反対側で段ボールを開けている種ヶ島が、「あちゃー、本崩れとる!」と陽気な独り言を零すのが聞こえる。白石は震える手でフォトフレームを表に返した。

 ゆらゆらとした波模様の彫刻が施された白のフレームの中で、高校三年と中学三年の種ヶ島と白石が笑っていた。W杯決勝の日の夜、メルボルンの砂浜で想いが通じ合った直後、揃って平静を装いながら戻った祝勝会で種ヶ島が撮ったものだ。『ノスケ!記念に一枚撮っとこか!』と突然肩を抱かれ、仲間たちには先輩後輩の記念撮影だと微笑まれながら撮った、二人のはじまりの日の写真。ぽとりとフレームに落ちた涙を、白石は慌てて袖で拭った。

 ――あいつとのこと、一生、思い出しながら生きていきたいねん。

 白石を解放するように別れを告げ、自分はそう言って笑って見せた四日前の横顔が蘇る。あどけなさの残る顔でどこか面映ゆそうに笑う二人が滲んで揺れる。種ヶ島がどんな思いでこのフォトフレームをタオルに包んだのか、想像もつかない。

 白石は涙をきれいに拭い、笑顔で振り返った。

「これ!どこに置きましょか」

 くるりとこちらを向いた種ヶ島が、フォトフレームを認めてぱっと笑った。

「ああ、それ!新しいデスクの上がええかなぁ。いや、でも勉強に集中できんようになるか?」

 今は二人でこの写真を飾ることができる。それだけのことにひどく心が震え、白石は誤魔化すようにくすくすと笑った。再び滲む視界で、懐かしそうに写真を見つめる種ヶ島の顔には穏やかな笑みが浮かべられていた。

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