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8

「うあーさむ!さっむ!」

「マフラーした方がよかったかもしれませんね……はよ作って温まりましょ」

「あらゆる隙間から風入って来たわ……さむ……」

 ドアから室内へと滑り込み、種ヶ島がもう一度ぶるりと体を震わせた。今夜の夕食は先日流れてしまった鍋にしようと決まったはいいが、買い物に出た外はびゅうびゅうと木枯らしが吹いていて、薄手のコート一枚を羽織っただけの種ヶ島はスーパーに着く前には既に縮こまるようにして歩いていた。重度の寒がりらしい。コートを着たままやかんで湯を沸かし始め、コンロの火に手をかざしている種ヶ島に苦笑しながら、白石は買って来た食材を袋から取り出した。

 間もなくダイニングテーブルに置かれたカセットコンロの上でコトコトと音を立て始めたのは、スーパーにて二人が悩みに悩んで選んだ豆乳鍋のスープだ。野菜が少しずつスープに沈んでいく。

「完璧や。全く無駄のない具材の配置や」

「ああおもろかった……あの量の具材がなんでこの鍋に収まってんねん……」

 キッチンに並んだ材料を眺め、種ヶ島は余った分はどうしようかと呟いたが、白石は鍋をちらりと見て「全部入ります」と断言した。一定の高さに切り揃えた野菜でテトリスの如く鍋を埋めていく真顔の白石がツボに入ったらしく、種ヶ島は横でしばらくの間笑いを噛み殺すことになったのだった。この手のことになると、昔からどうにも血が騒いで夢中になってしまう。

「お前がおると楽しいな」

 くつくつと上がる湯気の向こうで、種ヶ島が子どもっぽく笑って言った。カセットコンロを避けるようにして左手が伸びてきて、白石の右手に触れる。

「種ヶ島さんが何でも面白がるからちゃいますか」

「何でもおもろいのなんてお前くらいやで」

 ふに、ふに、と白石の掌を捏ねて遊ぶ指先がくすぐったくて、種ヶ島の掌を取って同じように触れてみる。種ヶ島の手はすぐさま白石の手を奪い返そうと動く。しばし無言でそんな攻防を繰り返しているうちに、鍋が小さく吹きこぼれてぷしゅうと音を立てた。

「お、もうええんちゃう?」

「食べましょ!」

 手が離れ、種ヶ島が菜箸で肉の具合を見始めた。その右手に光る銀色が目に入って、白石は胸のどこかが小さく凍りつくのを感じた。さっき手遊びに興じるのに利き手ではない左手を差し出したのは、気を遣ってのことだろうか。

 それが種ヶ島にとってどういうものであるかを知ってから、もう本来の輝きは失われているはずの古い指輪がいやに光って残存を残す。弱く、しかし確かに心を引っ掻かれているような気がする。いつだって白石よりも種ヶ島の近くにあり、それどころか種ヶ島の一部のように振る舞う古い指輪に負けたくないと思ってしまう。そんな自分に気付かないふりをするのに少し力を使うようになった。

 鍋の向こう側に引っ込んだ右手にほっとして、白石は目の前の今を見た。種ヶ島の傍で、あたたかい食事を分け合っているのは自分だ。種ヶ島を笑わせているのも、種ヶ島が笑いかけているのも自分だ。種ヶ島の愛情を受け取れるのも、手を伸ばせば触れ合えるのも、今夜隣で眠るのも、全部自分だ。白石がこれまで種ヶ島に与えられず、指輪の主は与えることができたのであろうただ一つのものだって、もう少しで与えられるようになる。だから、何も心配することはない。

くったりと火の通った野菜を、乳白色のスープが隠している。種ヶ島がその中から具材を掬い上げ、いつの間にか手にしている白石の取り皿へと落としていくのを、白石はどこかぼんやりと目で追った。

 

(できた……、これでええはずや)

 それから数日後のこと、自宅の浴室で、白石は詰めていた息を吐き出しながらのろのろと立ち上がった。長らく躊躇っていた行為は、思い切って実行してしまえば、思ったより容易かった。なるべく楽に、安全にできるよう方法を調べ、器具を注文し、イメージを膨らませる時間は色々といっぱいいっぱいだったが、これでようやく最低限の準備ができた。白石は、ぬるま湯で濡れた掌をぎゅっと握った。

 たった今洗ったこの場所で自分が快楽を得られるとは、到底思えない。けれど、ずっと我慢させてきた種ヶ島さんに、やっと与えることができる。やっと、満足させてあげられる。

 

  ◆

 

 

<海見に行きたくなった 家で待ってて>

 スマホにそんなメッセージが届いたのは、昼過ぎまでバイトをこなした白石が、荷物を取りに一度自宅へ戻って来たところだった。

 種ヶ島の卒業論文の提出と大学院入試が来月に迫っている。将来を左右する重大な瀬戸際を前にして、二人は話し合い、今日を最後に大学院入試が終わるまでは会わずにおくことを決めていた。決意に瞳を燃やしながら、でもメッセージや電話はさせてな、と寂しそうに付け加えた種ヶ島を思い、白石はふ、と笑った。

 今日はいつものように、種ヶ島の家で夜遅くまで過ごすつもりで――そして、ようやくできた準備のことを話してみるつもりでいたのだが、予定は変わったらしい。奔放なところがあり、楽しそうなことを思いついては即実践することも少なくない種ヶ島だが、気遣い屋でもある彼が白石を巻き込むのは珍しい。よっぽど海へ行きたいらしい、と白石は少し首を傾げた。

 間もなく、種ヶ島はあの夏の日と同じように、レンタカーで白石の家の前にやって来た。

「急に悪いな。乗って!」

 種ヶ島は弾むように言って白石に笑いかけた。白石は飽きもせず胸がときめくのを感じながら手を振り、助手席に乗り込んだ。

「どうしたんです?急に」

「んーちょっと問題発生して卒論ピンチやねん☆」

「ええ⁉海なんか行っとる場合やないでしょそれ!」

「割と大事なとこの論理が矛盾しとってん……明日から提出までになんとかするしかないな。けどあかん、ちょお疲れてもうた。充電せな明日から踏ん張れへん。悪いんやけど付き合うて」

 彼の書いている論文の内容はよく分からないが、半分現実逃避をしているような種ヶ島の喋り方から、相当難しい問題が起きているらしいことを白石は読み取った。海へ行くのに時間を使わせることが正しいのか分からないが、決して諦めているわけではない様子の種ヶ島の判断を信頼するしかない。白石が「分かりました」と頷くと、種ヶ島はサイドブレーキを外した。

 

  ◆

 

「きたー!海やー!」

「ちょっと、落ち着いてくださいよ運転手さん!」

 海岸線に沿う道に出るや否や、種ヶ島がハンドルを握ったままわくわくと体を揺らし始めたので、白石は苦笑いで窘めた。やって来たのは、二人の住む街から一番近い海岸だ。

 まだそれほど遅い時間ではないのに、短くなった日はすっかり傾き、間もなく沈もうとしている。通り過ぎる街路樹にはほとんど葉が残っておらず、車内もエアコンを点けなければもう寒い。冬が来ていた。

 種ヶ島は、海沿いの小さな駐車場を見つけると車を停めた。フロントガラスから一面の海を見渡すことができる。視線を少し右下へやると、小さな浜に波が繰り返し打ち寄せているのが見えた。種ヶ島がエンジンボタンを押した。エアコンが風を吹く音だけを残し、エンジンが切れる。ぎゅっと濃縮された静寂が、密閉された車内に忽然と現れた。

 種ヶ島は、さっきまでのテンションが嘘のように静かな顔で海を見渡した。ふう、と息を吐く音と、座席にもたれる衣擦れの音がやけに大きく響く。ごうと押し寄せ、砂浜にさらさらと薄く伸びていく波の音が、車の外から遠く聞こえてくる。

「降りて歩きます?」

 白石は、なんとなく声を潜めて尋ねた。種ヶ島はやわらかく笑って首を横に振った。

「見るだけでええねん。外寒いしな」

 空は曇りがちだ。沈みかけた太陽に照らされた鼠色の雲は、底が鈍い橙色を帯びて熾火のように鋭く光り、そうでないところには紫がかった暗い陰を乗せ、空がじりじりと焼け焦げているような異様な色彩を広げている。

 

  ◆

 

 日がすっかり沈み、曇り空の隙間から微かな星明りが見え隠れしている。白石は、気付かれないように車内のデジタル時計に目をやった。種ヶ島はハンドルに凭れ、暗くなっていく海をぼんやりと眺め続けている。まだですか。そう問いかけたくなるのを、白石はぐっと堪えていた。

 種ヶ島にとって必要なことなら、どれだけ長い時間でも付き合ってあげたい。しかし今日だけは違う。今日が終わってしまったら、一か月以上種ヶ島と会うことができなくなってしまうのだ。それに、あわよくば今日、と決意してきたこともある。このままでは時間がなくなってしまう。砂時計の砂は淀みなく落ちて少なくなり、白石の焦燥を少しずつ大きくしていた。

 卒論で問題に直面し苦しんでいるところの種ヶ島にとっては、空気の読めない話題だろうか。今そんな話をするなと言われてしまったらどうしよう。白石はそんなことを考えてたっぷり迷ってから、結局口を開いた。

「あの、種ヶ島さん」

「んー?ああごめん、退屈やんな」

 ハンドルに凭れたまま振り返った種ヶ島がすまなそうに微笑んだのに少し勇気をもらって、白石は思い切って続けた。

「前、寝ぼけて俺を、……その、襲いかけたみたいになったことあったでしょ」

「あー……うん、ごめんなあの時は」

「ええんです!……それで俺、ええ加減にせなと思って、……体の準備、できるように練習したんです」

 最後の一言は、ぼそぼそと呟くようになってしまった。種ヶ島の顔を見られず、白石は俯いて、意味もなく座席の隙間を視線でなぞった。心臓がばくばくと暴れている。

「せやから、……ちゃんとできるんか分からへんけど、種ヶ島さんが良ければ今日って思って」

 勢いで全て言い切って、ぎゅっと拳を握る。一瞬が嘘のように長い。早く、早く何か言って。

 すると、長い腕が伸びて、下を向いた白石の頭を優しく撫でた。

「ありがとう。色々考えさせてもうたんやな」

 ちらりと見上げると、種ヶ島は気分を害した様子もなく、優しく笑っていた。ひとまず伝えられたことに肩の力を抜き、ゆるゆると息を吐く。

「でも、今日はやめとこうや」

 続いた言葉の意味を、白石は一瞬理解し損ねた。次いで、どうして、せっかく、と子供の駄々のような感情がじわじわと滲み出す。

「初めてやろ。一回じゃ最後までできへんと思うし、そのまま会われへんくなるのは嫌やんか。入試終わったらまたうちに来て。そんときにしよ」

 種ヶ島はなおも白石の頭を撫でながら、言い聞かせるように言った。白石はどうしようもなく悲しくなりながらも考えた。種ヶ島の言い分はもっともだし、もしかすると、やはり悩み疲れているタイミングではその気になれないということなのかもしれない。どちらにしても、白石は種ヶ島の主張を覆すだけの理由を持ち合わせていなかった。今日までこの問題を先延ばしにしてきたのは、他でもない自分でもあるのだから。白石はそう自分に言い聞かせ、こくんと頷いた。

 種ヶ島は、白石の額にキスをすると、「ありがとうな」と白石を抱きしめた。なぜかその時、白石の心の隅を、種ヶ島にはぐらかされたような感覚が掠めていった。

 

 空はすっかり真っ暗になっていた。種ヶ島は、再びハンドルにもたれて海を見ている。辺りには頼りない街灯の光があるだけで、目の前には吸い込まれそうな黒さの海が広がっている。水平線さえほとんど見えなくなり、目の前の暗闇のどこからが海で、どこからが空なのかも分からない。そんな海を、種ヶ島はじっと見つめ続けていた。

 この場所に車を停めて、間もなく二時間半が経過しようとしている。この真っ暗な海を見ることが、種ヶ島に何をもたらすのだろうか。白石には分からない。

「こんな夜でよかったんですか、海」

「ん?うん」

「暗い海が見たかったんですか」

「うん」

 種ヶ島はどこか上の空に答えた。白石は、急に心細さを覚えた。

 閉ざされた車の中に落ちる静寂は、他の場所にあるそれよりもいっそう静かだ。あらゆるものが閉じ込められ、どこにも出て行かず、出て行けず、小さな空間に反響する。ほんの微かな物音も、声色も、心の揺れも、距離も、あらゆるものが静かすぎる静寂の中で浮き彫りになる。

 種ヶ島が遠い。こんなに近いのに、ここには二人しかいないというのに、どうしようもなく遠い。一人ベランダに佇む背中を見たときよりも、もっと遠いような気がする。白石は、どうしても今こちらを見てほしくなって、もう一度話しかけようと口を開いた。

 その時、暗い車内に、仄かな光が差し込んだ。見上げると、半月が少しだけ抉れたような、たっぷりとした三日月が出ていた。空一面を覆っていた雲が切れて顔を覗かせたのだ。

 すぐ隣でその月を見上げた種ヶ島の時間が止まるのが分かった。はっとして横顔を見ると、ぼろり、音がしたと錯覚するような大粒の涙がひとつ、瞬きもせずに月を見上げる瞳から落ちた。声もなく、嗚咽さえもなく、ただ涙だけが何かに押し出されるようにして、見開かれた瞳から次々に流れていく。その雫が、鈍く光りながら小麦色の頬を下り、顎を乗せた腕を流れ落ち、丸いハンドルを伝っていくのを、白石は唖然と見ていた。

 分からない。なぜ、何がそれほどこの人を泣かせている?目の前で起きていることに全く脈絡を見出せず、白石はひとり狼狽えた。そしてふと、そういう涙を見たことがある気がした。白石は、その確かな既視感を頼りに記憶を辿る。

『俺にはもったいない、とびっきり綺麗な人やった』

 白石には届かない、かつて愛し合ったその人との思い出をなぞり、種ヶ島が流した涙。目の前でとめどなく流れていくのは、あの涙と同じものだとしか思えなくて、白石はいよいよ真っ暗な海辺に一人取り残されたようになった。こっちを見て。言葉にならず、種ヶ島の服を掴む。

 ふっと我に返ったように、種ヶ島は振り返った。白石を見て、ハンドルに凭れていた腕が解ける。白石は縋るような気持ちで、かの人のことを聞いた夜と同じように種ヶ島の左手を握った。種ヶ島は零れる涙を拭いもせず、惚けたように白石を見ていた。そして手をぎゅっと握り返し、白石の知らない涙でふやけた目を夢を見るように切なく細めると、あたたかく震えた声で言ったのだった。

「お前はほんまに綺麗やな」

 再び逞しい腕に抱き寄せられる。その刹那、視界の端を、銀色の指輪が鈍く光り、流れ星のように線を引いた。白石は静かに目を見開いた。致命的な違和感が胸を覆っていた。種ヶ島の言葉に心が動かない。背中に腕を回しても、しがみついても、抱き合っている感覚がまるでない。抱きしめられている感覚がまるでない――。

 今彼が抱いているのは、誰だ。

 

  ◆

 

 

「ごめん、結局ずっと付き合わせてもうた……」

「ええんですよ。充電できたんですか?」

「うん。諦めるわけにいかへん。まだなんとかなるし、明日から気張るわ」

 種ヶ島の双眸は、すっきりした様子で再び闘志を燃やしている。充電は確かにできたらしい。白石は、助手席から降りる前にさりげなく言ってみた。

「それにしても、なんであんなに泣いたんです?」

「あー、はは……分からへんわ。ここまで来て洒落にならん問題出てきて、思ったより堪えてたんかなぁ」

 種ヶ島は照れくさそうに笑った。白石は「元気出たんならええですけど」と笑い返し、ドアを開けて車から降りた。種ヶ島がサイドガラスを下ろす。白石は運転席側へ回り込んだ。

「ほな、入試終わったらな。メッセージも電話もめっちゃするわ」

「卒論と入試に集中するために会わへんことにしたんやから、ほどほどにしてくださいよ」

「ちゃい☆ほどほどにめっちゃするわ」

「がんばってください。きっと上手くいきますわ」

 ありがとう、またな、と手を振り、種ヶ島は車を走らせた。暗い路地を遠ざかっていくブレーキランプを見送りながら、白石の顔からは貼り付けていた笑顔が力なく剥がれ落ちていった。

 よく笑っていたものだ。明日から大事な一か月を過ごす人に悩み事を増やしてはいけない。海から戻る間、その一心でやわらかく上げ続けていた口角は、もう当分上がりそうにない。

 

 白石はふらふらと自宅のドアを潜った。足はそこでぴたりと動かなくなり、靴を脱ぐ気すら起きず、玄関に立ち尽くす。二人しかいない車内で感じた種ヶ島との果てしなく遠い距離が、肌に纏わりついて離れない。

 今日、あの海辺で種ヶ島が一緒にいたのは、間違いなく自分ではなかった。彼は空の向こうにいるその人を見つめ、泣いていたのだ。白石には分からなかった涙も、きっとその人なら理解できたのだろう。あの海は、かつての恋人との思い出の場所か何かであったのかもしれない。種ヶ島は不安で辛くて、優しい思い出のあった場所へ行きたくなったのだ。

 それだけならまだいい。ではなぜ、そんな場所へわざわざ白石を連れて行った?

『お前はほんまに綺麗やな』

 ざわざわとした違和感をもたらした言葉を反芻する。それは白石に与えられた言葉であったはずなのに、白石をすり抜け、どこか別の場所に降りていった気がした。

 ――思えば、「綺麗」なんて男に対して使う言葉だろうか?

 違和感が少しずつ像を結んでいく。頭のどこかで警鐘が鳴り響いている。考えるのをやめろと叫んでいる。だが止められない。白石に対するものではない言葉を、白石を見つめて発した理由。既に見えかけているその絶望的な結論に向かって、靄が晴れようとしている。

 ふと、靴箱の扉に取り付けられた姿見が目に入った。電気も点いていない暗い玄関に立ち、背を丸めた男が見える。白石は顔を傾け、鏡に映った自分の青白い顔を眺めた。

 おかしいと思うべきだったのだ。少なくとも三年という長い間恋人同士であり、仲睦まじいまま死別した女性を忘れられずにいる人。そんな人が、ただの男に一目惚れなどするだろうか。

 考えてみれば、大の男を毎回自宅まで送り届ける理由もよく分からない。

 そして、本当はずっと気になっていたこと、些細な問題だと目を瞑っていたこと――種ヶ島は、ほとんど白石の名前を呼ばない。

 鏡の中の自分の顔を、白石は冷ややかに改めた。その昔、この顔が今よりもずっとあどけなかった頃、文化祭の女装喫茶で、ちょっとした喝采を浴びたことがあったっけ。本当の女の子みたい、お姉さんにそっくり、美人――「綺麗」、なんて。そんなことを思い出し、白石は泥でも吐きそうな気分になって顔を背けた。

 寝ぼけて白石に抱きついたあの日、『待って!俺まだ怖いです、男やし!』と抵抗した白石に対して、我に返った種ヶ島は言った。『そうやった』と。今日だって、もっともらしい理由をつけて、種ヶ島は白石を抱こうとしなかった。――否、そもそも抱けないのではないのか。体だけは似ても似つかぬから。

「は、」

 廊下に乾いた笑いが響いた。

人はこの顔をしきりに羨むけれど、この顔でよかったと思ったことはあまりない。薄っぺらい興味ばかりを集め、深い理解を遠ざけるこの顔を嫌ったことさえあった。まさかこんな形で、再びこの顔を憎むことになるとは思わなかった。

(……あの頃よりは男らしい顔になったと思っとったんやけどなぁ)

 白石は辿り着いてしまった答えをそっと握り、冷たい玄関で動かぬ体がただ息ばかりを繰り返すのを見ていた。どこかに染みついていたらしい種ヶ島の香水の香りが暗闇に漂っている。この香りに安らぎを覚えてしまう体を、もうどうしようもない。

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