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<起きてる?声ききたい>
<起きてました 今日もおつかれさまです 電話しましょうか>
<今日研究室俺一人や がんばらな>
<返信遅れてすみません きっとなんとかなりますからがんばって>
<がんばる>
<がんばって!大変やろうけど食事と睡眠もサボったらだめですよ>
<こちら寝るとこです まだ大学ですか?帰ったらしっかり寝てくださいね>
<ぼちぼち帰る 元気?風邪ひいとらん?>
<元気です 風邪ひいてません めっちゃ健康体です!>
<危ない目にも遭っとらん?>
<どんな目に遭うっちゅうんですか>
<元気ならええわ>
<卒論多分いける!希望見えてきた>
<ほんまですか!よかった!>
<おかげさまや ほんまおーきに>
<種ヶ島さんが頑張ったからですよ ちゃんと寝てますか?>
<んーぼちぼち寝とる>
<体壊したら卒論書けへんのですから大事にしてくださいね>
<ちゃーい>
<卒論かけたー!あと表紙つくるだけ!>
<やりましたね!おめでとうございます!>
<しぬほど長かった 電話したい>
<ちょっとだけ待ってください 急いで歯磨き終わるんで>
<新幹線乗った やったるで>
<その調子なら大丈夫ですわ 種ヶ島さんなら必ず上手くいきますよ>
<おーきに がんばって来るわ 明後日の夕方帰るけど会える?>
ぽん、と表示された最後のメッセージを読み、白石は一度スマホの画面を閉じた。目を閉じ、たっぷり三つ深呼吸をしてからメッセージを送る。
<会えます おつかれさま会しましょう! 待ってます>
確証のない、けれど確信せずにはいられない一つの答えを見つけてしまったあの日から、一か月余りが経っていた。永遠に来なければいいと思っていた日が、来てしまう。
◆
「てびち……てびちがあるやん……!」
大学で金曜の講義を終え、白石は道中で買い込んだ料理を両手に種ヶ島の家を訪れた。普通のレストランや総菜屋ではあまり目にしない彼の好物は、少し遠回りしたところにテイクアウトできる店があることを調べ、買ってきたものだ。長期間に渡る大仕事を終えた種ヶ島に、少しでもいい思いをしてほしかった。玄関先で嬉しそうに、若干震えてさえいる歓声を上げて容器を覗き込む姿を見て、白石の頬は自然と綻んだ。
白飯に、てびちは大ぶりなものを二切れずつ、鶏だんごと野菜たっぷりのエスニック風スープ、卵とマヨネーズで和えられた色鮮やかなサラダ、鯛のカルパッチョも少しだけ。大荷物を、ひとまずダイニングテーブルに下ろして広げる。
「おおきに、こんないっぱい……」
「おつかれさま会や言うたでしょ。種ヶ島さんめっちゃ頑張ったんやから、足らんくらいや!早速食べましょ」
「うん。でもそれより、ん」
「ん?」
「ん!はよ!ご褒美ちょうだいや」
種ヶ島が両腕を広げてにっと笑っている。白石は苦笑して応じ、労いの気持ちを込めて抱きしめた。長い腕が背中に回り、種ヶ島が満足そうなため息と共に肩に頬ずりをした。
「ああ……会いたかったぁ……」
安らぎ解けきった声が、深い吐息と共に言った。白石は、ちらりと胸を掠めた曇りを即座に殺し、強まる抱擁に応えた。今日一日は忘れて過ごすと決めている。忘れて、二人で幸せに過ごすのだ。種ヶ島を捉えた目から、触れ合ったところから、ひとりでに湧いてくる喜びに集中していれば、簡単なこと。
「俺も、会いたかったです」
だから、この言葉は本心だ。
「で、どうやったんですか、入試」
「うん、面接と卒論の口頭諮問やってんけど、しっかり話せたと思うわ」
「お、手ごたえありそうですね!」
「どうやろなぁ。初めて受けたし分からへんけど、卒論はうちの先生にも太鼓判もろたし、やれることは全部やった。これであかんかったらしゃーないな」
吹っ切れた様子で笑う種ヶ島を見て、白石は大きく二度頷いた。テーブルに並んだ食べ物は、あと半分も残っていない。種ヶ島は二切れ目のてびちに箸を差し込み、切り取って口に運んだ。「うま……」と呟きしみじみと目を閉じている。
よかった、と白石は心の底から思った。最後に会った日、種ヶ島は苦しそうに泣いていたし、明るく振る舞っている瞬間でもどこか空元気な様子だった。あんなものから種ヶ島が解放されて、寛ぐことができるようになって、本当によかった。
久しぶりの二人の食卓に、二人の声が弾むように転がっていく。
「電話とかおーきにな」
「ほんまにめっちゃ電話して来はりましたね」
「一回歯磨きしとるとこに電話したんめっちゃわろたわ」
「ちょっと待ってって言うたのに掛けて来んといてくださいよ」
「出る方も出る方や」
「ああ……なるほど、出えへんで掛け直したらよかったんか」
「今気付くんかい」
種ヶ島がけらけらと楽しそうに笑うので、白石も声を上げて笑った。赤みがかったあたたかい色の照明に照らされた種ヶ島は、あの春と同じようにかっこよくて、美しくて、あの夏と同じように愛おしい。一緒にいれば心がときめいて、惹かれて、常に白石を気遣う気配が優しくて、ずっとこの時間が続けばいいと思わずにはいられなくなる。
「でもあん時はほんまにやばかった。俺ほぼ折れとったわ。お前と海見に行かんかったらあそこで放り出しとったかもしれへん」
繋がった話題に、白石は和んでいた心の端が再びぎくりと固まるのを感じて、急いで蓋をする。
「辛そうでしたもんね。充電成功してよかったですわ」
「ありがとうな」
「俺は何もしてませんよ」
ごく自然に口にしたその言葉は、穏やかな幸せでくるんだ胸の中心に、沈むように食い込んでいった。
◆
形ばかり閉じていた瞼を開ける。ベッドに入ってからどれくらい時間が経ったのだろう。枕元のスマホを確認したいが、隣ですうすうと寝息をたてる人のことを思うと憚られた。柔な人ではないけれど、張り詰めた緊張が続いたであろう試験と長距離の移動を経て帰って来た体だ。眠りを妨げるのは忍びない。
白石は静かに寝返りを打ち、種ヶ島の方を向いて横になった。厚い胸を健やかに上下させ、穏やかな呼吸が繰り返されている。毛布を伝い、シーツを伝い、滲む体温はあたたかい。美しく波打つ銀髪と、ビロードのように滑らかな小麦色の肌が、藍色の夜に沈んでいる。ひとつひとつを眺めるうち、白石の胸は切なく締め付けられていった。涙が枕に染み込んでいく。この人が、この命が愛おしい。消えてしまったらと思うと、世界が激しく揺らぐほどに。
まだ信じられない。明日、俺はこの人を失う。
どうにかならないか、失わずに済む方法はないか。寂しがる心は、往生際悪くまだ泣き喚いている。希望なら、一か月間ずっと探してきた。ほんの僅かな可能性にも懸けようと思っていたし、どんな努力も惜しまないつもりだった。けれど、それは遂に見つからなかった。
昼間、デパートの総菜売り場やスープ専門店を回っていた時のことを思い出す。目移りするような料理の数々をきょろきょろと見回しながら、白石は、あのどんよりと曇った梅雨の日のことを回顧していた。疲労困憊の白石に、種ヶ島がコンビニの袋いっぱいに詰めた優しさをくれた日のことを。なるべく元気になってもらえそうなものを、栄養のあるものを。そればかり考えて歩き回りながら、ふと、あの日の種ヶ島も同じだったのだろうと思った。こんな風に、俺の事ばかり考えてコンビニを歩き回ってくれたのだろう。あの切ないほどの思いやりは、間違いなく俺に向けられていた。
俺に向けられたものも、たくさんあったのだ。
流れ続ける涙を枕に吸わせながら、白石はもう一度、閉じた種ヶ島の瞼を見つめた。離れたくない。深い深い傷を負ったこの人を、一人にしたくない。それなのにどうして、自分はこうもままならないのだろう。
◆
種ヶ島の家に、これまでと変わらない朝が来た。白石は、いつもより少し長く寝ている種ヶ島を残してベッドを抜け出し、顔を洗った。昨夜随分泣いたが、目は思ったより腫れていない。傍目にはいつもと変わらないだろう。カーテンが閉まったままの薄暗い部屋で、一人ソファに座り、白石は、カーテンの隙間から一筋漏れた光を見ていた。白く冷たい、冬の朝日だ。光がだんだんと強く、太くなっていくのを眺めながら、白石はゆっくりと心を固め直していった。
「おはようさん」
すぐそこのベッドから、まだ半分夢の中にいるような、舌足らずにくぐもった声が聴こえた。白石が振り返ると、種ヶ島が顔をこちらに向けて、瞼を眠たそうに閉じたり開いたりしている。白石はくすりと笑い、応えた。
「おはようございます」
種ヶ島が布団の中からもぞもぞと腕を伸ばしたので、白石はその手を取るべく立ち上がった。何の変哲もない朝の触れ合いは、とても幸せだった。けれど、指が絡まる時も、せがまれるまま触れるだけのキスをするときも、心の半分がしんと寂しかった。
朝食の片付けを済ませ、日も高く昇ってきた頃、種ヶ島が顔を洗う水音を遠くに聴きながら、白石はぎゅっと拳を握った。今日が、ずっと前から決めてきた日。その日話そうと思ってきたことを、とうとう話す時が来た。緊張に鼓動を上げようとする心臓を、ひとつ静かに息をして鎮める。
「なあなあ、そういえばな、実は駅でお土産買うてきてん」
白石の密かな覚悟を知る由もない、明るい声が背中から飛んで来た。白石は咄嗟に表情を作って振り返る。
「お土産?」
「そう、ほら!」
種ヶ島は冷蔵庫から大事そうに小さな箱を取り出すと、ダイニングテーブルの上で蓋を開けた。覗き込んだ白石は、思わず硬直した。固めたはずの心がぐらりと揺れる。
「ミルクティーチーズケーキやって。チーズケーキも紅茶も好きやろ?絶対美味いで!」
子供のように笑っているだろう顔を見上げられなくて、白石は箱を覗いたまま唇を噛んだ。丸くたっぷりと深いきつね色のタルト生地の中で、マーブル模様を描いたチーズケーキ。東京駅でこのお菓子を見つけて目を輝かせる種ヶ島の姿が、目の前にいとも簡単に描かれていく。白石はぎゅっと目を瞑り、その優しい光景を打ち消した。
「ありがとうございます。でも、その前に、」
なんとかいつも通りの声を捻りだし、歪みそうになる顔を立て直し、白石は決めたとおりに種ヶ島に向き直った。これを食べたら、とても話せなくなってしまう。
「どうしても、話したいことがあるんです」
「ん?うん、何?」
種ヶ島はきょとんと目を丸くすると、ちょっと首を傾げた。拳を握り直し、白石は話し始めた。
「あの時、海で、入試が終わったらしようって言うてくれたん覚えてますか」
「うん」
「俺、今したいんです。どうしても」
「え、今?」
「はい。あきませんか」
「待て待て、急にどうしたん?」
怪訝そうな顔で種ヶ島が白石の表情を窺った。
「……やっぱり、できませんか」
「やっぱり?」
「……」
「できるかいな、そんな顔して、こんな震えとるのに」
自分がどんな表情をしているのかは、分からなかった。けれど、種ヶ島が目線で指した手を見ると、ぎゅっと握り込んだ手は確かに小刻みに震えていた。種ヶ島の大きな手が、固まった拳を包む。
「ほんまにしたいん?なんで今?」
丸く優しい目が覗き込む。白石は目線を合わせないように俯いた。手が震えるのは、抱かれるのが怖いからではない。
「先輩、俺のこと抱けますか」
「え?」
「俺が今震えてへんかったら、ほんまに俺のこと抱けますか」
言い切って、すっと種ヶ島の目を覗く。白石は、その目が一瞬たじろぐのを確かに見た。そのほんの些細な、しかし決定的な仕草は、どこかに残っていた白石の最後の希望を打ち砕いた。凪いだ海のように静かで寂しい諦めが、ひたひたと打ち寄せる。手の震えが止む。
「何言うてるん……?」
種ヶ島の戸惑いの声を聴いても、もう心は揺れない。不思議と穏やかな気持ちだ。頬が微かに笑みを刷くのが分かった。
「ずっと聞きたかったことがあります」
白石は、どこか俯瞰してその一瞬を見ていた。
「その人。その、指輪の人」
それは全てを終わらせる言葉だ。幸せな二人を亡くす言葉だ。そう叫ぶもう一人の自分を余所に、微笑んだ唇があっけなく、滑らかに、頭で何百回もなぞった問いを紡いだ。
「その人は、俺に似てましたか」
「……なんて……?」
「俺とよく似た顔やったんでしょう、その人」
紫の瞳が強張り、揺れている。唇は何か言いかけるように動いたが、否定を口にすることはない。
「俺は、その人とちゃうんですよ。種ヶ島さん」
部屋に僅かに反響した声は、穏やかであったと思う。けれどその瞬間、種ヶ島が怯えるように目を見開き、一歩後ずさった。唇がしきりに何か言おうと動いている。
「そんなん……、そんなんよう分かってる。俺はほんまに、」
「……」
「お前のこと、好きで……」
震える声がそう言った。白石は、ふとテーブルの上で蓋を開いたままのチーズケーキを見た。数分前に打ち消した、お土産を選ぶ種ヶ島の姿を再び思い浮かべる。いつかと同じように、何か白石が喜ぶものをと考え、白石のことを思いながら選んでくれたのだろう。それを思うと、白石は心の底から笑うことができた。彼が自分のために割いてくれた時間や心を、偽物だと言うつもりはない。白石は、揺れる種ヶ島の目をまっすぐに見つめて言った。
「はい。嘘やなんて思ってません。ちゃんと、俺を想ってくれたこともたくさんあるって、分かってるつもりです」
安心させるようにゆっくりと告げると、種ヶ島は全身に張り巡らせた緊張を少しだけ緩めた。不安そうに白石の言葉を待っている。白石は、自らも一つ深呼吸をして、知らず肩に入っていた力を抜いた。
「責めるつもりはないんです。俺とその人が似とるのはたまたまやし、亡くした恋人によう似た人がいたら、そら何とも思わんわけない。どれも種ヶ島さんは悪ない、どうしようもないことや。その人への想いなんか、俺への想いなんか、そんなん種ヶ島さんにも選り分けられへんのやろうし、それは無理もないと思います。これからも種ヶ島さんは、ちゃんと〝俺〟に、たくさん優しゅうしてくれるやろなとも思ってます。……せやから、これは俺の問題です。俺はこの先ずっと、種ヶ島さんの優しさとか、思いやりとか、愛情とか、もうきれいに受け取られへんと思うんです。これは俺やのうて、その人に向けた言葉なんちゃうかとか、種ヶ島さんが今見てるのは、俺やのうてその人なんちゃうかとか、余計なこと考えてまう」
「……さよか。お前を通してもう無いもんを追ってたこと、ない言うたら嘘になるわ。そら嫌やんな」
「いや、この際、それは構へんと思ったんです。俺は種ヶ島さんが好きやし、種ヶ島さんはちゃんと俺のことも大事にしてくれるから、時々彼女さんの面影を追うことがあったって、辛抱すればええかって。でも、もしそれができても俺は、……種ヶ島さんの優しさが好きやから、好きやのに、それをそのまま喜んで受け取られへんのが辛い。値踏みするような真似したないのに、してしまうんがしんどいんです。種ヶ島さんがちゃんと俺を想ってくれとる時でも、疑われる筋合いなんかない時でも、俺は疑うようなこと考えてしまうと思う。純粋なもんに言いがかりつけてるみたいで、泥塗ってるみたいで、種ヶ島さんの優しさがそんな風に扱われるんが嫌なんです。俺がそんなことしてまうのが、それだけは、どうしても我慢できへん」
喉を引きつらせ、鼻の奥を熱くしようとする激情を抑え込むことには慣れている。脳と体だけを繋げ、心を切り離し、やるべきことにだけ集中するのだ。涙と泣き言なら、昨日までの一か月の間に、一人の部屋で流すだけ流した。希望を探しては見つけられない日々を経て、今日伝えなければならないことはもうすっかり決まっていた。それを履行することに意識を傾けるのだ。テニスを、部長をやってきた長くない年月、仲間にぶつけるわけにいかない感情を、そうして幾度も飲み下してきた。だから今だって、静かに話せる。
いつの間にか気遣わしげに眉を寄せ、切り離したはずの心まで見通しているような種ヶ島の目にだけ、引き込まれないように腹に力を籠める。
「どうやって種ヶ島さんと一緒にいたらええか、分からんようになってしまいました。いちいち余計な事考えへんようになるか、考えても気にせんようになるかすればええんやと思ったんですけど、……なろうとしてみたんですけど、どうしてもなれませんでした。ごめんなさい」
とうとう言い切って、白石は頭を下げた。種ヶ島は少しの間それを静かに見ていたが、やがて微かに笑って言った。
「なんでお前が謝るん?普通責めるやろ。殴られたって文句言わへんで」
でもまあ、お前はどうしたって殴らへんのやろな。ため息混じりの呟きを聞きながら顔を上げると、種ヶ島は眉を下げて笑っていた。
「いつから考えとったん、それ」
「海で、種ヶ島さんが〝綺麗〟言うた時から」
「……さよか。入試終わるの待っとってくれたんやな。ありがとう」
種ヶ島は微笑んだまま辛そうに眉を顰め、白石の頭を撫でた。白石は俯いて首を横に振った。ダイニングテーブルの上には、取り残されたチーズケーキが二つ箱の中に座っている。
二人で、食べたかったな。春、奇しくも白石の誕生日だったあの日、大学のカフェでそうしたように。そう思い、せっかく押し込めた涙が出そうになって、白石は慌てて考えるのをやめた。ビニールに包まれたケーキを一つ取り出す。箱の中に一つだけ取り残された片割れを見るとたまらない気持ちになって、白石は目を逸らした。
「これは、もろて帰ってええですか。種ヶ島さんが俺に選んでくれたもんやから」
「……うん、そうしてくれたら嬉しいわ」
白石の手の中の包みに視線を落とし、種ヶ島は裁きを受け入れるように静かに笑った。
◆
「さすがに今日は、一人で帰らせてもらえませんか」
「……着いて行かせてもらうだけでええねん。嫌なら離れて歩く」
床一面に寂しさとぎこちなさが広がったような種ヶ島の部屋で、コートとマフラーを身に着けた後、そんな押し問答があった。これまでも必ずそうしてきたように、家まで送らせてほしいとせがんだ種ヶ島を、今度ばかりは一度拒んだ。
それ、彼女さんにそうしとったからやりたがるんですか。
思わずそんな冷酷な問いかけが浮かんで、決して口にしないよう白石は唇を引き結んだ。やっぱり、こんな調子ではもう一緒にいられない。自分の決断は正しかったと、実証された嬉しくもない結果に視線が落ちる。種ヶ島も白石が飲み込んだ言葉を察したらしく、痛そうに眉をひそめた。
「誰を送りたいのともちゃう。一人で帰らすと俺が心配でかなわんからそうしたいだけや」
そう言い切る種ヶ島の目は必死で、まっすぐだった。結局白石は黙って頷き、ここまで二人、当たり障りのないことをぽつぽつと話しながら歩いてきた。並ぶ二人の距離がいつもよりも遠いように感じたのは、実際にそうであったのかもしれないし、錯覚であったかもしれない。
「わがまま聞いてもろておおきに」
「いいえ。急にこんな日にしてもうて、すみませ……」
「あー、もう謝らんといて。お前はひとつも悪ないよ。な」
種ヶ島は白石の謝罪を遮ると、真剣な顔で、言い聞かせるようにゆっくりとそう言った。
今日は冷え込みが強い。マフラーと手袋をしていても、しばらく外を歩いてきた指先はかじかんでいる。空は憎たらしいくらいに青く晴れ、雲のひとつも見えない。これほどあたたかそうな色彩が広がっているのに、大気は棘を刺すように鋭く冷たい。アンバランスな景色と温度に、体が混乱している。
「……ほな帰るわ」
静かにそう言って、種ヶ島は踵を返しかけた。いつものように「またな」と言ってくれないのは当たり前なのに、白石は急に悲しくなって「あの!」と呼び止めた。
「……入試。入試の合格発表があったら、結果教えてください」
種ヶ島は一つ瞬きすると微笑み、「分かった」と頷いた。それから何も言わずに白石の頭を撫でると、今度こそ背を向けて歩いて行った。白石は立ち尽くし、小さくなっていく背中を見ていた。種ヶ島は一度も振り返らなかった。
背で玄関のドアが閉まる。短い廊下の先の自室で荷物を下ろし、脱いだコートを行儀悪くベッドへ放った。急に軽くなった体が、すう、と大きく息を吸い込む。今日初めて空気を吸ったような気がして、それを吐き出すと同時、腹の底へ押し込んでいた感情が一気に上って来た。止めようもなくどんどん湧いてくるそれに、白石は両手で口を塞いで座り込んだ。そうしなければ、とんでもない声で叫んでいた。明確な言葉はなかった。けれど、終わったのだ。
種ヶ島さん。種ヶ島さん。
大好きな背中が去って行った道の向こうへ、大声で呼びたい。戻って来ていつものように笑いかけてほしい。声を聴かせてほしい。抱きしめてほしい。こんなの嫌だ、寂しい、会いたい、苦しい、痛い。
助けて、種ヶ島さん。
胸が真ん中から裂けていく錯覚をおぼえ、目からは堰を切ったように涙が溢れた。反射的に助けを求めたのは種ヶ島で、その種ヶ島はもういないのだったと脳が遅れて気付き、悲しむ心はまた種ヶ島に助けを求める。どうしようもない輪の中をぐるぐると回り、増幅される痛みに立ち上がれなくなる。抱きしめてくれる腕がもうないことだけが執拗に浮き彫りにされ、穿つように身に染みていく。
どれだけそうしていたのか、いつの間にか日が落ち暗くなった部屋で、ようやく涙が止まった。枯れたという方が近い感覚だった。体の中がもう何も残っていないように空虚なのだ。脚に力をこめると、やっと立ち上がることはできた。明日は早くからバイトがある。眠らなければ。頭が無機質にそう指令して、自分のものではなくなったような体が勝手に動く。
しばらくそんな風にして暮らした。その数日のことは、後から思い出そうとしても、あまり覚えていなかった。
毎日のように来た種ヶ島からのメッセージや電話は、あれきりぱたりと来なくなった。冷たい、とは少しも思わなかった。種ヶ島の想いや優しさをどうしてもそのまま受け取れない、疑うようなことを考えてしまうのが辛い。そう話した白石を、種ヶ島はこれ以上苦しめないようにと考えてくれているのだ。種ヶ島の心根をふまえれば、白石にはそうとしか思えなかった。
大学から帰ったある夜、今日も鳴らないスマートフォンを見下ろして、白石はふっと微笑んだ。ぱた、とテーブルに涙が落ちる。まだ、時折こんな調子で涙が出る。
ただのひとつも来ない連絡が、白石だけに向けられた、種ヶ島の最後の優しさだった。