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Prologue
ようやく開いた自動ドアをくぐると、しっとりと暖房の効いた空気が被さるように体を包んだ。縮めていた体を緩めつつ手袋を外せば、すっかりかじかんだ手が急に温められてじんと痺れ、ネックウォーマーに埋めたままの口許に苦い笑みが上る。いくらなんでも早く来すぎた。もう少し車の中に居てもよかったのだけれど、着いたと思った途端、居ても立ってもいられなくなって飛び出してしまったのだ。飛び出した先に何かがあるわけでもないのに。
黄味がかった温かみのある大理石の壁。展示室に続く階段へと伸びるくすんだ色の絨毯。ブーツの踵が奏でる足音を木霊させる高い天井と、やわらかく光を広げる照明。どれも、ちっとも変わっていない。厚手のコートのボタンを外した種ヶ島修二は、ふと立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。油絵具のそれなのか、床に整然と並ぶタイルに染みた歳月のそれなのか、なぜか落ち着く不思議な香りが体じゅうに広がる。昔のままの香りは眠っていた記憶と結びついて強い郷愁を呼び、一瞬、時間が巻き戻ったような錯覚を起こさせた。
ロビーの奥に置かれたソファに腰を下ろす。ソファは新しいものに取り替えられたようであったが、場所は変わっていない。入り口の自動ドアがよく見えるこの席が、特等席だった。
昨夜から急な寒波が来ているらしい。あと二時間ほどで昼だというのに外は暗く、猛烈な吹雪で、ここまで車を走らせるのも難儀であった。あの日もやけに寒くて、雪が降っていたな、と思えば、忘れられない古い景色が、ひとりでに脳裏に描き出されていく。
澄んだ朝日に舞う雪、涙を堪える白い額。
ここから見えるロータリーの向こう、この美術館の門の前で、彼と最後に別れた日。
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