横 顔
それは、振り向くのが一瞬遅かったとか、例によって投げかけられた「ちゃい」というおかしなあいさつの声が微かに低かったとか、多分、そんな程度のものだったのだと思う。そんな程度のものだとしても、珍しかった。ゆえに目立った。原因も掴み切れないほんの些細な違和感さえ、潔癖なまでに与えることを嫌うのがこの男の常であったから。
「ジャージの替え、ちょうど洗い上がったっつーからよ。遠野のもな」
「お、持ってきてくれたん。おーきに」
部屋の中ほどへ足を踏み入れると、応える声はもう普段と同じ調子であった。辺りの空気を支配し、ほんの一瞬の曖昧な違和感くらい簡単に霧散させてしまう振る舞い方は、この男の素か、あるいは策略の一端であるのか、今も測りかねる。
「どうしたよ」
測らせるはずもない奴だから、こちらも思ったようにやるしかない、というのが、この二年で培った、掴めないこの男との付き合い方の一つだ。真に受けるもはぐらかすも好きにしろ、といつものようにやや投げやりな思いで尋ねてみると、修二は少しばかり驚いたようだった。その決定的な仕草に、今度はこちらが驚いた。違和感を与えたことにすら気づいていなかったのだとすれば、これはさらに珍しい。
刹那の逡巡の後、悪戯がばれた子どものように浮かべられた苦笑は潔い。滅多に犯さない失敗を二つ続けてしまったらしいけれど、今更取り繕うのは悪手であるという最後の判断は、この男らしく素早く、正確だった。
「……いやなぁ、どうなるかなぁ思てな」
向こう向きに直り、背中越しに修二が答える。その瞬間、夜も更けてきた静かな宿舎の一室が、いっそうしんと静まったような気がした。
「大丈夫やんな。あんだけ、なんとかしたいと思ってんねんから」
平素跳ねるような明るさで喋るこの男の声は、稀に全く違う人間の声に変わる。意外なほど真剣で大人びて、まっすぐに落ち着いたその声は、いつも厳かな気配さえ湛え、高校生代表のミーティングにおいても水を打ったように響くのだ。その声で独り言のように紡がれた言葉に、頬杖をつく背に問い返すのも、知らず慎重になる。
「何が」
修二は少しの間、言葉が出て来なくなったようにじっと沈黙していた。人の何倍もの速さで回る頭は何を思ったのだろう。修二は急に「用を思い出した」と言うと、こちらの返事も待たずに片袖を翻して部屋を出て行った。席を立つ前、呟くように口にした声は、空耳ではあるまい。
――ノスケがな、苦しそうやってん。
聞き損ねてもおかしくない細い声であったのに、その色は再び静まり返った部屋の中にしばし木霊するように尾を引いた。なんでお前までそんなに苦しそうなんだ。痛みを堪えるような声に思わず浮かんだ言葉は、すれ違いざまに見えた横顔によって喉の奥にとどめられ、音になることはなかった。
「あれ、大曲先輩。おつかれさまです」
中学生であるしても生真面目すぎやしないだろうか。歩きかけの廊下の突き当たりからつむじが見えるほど深々と下げられた頭に「おつかれさん」と答えてやれば、そいつ、白石は愛想よく口角を上げた。
修二の部屋を後にし、クリーニング済みのジャージから剥ぎ取ったビニール袋を片して自室へ戻ろうとしていたところだ。先に部屋を出た修二は、もうどこにも見当たらなかった。
「先輩も飲みもんですか」
「これ捨てに来ただけだし。財布ならねえぞ」
「たかるつもりとちゃいますって」
階段近くに設置された大型のごみ箱に畳んだビニールを押し込む。軽口に非の打ちどころなく笑って返した白石は、ごみ箱と並んだ自動販売機を目当てに十一階へ上がって来たところであったらしい。明るい目の色、折り目正しくも余裕と自信を滲ませた眉。修二の言葉を聞いていなければ、この後輩が「苦しそう」だなんて誰が思うだろう。修二の杞憂じゃないか、なんて、他の誰かなら考えるかもしれない。目の前の白石はそれほどに穏やかで、友好的で、普段となんら変わりなかった。
だが、この二年間で嫌というほど知らされてきた。あの男の炯眼にまず狂いはない。傍らに置かれたラケットバッグと湿った前髪からも、白石がこんな時間までどこで何をしていたのかは想像がつく。高校生の心身でさえ、初戦は吐きそうなほどの重圧を感じた戦場だ。この後輩の中で何かが上手くいっていない最中なのだとすれば、今のしかかっているそれはどれほどか、想像するに余りある。それなのに呆れるほどうまく、きれいに笑う。なるほどな。笑みを消し、滅多に弧を崩さない眉をひそめた修二の横顔が、少しだけ腑に落ちた気がした。
修二は、あの男のよく見える目は、この幼さに見合わぬ鉄壁の向こうに何を見たのだろうか。何か言葉をかけたのだろうか。
「おお?めずらし!竜次とノスケやん!」
その時廊下の奥から飛んで来た声は、いつもどおり跳ねるようで、いつもどおりでかく、やかましかった。振り返ると、いなくなっていた修二が足取り軽くこちらへ歩いてくる。話の途中で急に部屋を出て、今まで一体どこにいやがった――と考え、答えはすぐに見つかった。明日白石と同じコートに立つ君島の部屋だろう。白石についてなんらかの話をしに行ったに違いない。隙がなく手強いあの美丈夫との間でどんな会話がなされたのか、修二が明かす日は、永久に来ないだろうが。
白石は、さっきと同じように修二に向かってあいさつし、きちんと頭を下げた。何も引っかかるところはないらしい。無理もない。どこか思い詰めたようにさえ感じられたあの声と横顔はどこへやら、ちゃい、と手を広げ歩いて来る修二は、いつもの軽快さで、否、いつもより一段と柔らかく、にっこり笑っているのだから。
まったく、どこまでも器用にやってのけるものだ。見慣れた相棒の笑顔に呆れと感心、それから少しの歯痒さを覚え、大曲は白石に悟られないように嘆息した。お前ら、よく似てるよ。
じゃあな、の代わりに隣の肩を叩いて歩き出すと、律儀にも白石が背後でもう一度頭を下げるのが分かった。その先で擦れ違った、ほんの些細な違和感も与えぬ横顔は明るく、あの部屋に満ちた一途な静けさまでも気のせいにしてしまいそうだ。それが素か策略か、いつもは測らせてなどくれない男だが、今夜ばかりは素ではなく、まして策略でもなく――あの健気で強がりな後輩への心配と、願いなのだろう。
「ジュースか?おごったろか!」
「え?いや、いつも悪いんで。もう買いますし」
「さよか?ほいじゃあ、あっち向いてホイで俺が勝ったらおごったるってのはどや?」
やわい毬のように優しく弾む声が、廊下の奥へと遠ざかっていく。わけわからへん、結局奢りますやん。吹き出すように笑ったまだ薄い胸は、きっと少し、解れたのだろう。