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<ノスケに会えた おーきに☆>

  受信した見知らぬ番号からのショートメールを一瞥し、大曲竜次は立ち読みしていた本を閉じて会計へ向かった。少し前に名のある賞を受賞したSF小説と恋愛小説、二冊の本を重ねて店員に手渡す。この書店からほど近い修二の家で無事〝会えた〟という二人に、これから助けが必要になる可能性はないだろう。帰ってこれを読むのが楽しみだ。

 昨日の朝、電話越しに聴いた白石の声を思い出す。四年前より少し低く、更に落ち着きを増した声は、四年前と変わらぬひたむきさを感じさせた。

 修二との連絡手段がない状況下で、確実に、最速で修二と会わせてやるには、今日俺が引っ越しを手伝いに行くことになっている時間に家を訪ねさせるのが一番いい。そう考えたのは早かった。電話での会話は、ちょっとしたテストのようなものだった。急に指定した朝早い時間の呼び出しであった上に、修二に会える確約も与えなかったのに、白石はあの電話で言ったとおり、本当にはるばる東京まで来てしまったらしい。その実行を即答で宣言できない程度の気持ちであるならば、無断で修二の住所を教えるなどという非常識はしてやらないつもりで提示した条件ではあったが、現実に白石がそれをやってのけたと知ると脱帽の思いを禁じ得ない。

 白石と出会って、修二は少し変わった。今になって、その理由がほんの僅か、分かったような気がした。

『恋なんて夢みたいなもの。時が来れば覚めてしまうの。それを悲しんでもしょうがない。そういうものだと分かっておいて、覚めるまでの間を思い切り楽しむの。覚めたらまた次の夢を見ればいいのよ。そうすればくよくよすることはないわ。恋ってそんなものじゃないかしら』。

  立ち読みしていた恋愛小説にそんな台詞を言う若い女が出てきて、俺は少しおかしくなった。よくもまあ分かったようなことを言うものだ、あの頃の修二じゃあるまいし、と。

 修二が白石との交際を告白したのは、大学二年の終わり、修二が進学を検討しているという大学院を見学しに東京を訪れた時のことだった。顔を合わせるのは久方ぶりであったかつての相棒は、まだ酒が入らないうちに、珍しく真剣な面持ちで切り出したのだ。『竜次には、知っといてほしいねんけど』。修二は、白石との関係を誰かに承認してほしがっているようにも見えた。そんな思いを生んだ心細さと、その源であろう想いの切実さを垣間見て、意外に思ったものだ。

 交際の告白のみで終わらなかったのは、俺が修二の期待どおりに淡々と話を聞いたことで心細さが慰められたためかもしれないし、まだ飲み慣れない酒が少々強く回ったせいかもしれない。あるいは、ずっと誰かに話したかったことであったのかもしれない。なんとなく過去の恋愛事情に話が及んだとき、いつもより鈍い滑舌と、ゆっくりとした口調で、修二は語ったのだ。

『だって、ほんまに数なんか数えられへんし』

『仮にも好きになって付き合った女だろ。数えられねえなんてことあんのかよ』

『んー……竜次は、今までちょっとええなと思って聴いた曲の数、すぐに答えられる?』

『あ?何の話だし』

『俺にとっては恋愛ってそんなもんやってん。お、なんや楽しい曲やん、て始まって、聴いて、わーええ曲やったーって終わんねん。で、次のおもろそうな曲探して、見つけて、また聴く』

『……』

『それが楽しいと思っとったんよなぁ。俺は完全に聴いてるだけやねん。あっちが俺で盛り上がってんのを、ガラス一枚挟んで聴いて、見てる。どの曲もええねんけど、俺が外から見てるもんやから、今こう盛り上がってるってことはこういう終わりやろなあとか、早いうちからなんとなく見えんねん。今思えばあんな退屈なことよう何度もやったもんや』

 からころとグラスの氷を弄びながら、 信じがたい事実を淡々と口にする男に閉口する。それでも別れ話がもつれて苦労していた様子は見たことがないから、器用に楽しみ楽しませ、後腐れなく関係を終わらせてきたのだろう。人あしらいの上手さに改めて舌を巻く。

『……けど、蔵ノ介はちゃうねん』

  修二は、どこか戸惑うような声色で呟き、酒を一口飲んでグラスを置いた。溶けかけの氷が二つ音を立てて揺れ、やがて引き寄せ合うようにくっついて停まった。

『俺も一緒になって一つの曲を演奏してる感じで、それどころか、つられて我を忘れてのったり流されたりしとって、それもええかと思ってもうて。曲の展開も、どう終わるんかも全然見えへん。ていうか、この曲終わらへんわと思ってまう。終わらへんわけないのになあ。どんなに長くても死んだら終わるやん、最終的に。でもそんなんも突き抜けて、ほんまにずーっと、意味分からへんけどとにかくずっと、無限に、どこまでも、蔵ノ介とこのままでおる気がすんねん。展開が見えへんのに無限に続くって怖いなぁと思うけど、やめようとか、先が見えるように付き合おうとか思われへん。思っても多分できへん。蔵ノ介は俺の得意なこと、全部できへんようにしてまう……。でも、めっちゃ幸せやねん』

 珍しくやや不明瞭なことを語りながら、修二は悩ましげにテーブルに顔を伏せてしまった。

  恋とか愛というのはしばしばそういう部分のあるものだと思うが……と、今さら初めて恋の炎に身を焼かれているらしい色男に些かの呆れを覚えたが、口には出さずにおいた。

『惚れたもんだな』

  それだけ投げ返してやると、修二は伏せたまま小さく顎を引いた。かつてはほとんど見なかった人間らしい修二の仕草を目の当たりにするのは、少し気分が良かった。

 

 年若いというのに妙に醒めていて、この世を見限ったようなところのある男だった。世界や人間の真理を早々に見切り、余計な期待をせず、幻想に惑わされず、最も効率のよい方法で今生を楽しむことを信条としているかのように見えた。いけ好かない、それが第一印象であったことをよく覚えている。何に直面しても崩れることのなさそうな、あの賢しらな目が嫌いでさえあったかもしれない。

 その後、テニスを通じてそれなりに深い付き合いとなったことで、あいつの中にも業火に変じ得る熾火があることや、とっさに見せる意外なほどの情け深さ、自ら他と一線を引くくせに寂しがり屋という七面倒臭い性質までもを知り、その印象は少々変わったのだが。

 あの男が見極めたつもりになっている世界の渡り方を覆すものが、テニス以外にも現れたというのは愉快なことだ。あの聡い男の冷たい洞察は、悲しいことにどれも限りなく正解に近いのかもしれないが、正解なんてまるで役に立たないときもある。どんなに頭が回ろうと、要領が良かろうと、たかだか一人の人間が一望のもとに収めきれるほど小さくはなく、乗りこなせるほど従順ではないのだ。この世界も、あいつ自身も。

 そして、修二にはちゃんとできるのだ。理解や損得勘定などさせてもくれぬ素晴らしい何かを認め、愛し、心のままに抱き締めることが。頭脳だけではない。なぜかあいつは認めたがらないが、本当は情も大概豊かで、熱く、あたたかい男なのだから。

 あの頃も、テニスに対してだけはそうしていた。人懐っこいかんばせの中でそこだけが老成したような鈍い瞳孔は、ラケットを持つときだけは誰よりも爛々とした光を放ち、予想外の光景を睨み、湧き上がる興奮に揺れ、逆境と仲間に向かって笑んだ。同じコートで幾度となく見たそういう目は、悪くなかったと思う。

 

 見てやりたいものだ。白石の隣で修二がどんな目をするのかを。そして、あの修二の世界を変えてしまった男がどんな佇まいでその隣に立っているのかを。

 半分好奇心からそんなことを思いながら、大曲は買ったばかりの本を片手に、自宅方面へと足を向けた。二人に会うのはまたいつかでいい。しばらくの間、二人には一分一秒も惜しかろう。

 それにしても、どう考えたって、今日俺が修二と会って事情を説明し、連絡をつけてやるのがまっとうな解決方法だったよな……と大曲はため息をついた――そうしたところで、結局白石は今日、あてもないまま東京に乗り込んでいたに違いないが。あいつらの思いに当てられて些か冷静さを欠き、柄にもない方法でおせっかいを焼いてしまった気がしないでもない。だが、あれほど想い合っていながら離れてしまうところだった二人が、今ごろは修二の家で元どおりに寄り添っているであろうことを思えば、まあ、仕方あるまい。

 俺は昔から、あるべき場所にものがないと気が済まない性分なのだ。

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