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16

 あたたかい海の中を漂うような満ち足りた眠りの中にいる。すべての源の中で、身も心も豊かに癒されていくような眠りだ。水中を体が緩やかに浮上し、また心地よく沈んでいきそうなところでひとつ深く息を吸い込むと、種ヶ島の肌の香りが眠った体を満たした。

(……修二さん)

 白石は急に胸が痛くなって、気持ちのいい眠りを思い切り振り払い、重い瞼を無理矢理上げた。なかなか言うことを聞かない目がようやく焦点を結ぶと、触れ合ってしまいそうなところに種ヶ島の寝顔があった。すうすうと静かな寝息を立てて眠る種ヶ島の表情は穏やかで、口許は微かに笑っているようにも見えた。その頬も目元もきれいに乾いているのを認め、白石はほっと胸を撫で下ろす。

 強い種ヶ島があんな風に泣くのをもう見たくはない。できればこの先もずっと、あんな悲しい涙を流すことはないといい。

 すると、白石の目覚めを察したかのように種ヶ島の長い睫毛がふるりと揺れ、ゆっくりと瞳があらわになった。

「……、……あらら、起きてもうたん……?」

 掠れた舌足らずな囁きと一緒に、種ヶ島が優しく微笑んだ。いつもいつも優しい人だけれど、中でもその瞳と声が一層甘さを増す、情事後の種ヶ島だ。変わらぬ姿に白石はそっと目を細めた。

「泣いてへんかと思って」

「……さよか。泣いてへんよ。お前が何回も呼んでくれたしな」

「え?」

「『しゅうじさん』て何回もかわええ寝言言うてたんやで」

 種ヶ島は眉を下げ、そっと白石の髪を撫でた。種ヶ島の言い方がなんだか恥ずかしくて、嘘や、と言いかけたが、眠っている間のことではそう言う根拠もなくて口を噤む。しかし種ヶ島は、至極真剣な顔で続けた。

「心配でたまらんかった……?俺はもう大丈夫やで」

 安心させるように笑う目に以前のような力が戻っている気がして、白石は頬を緩めて頷いた。

「ありがとうな、想ってくれて。安心してゆっくり寝とき」

 種ヶ島は羽のようにやわらかくそう言って、白石の髪を大事そうに撫でた。

 白石は種ヶ島に誘われるまま再び瞼を閉じようとしたが、ふと部屋がもうずいぶんと明るいことに気がついた。種ヶ島の肩越しに部屋を見渡すと、ベランダへ続く大きな窓からはカーテンに透けたはっきりとした光が漏れている。

「……?もうええ時間とちゃいます?」

「まだ六時前やで。この部屋一応南向きやけど、だいぶ東に傾いてんねん。朝は日がもろに入って来るんよな……カーテン買い替えなあかんわ」

 窓の方を振り返り、種ヶ島が苦笑いした。

 白石は、フローリングをスポットライトのように淡く切り取って白い光が降り注いでいるのをじっと見た。微かな既視感の正体は、考えるまでもない。あのときも、あんなまっさらな光の中、種ヶ島の隣で心地よい眠りから目覚めたのだ。二人きり、オーストラリアから日本へ奔るあの船の上で。

 同じことを思ったのか、種ヶ島の円い目がくるりと白石の方を見た。

「修二さん、見ましょ。朝日」

「言うと思った……。ええ案やけど、今は寝とき。久々やったし体痛いやろ」

「嫌や。絶対今見たる」

「あ、こら!分かった、分かったからゆっくり起きや!まだ部屋寒いし!」

 勢い任せに起き上がろうとした白石を種ヶ島があわあわと止め、ベッドサイドに置かれた部屋着を手繰り寄せた。制止する手をひとまず受け入れながら、白石はふと、そのやりとりをあの頃の自分と遠山のようだと思った。自由で、その時々の自らの欲求に正直な遠山を、少しだけ羨ましいと思ったことがあった。思ったとおりに振る舞い、必要とあらば周囲に少々面倒をかけることも厭わず目的を果たす。そういうことが、かつての白石にはどうしてもできなかった―――三日前までの白石にも、きっとできなかっただろう。

 ゆっくりと起き上がる白石の体に気遣わしげに手を置き、何かあればいつでも抱き止められるよう構えている種ヶ島をちらりと見て、白石は苦笑した。わがままを言って申し訳ないけれど、白石をこうしてしまったのは、他でもない種ヶ島だった。長く白石がとらわれていたものをそっと外し、欲しいものを欲しがっていいのだと教えてくれた。そうして多少誰かを失望させたとしても、自分だけは揺るがぬ味方でいると知らせてくれた。だからこそ、白石は昨日東京へ飛んで来て、種ヶ島に会うこともできたのだ。

 だから多めに見てほしい、なんて甘えられるのは、相手が種ヶ島であるからにほかならないのだが。

 

 静謐に息を潜めた、世界が作り出される前のような朝の中に、二人並んで立つ。まだこの部屋に馴染まないためか、街が目覚めていないためか、部屋の中は妙にしんとして、互いの息遣いが手に取るように感じられる。

 カーテンを開け放つと、ガラスの向こうでは、紫色の夜と金色の朝が空を半分つづ分け合うようにして寄り添っていた。東の空はだいぶ明るくなっているが、日の出まではもう少しかかりそうだ。この一帯は住宅街らしく、目の前には背の低い一軒家が遠くまで敷き詰められたように並んでいる。その上に、広く大きく空が見えるのだった。

「ええ部屋ですね」

「さよか?」

「はい。こんなに空が見える」

 静かな部屋に、ぽとぽとと落ちるように二人の声が響く。ふと、白石は薄いオレンジ色に光る東の空の、まだ夜の尾が残った辺りに、三日月と星がひとつ光っているのを見つけて指さした。

「こんなに明るいのに、まだ消えへん星があるんですね」

「ほんまや。よっぽど明るいんやな」

 それからしばらくその星に見入った。それは、月と一緒に少しずつ昇っていくように見え、きらきらと身を揺らしながらもまだ太陽に負ける様子はない。朝に染められていく空の中で夜空を恋しくさせる輝きを放つその星は、西へ去って行こうとしている夜が、夜を忘れさせぬようにと落としていったかのようだった。

 白石は、隣に立つ種ヶ島の顔を見上げた。同じように消えない星を眺めていた目が、すぐに白石の視線に気づいて見つめ返す。どちらからともなく微笑むと、二人はそっと額を合わせ、ふわりと触れた前髪越しに感じる体温に目を閉じた。

 

「そや、俺来月からテニススクールでバイトできることになってん。まずはアシスタントからやけど、夏のうちには初心者のちっちゃい子らに教えさせてもらえると思うわ」

「え!おめでとうございます!」

 少しずつ明るさを増していく部屋で思い出したように種ヶ島が言い、白石は舞い上がって、急にぱっちりと目が覚めた心地がした。思わず少々大きな声が出て、慌ててボリュームを下げる。種ヶ島が子どもたちにテニスを教える。見たこともないはずのそのイメージは、白石の胸を賑やかに躍らせた。

「うわ……なんやめっちゃ嬉しいです、俺」

「さよか?」

「はい。コーチ、ほんまに修二さんに似合うと思うし、修二さんが夢にちょっと近づくんやから」

 種ヶ島は白石をじっと見てにっこり笑うと、正面に向き直り、夜が去りつつある空をまっすぐに見上げた。ひとつふうっと大きく息を吐くと、真昼の青空のような声が力強く宣言した。

「よっしゃ!来月からやったるで!」

 その横顔に一瞬、金色のバッジが輝く赤い日本代表ジャージを着たかつての種ヶ島が重なって見えた。軽やかで、悠々として、それなのに眉と瞳にはちゃんと深い情熱を宿している、この横顔に恋をしたのだ。そして白石は、この一年の間に見てきた種ヶ島の表情を思い返して気がついた。

「修二さんのそういう顔、ずっと見てへんかった気がする」

「そういう顔?」

「誰にも負けへんで!って顔」

「……負けへんで、か」

 種ヶ島は、ぱちぱちと大きな目を瞬かせ、ぽつりと呟いた。再び空を見上げ、種ヶ島はしばらく何かを考えているようだった。空では、あの明るい星がまだ光っている。その場所はもうすっかり朝のものになりつつあり、さっきよりは光を淡くしていたが、それでもまだ目に見えた。種ヶ島が微笑み、そっと口を開く。

「お前が俺のこと忘れてもうてから、そんな風に思えへんようになっとったた気がするわ。この一年、お前に支えてもらってなんとかなったけど、今日ほんまに久しぶりに地面に足ついて立った気がする。これなら踏ん張れるって、ようやく自信持って思えるわ」

「……修二さん」

 何と言えばいいか分からなくなって、白石はただじっと種ヶ島を見つめた。種ヶ島は白石に頼もしい笑顔を向けると、力強く続けた。

「お前がいてくれたら、俺は絶対負けへんで」

「……なら、修二さんはもう負けませんわ」

「さよか?心強いなぁ、蔵ノ介」

 戻って来た勝気に夢を見据える眼差しが、出会った頃と変わらぬ熱さで白石の胸を打った。直面した世界の大きさに焦る白石の前で、堂々と挑む姿を見せてくれたあの時と同じだ。

 種ヶ島は、いつも白石の一歩先を歩いている。白石のまだ知らない人生の難題に一足早く出会い、乗り越えていく。乗り越えられると教えてくれる。そういうことがある度に白石は、自分はどうすべきだろうと考えさせられるのだ。

 白石は、種ヶ島に伝えていなかったことがあるのを思い出した。種ヶ島の新しい夢を知り、人生の向かう先を定めるその姿を見てから、はじめはおぼろげに、次第に確かに、白石の中に芽生えたもの。それは、種ヶ島に出会う前の白石なら決して手を伸ばさなかった、欲張りで子供っぽい我儘だった。

「修二さん。俺、スポーツファーマシストになりたいって言うたでしょ」

「おお、海で教えてくれたな。前はそんなこと言うてへんかったからびっくりしたわ」

「ふふ。実は高三の秋から考えてて、事故に遭うた日話そうかと思ってたんですけど、あの時は晩飯一緒に食べるだけやったし、次に修二さんの家に行ったときにゆっくり話そうと思って話さへんかったんです。〝次〟があんなに後になるとは思わへんかった。……それで、あの時は忘れてもうてたんですけど、もう一つあるんです。俺が優秀なスポーツファーマシストになりたい理由」

「うん?なんやろ」

 白石の言葉をじっと待っていてくれる円い目は、出会い、同じチームの一員として海を渡った頃のままだ。〝もう一度あの世界で〟、そう思うことをやめられなかったのは、テニスそのものに対してだけではない。種ヶ島を見つめれば、ひとりでに夢は溢れ出した。

「修二さんはコーチにならはるから、俺もテニスに、選手やチームのサポートに関わってたら、俺と修二さんの道がいつかまた交わるかもしれへんと思ったんです。同じコートでラケット持ってっていうのはもう難しくても、いつか、もう一度修二さんと一緒に戦いたい。青臭いですけど、俺のもう一つの新しい夢です」

  朝の光に淡く透け始めている紫色の瞳がぱしっとひとつ瞬き、くるりと丸まって輝いた。

「なんやそれ……、なんやそれ……!最高やん!そんなこと考えとったん?」

 種ヶ島は頬を紅潮させ、顔いっぱいできらきらと笑った。なんだか照れくさくなって、頷いた首を俯けたままでいると、いたずらに笑った種ヶ島が潜り込んできて、攫うようにぱくりと唇を啄んだ。

「その夢いただき!」

 不意打ちに驚く白石をぎゅっと抱きしめると、種ヶ島はどこか不敵に瞳を覗き込んだ。明るくなっていく空から光を受けた虹彩の底が、きらり、あの時のように揺らめき光る。

「それ、今日から俺の夢にもさせてもらうわ。返せ言うても返さへんで」

 その笑顔と瞳の輝きをしばし呆気に取られて見た。それから白石は、駄々を捏ねるような夢を躊躇いもせず掻っ攫っていった種ヶ島に、ぷっと吹き出して笑った。一緒に涙も出て来た。種ヶ島は怪訝そうに小首を傾げている。

「修二さんならそう言うんちゃうかと思ってましたけど、ほんまに言うんやもんなぁ」

 指で涙を払いながら言うと、種ヶ島がにっこりと笑って反対側の頬に流れた涙を拭った。

 思えばあの頃から、種ヶ島は白石の本当の望みを不思議に掬い上げてしまう人だった。さっきまで白石の心の中にだけ大事に畳まれていた夢は、種ヶ島に片端を握られてあっという間に大きく、ぴんと広がった。本当は、一人で広げるのは怖かった。大きすぎて、一人ではきれいに広げきれないと思っていた。それをいとも簡単に美しく広げてしまったただひとりの人を見つめ、白石はもう一粒だけ涙を流した。

 急に明るさを強めた窓の外に、揃って視線を投げる。低い山の向こうに太陽の気配がある。

 見える景色は、あの時より少し窮屈になった。眼下には、果てのない海も、煌めく水面もない。代わりに広がっているのは、鈍い色で眠る知らない街並みだけだ。

 それでも、空は大きく広がり、遠く低い山の稜線から太陽は再び生まれようとしている。出会った日からのすべてが詰まった胸で息をする白石と種ヶ島がいる。何度でも寄り添って朝日を見られる。白石には、それで十分だった。それだけで世界は輝き、無限に広がってゆく。

 山際から強い光が漏れ出す。生まれたての日の光が山並みに削られ、幾筋かのオレンジ色の光線となって街を照らし出した。光はこの部屋の窓にも届き、同じ日のことを思い出した二人は朝日で煌めく瞳を同時に覗き合って、笑った。過去は明瞭に整い、今と調和して新たな時間を紡いでいる。

 種ヶ島がここにいる。胸はあたたかい。足はもう震えない。

​fin.

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