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​誰より美しい人へ

 越してきたばかりの自宅を出たとき、すぐそこで開いたエレベーターから彼が現れたのは、ぬるい雨が降る夜のことだ。あ、と思った時にはもう顔を見合わせた後で、五階の廊下に逃げ場はなかった。 

「隣に新しい人入ったなぁとは思っとったんですけど、まさか種ヶ島先輩やったなんて!」 

 記憶よりいくらか低くなった、けれど明るい響きはそのままの声を弾ませて、数年ぶりに会った白石蔵ノ介は笑顔を輝かせた。 

「少しお話しできませんか。ずっとどうしてはるかなぁと思っとったんです。散らかってますけど、良ければ俺の家でも。あ、そうや、すんません、先輩出かけるところですよね。お引き留めしたらあかんかった」 

 緊張か興奮か見分けのつかないものを漲らせて、瞳をきらきらさせて、そんな昔のままの仕草は、かえって昔と今が違うことを明白にした。別に急いではいなかった。近頃常連の一人の羽振りがよろしくないようだし、たまたま数日予約のない日が続くので、久しぶりに立ってみるかと外出したに過ぎなかったから。 

 結局上がらせてもらうことになった同じ間取りの家、背後で玄関が閉まり白石が鍵を掛ける瞬間、身構えてしまったのは職業病のようなものだ。彼は客ではないのに、と自嘲しかけ、いや、俺の生業を知っていて家へ招いた可能性もなくはない、なんて用心深く集中し直したところで、靴を揃えて振り返った双眸に全て杞憂だと知らされた。彼は何も知らないのだ。少しも色の変わらない目が教えたその事実にほっとしている自分を見つけ、今度こそ内心で自分を嘲笑った。 

 昔もそうだった。何か立派なものを見ているような憧れと尊敬でできた瞳に映り、彼のまなざしに相応しい先輩として振る舞うことが好きだった、のだと思う。見栄っ張りな青さは思い出すだに滑稽だ。少なくとも、この子のどこまでも澄み切ったまなざしに見合う人間では決してない。あの頃でさえ、本当は自分が誰よりそのことを分かっていた。それでも、彼が作り出してくれた「種ヶ島先輩」の美しい像を、虚像と気付かせないまま、最後まであの瞳に映っていたかったのだ。 

「俺いま、公園の角の花屋に勤めてるんです。先輩は何のお仕事してはるんですか」 

 思い出話が進む中、昔のままの白石が無邪気に尋ねた。一瞬、頭がくるりと回った。何か当たり障りのない、彼の中の「種ヶ島先輩」に見合う、彼を幻滅させないような嘘を探して。しかし次の瞬間にはもう一人の自分が顔を出し、雑草のようなしつこさで芽を出した虚栄心を嗤った。取り繕ってどうする。この先ずっと、彼を騙して近くに置こうとでも言うのか。 

「体売ってるわ。セックスして金もろてんねん」 

 そうそう、いつもこの面食らった顔を見るのが面白かったのだった。身もふたもなく暴露してしまえば、頭は意外にも冷静にそんなことを思った。 

 あの頃、何度悪戯を仕掛けても気持ちのいい反応やらあまり上手くないツッコミやらを見せてくれていた彼は、この日ばかりはぽかんと口を開けて出遅れ、「はあ」とおかしな声で相槌を打ったきりだった。頭は冷えていると思ったのだけれど、彼の当惑しきった声には思った以上の破壊力があった。ぎくしゃくしだした会話に見切りをつけて、俺は早々に彼の家を辞した。 

 街に向かう気はとっくに失せていた。ずっと大事にしてきたものを壊してしまった、そんな漠たる寂しさが、雨音と一緒になってそこら中を湿らせていた。 

  

 もう俺に関わろうとせえへんやろなぁ。そう考えて、ならば最後にもう一度だけと、買い物帰りに彼の職場だという花屋に寄ってみた。またしとしとと雨が降る夕暮れだ。昔よく奢ったスポーツドリンクを差し入れて(他に彼の好きなものを知らなかったのだ)、顔を見て、「あの日はごめん」――の代わりに「おつかれ」、それだけ言って帰ろうと思っていたのに、彼は律儀にもそのスポーツドリンクの礼を申し出た。礼をされていいような差し入れではない、なぜならそれは最後に会うための口実に過ぎないのだから。そう思ったところで言えるはずもなく突っ立っている間に、彼はカウンターの向こうから何かを差し出した。白い薔薇だった。ラッピングの練習をしていたところだったという。 

「くれるん?俺に?」 

 自分のものではないように華やいだ声に驚いて、そこで初めて、柄にもない自然な笑みで彼に笑いかけていたことに気づいた。しまった、と思ったけれど、白石は「先輩、花好きになったんですか?あの時は植物園興味なさそうやったのに」なんて言って、目を丸くして見つめただけだった。こんな生業の男ににっこりされたって気味が悪いだろうとか、「営業」だと思われたかもしれないとか、無駄に考え肝を冷やした俺の一瞬を返してほしい。 

 きょとんと見つめる瞳は苦笑ものだ。まっすぐさゆえ、賢いのにどこか鈍く、ずれているのも変わっていないらしい。ああ、そう、そんなところも面白くて、かわいくてならなかったのだ――あの頃から。 

 そんな彼を見たら、なにやら急に満足した。これでいい。もうこれっきりでいい。いつまでも元気で、健やかで、どうか汚れることなどないように、俺とは正反対の遠いどこかで、ずっと。そんな柄にもない願いがどこかから湧いて流れ、すぐ萎れて腐るだろう一本の薔薇を形見に持って、「ほなさいなら」と手を振った。 

  

  ◆ 

  

「花、好きみたいやったから。またラッピングの練習したんで、よかったらどうぞ」 

 それなのにどうだろう、これもずれているゆえなのか、彼は四日後の夜にわざわざ部屋を訪ねてきた。 

「先輩に似合うと思って」 

 玄関の沓摺りの向こうからこちらへと一直線に差し出された赤い花は、深緑色のリボンも合わさって渋い雰囲気だ。てかてかした固い葉がついている。椿?首を捻る前に彼は花の名を教えてくれた。 

「山茶花(さざんか)。椿によう似てますけど、別の花なんですよ。リボンは千歳緑っちゅう色で、縁起がええんですって」 

 枝なんで水揚げしにくいかもしれませんけど、根元んとこちょっと叩いて潰しとくと、よう水吸います。できれば切り戻しはこまめにしてあげてください。細いし、キッチンばさみで切れると思います。 

 実際のところ花が好きなどではない俺には呪文にしか聞こえない何ごとかをつらつらと説明し、俺が花を受け取ったのを見届けると、彼はあっさり帰って行った。 

「また持って来ます。ほな、おやすみなさい。種ヶ島先輩」 

 昔、遠い海の向こうでそうしたのと同じあいさつと呼び名を口にし、同じ仕草で会釈をして。 

 

  

 暗い部屋に戻れば、テーブルの一番奥で、花瓶に入った白い薔薇が頭をもたげている。 

 この部屋に存在する予定などなかった花瓶は、あの日薔薇を受け取ってしまった後に調達した。切れかけのネオンが点滅する閉店間際の百円ショップで、しっかり見もせずに棚から取ったそれは、よく見れば少し歪んでいて、細かい傷がいくつもついている。ガラスは白く濁っているし、重さに欠ける材質は本物のガラスであるのかどうかも疑わしい。花畑から選りすぐられてここへ来たのだろう花には相応しくない、歪で、粗末な住処だ。 

 でも、そんなものでよかったのだ。薔薇が枯れたら躊躇わずに捨ててしまえるやつがよかった。花はないのに場所だけ喰うのも、とっくに腐ってなくなった白い薔薇を思い出すのも、ごめんだったから。もう萎れてきた薔薇は、明日の朝までには首を折るだろうと思っていた。今夜仕事から帰ってそれを見たら、計画どおりに花瓶ごと捨てて、眠ってしまおうと思っていたのに。 

 丁寧に巻かれたリボンをほどき、赤い山茶花をそうっと、萎れかけていた白い薔薇と入れ替える。予定外の二番目の主となった山茶花は、安っぽい花瓶にも存外馴染んで美しく咲いた。韓紅色の花びらをたくさんつけた花は、艶やかな着物を着た、慎ましくも華やかな美人を思わせる。一体、これのどこが俺に似合うと思ったのだろう?慎ましさだの、清らかさだの美しさだの、今やそんなものからは一番遠いところで息をしている俺なのに。ずれているにしてもほどがある。 

 考えようとして、まとまらない思考はすぐに途切れた。深い溜め息が零れる。もういい。それは、彼の言う「また」が本当にあったときにでも聞けばいい。少なくとも今日、彼はラッピングの練習とやらをしながら俺のことを思い出し、あの花屋からここまで花を運んで――また「種ヶ島先輩」と呼んでくれた。今はそのことばかりがぎゅうぎゅうやたらに胸に詰まって、苦しくて、他のことはよく考えられそうもない。ただ、彼の目をもう一度見たいと朧に思った。今もどこかにあの頃の「先輩」が見えているらしい、澄んだ瞳を。 

 あの日、安物でも花瓶を買わなければと考えた俺は、彼のくれた一輪の花を、枯らしたくなかったのかもしれなかった。 

  

  

  

【千歳緑】色言葉:不変 

【山茶花(赤)】花言葉:誰より美しい人へ 

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