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​シネマカード

「すんません、八時二十分のやつ、一枚」 

 そう声をかけられたのは、寒い冬の火曜日の夜、退屈と眠気で朦朧とし始めていた頃だ。誰も来ないと高を括ってもいた。完全に隙を突かれたけれど、こういう時の何事もなかったかのような澄まし顔だけは上手くなった。これも入社以来ここに座りながら培った、スキルとかいうやつだ。 

 八時二十分上映開始の映画のタイトルを一応読み上げ、アクリル板に開いた穴から青いトレイを引き取る。中には、千円札と五百円玉が一枚ずつ、その脇に、古びた若草色のシネマカードが添えられていた。 

「申し訳こざいません、こちらは三千円で一つお付けけしているんです」 

「あ、そやったなぁ。つい癖で。堪忍」 

 ぺらぺらの画用紙でできたシネマカードは、三年以上前に廃止した旧デザインのものだった。これを持って来館する人はもうほとんどいない。最後のスタンプに添えて記入された年月日は私の筆跡に見えるが、やはり随分前ものだ。何年か来館していなかったのだろう。スタンプを貯めると映画が一本無料で見られるそのカードは、満杯まであと一つだけスタンプが足りないようだった。 

 千五百円を預かり、代わりに映画のチケットをシネマカードの横に載せて、トレイを返す。すると、空にしたトレイを律儀に戻して寄越した骨ばった褐色の手と、小さく弾むような「おおきに」の言い方が、私のどこかに引っかかった。 

 波打つ銀髪を乗っけた長身が、たった三つしかない劇場の方へと歩いて行く。私は昔、その後ろ姿をここで何度も見たことがあった。 

 

 それから、彼は四半期に一度ほどの頻度でこの小劇場へやってくるようになった。彼が来るのは決まってレイトショーの時間で、昼より三百円安い料金を払い、一本映画を見て帰って行く。上映開始一分前、劇場の扉を閉めに行くといつも、ほとんど貸し切り状態の劇場の最後列右端に、あの銀髪が見えた。 

 今回は、前に来た日から二か月ほどだろうか。蒸し暑くてたまらない、やはり火曜日の夜に、彼は来た。鞄もろくに持たず、いまだに現金主義を貫く気難しい小劇場のために長財布だけをポケットに入れて、一人で来た。千五百円とチケットを交換し、変わらない「おおきに」のリズムに会釈をして、青いトレイを受け取る。 

 ――彼は、もう来ないんですか。 

 尋ねられるはずもない問いを、私は今日も声に出さず背中に投げた。 

 

 五年以上は前で、十年は経っていない。私が十数年ぶりの新入社員としてこの小劇場に就職し、まだよちよち歩きだった頃のことだ。一、二か月に一回くらい、彼はここへ来ていた。 

 来たのは決まって、寂れた小劇場が一段と寂れる火曜日のレイトショーの時間だ。他にお客がいることは滅多になく、いつもロビーに溜まる静寂を踏み分けてやって来た。しかしそうでなくとも、私は彼のことを覚えていただろう。とても、印象的だったからだ。 

 彼はその頃、一度だって一人ではなかった。いつも同じ人を連れていた。彼自身もうんとハンサムなのだけれど、隣にいたのはそれに負けない、ぎょっとするほど綺麗で色白な、美しく微笑む男の人だった。レイトショー料金千五百円を二人分で、三千円。一円の無駄もなく基準の金額をクリアして、シネマカードに一つスタンプをもらい、三つしかない劇場の方へ、彼らはいつも何事かを話して笑い合いながら歩いていった。上映時間一分前、扉を閉めに向かうと、ほとんど貸し切り状態の劇場の最後列右端に並んだ二人の頭が見えた。 

 

 二人がぱったりと来なくなり、密かに気を揉んだのがいつの頃だったか、そういえばもう覚えていない。あのシネマカードをもう一度よく見せてもらえば分かるかもしれない。最後のスタンプの日付がきっとそれだ。 

 フードの販売はポップコーン一粒とてなく、ドリンクすら自動販売機で買わせる気の利かない映画館だから、一日のうちに劇場内で三千円を使わないとスタンプがつかないあのシネマカードが差し出されることは、あれきりなかった。あとスタンプ一つのところで止まったままのシネマカードを、彼はまだ持っているだろうか。 

 上映開始一分前、扉を閉めに向かうと、今日も銀色の頭が見えた。一人ぼっちの劇場に、なんとなく寂しそうに座っている。あの頃、二人が並んで座っていた時は、二人ぼっちの劇場でも寂しそうに見えたことなんかなかったのに。 

 その日を最後に、彼はまた来なくなった。 

 あの頃、人気のない火曜日の夜に、ひっそりと寄り添うようにやって来た素敵な二人は――たぶん、恋人同士だったのだと思う。 

 

 

「すんません、八時二十分のやつ、」 

 そう声をかけられたのは、寒い火曜日の夜、やはり退屈と眠気で朦朧とし始めていた頃だ。こんなに冷えるのに、予報によれば週末にはもう桜が咲くという。今日も今日とて完全に隙を突かれたけれど、こういう時の何事もなかったかのような澄まし顔にだけは自信があった。あった、はずなのに、今夜はたっぷり三秒固まった。 

「二枚」 

 見上げた先、指を二本立てた彼のすぐ隣には、ぎょっとするほど綺麗で色白な、美しく微笑む男の人が立っていた。見間違えるはずもない、あの人だ。昔の夢でも見ているのだろうか。お客の来ない火曜の夜とはいえ、勤務中に寝落ちはさすがにいただけない。 

「あれ?すんません、チケットくださーい」 

 気付くと見上げた先で、端正な顔が二つきょとんとこちらを見ていた。よく見れば、それは確かに彼らだったけれど、あの頃よりうんと大人になり、いっそう素敵になった二人だった。我に返り、あたふたとアクリル板の向こうから青いトレイを引き取る。スキルも何もありゃしない。 

 どきどきとうるさい胸を抑えてトレイの上を確認すると、千円札が三枚乗っていた。今日最後の上映となる映画の名前を一応読み上げ、二枚分のチケットを出力する。旧式の機械がカリカリと必死に印字をしている間に、尋ねた。 

「シネマカード、お持ちじゃないですか」 

「……あ、そうか」 

 銀髪の彼は目を丸くすると、長財布を開き直した。取り出された若草色のシネマカードを見て、隣に立つ彼が「あ、それ……」と呟き、二人が顔を見合わせて笑う。私は、何の関係もないくせに心の底から安堵した。よかった、捨てられていなくて。 

「めっちゃ前のやけど、まだ使えます?」 

「はい。有効期限はございませんので」 

 最後に見たのと同じ、あとスタンプ一つでいっぱいのシネマカード。見れば、最後スタンプの日付は丸五年も前のものだった。その間の彼らのことなんて何も知らないのに、一つだけ残った一番右下の枠の中に、私はなぜか泣きそうになりながら古いゴム判を押した。 

「いつもお越しいただきありがとうございます。こちらをお持ちいただけましたら、どの映画でも一回無料でご覧いただけますので、」 

 口に染みついた定型文を再生しながら、私はちょっと恥ずかしくなった。二人でいっぱいにしたシネマカードなのに、映画一回無料なんて格好がつかない。どうせなら気前よく、二回分無料だったら良かったのに。まったく気の利かない、気難しい映画館だ。けれど、彼らが足を運ぶだけの何かがこの映画館にあるのなら、どうかこれからはずっと二人で。 

「またいらしてください」 

 二枚のチケットと、いっぱいになった若草色のシネマカードを青いトレイの中に収め、アクリル板の向こうへ渡す。空になったトレイと一緒に返って来た「おおきに」のリズムは、いつもより穏やかで、嬉しそうだった。 

 たった三つしかない劇場の方へ、二人が歩いて行く。後ろ姿も、笑い合う横顔もあの頃のままだけれど、あの頃よりゆっくりとした歩調で遠ざかっていく。振り返るな、振り返るな。そう念じた甲斐あってか、彼らはそのまま劇場へ入って行った。勝手に出て来る涙を止められそうになかったのだ。本当に、スキルも何もあったもんじゃない。 

 安心してはいられない。上映開始まであと五分ほど。扉を閉めに行くまでに、この顔をなんとかしなければならない。あの頃と同じ、誰もいない劇場の最後列右端に、二人は並んで座っているだろう。 

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