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​四月 おかえりの肉じゃが

 絹のように滑らかなかけらがひとつ、青白い街灯の光を纏い流れて行った。そっと視界に入り込み、ひらりと回り輝いて見せたそれによく似た色とやわらかさを、知っている。

 

  ◆◆

 

 かけらの来た方に目を向けてみると、見えるのは夜に沈んだ小学校だ。仄かに浮かぶ校舎とグラウンドの間に植わった桜の木が、器用に夜風に絡ませては飛ばしているのだった。

 小学校のグラウンドは、無闇に広い空間ばかりを上に載せて、がらんどうだ。通勤時間がたまたま八時過ぎになった日などは、よくもまあ、と感心したくなるほど元気な子供たちが所狭しと駆け回っているのに、この時間は、まるで人が変わったように静かであった。

 スマートフォンを取り出して見れば、時刻は二十二時を回ろうとしていた。いつも「おはようございまーす!」と、こちらがたじろいでしまうような無邪気さであいさつを投げ、ランドセルで朝日を弾いて駆けていくあの子たちは、既に眠りについているだろう。

 彼も、もう寝た頃だろうな。

 種ヶ島はそう考えて肩を落とした。もうすぐ着く、と入力しかけていた手を止める。スマートフォンには、数時間前に出張先から送った「先に寝とってな」というメッセージが表示されている。

 ここ大阪で午後まで降り続いた大雨の影響で、東京からの帰りは予定より三時間ほど遅れた。なんとか今日のうちに着く新幹線には乗れたが、明日は薬局の早番であるはずの彼を待たせるのは忍びなかった。彼が返してくれた了解と労いの言葉を最後に、連絡は途切れている。

 通る車もほとんどなくなった静かな街はずれに、キャリーケースが歩道を削るがらごろという音がやけに大きく、耳障りだ。種ヶ島は冷たい夜風に肩を竦め、溜め息と共に夜空を仰いだ。大雨はどこへやら、腹が立つくらいに綺麗な月夜だ。本当なら、彼が迎えてくれる明るい家に帰れるはずだったのに。今ごろ晴れたって遅い。

 もう一度校舎の方を振り返れば、桜の木にはもうほとんど花が残っていなかった。二泊三日の出張に出発した日はまだ満開になったばかりであったはずなのに、大雨が花をすっかり落としてしまったらしい。歩道の縁石沿いに、泥に濡れてくしゃくしゃになった花びらが山になっている。

 明後日はこの時期には珍しく彼と休みが合ったから、桜が残っていたら、数年ぶりの花見に誘おうと思っていたのに。今年は――せめて今年くらいは、この街の桜をよく見ておきたかったのに。雨を恨む溜め息が再び出そうになったところを堪えて、種ヶ島は小学校の角を左に曲がった。

 古い喫茶店のシャッターを過ぎ、青白い蛍光灯が照らす月極駐車場を過ぎてしばらく歩いて行くと、夜だというのにぎらぎらと明るいコンビニが目に入る。よく世話になっている、自宅から一番近い店舗だ。種ヶ島は、いつもの癖で夕食の調達に向かおうとした足に、慌ててブレーキをかけた。危ない危ない、先月までとは違うのだった。だからこそ、この時間まで夕食を食べないまま帰って来たのだし。コンビニをきっちり通り過ぎ、もう一つ角を曲がって、種ヶ島はベーゼルナッツ色の小さなアパートの門を潜った。

 ふと見ると、夜には珍しく、湿った植え込みの縁で小鳥が二匹遊んでいる。番か兄弟か、二匹は種ヶ島の気配に気づくと、もつれあうようにしてどこかへ飛び去っていった。

 もうすぐ自宅のドアだというのに、体がずっしりと重みを増す。暗い家に帰るのは苦手だ。同じ家に彼がいるのに、まるでいないかのよう、というのがいけないらしい。彼はすぐ近くで眠っているのに、眠る彼の世界にはどうしたって入れてもらえない。幼い子供のようで笑えるが、まるで存在を無視されているような、忘れられているような感覚に陥って、それがどうしようもなく寂しさを増幅させるのだ。生活リズムが合わない日には仕方のないことで、朝になれば彼はちゃんとこっちを見て笑ってくれると分かってはいても、そういう夜は少しばかり堪える。

 

 なるべく音が立たないようそろりと鍵を回し、ドアを開けると、やっぱり廊下は暗かった。けれど、ぶくぶくと沈みかけた心は、ふと上げた視界に入ったものによってとどめられた。

 すぐそこの引き戸から、薄橙色の明かりと、薄綿のような蒸気が漏れている。その向こうに、換気扇が回る音と人の気配があった。ぴた、ぴた、と微かに聴こえるのは、彼が頬に化粧水をはたく時の音だ。彼はゆっくりと、丁寧に押し込むようにてのひらを使うから、丸くて、肌のやわさが分かるような音がする。三日前、出張に向かう日の朝にも、その前の晩にも、少し離れたところから聴こえていた音。もう目新しくもなんともないはずの微かな音に、なぜだか少し、泣きそうになった。

「ただいま」

 考えるより先に、口はその四文字を形作った。一拍置いて引き戸が開くと、暗い廊下に小さな昼が訪れる。

「修二さん!おかえんなさい。災難でしたね」

 脱衣所から廊下に溢れた光と、石鹸の香りの湯気と一緒に、白石がひょっこりと顔を出した。無造作に掻き上げただけの濡れ髪と白い額の下で、大きな瞳と緩やかな弧を描く眉が笑いかけている。春めいた暖色の声が廊下に響き、辺りをもう一つ明るくした。せっかくの綺麗な髪をタオルでがしがしと、容貌にそぐわぬ豪快さで掻き混ぜ始めたいつもの仕草に、胸をきゅっと摘ままれた気がして、それ以外の場所からはふわふわと力が抜ける。勝手にふやける口許に抵抗するのは、もうずっと前にやめてしまった。

 帰ってきたのだ――俺たちの家に。

「遅くまでお疲れさんです」

「ほんま疲れた。腹減ったし、あと寒いし、もう寝とると思ったし……」

「ああ、もう、濡れるっちゅうのに」

 腕を引いてほかほかの体に抱き着くと、塗りたての化粧水の香りを立たせた彼は小言みたいなことを言った。ふ、と思わず笑いが零れて、これみよがしにもっと深く抱き込んでやる。「やめえや」とまた苦情を申し立てる声に、もうひとつ笑う。蜂蜜のようにとろりと垂れる声で、両腕はふわふわの毛布みたいな手つきで背を抱いているくせに、口先ばかりで何を言われたって効きやしない。

 部屋着姿で首にタオルを引っ掛けた彼は、入浴を済ませたところだったらしい。夜風に冷えた肌に深く、じんわりと染み込んでいくような温度に体をすり寄せ、洗い上がりの清潔な香りと甘い湯気を胸いっぱいに吸い込む。凝り固まったものがほどかれていくような、細かな傷をそっと手当てされているような、彼に触れると不思議にもたらされるこの感覚は、何年も経っても褪せる兆しがない。

 ああ、このまま寝てまいそう、寝たらさすがに怒られるかなぁ。あんまり心地よくてそんなことを思いかけた瞬間、ぐううぅ、と目覚まし時計のような喧しさで腹が鳴った。目を丸くして顔を見合わせると、体を合わせていた白石が笑い出す。

「あはは!めっちゃ響いてきよった」

「空気読めへん腹やなぁ」

「肉じゃが作ったんではよ食べましょ。俺も腹ぺこや」

「肉じゃが!やった……って、え?」

 まだ食べてへんの?そう続ける前に、白石は口の端だけを上げたすまし顔で、ひらりと脱衣所に引っ込んだ。

「明日、急遽遅番になったんです。コンロの鍋あっためといて」

 鏡越しににっこりと微笑まれてしまえば、遅番とはいえこんな時間まで夕食を取らなかった理由を問うのも、ましてや礼を言うのも、途端に無粋になってしまった。返事を待たずにドライヤーの電源を入れた背中は、いたずらが成功した子どもみたいに得意げだ。どこの誰の影響だか知らないが、こちらをを翻弄して遊ぶ彼のいたずらな振る舞いは、年々上達している気がする。

「ちゃーい☆」

 種ヶ島はもう一度白石の背中に戯れついて返事をすると、お返しとばかりに湿った髪にキスを落とし、身を翻した。「こらっ」。脱衣所から追いかけて来たそんな声は、やっぱりとても甘くて、まんまるだった。

 

  ◆

 

 器の中からほくほく立ち上る湯気に、くたびれた体が歓喜している。「はぁ……」と上げずにいられなかった情けない恍惚の声を、炊飯器にしゃもじを突っ込んだ白石が笑った。

 キッチンの棚から適当に選んだ不愛想に白い楕円形の皿は、肉じゃがを盛っても顔色を変える様子はなく、つんとしたままだ。引き出物のカタログギフトで、使い勝手がよさそうだからと深く考えずに選んだものだったと思う。先月まではさほど出番もなかった新品同然の皿だが、かれこれ三年以上この家にいる。味のある焼き物の丸鉢にでも買い替えれば盛り付けにも恰好がつくのかもしれないが、あいにくこの家の主は二人とも食器に関心が薄い。このつれない皿もしばらくは現役だろう。

 皿の上には緑の彩りの類が一切見えず、今夜も極めてシンプルで潔い出来栄えだ。「家の肉じゃがにさやえんどうなんか無駄や」とは、数年前の白石の言である。特に唱えるほどの異論はなかったので、まあ、なくても美味いしなぁ、と頷いて以来、これが我が家の肉じゃがになった。

 皿も料理も、他人が見れば何と評するか知らないが、そんなことは全くどうだっていい。二人が良ければ、この家ではどんなものでも正解なのだ。

「蔵ノ介の箸ない」

「あ、水切りかごの中や」

「あったあった。ほい」

「どうも」

 準備の整った食卓を挟んで向かい合わせに座り、揃って手を合わせる。「いただきます」に合わせて、本日の夕飯当番である白石を拝むように両手を突き出すと、笑い混じりの「召し上がれ」が返って来るのは最近のお約束だ。 居間のシーリングライトを反射して飴色に照り映えているじゃがいもに早速箸を入れると、白い断面から熱そうな湯気を吐いて二つに割れた。顔が緩む。

 煮汁を吸って重たそうに皿に乗っている肉じゃがは、とにかく基本に則ろうとする癖が抜けない彼が、この生活を始めた頃に取り組んだ料理だ。白石に比べれば少しばかり多く料理を嗜んでいた種ヶ島は、もっと与しやすいメニューがあるのに、と何度か言いかけたし、それは「基本」というよりある種の「定番」ではないのか、とつっこみたい日もあったが、本人が殊更熱心に研究していたので、しばらくの間黙って見守った。

 その甲斐あってか、白石がフライパンで丁寧に拵える肉じゃがは、よく味が染みていて美味い。それなりに面倒な料理であることも今は分かっているだろうに、時折手ずから用意してくれるのは、彼の作るこれをいっとう気に入っていることを知られているからなのだろう。帰りが遅い日に限って食卓に並ぶ訳も、きっとそうだ。自分だって仕事の後で疲れているだろうに、今日もキッチンでひとりせっせと手を動かしてくれたのだと思うと、ますます美味さが増す。喜ぶ顔を想像してくれたのだろう。少しでも疲れを癒せたらと考えてくれたのだろう。甘く煮えたじゃがいもを奥歯でそっと噛み崩すと、口は成す術もなくふにゃりと綻んでしまった。

 続いて、にんじんを箸で拾い上げ、種ヶ島はこっそり笑った。真ん中から一度箸で切り分けたのに、まだ一口サイズより一回り余計なくらいだ。

 主役のじゃがいもに迫らんばかりの雄々しさで乱切りにされた赤いにんじんは彼の肉じゃがのトレードマークで、種ヶ島のお気に入りだった。白石の――彼に限っては「顔に似合わず」と言ってしまっても差し支えないだろう――存外男っぽく、細かいことに頓着しないある種の清々しさの表れには、奇妙に心をくすぐられる。食卓で大きな口を開けて箸先を迎え入れ、頬袋を作って幸せそうに食べるところを盗み見るのをやめられないのもそのせいだ。

「ああ、美味い。五臓六腑に染み渡るわぁ」

「ええっ、それちょっとおっさんくさいんちゃいます?」

「ぼちぼちほんまのおっさんちゃいます?」

「あと三年は二十五って言い張れそうですけどね、修二さん」

「そらさすがに贔屓目ちゃうか……」

 深夜に近づく食卓に他愛のない会話と笑い声が転がり、ようやく今日が終わっていく。一緒に食事を取れない日もあるけれど、やっぱりこの時間はいい。こういう時をできるだけ多く過ごしたかったことが、この暮らしを始めた大きな理由でもあったのだし。種ヶ島はほっくり煮えたじゃがいもをもう一つ味わいながら、そっと笑みを深めた。

 

 次いで、居住まいを正して箸に取ったのは、一口分の豚肉だ。黄金色の玉ねぎもたっぷり摘まみ、滴る煮汁を器の縁で落として眼前に掲げると、知らず、ごくりと大きく喉が鳴った。えい、と一思いに口に運び、追いかけるように白飯を頬張る……すると、「美味い」なんて言葉では形容しきれない、未知の感動が湧き上がってきた。

 震える。涙さえ出そうだ。長年の友だったのだ、離れるなんて考えたこともなかった、会いたかった、感動の再会というやつだ!種ヶ島は思わずがちゃんと箸を置いて天を仰いだ。正面では、やはり肉を口にしたらしい白石が箸を握り締めて悩ましげに俯き、じっくりと味わうように口を動かしている。

「豚肉、豚肉や!久しぶりに食うた……!」

「最近鶏ばっかでしたもんね。さすがに飢えるわ……」

「安い肉選ぶと鶏になってまうんよな……豚さん美味い……」

 種ヶ島は懐かしささえ感じる味をしみじみと噛み締めた。先月半ばを最後に食べていなかったはずだから、ほどんと三週間ぶりだ。美味すぎる。豚肉ってこんなに美味かったのか。二人揃って豚肉との感動の再会に打ち震え、しばらく経ってようやく箸が動き始めた。もう一口肉を頬張る。ああ、なんて美味いんだ。

「今日、豚肉のタイムセール間に合うたんです」

「ええ!ほんまかいな」

「奇跡的に定時で仕事上がれて、急いで行ったら残ってました。買えるだけ買ったら冷凍庫パンパンなってもうた」

「ほなしばらく豚肉食えるやん!おおきに!」

 感激で今度こそ泣きそうになったのを、種ヶ島はぎりぎりのところで堪えた。

 我が家は、目下節約生活中である。事の発端は先月。交代でつけている家計簿と水色の通帳を広げた白石が、目の中に炎を燃やして言ったのだ。

 

『修二さん、これ見て』

『うん?』

『家賃込みのここ一年の出費です。今のやり方のままやと、毎月の収支はこうで、貯金額の推移がこれ。まずいと思いませんか』

『……まずいっちゅうか……どう考えても今のままいったらアウトやな』

『そう、アウトです。せやから修二さん、明日から頑張って節約しましょ!』

 

 白石の提案はこうだ。ひとまずまとまった貯金額の確保のため、今年のボーナスには双方手を付けずに共同口座へ入れる。それぞれが自由にできるこづかいに当たる部分は毎月三割ずつカット。そして、大幅な食費の削減――具体的には、忙しさにかまけてほぼ頼りきりになっていた出前や外食、コンビニ飯、総菜、ペットボトル飲料の原則禁止。

 完璧に弾き出された数字に狂いはなかったし、通帳の数字が示す問題の大きさを考慮すれば決してやりすぎとは言えない内容だったが、さすがに一度は後退った。

 

『これから毎日自炊ってこと?昼飯は?』

『昼飯も。多少バランス取れた食事となると、当番決めて弁当作るしかないですね』

『今更しんどいんちゃうか……』

『そら俺かて面倒臭くてたまりませんけど、明らかに食費が家計圧迫してますし、やれたら毎月四、五万浮くと思うんです』

『うーん、確かになぁ。こづかいカット分とかと合わせると?』

『こうなります』

『……。……他に削れるとこも見当たらんな。しゃあない、やろか!』

 

 そうして始まった自炊生活は、三週目に入った。学生だった頃はそれなりに自炊をしていたはずなのに、長い間食事を買うことに慣れてしまった体は、なかなか順応してくれない。作り置きや冷凍を駆使して手間を極力減らし、「蔵ノ介も頑張っているのだから」と言い聞かせ、なんとか踏みとどまっているような状況であった。白石も似たようなものだろう。

 明日は夕飯当番だ。冷蔵庫の中身を確認して、足りなければ特売の情報収集をしなければならない。最寄りのスーパーが最安値ならいいが、場合によっては少し遠いスーパーまで行く必要があるかもしれない。これをまだまだ長く続けていかなくてはいけないのだと思うと、二人の生活のためとはいえ気が遠くなるようで、種ヶ島は一旦思考を切った。

 すると、白石が躊躇いがちに口を開いた。

「あの……修二さん?」

「んー?」

 しっかり味のついた白滝をむぐむぐと咀嚼しながら顔を上げると、白石はこちらを窺うようにしながら、やや早口で続けた。

「さっきタイムセールに躍起になってて、ちょっと冷静になってもうたっちゅうか……、食材の値段とかはそこまで拘らへんでもええと思いませんか。明らかに高いもんだけ避けて、安いのが目についたら優先するようにだけすれば。安い食材選ぶと同じもんばっかになってまうし、あちこち安売り回るのも、仕事しながらやと正直……」

 尻すぼみにそこまで話した白石は、少し消沈した様子だ。最後にぽつりと付け加えた。

「俺が言い出したのに、一か月も持たんで音上げるん情けないんですけど」

 種ヶ島はぷっと笑って箸を置き、しょんぼりしている頭を食卓越しにわしわしと撫でた。複雑そうに波打つ眉がぴくりと上がり、大きな目がこちらを見る。

「俺も賛成して一緒に始めたことやろ。あの時、お前の方が電卓叩き始めるのが早かっただけ。付き合わせてるみたいに思っとるんなら、それはちゃうで」

「……はい」

「ん。今の話、俺もその方がええと思うわ。自炊自体まだ慣れへんし、安い食材にまで拘る余裕、正直あらへんな。鶏ばっかももう勘弁や。続かへんのが一番あかんし、楽しゅう暮らしたいしな。そこは拘らんことにしよか」

「はい。外食と買い食いやめるだけでもだいぶ削れるはずやし」

「そやな。やれる範囲でひと月自炊頑張ってみて、どんだけ削れたか計算してみよ。それで足りてへんかったら追加で作戦考える。な」

 翳りがちだった瞳がぱちりと瞬いて頷き、ほっとしたようにはにかんだ。その顔がかわいくてなおも頭を撫でてやると、白石はくすぐったそうに肩を竦めて笑い、それから徐に席を立ってテーブルを回り込んで来た。

「お、なんやなんや」

「ありがとう、修二さん」

 隣までやって来ると、白石はそう言って種ヶ島を胸に抱きしめた。さっきより少しだけ白石自身の肌の香りが強くなった胸に顔を埋めて、種ヶ島は笑った。

「礼もおかしいで。二人の問題なんやし」

「そうやけど。そんでもやっぱり嬉しいから」

「さよか。ほな勘弁したろかぁ」

 ぐりぐりと胸に額を押し付けると、甘い笑い声がころころ零れた。やさしい指先が愛おしそうに髪を梳いている。腕の中から見上げれば、背に照明を受けた白石が、花のように微笑んでこちらを見下ろしていた。繋がった視線に呼応するように瞼が緩み、その奥に嵌め込まれた琥珀色の瞳が、誰より深く心に触れて包み込む。白石の作った淡い影の中でそれを眺め、種ヶ島はゆっくりと一つ瞬きをした。

「がんばろな」

 いつまでも、この瞳の中で生きていきたいから。

 

「ああ!忘れとった!」

白石が急に、リビングに響き渡る大声を上げた。ゆるやかに流れていた時間を前触れもなく千切られて、思わず肩が大きく跳ねる。

「……っどないしてん、脅かさんといてやぁ」

「ええもんあるんです!待っとって」

 縮み上がった心臓を宥めながら顔をしかめると、白石は気にする素振りもなく、と言うより文句が耳に入っていない様子で、一目散に自室へ入っていった。少ししてドアが開く。すぐに出て来ないので覗き込んでみると、暗い部屋の中から両手に何かを抱えた白石が現れた。

「ほら!」

 ずい、と差し出すのと同時、白石の周りをきらきらと何かが舞ったので、種ヶ島は目を瞬かせた。見ると、雪洞(ぼんぼり)のような花を所々につけた桜の枝が、天井に向かって伸びていた。白石が抱えている大きなガラス製の花瓶に、立派な枝が三本ばかり生けられているのだった。

「桜、咲いた途端に雨で流れてもうたでしょ。ちょっとでも気分味わおう思て」

 そこの八百屋で見つけたんです。おっちゃんがまけてくれて、一本八十円!ええでしょ!そう言って桜の向こうで笑う顔は、まるであの子どもたちみたいだ。たじろいでしまうような汚れのなさで、いとも簡単にしあわせを落としては、心に光を当てる。彼はそのことを分かっているのか、いないのか。

「ええなぁ、めっちゃ綺麗」

「ほんまですね。花もまだまだついてるし」

「……なぁ、明後日休みやんか。花見しよ、これで」

「ええですね、それ。たこ焼きは任せといてください」

「あら?そこは団子とかとちゃうん?」

 ささやかでのんびりした花見に誘ったつもりが、そうでもなくなりそうだ。目を爛々と輝かせる白石を見て、まぁ、そっちの方がおもろそうやなぁ、と種ヶ島も笑った。

 この街の桜を一緒に見られなかったのは残念だけれど、きっとまたいつか、二人で見られる日も来る。繋いだ心さえ離さずにいれば、何度だって。今年のところは、彼が運んできてくれた春を、二人で楽しむことにしよう。

 枝先の花をそっとつついてみると、絹のように細やかな表面が肌に吸い付く。たっぷりと水を含み、生命に満ちて白く輝いている。

 種ヶ島は、鏡のような目にそれを映して笑う白石の頬に、同じ指先でそっと触れた。ひらひらと二人の間を花びらが舞い落ちる。白石の滑らかな髪に、肩に落ちかかる花びらは、まるで懐くようにその輪郭を撫でて落ちて行く。触れた頬を軽く引き、桜の枝をくぐるように顔を傾けると、こっちを見た白石がそっと目を閉じた。唇が触れようとする刹那、伏せられた瞼と同じ色のかけらが一つ、長い睫毛の上を流れるように滑り、揺らし、舞い落ちて行った。白く光っていて、しっとりと柔らかくて、ちょっぴりいたずらで――春に舞うその花びらは、やっぱり彼によく似ていた。

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