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​五月 きらきらレモンスカッシュ

 滲み始めた汗を澄んだ風が冷ましていく。その風がふと、あの頃吹かれた風であるような気がした。体に絡みつくそれに身を委ね、白石は今日も大きく胸を膨らませると、両腕をまぶしい空へと伸ばした。小鳥が二羽、光の中で戯れている。

 叶うならいつまでも身を浸していたい。

 この青い風に。

 

  ◆◆

 

 伸ばした腕の先を見上げていると、目は数秒も持たずに眩さに負けてしまった。空はこんなに明るかっただろうか。仕事で朝から晩まで屋内にいることが多くなった体は時々、空の眩しさも、広さも忘れ果てているらしい。ここへ来ると、いつもそれに気づかされる。白石は苦笑しつつ、眩んだ目をしばしばと瞬かせた。

「おーい、はよ続きー!」

 ネットの向こう側から、弾む声が催促した。ラケットを右手に、左手は怠そうに腰に当てて待ちくたびれているらしい種ヶ島は、今でもコートがよく似合う。

「はーい」

 木立が気持ちよさそうに風にさざめく中、ぱんっ、と小気味良い音と手応えを残してボールが飛んでいく。青い空を背負ってボールを追う種ヶ島は、あの頃と同じ少年のような顔だ。波打つ長めの銀髪が、真昼の太陽を受けてきらきらと流れる。何年経っても、眩しくてしょうがない。白石は目を眇めて笑い、戻って来たボールを追った。

 家から自転車を二十分ほど走らせたところにあるこの市営コートを見つけたのは、この街で暮らし始めて半年ほど経った頃だったろうか。全部で三面の小規模な屋外コートで、週末は利用予約をほとんど勝ち取れず、駐車場がないという難点はあったが、手入れの行き届いたハードコートを二人揃って気に入った。以来、空きさえあれば一番にここを選び、自転車を漕いで訪れるようになっていた。利用者の競争率の高い昼間にこのコートを使えるのは、今年初めてだ。今日は珍しく、平日の休暇が二人重なった。

 

 低い弧を描いて飛んで来たボールを打ち返す。その先で、流れるように軸を定めた長い脚が開き、力感のないスイングがボールを捉えた。すぱんっ。緩やかなラリーでも抜けるように響く打球音は、彼のテニスの一つの象徴だ。――美しい。種ヶ島のテニスを、白石は掛け値なしにそう思う。

 彼のテニスの核となるものがどうやって形作られたのか、敢えて尋ねたことはない。出会ったばかりの頃は気になったものだが、こうして打ち合うようになってすぐ、手に取るように分かったからだ。

 几帳面とさえ表現したくなるような、回転軸の細い丁寧なスピンのかかったボールが戻って来る。迫ると思わずどきりと胸が竦むような、しなやかに伸びる上品な打球。彼の必殺技を実現している目と手首の才は、あれらの技を放つときにばかり使われているのではなかったのだと気付くのに、時間はかからなかった。

 どんな打球にも手元を合わせ、最もスムーズなやり方で、最も自然な形にして打ち返す。種ヶ島はウォームアップを兼ねた打ち合いの時、全ての打球に対して、まるで手懐けるようにそれを行っているのだった。おそらく、意図的な鍛錬としてやっているのではない。リラックスしたラリーでも一球一球に目を輝かせる彼は、打球の個性を見極め、それぞれにふさわしい対処を施し、理想的な形に導くその作業が、ただ楽しくてたまらないのだろう。種ヶ島のラケットから放たれるボールは一球残らず、まるでこれが本来の姿だとでも言うように、嬉しそうに空を飛んでいく。きっと、それが彼にとっての根源的なテニスの楽しさで、鋭いショットも、いくつかの必殺技も、すべてはこの美しいラリーの延長線上にあるのだ。

 愛情深く、繊細で優しい、この人らしいテニスだ。白石は、もう何度目かも分からないことを思い、微かに口の端を上げた。すると、

「うわっ」

 一瞬の隙を揶揄うように、種ヶ島のスイングスピードが加速した。突然上がった球速に体勢を整えきれないままの返球を余儀なくされると、今度は今までよりも二歩分ほど手前にボールが落とされる。なぁなぁ、もっと遊ぼうや。ボールからそんな声が聴こえるようだ。思わず笑い出しながら、なんとか返球する。

「まったく、よう飽きませんね」

「なんてー?」

「仕事もテニスやのに……、飽きませんか!」

 お返しとばかり、戻って来たボールをバックハンドからネットすれすれのスライスショットでコーナーへ打ち返し、パッシングを狙ってやった。しかし、すぐさま赤いウェアが視界に飛び込んでくる。しまった、と思ったが、もう遅い。

「いただき☆」

 長い手足がひらりと舞った。種ヶ島のラケットの中で、打球が当て身でも喰らったようにかくりと生気を失い、力なく白石のコートに落ちる。

「コーチじゃこういうんはできへんやろ」

 切れ味の衰えない「已滅無」を放った種ヶ島は、飄々と笑って片目を瞑った。その目に明らかな挑発の色を見つけ、白石は表情を変えないようにやれやれと頭を振った。尤も、大した抵抗にはなっていないだろう。今やこの世の誰よりも深く俺を知る人の、あのよく見える両目の前では。

 魂を抜かれてネット際に転がったボールをラケットで拾い上げると、腹の中はじわじわと熱くなり、興奮に上がっていく呼吸と口角を抑えるのも面倒になった。瞼の裏に残る華麗な技と、相手のコートを捉えることなく潰えた打球の残像が燃える炎を大きくし、対比するように、頭は奇妙に冷たくなっていく。

 見てろ、絶対に負かしてやる。

 コートでしか出会えない、驚くほど獰猛で鋭利な自分が姿を現し、命じられるまま心と体を明け渡すこの瞬間が好きだ。テニスに出会った頃からずっと。

「ほなやりましょか。今日もきっちり勝たせてもらうわ!」

 高らかに宣言すると、種ヶ島は目を猫のようにすぅっと細め、満足そうに笑む。それから、急にわざとらしく両手を上げて見せた。

「おお、怖い怖い。情けないとこ見せへんようせいぜい気張ろかぁ」

 踵を返した背中に、白石は半ば呆れて嘆息した。戯れ言とはいえ、一体どの口が言っているのか。

 二人とも現役を退いて久しく、テニス選手のピークと言われる年齢も越えた。薬剤師としての勤務の合間に病院敷地内のコートでラケットを握る白石に対し、コーチとはいえテニスを生業にしている種ヶ島であるから、その点ではあちらにアドバンテージがあるのだが、それを差し引いても、種ヶ島は白石より更に三年もピークから遠ざかっているはずの体で、今も恐ろしいほどに強かった。一時は五分五分であった勝率も、近頃は押し負け始めている。

 白石は先月、冬の間に積んだ極秘トレーニングの成果をフル活用し、その強い種ヶ島から貴重な一勝をもぎ取ることに成功した。その日の種ヶ島はと言えば、帰る道々「ひどい」「あんまりや」「俺に隠し事するなんて」「なんや尻の感触変わったような気しとったんや」などと不満を述べていたが、努力に加えてなんらかの策を弄さなければ、彼に勝つのは難しいのだ。

 その時、ネットの向こうの後ろ姿がラケットをコートに置くのが見え、白石はベースラインへと引き返しかけていた足を止めた。

 俄かに強い風が吹き、コートを囲む木々がざわめく。背を向けた種ヶ島が、悠然たる所作でジャージのファスナーを半ばまで下ろし、左腕を袖から引き抜いた。鍛え上げられた小麦色の腕が日に晒されて燦爛と照り、芯を失った袖がゆらりと背中に落ちて、彼を在りし日の姿へといざなう。

 きれい、やなぁ。

 白石は唇だけで呟いた。種ヶ島がヴェールを脱ぐように片袖を抜く、かつて心奪われたその神々しい数秒が、今もまだこの世にある。彼の命が一際強い光を放っていた頃の、あの灼けるような眩さの片鱗を見ることができる。出会い、戦いを共にした日々から長い歳月が過ぎた今、それは白石にとって最も尊く、かけがえのないことのうちのひとつだった。

 

  ◆

 

 決められたキレのいいドロップショットを見送り、白石は額から流れる汗をリストバンドで拭った。

「4―4(フォーゲームス・オール)!」

 素早く呼吸を整え、いつもと全く同じ声を作ってコールする。疲労の度合いを悟られればこちらが不利になるだけだ。ほんの僅かな声色の違いであっても見逃してくれるような相手ではない。

 双方手堅くサービスキープを続け、ワンセットマッチは終盤戦に入った。

 お互いの手の内を知り尽くしているだけに予測のレベルは高まり、ウィニングショット級の打球がことごとく決まらず、いつものことながらラリーは長期化傾向だ。サービスゲームを取るのも楽ではない。しかし、ここまでは予想の範囲内だ。次はこちらのサービスゲーム。必ず守りきって、その次のゲームでブレイクを狙う。

 前回は、極秘トレーニングでスピードとスタミナの地力を上げ、その成果を終盤まで隠しておくことで、種ヶ島に辛くも勝利した。白石の各能力値を極めて正確に把握しており、それを前提に戦略を立ててくる種ヶ島だからこそ出し抜けた部分もある。前回の種ヶ島のペース配分は、白石が温存していた終盤のスピードとスタミナを抑え込むには、僅かに足りなかった。

 しかし、もう同じ手は使えない。今回の種ヶ島は、前回よりもずっと慎重に、不測の事態に見舞われても対処できるだけの力を残している様子だ。その上、こちらがスピードに特化して振り切りたい局面が訪れると、必ず重いフラットショットを打ち込み、理想的な体勢での返球を封じることで、スピードテニスに転じる隙を潰してくる。相変わらずの化け物じみた洞察力と周到さに舌を巻く。

 だが、重さの乗ったショットは、向こうもしっかりとしたフォームが作れなければ打てない。フルスピードを解放し、ライジングも織り交ぜた速い返球で振り回せば、打球の威力は十分に削げる可能性がある。

 白石は次のゲームへの展望を描きつつ、空高くトスを上げた。まずはこのサービスゲームをキープすることが絶対条件。左腕を振り抜き、白石は主導権を手繰り寄せるサーブを放った。種ヶ島が小さなスプリットステップから美しいフォアハンドでリターンする。コースは難しくない。できる限り角度をつけた返球で横に走らせようと、白石は完璧なスイングでボールを捉えた――はずだった。

「アウト!0―15(ラブ・フィフティーン)!」

 ボールを捉えたラケットはぐらりと傾いで、打球は種ヶ島のコートのベースラインを大きく越えて弾んだ。コールした種ヶ島の声から感情は読めない。こちらもポーカーフェイスを保って次のサーブに向かうが、左手に残る打球の感触から、ざわざわと嫌な予感が湧き上がっていた。

 なんだ、さっきのずっしりと重いリターンは?ただ重い打球なら今日のゲームの中でもいくつもあった。問題は、今のリターンは彼の放つ打球としては度を越えて重たかったことだ。一つ最悪の可能性が頭を過るが、ひとまず考えないことにする。サーブを打つこちらのアドバンテージは揺るがない。真正面で捉えた強いリターンはそう打てるものではない。仮に最悪の可能性が現実であったとしても、再び今のようなパワーでリターンを行うことは困難なはずだ。

 自分に言い聞かせるように次のサーブを放ち、返球に入る種ヶ島の姿を認めた瞬間、白石は瞠目した。ボールは既に横を通り抜け、白石の背後を転々としていた。完璧なリターンエース。ガッツポーズを作るでもなく、淡々と次のリターンポジションへ歩いている種ヶ島を睨み、白石は口角を上げた。やってくれる。こういうところはいつまで経っても敵う気がしない。

 彼はこのゲームを勝負所と見たらしい。リターンエースを狙い、最も返球しやすい体勢でレシーブを行うために、サーブのコースに明らかにヤマを張っていた。それも、タイミングが僅かに予測を外れればまともな返球が不可能になるほどの大ヤマだ。最初のリターンの時も、そうして正面に打球を呼び込んでパワーショットを放ったのだろう。

 プレッシャーのかかる局面で開き直れること。それは、昔から彼の大きな武器だ。決して勝負に投げやりになるのではなく、一か八かの賭けに出るべきところで迷わず出ることができる。勝負の行方を賽の目と自らのツキに託してしまえる。そういう潔い勇気が、この人にはある。

 そしてこのゲーム三度目の種ヶ島のリターンエースが決まったとき、白石の悪い予想が的中していたことが決定的になった。続けて大ヤマを当てた抜群のリターンポジションから放たれた打球に、咄嗟に腕を伸ばした白石のラケットが弾かれた。乾いた音を立てて落ちたラケットを拾わされながら、確信する。――間違いない。これは前回までの彼のパワーではない。

 このゲーム、運は完全に種ヶ島に味方した。あるいは、白石のテニスもひととなりも熟知していることが、彼の勘の精度を高めたかもしれない。最後にもう一度大博打をものにし、真正面から渾身のパワーでリターンを叩き込んだ種ヶ島が、とうとうブレイクを勝ち取った。

 

  ◆

 

「ひどい」

「うんうん」

「あんまりや」

「さよかぁ」

「なんや最近胸でかなったような気しとったんや」

「えっ、俺の胸そんなに見とるん?照れるわぁ」

 明らかに上機嫌な種ヶ島が、両手で自分の肩を抱いて器用にしなを作った。「危ない」。ぴしゃりと言うと、「ハイ」と大人しくハンドルを握り直したが、顔はにこにこ笑ったままだ。花が飛んで来そうな種ヶ島の顔を横目に見ると、自転車のペダルを漕ぐ足に勝手に力が入ってしまう。ああ、悔しい!

 最終ゲームとなった第十ゲーム、最大までスピードに特化してブレイクバックを狙った白石の目論見は崩れた。サーブからして返球に難儀するパワーは、スピードで掻き回す余地をすっかり奪って行ってしまった。あのパワーは、やはりこれまでの彼の打球には有り得なかった出力で、彼の肉体そのものに一定の変化があったとしか思えない。ちょっとした意趣返しも含んでいただろう。種ヶ島は、前回白石がやったのと全く同じことをやり返したのだ。つまり、密かに鍛えていたパワーを、終盤の勝負所まで隠しておく、ということを。

 ゲームセットの後、汗だくの体をコートに放り出して「絶対コソ練しとったやん!」と抗議しても、「なんのことやら」と口笛を吹かれてしまったけれど。

「はよ帰りますよ!帰って筋トレや!走り込みや!来週からコート練も再開やー!」

「病院のコートかぁ?足の速いオシタリは先月からほんまの医者先生なんやろ。ほどほどにしといたりや」

 大きな川の堤防上に伸びるサイクリングロードで、回る車輪が速度を上げる。緩やかに吹く追い風に乗って、後ろからけらけらと笑う種ヶ島の声が追いかけて来る。心地よい風に包まれ、白石はふ、と微笑んだ。

 穏やかな川面が風に吹かれ、緩い波が白い光の帯を幾筋も川下へ運んでいく。風の中、ふと見知った香りを見つけた気がして、白石はくんと鼻を鳴らした。汗をかいた後の背中を押す初夏の風が連れて来たのは、ひどく懐かしい匂いだ。前向きで、土と草の気配がする――そうだ、緑が豊かだったあの国だ。かつて種ヶ島と過ごした選手タウンにも、こんな静かで大きな川が流れていた。日本の夏より少し涼しい、からっと乾いた薫風が、心地よく疲れた体と煌々と燃える心とを毎日包んでいた。

 昔馴染みの風に火照った体を冷まされて、白石は青い空を仰いだ。まだ微かに湿った前髪を、風が後ろへ吹き流していく。……楽しい。テニスをすれば、今でも、結局最後にはそう思わされる。そしてその気持ちの中に、コートで蘇る闘志の中に、果てしない青空に吸われていく心の中に、今は遠いあの頃の自分の面影が見つかるのだ。

 だから、なのだろうか。いくつかの区切りを経て大人になった今でも、テニスを手放せずにいるのは。

「ノスケやーい」

 呼ばれて振り返ると、種ヶ島の自転車が滑るように追い付いて横に並んだ。淀みかけていた心を明るい声と笑顔が晴らしていくのを感じ、白石は遠い既視感に苦笑を浮かべる。

「どしたん?」

 輝く川面を背に首を傾げる円い目と意志の強そうな眉は、ダブルスに誘ってくれたあの時と同じよう、気楽な表情の中からひたとこちらを見つめている。ほんのひととき物思いに耽った気配を、また目敏く見つけたのだろう。敵わんなぁ、と白石は内心ひとりごちて笑い、答える。

「テニス、楽しいなぁ思て」

 今やっていることはごっこ遊びなのかもしれない、と時々思う。

 過ぎ去った最良の日々の未練がましい真似事、とっくに終わった輝かしい季節がまだ続いているふり、そんな滑稽なものなのかもしれないと。愛しているのはテニスではなく、過去なのかもしれないと。

 けれど、そうだとしても構わない。

「そやな」

 心の深くへと笑いかけ、そう言ってくれる人がいる。淡くなった面影に、片鱗に、もう触れられないかもしれなくても手を伸ばし続ける。そんな行為を繰り返さずにはいられないほどに美しい過去が存在すること。そのことをよく知る双眸が、優しく緩み、頷いてくれるのだから。

 

  ◆

 

「もう洗濯するもんありませんか」

「ん、ない」

「タオル入れました?」

「ああ!ラケバん中や!」

「はーい回しますよー」

「ちょお待ってぇ!」

 シャワーを終えたばかりの種ヶ島ががらりと脱衣所の扉を開け、上半身裸のまま廊下へ飛んで行った。ピ、ピ、と聞こえよがしに洗濯機を操作し、蓋に手をかけたところで、横から滑り込むようにタオルが放り込まれる。セーフ!と笑って蓋を閉めると、汗を吸った二人分のウェアとタオルが回り始めた。

 

 ダイニングを横切って、ベランダへ続く大窓を開ける。既に西へ傾いている黄味がかった陽光と共に、さっきと同じ風が吹き込んできて、白石は満足して微笑んだ。夕食までの間テレビでもつけてみようかと思案していると、キッチンから種ヶ島が呼びかけた。

「蔵ノ介、これ開けよ!」

 冷蔵庫の前に立った彼が、じゃーん!と効果音つきで掲げたそれは、ちゃぽん、と通りのいい音を響かせた。留め金付きの密封瓶の中に入っているのは、とろりとした透明な液体と、その中に浸かった輪切りのレモンだ。

 種ヶ島が三つ入りの特売のレモンを買い物かごに入れたのは、二週間ほど前のことだったろうか。「テレビで見たやつやってみたいねん。買ってもええ?」食費削減のために二人で自炊を続けていることを考慮したのだろうが、許可を請う言葉が子どもみたいで、思わず笑ってしまったっけ。スライスされたレモンと砂糖を交互に重ねただけの瓶を見たときは、少しも美味しそうに見えずに首を捻ったけれど、種ヶ島は「これでシロップができんねん!」と目をきらきらさせていた。

 白石はふとスマートフォンを取り出し、通帳アプリを起動してみた。節約のために自炊を初めて約二か月。それぞれの努力の甲斐あって、残高の推移は上々だ。

 ソファ前のローテーブルに、炭酸水の二リットルボトルと保存瓶がどんと置かれる。種ヶ島は氷の入ったグラスを持って隣に腰を下ろすと、保存瓶を取り上げ、窓から差す光に翳した。一緒に覗き込んでみると、ガラスの向こうには別世界があった。

「すご……めっちゃきれい」

 種ヶ島が静かに囁く。白石は思わず息を潜めて頷いた。水晶が融解したようなシロップは、ところどころに蜃気楼じみた透明な揺らぎを湛え、淡い陽光をあちこちへ屈折させて遊んでいる。不思議なことに、その中に浮かぶレモンの果肉までもが宝石のように透き通り、金色に輝きながら揺蕩っているのだった。花の形に似た断面がシロップの中をいくつも漂い、ゆったりと動く水万華鏡を覗き込んでいるような、幻想的な景色を生み出していた。

 ふと隣を見ると、夢中になって瓶を覗く種ヶ島の目も金色の煌めきを映し、小さな万華鏡のように輝いていた。思わずくすりと笑みが零れ、振り向いた双眸になんでもないと首を振る。種ヶ島は「すごいな!」と笑いかけてレードルを手に取った。きれいなもの、ときめくものに素直に目を輝かせることができるのは、この人の変わらない美徳のひとつだ。

 

「っうまー!」

「あー……これは絶頂(エクスタシー)や」

「お!それ久々に聞いたわ」

 運動後の体にしゅわしゅわと染みわたっていくレモンスカッシュは、極上の味だった。シロップにはしっかり酸味が溶け込んで、レモンと砂糖が一つになっている。炭酸水で割った味わいは爽やかで、いくらでも飲むことができそうなくらいだ。水分に飢えた体も相俟って、二人とも早々に一杯目を飲み干すと、種ヶ島が楽しそうに二杯目をこしらえ始める。節約のためペットボトル飲料も禁止している今、貴重な甘いドリンクだ。

 レモンスカッシュを飲んでは恍惚のため息をつくうち、気付くと、ついさっきまで賑やかだった種ヶ島が、隣でうつらうつらと舟をこいでいた。大きくこちらへ傾いた頭がこつんと肩にぶつかると、「へぁっ」というおかしな声と共に目を開けたので笑ってしまう。そのまま微睡むことにしたらしい種ヶ島は、白石の右肩に頭を預け直して目を閉じた。

「よかったなぁ」

「よかった?」

「にがくならんくて。レモン、めっちゃにがくなってまうのもあるんやて」

「そうなんや。ほな、ええの買うたんですね」

「うん」  

 目を瞑ったまま、種ヶ島はゆっくりと舌足らずに話し始めた。あどけなく紡がれる言葉がかわいくて、返す声が知らず甘さを帯びる。膝の上で何かを探すように動いた左手にそっと指を絡めると、普段は精悍な口許が子供のように柔らかく微笑んだ。

「たのしかった、なぁ」

「ん?」

「たの……かった……、てにす……きょう、も……」

 それきり、たどたどしい言葉はすぅすぅという寝息に変わった。肩を揺らさないように覗き込めば、寝顔は幼子のようにいとけなく映った。白石は目を細めてしばし眺め、ふわふわの巻き毛にそっと頬を寄せた。

 白石は、テレビの横の壁面収納の一角へ目を向けた。やまぶき色の西日を弾き、じっと沈黙して佇んでいるのは、二つのメダルだ。約十年前のオーストラリアで、今カーテンを揺らすこの風と似た風の中で手を伸べ、掴んだものの証。白石を今なお捕らえ、おそらく一生放してはくれない、強烈に輝く過去のひとつ。

 コートでこの心を躍らせるのは、今追いかけているボールなのか、かつて追いかけたボールなのか。今となってはもう分からない。テニスと、その上に積み重なってきた数々の出来事とは、ちょうどこのレモンと砂糖のように溶け合い、とうに一つになって、今更分解することなどできはしないのだ。テニスをすれば、今と一緒に、無数の眩しい過去がひとりでに体を駆け巡り、熱を上げる。

 よかったなぁ、にがくならんくて。

 眠たそうな声が蘇る。本当に、それが何よりの幸いだ。辛いことも、苦しいことも、数えきれないほどあった。それらを忘れたわけではないけれど、そんな出来事もひっくるめた全てでできあがっているテニスを、今も確かに愛している。

 この人も同じだ。白石はぴたりとくっついた体温に擦り寄り、繋いだ手を握り直して目を閉じた。今は胸の中でだけ輝く二度と戻らない日々が、同じ眩しさで、切ないほどの光を放って、彼の胸の中にもある。片袖を靡かせてコートを駆ける時、今も心に蘇らせているだろう。二人一緒にいれば、いつかあの日々の片鱗を再び掴むことも、人生が終わるそのときまで息づいたまま抱いて行くことだって、きっとできる。

 肩から滲む体温に優しく引かれるように、眠りに落ちていく。テレビはつけずじまいのリビングは穏やかに静まり返り、遠くで洗濯機が回る音と、種ヶ島の寝息がささやかな音楽を奏でていた。

あの風が吹いている。窓から差し込んだ西日を透かすまぶたの裏は、淡い金色だ。瓶に密封されたレモンシロップの色にも、あのメダルの色にも似た光が、きらきら、さらさら、今も世界を満たしている。

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