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桔梗

  • ふく
  • 1月4日
  • 読了時間: 5分

 仮題:「北ウイング」(古い)



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 ——この会社に勤めあげたいと思ってますんで。

 コピー機の音越しに聞こえたそんな言葉を、なぜだかよく覚えている。娘がまだ中学に上がる前であったと思う。緩く時間が流れる田舎の支社は、期間雇用で転々としてきた職場の中でもあたたかいところだった。事務室の端で、のほほんとした課長と束の間の世間話をしていたらしい彼は、いつもの「おはようございます」と同じくらい何気なく、そう口にしたのだった。

 私にはおいそれとは選べないその言葉とまっすぐな言い方が、なんだかとても、いいと思った。


 

 

 暑い。声に出さずひとりごち、私は緩んでいたマフラーを外してから横断歩道を渡った。冬の終わりはまだ遠いけれど、どうやら今日はとても暖かいようだ。

 本社のあるこの大きな街に来るのは数年ぶりだ。自宅から電車で一本なのに、娘が独り立ちしてからめっきり出不精になった。今日の研修も駅前の本社でやればいいのに、会場は本社ではなかったので、郊外の別施設へナビを頼りに歩かなければならなかった。運動不足の体には少々骨だが、タクシーにお金を使うのも癪だ。

 そんな道中の退屈と、この郊外の住宅地の風景とが、彼のことを再び思い出させたのだった。数年前にもあった同じ研修の帰りに、この街へ異動していた彼が買ったという新築の家を、みんなでこっそりと見に来たことがあったから。


 彼は、白石くんという名前だった。在学時期が違いすぎてよく知らないけれど、私と同じ中学に通っていたいうので、他の正社員さんより少しばかり親近感があった。テニス部の部長でたいそうな人気者であったらしいと、いつだか人伝に聞いた。なるほど彼は、当時も時折仲間とテニスをしに出かけ、社会人の大会にも参加しているようだった。爽やかで、分け隔てなく社交的で冗談好きで、ものをじっくりと考えられる人だった。仕事も正社員さんたちの中でもいっとうできた。

 だから、いつまでも独身でいた彼を老婆心から「もったいない」と言う人はいても、「だらしない」などと謗る人は一人もいなかった。数年前、ひとより早くご両親を看取った彼が、実家を引き払ってこの街に一人暮らしのための家を買ったと話題になった時には、意思あるきっぱりとした決断ぶりにみな改めて感心したものだった。

 

 少しだけナビに背いて、私は薄い記憶を頼りに裏道へ入った。民家が次々に私を囲み、車の音が遠くなるかわりに、人の生活の静かな気配が濃くなっていく。

 その先に、記憶どおり彼の建てた家はあった。小さな庭があって、こぢんまりとしたモスグリーンの外壁に大きな窓がついている。木目の立派な玄関ドアも、黒っぽい屋根も、数年前に盗み見た時のままの小洒落た佇まいで、真昼の陽光の中に建っていた。

 早々に離婚してシングルマザーとして慌ただしく娘を育て、娘がいなくなっても雑然としている自宅を思い浮かべ、ほうとため息が一つ出た。いいなぁ、こんな家で一人暮らし。数年前ここへ来たときにみんなで言い合ったのとまるで同じことを思う進歩のなさに苦笑して、私は庭の真ん中に立てられたものへと目を移した。


 白石くんには一つだけ、潜めた声で語られる噂があった。入社して何年も経たない頃、彼は会社の研修制度に応募して少しの間アメリカへ行ったそうなのだが、それはアメリカにいる恋人に会うためだったというのだ。彼自身がそのことについて話すのを聞いたことはないから、真偽は分からない。けれど、私が知る限りそれが彼に纏わる唯一の浮いた話で、見目麗しく器量もこの上なかった彼はずっと、独りだった。

 白石くんが退職した。職場の昼休みにそれを聞いて仰天したのは、ごく最近のことだ。その報せには、こんなひそひそ話がついていた。この夏、アメリカから二十年ぶりに一時帰国した例の恋人に、白石くんは会いに行ったらしい。二十年の間にその人には結婚歴も二つだか三つだかあったというが、ともかくそれからまもなく彼は会社を辞め——アメリカへ渡ったのだ、と。


 〝売家〟。

 みんなが羨んだ家の庭に、無機質な赤字で書かれた看板が立っていた。

 「勤め上げたいと思ってますんで」と言ったまっすぐな声が、記憶の奥から微かに響く。十年以上前、あの田舎の支社でしゃんと背中を伸ばして働いていた時も、昼休みに課長とラーメンを食べて来たと笑っていた時も、そして本社へ異動してからも、彼はすべてを捨てても構わないと思えるほどの巨大な何かを胸の奥に仕舞い、小学生だった娘が大人になってしまうほどの途方もない時間を、ずっと眠らせて生きていたのだろうか。

 あまりにあっけなく空っぽになった立派な家を前にそう思うと、涙が出てきた。いくらそうだったとしても、本当にやってしまうなんて。何かとてつもないものを見ている気がして、私はもう姿を見ることもないだろう彼の決然としたうつくしさに、力いっぱい拍手を贈りたくてたまらなくなった。

 

 立ち去り際、彼の庭であった場所の端に季節外れの花を見かけた。私でも知っている、桔梗の花だった。紫色の星の形が一輪だけ、冬にしてはあたたかい風の中で揺れている。そういえば、その恋人は彼の学生時代の先輩らしいとも聞いた。真偽の程はやはり分からない。

 
 

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