発掘品
- ふく
- 2024年12月22日
- 読了時間: 4分
いつぞや新幹線移動中に書いたものが発掘された。
窓越しに得も言われぬ数秒を過ごせ。
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低く停滞した朝靄は、ちょっと梯子をかければ簡単に触れられそうなくらいだ。猛スピードで通り過ぎる田園を這う低さで、靄はどこまで行っても漂っているのだった。
遠い山々の裾に羽毛布団を裂いたように溜まるそれは、山の稜線と地上の世界とを切り離し、奇妙な風景を作り出していた。真っ白な靄の上に山頂だけが見えている。天空の城、空に浮かぶ島、そんな類の空想は、こんな光景から生まれたに違いない。これらの空想が生まれた当時、新幹線なんて文明の利器は存在しなかっただろうけど。
低いモーター音の響く車窓から白っぽい朝が吹き飛んでいくのを眺め、白石は目の前の景色をそんな風に言葉に替えた。暇潰しとしてはなかなか風流な遊びだ。次の学校新聞の小説ネタに使えるかもしれへんなぁ。そんなことを考えてもみた。しかし実際のところ、白石は眼の前の景色に毛ほども興味が持てずにいた。
早く。まだか。早く。
日も昇らぬうちに合宿所を出発してぞろぞろ乗り込んだ、白石にとっては使ったことのない路線の新幹線だった。それなのに、初めて目にする鉄道会社自慢の風景が退屈どころか邪魔な気がしているなんておかしなことだと思う。分かってはいるけれど、光が窓を塗り潰すこの数秒のうちに、俺は何か素晴らしい、二度と見られないような一瞬を逃しているのかもしれない、そう思うと、苛々と胸の内が焦れてしょうがないのだった。
不意に、ごう、という轟音と共に窓に映る映像が切り替わった。思わず息を潜める。小さな歓喜が胸の真ん中をじわりと締め付けるのが分かった。
待ちわびた真っ黒いガラスの上に浮かび上がる半透明の横顔は、一つ前のトンネルを通過するときに見た顔いっぱいの笑顔よりも、ずっと穏やかな表情をしていた。光る朝靄と同じ色の髪がそれを縁取っている。
通路の反対側に座る長い脚は、深く掛けているのになお少々窮屈そうであったが、それでも種ヶ島の悠然とした佇まいを損ねてはいない。さっきまではスマートフォンを片手に隣の大曲にちょっかいを掛けて笑っているようだったのに、今は静かに手元の雑誌に目を落としていた。座席のポケットに入っているやつだろうか。くるくると気まぐれに、様々な物に興味を示すあの人らしい。あるいは、一つ前のトンネルを出た後で、ほとんどの仲間が仮眠を取っている車内を慮った大曲に、静かにしろと嗜められでもしたのだろうか。もしそうなら、その時あの人はどんな仕草で、どんな顔をしたんだろう。反省したように笑って見せたろうか、肩を竦めたり、ごめんと手を合わせてみたりしたろうか。ああ、何が朝靄。何が天空の城。俺はやっぱり惜しいものを見逃してしまったに違いない。
車内アナウンスが流れる。間もなく停車駅らしい。目的地の駅まではあと二つ。おそらくこれが最後のトンネルだ。きっと残り、あと数秒。名残を惜しんで最後の横顔を見送っているとその時、うつくしい輪郭が前触れもなくこちらを振り向いた。黒い窓ガラス越しにぱちりと合った目が、互いに丸く見開かれた。時間が止まったような一瞬の後、黒に浮く半透明の彼はにっこりと笑い、手を振った。のすけ。唇が、彼だけが使う呼び名を形作って、また笑う。思考は弾け飛んだまま、条件反射で会釈を返した瞬間、真っ白な光が溢れてその姿は見えなくなった。いくらガラスの表面に目を凝らしても、いつの間にか靄の晴れた朝の街並みにかき消されて、もう見えなかった。
代わりに、後ろ髪がむず痒くなった。彼の視線に違いなかった。あと少し、ほんの少し振り返れば、こちらを見る種ヶ島の姿が視界の端に入る。すぐ振り返らねば不自然だ。そう思うのに、白石は動けないまま、やはりちっとも興味の持てない景色を無意味に目で追った。振り返ろうにも言い訳が思いつかなかった。「何か用やった?」。そう問われたらどう答えるべきか、てんで分からない。
ーー言い訳?一体何の言い訳をしようというのだろう。そもそも、俺はどうして、美しい風景を邪魔にさえ思いながら、盗むようにあの人を見ていたのだった?考えても、どきどきと勝手に鳴り軋む胸では、満足な結論を見つけられそうもなかった。
隣の座席に座る金太郎は、まだすやすやと寝息を立てている。もうしばらく起きることはないだろう。考えが及んだのはそれくらいだ。なぜあの人に目を奪われていたのか、答えを持たないまま、振り向くしかない。