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じっくり

  • ふく
  • 6月17日
  • 読了時間: 4分

 職場をはじめ私の暮らす社会には色んな人がいるけど、私は感情的な人が苦手なんだな、と近頃改めてよく感じるようになった。特に、ミスをした者は相応の罰を受け痛みを被るのが当然なので責めてかまわない、むしろ責めるのが秩序のため、とでも考えているように見えるタイプが特に。

 私自身がこういう人の標的になることはまずないが、職場で内線引っ掴んで他の部署を怒りあらわに問い詰めるのを目撃したりすると、言っていることが正しくてもげんなりしてしまう。そんなことで変化するほど人間簡単じゃないし、自分は周囲から怖がられるか引かれるかするし、一体誰に良いことがあるんでしょうか、と。


 カチンと来ることも愚痴ることも少なくない私だけど、誰かの不手際で面倒を被ったとしても、その誰かの行為や考えを痛めつけ裁かなければならないとはあまり思えない。私は私の都合において不愉快な思いをし、私のものさしにおいて「なんでそんなことしちゃうかなぁ」と思ったりするが、その誰かにはその人なりの事情があって、どうしようもなかったのかもしれない。

 私が普通にできることでも、それがどうしてもうまくできないのかもしれない。その人自身は違うやり方をしたくても、部署や環境のせいで難しいのかもしれない。体調や家族の世話が大変で調子が悪かったのかもしれない。仕事が死ぬほど立て込んでいたのかもしれない。

 私はそういう事情を何も知らないのだと思えば、そんな無知の分際で叱りつけていいなんて到底思えなくなる。中には何一つ事情のない、真の怠け者不届き者もいるんだろう。そんな人らは確かに叱られてびっくりした方がいいのかもしれないが、それよりも自分なりに必死にやってる人たちの方がずっと多いような気がするから、他所で愚痴りはしても、やっぱり当人に私個人の憤りをぶつける気にはなれない。私にそれをぶつけられることが、相手の中でどういう位置づけの出来事になるのかも分からない。極端な話、張り詰めていた最後の糸を何も知らずに切ってしまうかもしれない。

 それに何より、私が最善を尽くしたのに情けなくもしくじった時、体調が悪い中がんばったけどどうにもならなかったとき、他の人にできていることがどうにもできなくて苦しいとき、私はひとにそんなふうにされたくはない。職務上の責めは当然負うけれど、人と人との付き合いにおいては多少情けをかけてほしいと思う、私は甘ったれた大人だろうか。仕事でもないことならさらにそう思う。

 人を責めて罰しようとする人は、自分が精一杯やって失敗したとき、どうしてもうまくいかないとき、ひとから同じ目に遭わされる覚悟があるのだろうか。自分は周りに色んな手落ちを許してもらい、目を瞑ってもらいながら暮らしているのかもしれないとは考えないだろうか。それとも、他人はどうあれ自分はこういう人間だからと開き直っているだろうか。長いことよく理解できずにいる。

 とはいえ、怒らずにいられない人たちにも彼らなりのどうしようもなさがあるはずだから、それを知らない私は、やっぱり安易に批判を申し立てて責めるなんてことはできないんだけど。彼らの抱えているかもしれない困難を無視しない範囲でフォローした後、わかんないなぁ、とここで独り言を言ったり、友達と飲み屋で話してみたりするだけで。


 狭く小さい私の視野と心にどう映ろうと、きっとみんな精一杯。私に分かる正論なんかみんなとっくに分かっていて、誰もがその向こう側で悩んでいる。首を傾げたくなることばかり言う人も、苦しさや怖さを抱えているからそう言わずにいられないのかもしれない。うまくいかないのはがんばりたいと思っているからかもしれない。怒らずにいられないのは正しくあってほしいのにそうじゃない悲しさからかもしれない。寂しさからかもしれない。

 目に見えるものの印象だけじゃなく、もっと奥にあるものをじっくり見ようとし続けたい、と改めて思う六月だ。



 
 

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