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あなただから

  • ふく
  • 5月18日
  • 読了時間: 3分

更新日:5月26日

 テレビドラマは全然見ないが大河ドラマだけは通年視聴するという人間を長年やっている。

 去年、今年と作家、そして本屋が主人公という今までにない題材が続く。同人誌作りをはじめとする創作に携わる一般人の増加をふまえて選ばれたテーマでもあるような気がしている。紫式部も蔦屋重三郎も、生きた時期的に戦のない時代だし、主人公発表の時は一体どうやって一年もたせるんだ、ドラマとしてどうやって面白くするんだと心配になったものだけど、ふたを開けてみたら去年も今年もとても面白くて、日曜夜を楽しみに週末を締めくくれている。

 今日の放送、一流の版元から作品を「古い」「能書きばかり」「前置きが長い」と評され、今求められているのは、粋で、学がなくてもくすっと面白い手軽なやつだからそういうのを書け、と言われた恋川春町が悩む場面があった。作家としてはそういうことを言われてしまうと苦しかろうなぁと、作家などとは到底呼びたくもない賤民の分際で小指の先ほど共感を覚えた気になったりした。

 私は私のことしか知らないから私の場合だけど、作風って変えようとしても変えられない。意図的に一般受けしそうなネタとテイストで書くことはできるのかもしれないけど(やったことないから分からない)、そうなるともう自分の作品とは思えないし、そうやってどこかで見た誰かの筆を借りて書いたような作品がいつもより評価されてしまった日には、「素の私の作風はだめなんだな」となって賞賛されるたびに沈んでいきそう。

 ドラマの中で、蔦屋重三郎は最終的に「このネタを 春 町 先 生 の 筆 で 見たいんです」という言葉で恋川春町作品の出版権を勝ち取ったけど、作家にとってはこれ以上ない殺し文句だと爽快に思った。

 面白かったからすばらしい、自分好みのネタだったから魅了された、普通そうだしそのことに何の罪もないけど、あなたの筆だからこそすばらしいのだ、あなたの筆に魅了されているのだ、という趣旨の言葉や態度には、他の誉め言葉を幾千幾万重ねたとしても敵わないほどのパワーがある。なぜなら、作品は自分の分身みたいなものだからだ。感じ方、考え方、価値観、教養、美意識、好き嫌い、言葉遣い、センス、生き方。変えようとしても簡単には変えられない、その時の自分に備わったそういうもの全部が否応なしに反映されてしまうのが、どうやら作品というものみたいなのだ。だから自分を偽ることなく作り出した作品や作風が肯定されると、それは自分そのものに向いた深い深い肯定のように感じられるのだ。これより力になるものはそうそうない。

 逆に作品や作風を否定されれば、自分を根っこから否定されたような恰好になり、日常ではおよそ味わうことのない、自分でも驚くほどの深い傷を負ってしまったりもする。それが文字であってもわずかな言葉で全身から血の気が引き、頭が真っ白になり食欲が数日消えるなんてことまで本当にある。創作に足を突っ込まなければ知らなかったことだけど。(ゆえに、作品や作風がたまたま趣味に合わなかったとき、たとえ悪気なく正直な感想としてであっても、それを作者に伝える行為は多分よした方がいいのだと私は思う。それほど傷つく人ばかりじゃないだろうが、最悪言葉で人を殺しかねない。)

 春町先生が救われてよかった。ドラマの中での話だけど、版元蔦屋重三郎、書かせて刷って売るだけじゃなくモチベーターやプロデューサー的な動きを自然としていて、作家たちにとってベストパートナーだなぁ。

 恋川春町をはじめ、黄表紙作家や狂言師たちにはこの先冬の時代が待ち構えているけど、創作者としての作家や版元たちにとって出版統制はどういうものだったのか、生業を潰されただけに留まらない心理的精神的な意味合いまで、ドラマの中で感じられるのが楽しみだ。

 
 

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