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種ヶ島修二の構造?

  • ふく
  • 5月24日
  • 読了時間: 5分

 「『いき』の構造」という本を知った。明治から昭和を生きた哲学者・九鬼周造が、日本特有の「粋」という美意識の言語化を試みた本だけど、この本が定義する「粋」が種ヶ島修二すぎてため息止まらなくなってしまった。青空文庫で読める。(が、昔の学術書で読みにくいので、無精だけど私はAIに要約してもらいつつ読んだ。)

 つまるところ、人に惚れる情けがあり(媚態)、しかし情に傾いて自分を失うことはなく洗練された距離を保ち(意気地)、かつすべてはいつか終わるものであることを受け入れている(諦め)、というのが「粋」の三大要素であるらしい。たとえば、惚れた相手に溺れて矜持を放り出すのは「野暮」、去って行くものにしがみつくのは「野暮」。惚れることを自然な情として禁じないが溺れもしないしなやかな軸を持っていて、潮時を見極めて身を引いたり終わりを受け入れたりする潔さがある。

 これが九鬼氏の論じる「いき」で、半分は学術的になるほど面白いと思ったものの、もう半分はこれ種ヶ島修二でなくてなに????種ヶ島修二のファンブック?????「『いき』の構造」は「『種ヶ島修二』の構造」なの?????とならざるを得なかった。


 特に「諦め」は種ヶ島修二というキャラクターにすごく強く感じてきたファクターで、九鬼氏のいう「諦め」は「本来無一物」という座右の銘とも整合性を感じる。種ヶ島のそういう部分は消極的に思えることもあってどかしい側面だけど、「やるだけやったけど自分のものにならなかった」という結末を美として飲み込む潔さと美学あってのことなのかもしれないな。永遠に続くものなんて一つもなくて、全部必ず終わっていくものだと常に弁えているからこそ実行できる美学。

 九鬼氏の論じる「いき」の文脈で言えばそれは消極的なものじゃなく、今だけのことと知っているからこそ今に本気を注ぐということにも繋がり、ゆえに刹那的な恋や遊興を全肯定する源になる考えでもあって、種ヶ島さんにもそういう感覚があるのかな、と思ったりした。私自身がその境地にいないから、彼のあまりにすっぱりした受け入れっぷりや「たくさん☆」っぷりに戸惑って種ヶ島さんの本気を疑いたくなったりもするけど、必ず終わりが来ると達観しているからこそ彼ははたからどう見えるとしてもすべての今を大事にしているし、本気で満喫しているんだろう。だからこそ終わりが来ても未練がましくなく手放せる。

 仲間や恋人だけでなく、テニスとの距離感も種ヶ島さんは絶妙な気がしてる。間違いなく本気の本気で惚れ込んでるけどテニスに自分を喰われてはいないというか。テニスと自分の境目がなくなりかけていて、いつかテニスを終えなければならないときこの人どうなっちゃうんだと心配になるようなキャラクターたちもいる中で、彼は境目をきっちり保って付き合っていて、それこそいつの日かきれいに終わってみせるんだろうというイメージがしやすかったりする。

 ただ、「粋」って男でも女でも多少やせ我慢をしなければ実行できないというか、心とは裏腹でも格好つけるみたいな側面もあるから、泣いてしまいたくても涙を見せない、縋りたくても毅然と立っている、みたいなことが種ヶ島さんにもあるはずだとは思う。ドイツ戦で一時負けが確定したときみたいに、格好つけることも受け入れることもし難い結末だって存在し得るとも。常に垢ぬけた振る舞いをして見せる彼の見えない内面を想像する余地はめちゃくちゃある。暴くのは、それこそ野暮なんだろうけども。

 じゃあ「いき」の一要素としての「諦め」はどうやって育まれたのか。九鬼氏は、まだ身分社会だった江戸時代、思い通りにならないことがたくさんある中で、「どうせ叶わない」と卑屈になるのではなく「美しく諦める」ことが美になっていった、と解説されていた。どんなに惚れようが自分のものにはならない遊郭文化もそれを育んだ一因だとも。やっぱり「諦め」って望んでも叶わない環境や経験に揉まれて洗練されていくものだよなぁ、と再認識するとともに、種ヶ島さんにとってそれって何だったんだろう、と結局いつもと同じところに着地した。人生たかだか十八年ぽっちでその境地に達してるという時点で存在がファンタジーではあるんだけど、だとしても考えるのやめられないなぁ。


 ところで、種ヶ島の情のかけ方にはどこか女性っぽさがあると思ってきたけど、この本を読んでいても彼の「粋」はやや女のそれ寄りだと改めて思った。男の「粋」って情よりもやせ我慢とか、実際きついけど惚れた女の前じゃそれは見せないとか直線的で硬い見栄みたいのが強めだと思うんだけど、種ヶ島は情が透けて見えるときが案外少なくないからなのか、振る舞いが軽やかだからなのか、男(漢?)っぽさが前面に出ない。それがいい。しなのある色気がいい。

 種ヶ島のそういうのを女郎っぽいとまでは全然思わないけど、本書の中にも吉原をはじめとする遊郭が「いき」の概念と深く結びついて語られていたりもして、種ヶ島に漂うほのかな水商売感と粋とは不可分なものなのかもなぁと思ったりした。一時限りの遊び大いに結構やん、ていうか引いて見ればなんもかんも一時限りの遊びやろ、という達観が両者に共通しているんだろうな。


 あと、本当に欲しいものから目をそらし、自分自身の今が有限であることに向き合わないまま時間を過ごしていたところのある入江には、やっぱり色々思うところあったろうなと思った。入江の後輩たちへの思いもまた本物には違いないことを分かっていただろうし、ひとのあり方に口出しするような人じゃないから、みなまで言うことはなかったけど。



 学術書で種ヶ島修二の解像度を上げる、風邪っぴきで引きこもり中の遊び。

 熱が出ないもんだから休まず仕事には行ったものの、咳が止まらなくていろんな人が見かねて飴くれた一週間だった。治れ。

 
 

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