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空想の場所へ

  • ふく
  • 2024年11月28日
  • 読了時間: 2分

 旅の途中、秋の新刊で書いた京都の某所を歩いてみた。作中の二人と同じように、日が沈んでから。

 いいところ、ではあったのだけど、やっぱり空想と同じ純度の美しさや幻想を孕んだ場所、あるいは時間はなかなか実在しないよなぁ、と苦笑しつつ歩いた。


 私の住む場所から遠く離れてはいても、私と同じような人たちが生活している場所には違いなくて。私の街にはあるわけがないきれいな景色がたくさんあったけど、地上は私の街と同じ、日々の退屈に焦る普通の人たちの気配がいっぱいで、文を書きながら思い描いたのとはだいぶ違う時間が流れていた(当たり前)。

 同時に、距離があるからこそ可能になる空想や幻想って、いいものだと思った。仮に私が彼らの住む街をよく知る者だったら、彼らの生きる場所にこれほど美しい夢は見られなかったかもしれない。


 あるいは捉え方を変えるとすれば、あのそれなりに生活感と騒がしさのある通りを好ましくさえ感じながら、満ち足りた様子で並んで歩いていた作中の二人は、あのとき本当に幸せで、充実していたんだろうと思う。

 幸せなときは、落ち葉が道を転がる様や、見慣れた自分の部屋の壁に落ちる家具の影なんかさえ、かけがえなく見えるものだから。


 私はといえば、出張に次ぐ出張の狭間、なんとかこさえた二時間足らずの自由時間と体力とをやりくりするジリ貧散歩で、余裕も充実も微々たるものだったのであった。やはり旅はゆっくりのんびり行きたい。

 通りかかった和菓子屋で見つけたいけてるおだんごに、しばし散歩のお供をしてもらった。


 
 

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