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​十月 追憶と雨と豆乳スープ

 三年ぶりに会う旧友は、大きなキャリーケースを転がして現れた。かつて纏っていた色によく似た、真っ青なキャリーケースだった。今夜の便で上海へ飛ぶのだと言った。先にアッサムティーに口をつけていたこちらの横で鷹揚にメニューを眺め、朝摘みのダージリンティーをオーダーした彼は、繊細そうな栗色の髪を揺らし、涼やかな目を菩薩のように細めて微笑んだ。

『十月の上海マスターズを撮りにね。手塚に越前、遠山くんも撮れる予定だよ』

 遠山くんは追うのが大変だから気合いを入れなくっちゃ。今もどこか常人とは異なる時の中にいるような若いスポーツカメラマンは、いたずらっぽくそう付け加える。最後に会った時は「まだ駆け出しだよ」と笑っていたけれど、最近はプロテニスプレイヤーとなった彼らの試合について写真つきで報じる記事の隅に、彼――不二周助の名前を見かけるようになった。

『ご活躍やな、不二クン』

『きみもね。桃城(もも)から聞いてるよ、四天宝寺高校のこと。おめでとう』

 ぽつぽつと会話が始まると、東京駅のカフェの真ん中に一緒に寝起きした合宿所の部屋の匂いが香った気がして、白石はひととき懐かしさに浸った。

『しかし変わらへんな、手塚クンも越前クンも』

 だからだろうか、互いの近況報告もそこそこに、昔馴染みの彼らの話に花が咲いた。そうしてティーカップの中身がほとんどなくなった頃、何気なくそんなことを言ったのだった。いつもの調子で「ほんとだね」とか、「呆れちゃうくらいにね」とか言って笑うだろうと思っていた彼は、予想とは少しだけ違う微笑みで答えた。

『そうかもしれないね』

 口に運びかけたティーカップを思わず止めて隣を見ると、不二はにこりと笑みを深め、なんでもないんだよと首を振った。行儀よくティーカップとソーサーを持ち上げて一口紅茶を飲むと、再び口を開く。

『いや、最近ね、あの二人を撮ってるとよく思うんだ。彼らもテニスも、ずっと、いつだって本当にすばらしいけど、やっぱりあの頃は、特別だったんだって。きっと僕自身の心のレンズもね。ラケットがカメラに変わっただけで、僕はずっとテニスがくれるときめきを追いかけてるつもりだけど、どんなふうに切り取っても、どんなに追いかけても、本当の意味で〝これが僕の撮りたかったものだ〟って納得することはないのかもしれないって思えてくるときがある。あの頃毎日見て感じていた瑞々しいときめきや憧れには、もう二度と、出会えないんじゃないかと思うから』

 初めてコートで対峙した頃と変わらない、夢想的に響く声で不二が言った。そないなことないんちゃうか。そう返そうとした口は、なぜか、動かなかった。

『思い出補正かな?』

 最後に茶目っ気たっぷりに付け加えて笑った彼は、それでも充実に光る瞳で「またね」と手を振り、空港へ向かう改札へと消えていった。

 その景色は、不意に強い既視感を生んだ。昔、よくこんなふうに、大阪駅の改札の前に立っていた。行き交う人々にまできこえてしまいそうな胸の高鳴りを抱え、もうすぐ改札の向こうから来るはずの人を待っていた。電車が着く音が聴こえ、視界を遮り始める人波に焦っても、彼はいつでも、その美しい体躯に見失いようもないくらいの輝きを纏って現れた。

 あの人が、京都から俺に会いに来てくれる。今思えば、たったそれだけのこと。それだけのことで、大阪駅の改札は見渡す限りの花畑にも、満点の星空を抱く丘にも変わったものだった。帰る彼を同じ場所で見送る時は、夏でも体の芯まで凍えるようで、寂しさに地面が裂けていくような気さえした。

 我ながら、微笑ましい。

 あの頃を振り返るとき、そんな感慨を覚えるようになったのはいつからだろう。

かつてあった果てのない煌めきと情念が、いつの間にかただ美しい過去になっていることを認めて、白石はもう見えないかつての好敵手の背中に向け、遅れた返事を心の中で投げた。

(……そうかもしれへんな)

 先月、出張先の東京に着き、宿泊先のホテルへ向かうまでの間の、ほんの一時間の再会だった。

 

  ◆◆ 

 

 

「これで全部やんな」

「はい。ああ、良かった。ほんま助かりました」

 きっちりと窓を閉めると、不穏に唸る空の音はぴしゃりと外へ追い出された。慌てて敷いた新聞紙の上に並んだプランターの隙間で、白石は種ヶ島と共にほっと一息ついた。

 台風が接近しています。夜中から明日の朝にかけて注意が必要でしょう。

 今朝のニュースがそう言ったのを、半分寝たまま食パンをかじっていたふたり、揃って忘れていた。昼の間は台風の気配もしない無風の快晴だったことも言い訳にさせてもらおう。食器洗いが終わって家の中が静かになったところで、ようやく外の風の音に気がついた。そのまま寝てしまっていたら、ベランダの植物たちはどうなっていたことか分からない。

「すんません、修二さん風呂入った後やのに」

「ええて。飛んでってもうたらえらいことやしな」

 大量のプランターをベランダからリビングへ取り込み、ラックを柵に固定するのを手伝ってくれた彼は、そう言いつつ大きなあくびをした。今朝は遠方の小学校でのテニス教室のために二時間ほど早起きをしていたから、くたびれているようだ。

「もうお笑い始まってんで」

「うわ、そんな時間か」

 金曜の夜だ。テレビを点けると、いつからか二人で見るのが恒例になったお笑い番組が、既に半分ほど進行している。今もお笑いには特別興味がないらしい種ヶ島は、今夜も二人掛けのソファに白石と並んで座った。まぁ漫才もおもろいけど、お前が面白がってんの見てるのがおもろい。彼はいつもそう言って、上機嫌に傍に座っている。

 ぽすん、と種ヶ島が白石の膝に頭をのせた。甘える仕草を髪を梳いてあやしつつ、二人しばらくテレビを見て笑っていたけれど、やがて膝の上が静かになった。覗き込んでみると、彼はいつの間にか、膝枕ですうすうと寝息を立てていた。

 油断しきった寝顔は子どもみたいだ。凛々しいはずの眉にはまるで力が入っていなくて、薄く開いた唇がいとけない。ふに、と指先で上唇をつついてみると、口は一度むず痒そうに結ばれ、また力を失ってぽっかりと無防備な隙間を開けた。かわいらしくてふふ、と耳元で笑っても、お構いなしに微睡んでいる。

「修二さん、今日はもう寝ましょ。お疲れなんやし」

「……んー……」

 そっと肩を撫でると、種ヶ島は目を瞑ったまま子どもっぽく顔を顰めて頷いた。のろのろ起きだしたのはよかったが、瞼を開けるのをさぼって立ち上がったものだから、がちゃん、歩く途中でローテーブルに脛をぶつけた。

「あだぁぁ」

「あ。あーあー、大丈夫ですか」

「おれた……おんぶ……」

「折れるかい。ほら、ちゃんと前見な」

「ちゃぁい……あれ」

 大袈裟に足を引きずって部屋へ向かう途中、種ヶ島がダイニングテーブルの上に目を留めて立ち止まった。

「懐かし。これ、うちに持って来とったっけ」

 長い指がなぞったのは、深紅に金の箔押しがされたアルバムだ。卒業アルバムにも似た硬い表紙を開くと、照明塔に白々と照らし出された誰もいないコートの写真が出迎える。

「今日実家に東京土産置きに行ったついでに持ち出して来たんです。この前不二クンと昔話したら、無性に見たなって」

「さよか」

 それは、中学三年の時のUー17W杯の記念アルバムだった。同じものを実家に持っているはずの彼も、久しぶりに開くのだろう、興味深そうにぱらぱらとページを捲った。その横顔の凪いだ穏やかさを、白石は少しの間見つめた。彼にとっても、あの頃はもう、近くて遠い過去に違いなかった。

 すると、横顔が不意に大あくびをした。

「あー、あかん、寝るわ……。明日俺にも見せて」

「ふふ、はい。よう休んでくださいね」

「蔵ノ介もな。おやすみ」

 見れば、いつもはよく光る丸っこい目はもう半分以上閉じている。もうひとつ続いたあくびとともにぐしゃぐしゃと掻き混ぜられる髪は、いつもはきっちりセットされているけれど、今はドライヤーで乾かしたまま、やわそうな癖毛がふわふわと頭を覆っているだけだ。少年のように素朴な姿に思わずくすりと笑う。よほど眠いらしい種ヶ島はその声も耳に入らぬ様子で、片目を擦るとスリッパをつっかけて寝室へ入って行った。

 昼間は大層すてきなコーチとして憧れのまなざしを集めて来たのだろうに、よれたTシャツの上からぼりぼりと肩を掻く猫背気味な背中や、あのあどけない寝姿を見せてやったなら、彼の教え子たちはどんな顔をするのだろう。白石はそんなことを考えてもう一つ笑い、種ヶ島を見送った。

 

 

 外はついに雨が降り出したらしい。大雨だ。カーテンの隙間から外を覗いても暗いばかりで何も見えないけれど、暴風に吹かれた雨が時折窓ガラスを激しく叩くのが聴こえている。明日は久しぶりに二人とも休日だ。朝までには通り過ぎてくれるよう小さく祈って、白石はベッドに寝転び直し、ベッドランプに照らされた大きなアルバムに視線を戻した。

 海色のコートを四角く切り取る写真の中に、赤のユニフォームが踊っている。明日ゆっくり開こうと思っていたけれど、入浴を済ませても眠気に恵まれないので、暇つぶしに例のアルバムを寝室に持ち込んだのだ。

 これが学校を通じて届けられたのは、オーストラリアから戻って一か月ほど経った頃であったろうか。試合中の様子はもちろん、宿舎での日常風景の写真まで盛り込まれた冊子を見て、誰がいつの間に撮っていたのかと皆で目を丸くしたっけ。最初から最後の最後まで、驚くことばかりの毎日だった。

 ベッドに頬杖をついてページをひとつ捲ると、その先に大きく印刷された一枚の写真が目に留まった。頬がほどけて唇がひとりでに弧を描き、胸は小さな火が灯ったように熱を生む。

「……かっこええ、"先輩"」

 それは、一つの原風景だ。

 見つめる先に、光る銀髪と赤い片袖を靡かせ、力強くラケットを掴んで、獣のようにしなやかに疾走する種ヶ島が映っていた。背景には、白と青のユニフォームがぼやけている。ギリシャ代表チームと対戦した時の写真だ。今よりも日に焼けた精悍な頬をしとどに流れる汗で光らせ、十八歳の彼は、それでも勇敢に笑っている。

 情けなくも足を竦ませた俺を助けてくれた人が、もしも負けてしまったら、と冷や汗を握ってこの姿を見ていた。庇うように立った背中も、臆さず戦う自信と度胸も、何もかも守り通して帰って来た姿も、大きくて、強くて、眩しくて――胸を灼かれるほどに、かっこよかった。

 次々に現れる写真の中の彼を追っていると、遠い昔の時間が体の奥から流れ出し、蘇っていくような気がした。若くやわらかかった心に深々と刻まれたそれらは、今も十分鮮やかだ。何ひとつ見えなかった夜、五角形の道標を描いて見上げた優しい双眸。コートの外まで押し寄せて来た、彼の心の本当の温度と気迫。同じコートの中で伝わってきた胸が痛くなるような信頼と愛情。想いを明かしてくれたメルボルンの砂浜の、夕日と溶け合う眩しい海。心が痺れ、涙が出るようなあたらしい感情と幸せを、会うたびに教えてくれた人――俺が恋をした、種ヶ島先輩。

 その切なさを、懐かしい、と思うのは、もうここにはないものを想っているからなのだろうか。ふとそう思い、白石は写真の中で輝く種ヶ島を指先でそっと撫でた。

 彼は今も、そしてこれからも、一生のうちでいっとう美しく、慕わしいひとに違いないけれど、それでも今の彼はもう、日本代表№2を背負って笑う煌々しい若者ではなく、白石の知らない世界を次々に見せてくれる魔法使いでもなかった。

 何も変わらず彼と過ごしている気がするこの心も、いつの間にか幼さを失い、慣れ、贅沢になった。彼の笑い方、何気ない仕草、瞳の色、小さなキス。かつてはそんなもののひとつひとつが奇跡の結晶だったのに、今はどれも日常の中に紛れ、静かに光る小さな星々のように変わっていた。

 緩い寂寥感の中を漂ううち、白石はやがてこくりと舟を漕いだ。頬杖から落ちた頭をはっと上げ直すと、遠のいていた音が戻って来て、暴風に吹かれた雨の波がまたひとつ窓を叩くのが聴こえた。いつの間にかうとうとしていたようだ。ようやく訪れた眠気を逃さないよう、白石はアルバムを閉じてベッドランプを消した。

 郷愁にも似る少し色褪せたときめきは、昨日と変わらない平凡な夜の中に溶けていった。枕に頭を乗せると、シーリングライトの円いフレームが、電源の紐を垂らして仄かに夜に浮かんでいる。来る日も来る日も、もう何千回と見てきた、呆れるほどにいつもどおりの天井だ。

 この家に住み始めたばかりの頃は、壁の向こうで眠る彼の気配を感じて見上げるこの天井だって、輝いていた気がするのにな。白石は小さく微笑み、吹き荒れる風の音を聴きながら目を閉じた。 

 

 

 

 ふと、目が覚めた。轟音が聴こえる。何の音かと目を瞬かせれば、雨の音らしかった。バケツをひっくり返したような雨の音が、巨大な塊になって、まるで圧し潰すようにごうごうと鳴っているのだ。そこに獰猛に吠える風の音が混じる。西の空に来ていた台風が、今まさにこの街を飲み込んでいる。

 まだ真夜中だ。このひどい音で起こされたのだろうか。白石は、それだけではないような気がして枕から顔を上げた。すると、部屋を揺らす雨音に消されてしまいそうな声がきこえる。「くらのすけ」。声は確かにそう呼んだ。眠気は一息に吹き飛んだ。

 振り返ると、真っ暗闇の中、ベッドに突っ伏して座り込んでいる種ヶ島がいた。体を起こせば、白石の肩を揺すっていたのだろう腕が、その逞しさに似合わぬ弱々しさで毛布の上を滑り落ちていく。

「修二さん」

 努めてやわらかく呼びかけると、大きな背中がひとつ辛そうに息を吸った。

「あかんわ、ひさびさに」

 たすけて。乱れようとするのを押さえ込んだ息の狭間で呟くと、種ヶ島は大儀そうに上体を起こした。その言葉だけで、状況は知れた。白石はベッドを抜け出して床に下りると、種ヶ島の顔を覗き込む。慎重に両肩に触れれば、俯いた顔が小さく上げられた。

 いつもどこかに光を湛えたビー玉のような瞳が、真っ黒に塗りつぶされている。これを見るのはいつも苦しい。けれど同時に、どこかに滲み出すようなよろこびを覚えて、白石はそっと微笑んだ。

「よう起こしてくれましたね」

 乱れた銀髪をひと撫ですると、種ヶ島はひとつ苦しげに息を吐き、縋るように抱き付いてきた。冷えた指先が腕を掠め、肩の上ではふうふうと、整わない呼吸がきこえる。パジャマ代わりのTシャツは冷や汗でじっとり湿っていた。白石はいっぱいに腕を伸ばして大きな背中を包み、耳元で静かに囁いた。

「大丈夫。もう大丈夫ですからね」

 強張った種ヶ島の体から少しだけ力が抜け、肩にもたれる頭が小さく頷いた。 

 

 彼には、悪夢に苛まれる夜がある。

 それはせいぜい年に一度程度で、大したものではないのだと彼は言った。毎回、朝方までにはおさまってしまうのだから、と。夢の内容は、幼い頃から彼の鬼門となっている飛行機に関するものであったり、あるいは他のものであったりするらしいのだが、いずれにせよそれらは彼を否応なしに軽いパニック状態に陥らせることがあるのだった。

 それを知ったのは、この家で一緒に暮らし始めてからだ。彼と出会い、付き合うようになってから数年もの間、そのことを知らずに過ごした。

 一度寝入れば大抵は朝まで目が覚めることのない白石が、その夜は珍しく夜中に起きた。すぐに眠り直せなくてトイレに向かったとき、偶然、そこに蹲っている彼を見つけたのだ。

『ごめんな。大丈夫大丈夫、嫌な夢見ただけ。いつも一人でなんとかできてるし』

 脂汗の滲んだ顔に絞り出したような笑みを貼り付け、彼はまずそう言った。彼がそんな表情を見せること自体が只事ではない何よりの証拠で、すっかり動転した頭では、「来ないでほしい」と遠回しに言われていることにも気付けなかった。慌てて駆け寄り、他にどうしていいか分からず背中をさするうち、種ヶ島はもっと辛そうになって、最後は笑みもなくして白石の手を払った。

『頼むから向こう行って。お前に見られるんしんどいねん』

 その言葉はなぜか鋭く胸に刺さって、散らかった頭はとうとう真っ白になった。分かりました、でも、何かあったら必ず呼んで。なんとかそれだけ言い置いて頷かせ、本当にそれでいいのか分からないままその場をを離れた。

 その夜、彼に呼ばれることはなかった。どのくらい経った後だったのだろう、隣の部屋のドアが閉まり、スプリングが軋む小さな音を最後に物音が消えたのを、自室の壁に耳をつけて聴いた。眠れる程度には楽になったのだ、よかった。そう安堵するのと同時に、胸の奥から噴き出すように涙が落ちた。それは後から後からこみ上げ溢れて、朝まで止まらなかった。暗い暗い夜だった。

『もう大丈夫なんですか』

『ん、完全復活!びっくりさせてもうたなぁ。夢見が悪かっただけやし、もう大丈夫……、』

『そうですか、よかった』

 翌朝、けろりと元気になった種ヶ島が、こっちを見るなりぎょっと目を瞠った。

『蔵ノ介?泣いたん?』

 そう聞かれ、食器棚のガラスに映った自分を見て、ひどい顔をしているのにようやく気がついた。

ごめんな、昨夜きつい言い方してもうて。あんなふうに言いたかったんとちゃうねん。必死に謝られるうち、また涙が出て来た。違う。違う。俺はそんなことで泣いたんじゃない。蓋なんかろくにできていなかった気持ちを、涙と一緒にこぼした。

『よう分からへんけど、情けなくて、悔しくて死にそうや。修二さん、今までにも同じことあったんですよね。知りませんでした。俺、何年も一緒におるのに、知らんかった。知っても何もできんかった。……ほんまに一人の方が楽なら、そうしといてあげたいとも思います。あなたは俺に心配かけると思うと辛くなってしまう人やってことも知ってます。けど、それでも嫌です。知らんところであなたに一人で苦しまれるの、もうどうしても嫌です。言うてることめちゃくちゃでわけ分からへんけど、何ができるんかも全然分からへんけど、それでも何か、何でもええから、させてほしいです。何の足しにもならんとしても、修二さんが辛いときは、俺に、なにか』

 みっともなく滲んだ支離滅裂な言葉をすべて聞き、種ヶ島は少し考えるようにした後、眉を下げて涙ごと白石を抱きしめた。

『分かった。分かったよ、蔵ノ介』

 そして、一つ約束をくれた。

また同じことがあったら、必ずお前を頼るから、と。

 

 

 再びひどい音を立てて風と雨が打ち付け、窓ががたんと揺れた。今夜も約束を守ってここへ来てくれた種ヶ島の体が、その音に小さく竦んだのが分かった。ベッドランプに鈍く照らし出されたシャツがいっそう湿気を増し、吐息に微かな呻きが混じる。怖いことなどないと理解しているのに勝手に縮み上がる体に、彼が苛立ち始めているのが分かる。乱れたがる呼吸をなんとか整えようとしているのを感じ取り、白石は一度腕を解いて種ヶ島と視線を合わせた。迷い疲れた子どもの瞳が揺れている。

「修二さん、大丈夫。焦らんでもええんですよ。ちゃんと良うなりますからね」

「……」

「いつもの、しましょか」

 雨に怯える湖面のように張り詰めて白石を見つめていたそれからふっと力が抜け、やがて伏せられた。

 白石はもう一度種ヶ島の背中に腕を回すと、胸と胸をぴったりと触れ合わせた。伝って来る鼓動の速さに眉を顰め、やわらかさだけを乗せた声で促す。

「一緒に」

 一つ、ゆっくりと深呼吸をする。もう一度深く息を吸うと、今度は追い付くように、種ヶ島の胸が膨らむのが分かった。ゆっくりと息を吐けば、まだ震える吐息が耳元で続く。悪い夢に搔き乱された体が心地よい息のしかたを思い出せるように、安らぎを吹き込むように、胸を合わせ、背中を抱き、ただ穏やかに呼吸を繰り返していく。

 少しの空白もなく密着し、同じ速さで膨らんではしぼむ二つの体は、まるで一つの生き物みたいだ。いっそそうなればいい。そうなればきっと、今この人を苛んでいるもの全部、もう半分と混ざって、薄まって、そのうち分からなくなってしまうのだから。白石は心からそんなことを思い、祈りを込めてやわらかな銀髪を梳いた。

 そうして体温と心臓の鼓動まで一つになった気がした頃、種ヶ島がゆっくりと体を離した。ぼうっとした無垢な瞳が、ただ白石を見つめている。まだ少し汗に湿った髪にそっと指を通すと、種ヶ島は気持ちよさそうに目を細めて瞬きし、やっと小さく微笑んだ。寝れそう、と呟いた種ヶ島の安らいだ面差しに、白石は唇が震えそうになるのを堪えて微笑み返した。

『でんき、消してええよ』

『真っ暗になってしまいますよ、大丈夫ですか』

『ん……も、へいき』

 並んで体を横たえた白石のベッドで、くったりと枕に頬を預けた種ヶ島は既にうとうと眠りかかっている。この部屋を訪ねてくれてから経過した時間は一時間ほどだけれど、彼にとってはもっとずっと、長い時間だったに違いない。力が底をついてしまうほど疲れたのだ。白石は小さく眉を寄せて明かりを落とした。ともかく、今彼が眠ろうとしていることが何よりだ。

『……な、音きかせて』

『はい、なんぼでもどうぞ』

 頷いて腕を広げると、種ヶ島がもぞもぞと動き、白石の左胸にそっと耳を寄せた。

外ではびゅうびゅうばらばらと、暴風雨が続いている。目を閉じて白石の心音に耳を澄ませる種ヶ島の体は、もうその音に竦むことはなかった。やわい髪を胸に抱き、白石は再び乱されることのないよう祈りながら、種ヶ島の静かな息を聴いた。

「あかるい、から、なぁ……、へいきやねん」

「ん……?」

「……、あかるい……おまえの、そば、は」

 急に紡がれたいとけない言葉は、それきり穏やかな寝息に変わった。

腕の中をそっと覗くと、種ヶ島はうっすらと微笑んでいるように見えた。その閉じられたまるい瞼の目頭からゆっくりと、無防備な雫が一粒生まれるのが見えて、白石の胸を深く震わせた。

 それは、高い鼻梁と目頭の間でひととき溜まりを作った。やがて小さな光がふるふると揺れ、美しい鼻筋を伝うようにこぼれていく。赤ん坊のように安らいだ寝顔を静かに湿らせる雫を見ていると、胸から噴き出すような涙が白石の目から落ち、枕を濡らした。それはあの夜の涙に似ているようで、少しも同じではなかった。

 寄せては返す優しい波のような息の音は、なんて美しいのだろう。あどけない寝顔の中をゆっくり流れるひとしずくは、どんな宝石よりも尊く思えた。白石はぎゅっと唇を噛んで息を殺し、びしょ濡れの目を凝らしてそれを見守った。ようやく安息を取り戻したこの人を、また起こしてしまうわけにはいかなかった。

 白石は、次から次へ、うるうる盛り上がってはあふれる涙を音もなく枕に吸わせながら、静かに視線を上げた。

 デスクの上に、閉じたアルバムが見える。あの中にいた、俺が恋をした種ヶ島先輩。あの人に、こんな夜があるなんて想像できなかった。ぼさぼさ頭も、くたびれた猫背も、寝ぼけて足をぶつけることがあるのだって、考えもしなかった。出会った頃の彼はそれくらい輝いていて、眩しくて、かっこよかったから。

 けれど、どうしてだろう。いつもきらきらしていたあの頃の彼よりも、今腕の中で身を休めているこの人の方が、ずっと愛おしい。セットされていないふわふわの髪が、よれたシャツを着て横たわる体が、子どものようにシャツの裾を握る大きな手が、ずっとずっと愛おしい。

 ――あの頃毎日見て、感じていたものの瑞々しいときめきや憧れには、もう二度と、出会えないんじゃないかと思うから。

 東京駅で不二が言ったことは、きっと正しい。あの頃が戻って来ることも、同じ温度で再生されることも、きっともう、永久にない。けれど、それは寂しくても、悲しくはなかった。

 例えば、晴れ渡る五月の木漏れ日、流星群の夜、朝日に浸かる見渡す限りの新雪の野原、太陽が一番近い日の果てない海。彼の命が最上の輝きを放っていたあの頃、この世にあらん限りのうつくしい景色をあつめたような日々をくれたこの人が、同じ景色を二度と見せてはくれないのだとしても、古くなっていくこの心があの頃と同じ輝きを捉える日はもう来ないのだとしても、涙が出るほど幸せだ。

「……しゅうじさん」

 白石は吐息だけで世界一うつくしい名を呼び、溢れ続ける涙に引き攣る唇で微笑んだ。

 この優しい人が無条件に安らげる場所になれること。強いこの人が強くいられない少しの夜に、傍にいられること。残りの命をそうして一緒に歩んで行けること。

 今白石にとってほかのどんなものよりも大切で、何を賭けても失いたくないと思うのは、ただそのことだけだった。

 

  ◆

 

 

 目覚めると、朝が来ていた。カーテンの向こうに力強い光の気配がある。台風はどこかへ去ったのだ。

 目を落とせば、胸の中で種ヶ島が眠っていた。寝ている間じゅう抱き付いていたのだろうか、片腕が背中の方へ回されたままになっているのに気がついて、白石は種ヶ島の銀髪をそうっと梳いた。

 すると、花びらがふっと水面に浮き上がるように、種ヶ島の瞼が開いた。夢現の狭間を漂う瞳がゆっくりと瞬きした後、こっちを見る。眠たそうな目が今朝はちゃんと光を映して輝いている。それを認めれば、白石の頬は自然と綻んだ。

「おはようございます」

「……はよ」

 指に懐いてくる髪の毛から頬へと手を滑らせると、心地よさそうに閉じられる瞼は今にももう一度眠ってしまいそうだ。そんな仕草までもが切ないほどの幸せに変わって、白石は鼻の奥がつんとするのをくすりと笑って誤魔化した。目を開けた種ヶ島がまたぼんやりと白石を見上げる。

「もうなんともないですか」

「ん」

「ならよかった。朝ごはん、何がええですか」

「……、……豆乳スープ、たべたい」

「きのことベーコンのやつ?」

「ん」

「ほな、今朝はそうしましょ。お気に入りですねぇ、あれ」

「うん……、すき」

 ゆっくりと交わされる声は、お互い寝起きで篭っている上に掠れていて、聞き苦しいことこの上ない。視界の端には、昨夜揃える余裕がなかったスリッパがあちこちに散ったりひっくり返ったりしていた。カーテンの隙間から漏れた一筋の光線が、紐の垂れたシーリングライト付きの見慣れた天井に白線を引いている。

 今朝は、なんだかそんな平凡なもののすべてが愛おしかった。すぐ傍で微睡む温もりにもう一度しみじみと目をやって、白石はそっとベッドを出た。

 

 カーテンと一緒にリビングの窓を開けると、澄んだ風が吹き込み、白いレースカーテンをふわりと靡かせた。だいぶ涼しくなった秋の朝の空気は、何度も濾過した水みたいにくっきりと透き通っている。台風は風だけを残して過ぎ去り、青空が広がっていた。昨夜二人で取り込んだプランターは、もうベランダへ戻してもいいだろう。

 白石は壁面収納の本の隙間から小さなリングファイルを抜き出してキッチンへ向かうと、それを開いてカウンターに置いた。白いミルクパンと、ステンレスの小鍋にそれぞれ半分ほど水を張る。それを火にかけている間に冷蔵庫から材料を集めると、白石は広げたページに書きつけた文字に目を滑らせてから包丁を握った。

 しめじはパックの半分くらい。ほぐす時は少々大きめの房に。ベーコンは食感が立つよう大ぶりに切る。火が通ると少し縮むから、一センチくらいは厚みがあるといい。食べごたえのある方が、美味しそうに食べてくれる。

 図書館の本から書き写した時にはなかったメモがいつの間にかページを埋め尽くそうとしていて、白石は苦笑いを零した。料理には多少慣れたつもりだけれど、なぜか今もレシピとメモが手放せないメニューが多い。レシピの類をほとんど見ず、感覚的に料理ができる種ヶ島を羨まないでもないけれど、それでも白石は、春から始まった自炊生活と、密かにメモを重ねる日々が嫌いではなかった。メモを見ると、彼が喜んでくれた日のことを思い出せるから。

 鍋がふつふつと音を立て始めている。白石はミルクパンに計量した和風だしを落とし、しめじとベーコン、水で戻した椎茸を入れた。それからリビングへ足を向けると、横長のプランターを覗き込む。一か月ほど前に植えたほうれん草が食べごろだ。一つをそうっと引っ張ると、根元の土が盛り上がって一株抜けた。小さくても立派なほうれん草の色と形をしている。後で彼とも一緒に収穫をしよう、と微笑んで、白石はもう一株採るとキッチンへ戻った。

 丁寧に土を洗い落とし、小鍋で湯がいてすぐに湯を切る。水で冷やしている間に、ミルクパンに豆腐と豆乳を加えた。煮立ったら一口大に切った茹でほうれん草を落とし、味付けは合わせ味噌で。元気が出ますように、と祈る気持ちも一緒にして、白石はお玉にすくった味噌を丁寧に溶かした。

「おはよ」

 スープを盛ったカフェオレボウルをダイニングテーブルに置くのと同時に、白石の寝室から眠たそうな種ヶ島が出てきた。おはようございます、と笑い返し、開きっぱなしのリングファイルをさっと閉じる。彼はのろのろと背中へ回り込むと、後ろから腕を回してきた。起きたての温かい体はもう強張っていないし、背中に伝わる鼓動は緩やかだ。

「……ふふ、うまそ」

「食欲あります?」

「うん、……いつもありがと」

 彼はきゅうと抱擁を強めると、髪に頬をすり寄せてキスをくれた。テーブルの指定席に腰掛けた彼の視線がカフェオレボウルの中へと嬉しそうに注がれているのを見つけ、白石はひっそりと微笑む。

「もうあんまりないとええですね、悪い夢」

「どうやろ。昔からきっかけなしに急に来るし、よう分からへん。……でもこれからは、だんだんなくなっていくんかもしれへん」

「どうして?」

「お前と暮らすようになってから少なくなったもん。明らかに」

「え?」

「今思えばお前がこのこと知らんかったのも、まあ、半分は俺が話してへんかったせいやけど、お前と一緒に寝るときは悪い夢見いひんかったからやし」

 きっとそのうちなくなるわ。お前はほんまに不思議やな。種ヶ島はまだ眠気に緩んだ声でそう言い、スプーンを手に取ると「いただきます」と手を合わせた。

「……そうやと、ええですね」

 なんとか声を震わせることなく、白石は笑顔で答えた。

俺と暮らすようになってから、とか、そんなのただの偶然かもしれない。だけど、だけど、そうだったらいい。もしも本当にそうだったなら、この人を守る安らぎを与えることができているのだとしたら、俺は————。

「ん。ふふ、これほんま好き。食べごたえあるのにやさしい味やんな」

 具だくさんな豆乳スープを一口食べると、種ヶ島は子どもみたいに頬を綻ばせた。それは一晩ぶりに見る、彼らしい穏やかな笑顔だった。

「……ほな!俺もいただきます!」

 胸がいっぱいになって、白石は元気よく手を合わせてカフェオレボウルを引き寄せ、浮かんだ嬉し涙をいつもの、しあわせな朝の中に紛らせた。

 あの頃とは違っていても、もう戻れなくても。

 かけがえのない今がここにある。

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