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​十一月 一等星とだし茶漬け

 今夜も星は燃えているのだ。

 ふとそんなことを思うと、胸の端がじんと、懐かしく痺れた気がした。

 それは、おおきな雲が空を覆った夜だった。誰も空を見ないような夜だった。

 

  ◆◆

 

 

 明かり一つも見つからない濁った夜空を見渡し、種ヶ島は小さく嘆息してカーテンを閉めた。

 今週に入ってめっきり肌寒くなり、大通りに並ぶ街路樹は赤に黄色に染まり始めている。昨夜は彼と、週末には掛け布団を出してしまおうと話したくらいだ。そろそろ東に明るい冬の星々が昇る頃だろうと空を見てみたのだが、あっちの山からこっちのビルまで、あいにくの雲であった。

 明日は晴れるとええなぁ。ささやかに願い、風呂上がりの髪をタオルで搔き回しつつ窓際を離れると、種ヶ島はキッチンで水を一杯飲んだ。シンクにコップを置く何気ない音が、池に石でも投げ入れたように部屋に響く。いつもなら二人並んでソファに座り、彼の好きなお笑い番組を見て過ごす金曜の夜が、今日は静かに流れている。

 二十三時を回った。彼の部屋のドアは開く気配がない。明日の準備はまだ終わらないようだ。

 

 

「励まされたぁ?生徒さんに?」

「あはは……、はい。一年生の子なんですけど、その子のお母さんが、『講習会言うても栄養士ちゃうんやろ』言わはったそうで。なんとか参加はしてもらえるよう説得してくれたらしいんですけど、『明日はおかんにぎゃふんと言わせたってな!』て、よう分からん応援されてしまいました」

苦笑いと共に白石がそんなことを話したのは、今夜の夕食の席でのことだ。

 スポーツファーマシストのキャリアの一環として、白石は近隣のいくつかの学校のテニス部でボランティアアドバイザーを務めてきた。アンチドーピングやサプリメントの活用方法などに関する薬剤師としての情報提供はもちろん、彼はそこから一歩も二歩も踏み出た栄養学の知識も織り込んで、選手の体を作るものについての指導に当たっている。地道な実績を重ねながら、いつか二人で同じチームを支えて世界で戦う夢のために、Uー17日本代表育成チームをはじめとするテニス関連組織からトレーナーやスタッフの公募が出る時に備えているのだった。彼が目指しているのは、薬学だけでもなく、栄養学だけでもなく、選手が摂取し心身を構築するすべてのものに関して総合的に検討、アドバイスができる、これまでにない枠組みの専門家だ。

 来年春の転居を決めたことで、数年間に渡った彼の関西での活動は、今年区切りを迎える。明日、四天宝寺高校男子テニス部で行われる生徒・保護者向けの講習会が、最後の務めになると聞いていた。高価なサプリメントなどの使用が現実的ではない高校テニスの選手たちのために、食事で摂ることが望ましい栄養素やその量について、家庭で取り入れられる食材を取り上げて説明を行う、年に一度のイベントなのだそうだ。

「あらら。そらまたおもろい子がおるなぁ」

 大きな瞳が一瞬、頼りなく宙を泳いだのに気づき、種ヶ島は努めて明るく返した。白石はしかし、箸を止めたままぽつりと呟いた。

「やっぱり、栄養士の資格がないと難しいんやろか」

 種ヶ島が一瞬返答を迷うと、すぐさま我に返った白石は慌てて笑い、「ま、そこは言うてもしゃあないですね」と言い聞かせるように話を切った。笑顔を返し、白石が元気に夕食を再開したのを確認しつつ、種ヶ島の心には小さな波紋が生まれていた。彼がこのことについて弱音を吐くのは、初めてだ。

 

 この夏、彼がアドバイザーを務めた四天宝寺高校男子テニス部は、団体戦で実に七年ぶりの全国優勝を果たした。

 チーム内には、今後Uー17日本代表選抜合宿に確実に乗り込んでくるだろう一、二年生の実力者も何人かいた。来年から日本代表のチームスタッフを務める者として、今年の夏の決勝を東京まで見に行ったけれど、今年の四天宝寺高校の強さには抜群の安定感があった。

 その強さの根底にあるものに気付くのに、そう時間はかからなかった。それは、他校に比べて一回り大きな選手たちの肉体と、主力選手の故障の少なさだ。地味で目立たないその二つが、力強く彼らを支えていた。四天宝寺高校の優勝が決まったとき、これは薬剤師としての知識はもちろん、独学ながらスポーツ栄養学にも精通した彼の貢献がもたらした勝利でもあると、湧き上がる観客席の真ん中で胸を熱くしたのに。

(……それでも、「栄養士ちゃうんやろ」か)

 学生テニスに対して、薬学と栄養学の両側面からのアプローチに彼ほど熱心に取り組み、成果を上げている若い人材は、勤務先のテニススクールの同僚や教え子たちに聞いても他にいない。贔屓目なしに、彼は日本の学生テニスを大きく発展させる可能性を秘めた存在だ。それでも、彼のことをよく知らない人々にとって、客観的な資格の有無はやはり分かりやすい評価の目安なのだろう。大学の薬学部を出てすぐ就職した彼には、栄養士の資格はない。白石は二年前にもその点を理由に、中学テニス日本代表チームに帯同する臨時トレーナーの公募に落選していた。

 

 

 脱衣所で濡れた髪を乾かしてリビングへ戻っても、白石はまだ部屋に籠っているようだった。いつもなら、彼はもう眠りにつく頃だ。種ヶ島は白石の部屋の前に立ち、控え目にドアをノックしてみた。返事がないのに首を傾げ、そうっとドアを開ける。

 白石はまだ黙々とデスクに向かっていた。肩にカーディガンを羽織った部屋着姿だ。暗い部屋にデスクライトだけを点け、パソコンのキーボードをかたかた鳴らして何かを打ち込んでいる。集中しすぎて周りの音が耳に入っていないと見えた。ややあって、ドアから差す光に気付いた白石が振り向いた。パソコン作業のときだけ掛けている黒縁眼鏡の向こうで、種ヶ島の姿を認めた瞳がにこりと微笑んだ。

「もう寝ますか」

「うん、まあもうちょいしたら。お茶なくなったんちゃう?おかわり持って来よか」

 デスクの端に追いやられているマグカップを指差すと、彼は「よう分かりましたね」とマグカップを揺らした。

「ほな、お言葉に甘えて。……あ」

「ん?」

「お茶やのうて、コーヒーもらえますか」

 徹夜するつもりか。種ヶ島は静かに察した。少し疲れているように見える眼鏡の向こうの瞳に、それでもまだ小さな火が灯っている。出会った頃から尽きることのないそれに目を細め、種ヶ島は「了解。濃いめのな」と空のマグカップを受け取った。

「あは、すんません。いやぁ、みなさんにしっかり理解してもらえるようにせなと思ったら、明日の指導内容組み直したなってもうて」

「おお、もっと良うできそうなわけや」

「さあ……もうただの自己満足のような気もしますわ。やれるだけやらな気が済まんってだけで、悪あがきかも」

 そう言った口許は、無理矢理笑っているみたいだ。白石はそのままパソコンに向き直りかけたが、少し迷うようにしてから眼鏡を外すと、振り返った。困ったような笑みと共に、両腕が種ヶ島のいる方へと伸ばされる。仕草はどこかぎこちない。いつもは種ヶ島が取ることの多いそのポーズに、彼はあまり慣れていないのだ。

「少しだけ充電、ええですか」

「もちろん。なんぼでも持っていき」

 請われるまま、彼がいつも応えてくれるのと同じように両腕の中に歩み入る。苦しそうに微笑む白石を、種ヶ島はそっと抱きしめた。腕の中、ふう、と束の間の休息に浸る息が漏れる。種ヶ島は目を閉じて、白石の体に接した腕から、胸から、伝わってくるものに耳を澄ませた。

 今夜はやけに辛そうだ。これまで何度か同じような壁に直面したときも、二年前の公募に落ちたときも、泣き言を言わず進んで来た彼が。

 種ヶ島はデスクに目を滑らせた。備え付けの棚には、付箋が無数に飛び出た栄養学の本が詰め込まれている。コーチングや話し方の書籍まで複数見えた。デスクに広げられたノートには図と文字がびっしり書き込まれ、その下の分厚いリングファイルには、選手のものであろう名前が記されたインデックスが見える。サイドテーブルの引き出しの中に、同じようなものが他にいくつも収められているのを知っている。パソコンの中に保存されている資料やデータに至っては、一体どれほどあるのか見当もつかない。彼はこれらを全て、薬剤師として週五日の勤務をこなす傍らでやってきた。

 まだ。これでもまだ、近づけないのか。

 健気な体温と一緒に泣きたくなるような焦燥が流れ込み、種ヶ島の胸に滲む。

「よっしゃ、これで一晩気張れるわ」

 しばらくして上げられた顔は、もう気丈に笑っていて、確かに幾分元気を取り戻したように見えた。種ヶ島はもどかしさに蓋をして努めて明るい笑顔を作り、柔らかい髪を撫でる。

「さよか?ほな、俺は美味いコーヒー持って来たろかぁ」

「ふふ。はい、お願いします」

 するりと離れ、デスクの上に戻って行った腕を見送って、種ヶ島は静かに踵を返した。

 ドアを引いて部屋を出かかったところで、もう一度だけ部屋の奥へと視線を投げてみる。暗い夜の部屋の中、彼が積み重ねたものでいっぱいのデスクだけが、ランプに白く照らし出されている。再び一心にキーボードを打ち始めた背中が見える。

 その姿に、白いユニフォームに包まれた、一回り小さい背中が重なった。重たそうに貼りつくJAPANの文字に、それでもきちんと袖を通していた。暗いオーストラリアの夜、白く照らされたコートで、一人汗まみれでボールを打ち続けていた背中。あの夜と同じ、切ない焦燥に胸が濡れる。

 ――俺は、あの子に何をしてやれるだろう。

 閉じたドアの前で空のマグカップを見つめると、あの時と同じよう、頭はそんなことを考えて始めていた。同時に、懐かしく張り詰めた異国の夜の空気が濃く漂った気がして、種ヶ島は小さく口の端を上げる。

 あの時は、彼をコートに残して戻った宿舎の窓から、何気なく夜空を見たのだ。見えたのは南半球の、名前も知らない一つの星だった。流れる薄雲に何度も掻き消されながら、そのたびにまた光ろうとする小さな星を見ているうちに、気付けば君島の部屋の前に立っていた。

 きっとあれが、始まりだった。

 

 

 コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てている。一晩おかわりがなくならないようにたっぷりセットしたから、出来上がるにはまだ数分かかるだろう。

 種ヶ島は冷蔵庫を開けた。顔を突っ込んで、あちこち中を漁ってみる。彼が今夜いっぱい力を出せるように、夜につけ入る焦りに足を引っ張られないように、夜食を差し入れようと思い立ったのだ。

 最初にさっぱりとした細うどんを思いついたけれど、あいにく麺を切らしていた。代わりに見つけたのは、ラップにくるまれた白飯だ。昨日余らせた分を冷凍してあった。これをおにぎりにしようかとも考えたが、寒くなってきた夜だから、メニューは温かいだし茶漬けに決めた。眠くなってしまわないようにごはんは少なめがいい。その分、かさましを兼ねて何か栄養のある具を入れてやりたい。そう考えて、冷蔵庫の中を見回す。

 まずは、今日の夕食で作り過ぎた卵焼きの残りを見つけた。これは使える。鮭フレークの瓶でも残っていなかったかと思ったのだけれど、こちらはいつの間にか食べてしまったらしく、もう見当たらない。

「あ」

 豆腐のパックを動かしてみると、最上段の一番隅に、焼き鳥の缶詰を見つけた。なんだか何か月もあそこにあったような気がする。職場の同僚から香典返しにもらったものであったような気がするが、いつ頃だったろう。一応缶を裏返してみると、さすが消費期限はまだまだ先だ。問題なし。これも使ってしまおう。

 白だしを程良く薄め、レンジに入れる。解凍し温めたごはんを丼に入れ、ほぐした卵焼きと焼き鳥の缶詰を混ぜ込んでいく。具は何を入れてもだいたい美味しくなる。元々は学生時代に料理が面倒になったときによく作ったものだが、軽い夜食としては上等だ。

 混ぜごはんができあがり、種ヶ島はレンジの残り時間に目を向けた。まだ一分ほどある。やはり静かなままの一人きりのダイニングに、レンジの作動音だけが響く空白の時間がぽっかりと訪れた。

種ヶ島は、ふう、とゆっくり一息つくと、もう一度目を閉じた。瞼の裏にあの背中が描き出され、体温と一緒に胸に染み込んで来たものが蘇っていく。今や半身を共有して生きているような心地さえするひとの心の内が、種ヶ島には手に取るように分かっていた。

 彼を焦らせているのはきっと、明日の講習会のことだけではない。

 そう思うと、胸が苦しくなった。

 栄養士の資格のない自分が、Uー17日本代表に関われる日が本当に来るのか。このままでは二人の夢を叶えられないのではないか。俺が一足先に夢へのステップを上る形となった今、彼は停滞した現状に歯がゆさを募らせ、急いている。それでも必死に前を向こうとしている。

 彼は近隣の中学、高校で合計三か所ほど、テニス部のアドバイザーを務めてきた。彼が大学を卒業し、この街で二人暮らしを始めた年に、ゆかりある四天宝寺高校のサポートに携わることができたのが足掛かりとなった。あとの二校は、四天宝寺高校での彼の評判を聞いた他校のテニス部が直々に、「どうかうちでもアドバイザーを」と彼に願い出たのだ。中には、部長を務めた学生時代の彼の人格者ぶりを覚えていて、是非にと声を掛けてきた顧問の教師もあった。どれも彼の、人への誠実さの積み重ねが芽吹いたものだ。

 彼の関わった学校は、四天宝寺高校以外の二校も大会での成績を伸ばしていたし、何より、三校に共通する故障率の低さは目を瞠るものがあった。白石の、選手の体質や性格まで織り込んだ粘り強い分析と、耳を傾けたくなる巧みでおおらかなアプローチの賜物に違いない。自身の夢のためにキャリアを積んでいる側面もあるとはいえ、全ての活動をほとんど無償で、ここまでやり尽くせる人間がどれだけいるだろう。種ヶ島は、道の先にある光を信じて疑わない白石のまっすぐな強さに何度目かも分からない恋を繰り返しながら、その全てを見てきた。

 だからこそ、たった一つの資格を持たないばかりに彼が正しく評価されないのが口惜しい。彼をよく知る人ばかりではないことを分かっていても、白石自身は前向きに取り組みを続けていても、ずっと、悔しくてたまらなかった。

 今年、四天宝寺高校が全国優勝という最高の結果を手にしたあの時、これで彼に強い追い風が吹くのではないかと、実を言えば大いに期待した。もしかすると彼自身もそうであったかもしれない。

 けれど蓋を開けてみれば、この成果をもってしても大きな変化がないのが現実だった。これではもうどこまで行っても変わらないのかもしれない。彼が焦りを感じるのも当然だ。このままでいるわけにはいかないのに、他に何ができるのか、思いつくことはどんどん少なくなって、彼の、そして二人の夢への道が閉ざされていくみたいで。

 種ヶ島は、瞼の裏に浮かぶ白石の背中をもう一度見つめた。なんとかしてやりたい。どうしたらいいのか、頭を捻ってみても、正直なところ目ぼしい答えは見えない。けれど一つだけ、思い当たる可能性がある。それは多分、彼が無意識に除外している選択肢だ――一人で生きているわけではない今、それは選べないと考えて。

 レンジの完了音が鳴り、種ヶ島は瞑っていた目を開けた。卵と焼き鳥を混ぜ込んだごはんに、レンジから取り出した熱い白だしを注ぐ。ふと思いついて、キッチンの奥の戸棚に隠しておいた秘蔵の高級韓国のりをちぎって上に載せた。大事に取っておいた最後の一パックだ。これ以上の使い道はない。最後に刻んだ小葱を散らせば、夜食の完成だ。

 抽出の終わっていたコーヒーをなみなみ注いだマグカップと、だし茶漬けの丼を盆に並べる。それから、夜中の糖分補給用に、星の形のキャンディーを三つ載せた。昔大学の売店で見つけて以来、元気の出るレモン味が好きで時々買っている。いつもは黄色い星だけど、今日のは水色。最近新発売のソーダ味。これもなかなかいける。

 ……もどかしいな。

 盆の上を眺めて、種ヶ島は嘆息した。お茶漬け一杯、コーヒー一杯、キャンディー三つ。載っているのはそれっきりだ。俺がしてやれることは、彼が今直面しているものの大きさに比べてなんて小さいんだろう。コーチと、スポーツファーマシスト。同じテニスに携わるものでも少し違う立場となった今では、なおさらだった。

 だからこそ思うのだ。せめて、"今の俺"にできることは全部させてほしい、と。

 

 

「おまちどうさん」

 再びドアを開けると、デスクに座った白石が振り向き、「どうもすんません」と眼鏡を外した。デスクに置かれた盆を見て、その目がくるりと光った。

「わ、お茶漬け!」

「夜食にな。食べれる?」

「ありがとうございます!実はめちゃめちゃ腹減ってました」

「さよか。ほなおあがり。熱いから気ぃつけや」

「はい。あ……星のやつや」

 最後に見つけた水色のキャンディーをランプにかざして嬉しそうに笑うと、白石はいそいそと手を合わせて丼に匙を入れた。

 あ、韓国のりや、わ、鶏肉はいってる、うま、あったか、と食べては湯気と共にはふはふこぼす横顔を、種ヶ島は腰掛けたベッドからしばらく見つめた。苦しげだった目尻がやわく細められている。お茶漬けを頬張った唇が緩やかな弧を描く。それらを見ているうちに、どうやって切り出そうか迷っていたその言葉は、驚くほど自然に、するりと口から滑り出た。

「なぁ蔵ノ介。学校行ってもええんよ」

「学校?」

「栄養士の資格取れる学校」

 白石はぱちぱちと目を瞬かせると、苦笑いになってだし茶漬けをもうひと匙すくった。

「それが、栄養専門学校って通信制とか夜間学校がないんですわ。卒業まで最短でも二年かかるし、仕事辞めるか休職でもせな通えへん。大学の薬学部六年通った後に栄養士の資格も取るなんて人おらんし」

「知ってんで。ちょっとやけど、俺も調べたことあるし」

「え?」

 口へ運びかけた匙を止め、白石が種ヶ島を見る。

「でも、通おうと思えば通えるんやろ?」

笑いかけると、デスクランプを白く弾く睫毛がふるりと揺れた。

「いや、そうは言っても学費かてかかるし。学校通う二年間はバイトぐらいしかできひんようになってまうのにですよ」

「学費は二人で折半したらなんとかなるやろ。生活も二年くらいなんとかなるて。自炊にも慣れたし、もうしばらく節約続けるのも悪ないんちゃうか。来年からは俺の稼ぎもちぃとは良うなるしなぁ」

 片目を瞑って見せれば、白石が静かに目を見開いた。琥珀色の瞳はやがて、戸惑うように揺れ始める。そこにうっすらと、新たな地平を見るような美しい輝きがよみがえるのを認め、種ヶ島はベッドから腰を上げた。

「ま、どうしたいと思うかはお前のもんやけど」

 決して行き止まりなどではない。道はまだ、いくらでもある。遥かな星を一心に見つめて走る彼の姿に、何かしてやりたくて痛いくらいに疼く心だって、ついでに変わらずここにある。だから少なくとも、絶望なんてすることはない。誰も進もうとしなかった方角でもいい。彼がその先にある可能性を信じている限り、いくらでも一緒に信じられる。

 希望を湛えて揺れる瞳を見ていると、そんな思いがこんこんとこみ上げた。するとなんだか急に照れくさくなってきて、種ヶ島は白石の頭をくしゃくしゃにして背中を向けた。

「茶漬け、白だしぶっかけただけやけどなかなか美味いやろ」

「……、はい、」

「ん。ほな冷めんうちに食べやぁ」

「修二さん」

 呼び止める声に、ドアを開けた種ヶ島は振り返った。

「ありがとうございます」

 彼が彼だけの星を掴んで見せたあの試合の後も、彼はちょうどこんな声で、礼を言ってきた。相変わらずまっすぐすぎるまなざしと言葉に、十年経ってもたじろがされる。

「……茶漬けくらいで、大袈裟やで」

 種ヶ島はなんとか一言嘯き、逃げるように白石の部屋を出た。ほんま、ずるい人やな。閉じたドアの向こうから、そんな呟きが聞こえた気がした。

 

  ◆

 

「――はい。はい。了解です。はい、ほなまた。はい」

 ただいま、と聞こえたのは、スマートフォンの通話終了ボタンをタップしたのと同時だった。朗らかに響いたその声に、種ヶ島はほっと胸を撫でおろした。

 廊下へ続くドアを開けると、右手に花束、左手に大きな紙袋を提げた白石が、玄関に立っていた。その顔にくたびれた、けれど充実した笑顔が咲いているのを認め、種ヶ島はにっこり笑って白石を出迎えた。

「おつかれさん、蔵ノ介」

 

 

「講習会の後、部員みんなでサプライズ送別会開いてくれたんです。たこ焼き食わされすぎて、腹ぱんぱんや」

 今日は夕飯食べられません、と苦笑いして、白石が隣にぼすんと腰掛けた。ソファの前のローテーブルには、残りをすべて持たされたのだというたこ焼きが、三パックほど積み重なっている。今日は種ヶ島の夕食も、このたこ焼きということになりそうだ。

 隣には、選手たちからのものらしい手紙や贈り物が詰まった紙袋が横たわっている。そこからはみ出ている寄せ書きの色紙の真ん中に、元気いっぱいの文字で〝イケメンくーちゃんへ‼〟と書かれているのを見つけ、種ヶ島は笑いを咬み殺した。彼がどんなに親しまれ、慕われていたのかが見えるようだ。

「どやった。講習会は」

「うまくいったと思います。顧問の先生と選手たちが、俺が喋り始める前になんややたら持ち上げて……味方してくれました。おかげで保護者の方にも、食事のこと十分納得して、理解してもらえたと思うし」

「さよか。よかったなぁ」

 彼の仕事ぶりを直接見たことはないけれど、その光景は目に浮かぶようで、種ヶ島はしみじみと目を細めた。周囲の人へ当たり前のように注がれる彼の下心のない誠実さは、いつでも信頼と縁とを紡ぎ出していく。そして、彼がひとに与えるたくさんのものが、巡り巡って彼自身へと返り、豊かにしていく。それは出会った頃から変わらない、彼の持つ不思議な力の一つだった。充実を滲ませる白石の横顔を眺め、種ヶ島もこれ以上ない気持ちで微笑んだ。

「……専門学校のことですけど」

「うん」

「今後の選択肢のひとつにして、少し考えてみます。他の方法も探りたいし、東京でしばらく活動してみて、様子見ながら」

「それがええかもな。俺もUー17で働き始めたら、何か手がかり持ち帰れるかもしれへんし。とりあえず来年、青学の高等部からはオファー来とるんやろ」

「はい。今、桃城クンが副顧問なんで、俺がアドバイザーやっとること『不二先輩から聞きましたよ』言うて、えらいノリノリで連絡くれて」

「はは、さよかぁ。また選手の力になれるとええな」

「楽しみです。今年の全国でも、青学はええ選手いっぱい、おりましたもん、ね……」

 幸せそうに話しながら、白石がうつらうつらと頭を揺らし始めた。結局朝までを講習会の準備に費やし、三時間ほど仮眠を取っただけで出かけて大仕事を果たした体だ。一息ついたところに、一気に疲れが出てきたのだろう。見ているうちにすぅ、と瞼は閉じてしまい、やわい髪が肩にもたれかかった。

「蔵ノ介、ベッドで寝よ。ここじゃ体ばきばきになんで」

「んー……」

「ほら、がんばり」

 左肩で眠ろうとしている白石を、種ヶ島は優しく揺すって立ち上がらせた。既に半分夢の中へ旅立っている両手を慎重に引いて、ゆっくりと寝室へ歩かせる。俺みたいに寝ぼけてテーブルに脚をぶつけてほしくはない。せっかくの嬉しい日に、痛い思いは無用だ。

 

 ◆

 

 

 すやすやと寝息を立てる白石を見つめ、種ヶ島はそっと毛布を被せた。相変わらず眠り姫みたいにきれいな寝顔だ。この中にあの強さが眠っていることが、一瞬信じられなくなるくらいに。

 ――何かしてやれることはないか。

 ぬかるんだ道でもまっすぐに進むことをやめない彼を見ていると、土から水が湧き出すようにそんなことを思わされる。余所見のひとつもしない痛々しいほどのひたむきさが胸を打ち、ただ報われてほしいと願ってしまう。昔も、今もだ。そうして彼に恋をした。

 

――『ところで種ヶ島くん。白石蔵ノ介くんっていたでしょう。君が高校三年の時よく見てくれていた、大阪の子です。彼、今は薬剤師をしているんだそうですが、近頃、関西の中高テニス部のアドバイザーとして活躍中と聞いたんです。ちょっと連絡を取ってみたいことがあって、事務局から手紙を出したいんですが、種ヶ島くん、交流ありませんか』

 

 さっき電話越しにそんな言葉を聞いた。来年の春からは上司ということになるのだろう斎藤至コーチが、相変わらず温厚かつ隙のないあの調子で尋ねてきたのだった。

 俺の住所に彼の名前で送れば届きます、と答えてやると、斎藤コーチは面食らったように一拍置いた後、とても珍しいことに、またなぜか嬉しそうに、大笑いした。「なんとなくそんな気がしていました」とあたたかい声で了解した斎藤コーチが、一体どんな用で彼に手紙を寄越そうというのかは聞き出せなかったが、きっと、何か良い知らせに違いない。昨夜「学校に行ってもええんやで」なんて言ったけれど、もしかするとあれはとんだおせっかいだったということになるかもしれないな、と種ヶ島は苦笑した。

 電話のことは、彼には内緒にしておこう。その手紙が、正しく彼の手に届く日まで。

種ヶ島は密かにそう決めると、眠る白石の額にそっと唇を寄せた。

「……ええもん、見せてもろたで」

 星のかけらをまた掴んで見せたひとに、種ヶ島は唇だけで囁いた。

 出会った頃よりさらに頼もしく、精悍に成長した彼だけれど、寝顔は今もどこかあどけない。そこに色濃く残る出会った頃の面影に、種ヶ島はしみじみと目を眇める。音もなくときめいている胸は、また彼に恋をしたのかもしれなかった。

 白石の部屋のドアを静かに閉め、種ヶ島はリビングのカーテンを引こうと窓際に立った。すると窓の向こうに一つ、光が見える。漆黒の東の山際にひときわ明るい星がひとつ、煌めいていた。シリウスだ。全天で最も明るい、冬には夜空の主となるだろうその星は、人目に見えぬ夏の間も、雲に遮られた昨日の夜も、自ら定めた場所を守り、同じように燃えていたのだろう。

 種ヶ島は、その純白の光を見つめて微笑んだ。何も言わず、ただ生真面目に自身を全うして光り続ける無二の輝き。それはついに広い夜の裾を掴み、今まさに、晴れた空高くへとのぼろうとしていた。

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