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​十二月 秋晴れのおにぎり

 ひたひた、ひたひた。心地よい眠りの浅瀬に浸かっている。きっともう辺りは明るい。感じる微かな光にそう思うけれど、瞼を上げてこの安らぎから抜け出てしまうには、まだ惜しかった。

 控えめに動くスリッパの音が、靄のかかった頭の端をくすぐっている。寝坊を許してくれているのだ。そよ風のように耳のふちを撫でるその気配に、種ヶ島は眠りの国の出口を逍遥しつつ、ふっと口許を緩めた。

 瞼を細く開けてみると、ローテーブルに散らかったままの紙とパソコンの上に、群青色のマグカップが薄い影をつくっているのが見えた。ハーブティーが入っていたものだ。「無理はだめですからね」。夜更け前、そんな言葉と花びらみたいなキスとをつむじに落とし、彼はあれを置いていった。飲むと淡い花の香りがして、体をぽかぽかにしてくれたっけ。そのあたたかさを思い、種ヶ島はやわらかなブランケットにくるまって、再びうっとりと瞼を閉じた。

 今朝は少し肌寒い。大阪で過ごす最後の季節が、もうそこまで来ているのかもしれなかった。

 この毎日の中にいつまでもあり続けたい。

 理由といえば、ただそれだけなのだと思う。

 

  ◆◆

 

 

「……はよ」

「おはようございます」

 応えた声は笑い混じりだ。俺はまだよほど眠そうに見えるのだろう。おはようの声はろくに出ていなかったし、目も半分ほどしか開いていないような気がするので、仕方がない。

 ダイニングの指定席に突っ伏すように崩れると、片手鍋の前に立った彼がまた笑うのが見えた。いい景色だ。この家に住み始めた時、こちら側を指定席にもらったのは正解だったと思う。彼は拘らないと言うから、対面式のキッチンに立つ彼がよく見えるだろう席を選んだのだ。なんですかその理由、と彼は呆れていたけど。

「ふふ、ここ跳ねてますよ」

「んー……」

 彼が後ろ髪をちょんと弾いて背中を通り過ぎていった。くすくすと花びらみたいな笑い声が降る。まだ半分眠りに沈んだ体にはそれさえも心地よくて、種ヶ島は恍惚と瞬いた。

「何時までやっとったんですか。ちゃんと寝れました?」

「三時前やったかなぁ。朝飯当番代わってくれておおきに」

「それはお安い御用ですけど……」

 昨夜は、来年のUー17日本代表候補としてピックアップされている二十名ほどの中高テニス選手のデータを確認するのに夢中になって、夜更かしをしてしまった。先日、春からの勤務先となるUー17日本代表育成チームから、参考資料として送られてきたものだ。今の有力な学生選手たちにはかねてから興味があって、文字から映像まで、結局全ての資料に目を通した。仕事の後で疲れてもいたけれど、おもしろそうな若い選手がたくさんいて、わくわくして、止まらなくなってしまったのだ。休暇前夜、いつものように彼と裸で戯れ合いたいところでもあったけれど、それは今夜にも叶うことだろう。

「もう少し寝なくて大丈夫ですか」

「うん、なんや目覚めてもうたし」

「そうですか。おつかれさんでした」

「ん……」

「あ、ねえ、また貯金増えてましたよ。さっきアプリ見たんです」

「ああ、ボーナスと先月の節約分入れたもんなぁ」

「そうそう、ええ金額になってました。通帳もつけに行かなあきませんね」

 白石はテレビをつけて戻って来ると、今度は種ヶ島の髪を労るように梳いて通り過ぎた。キッチンへ帰る背中がうきうきと弾んでいるのを眺めると胸が温かくなって、種ヶ島は目を細めた。

やがてトースターからパンの焼ける香りが漂い始め、種ヶ島はようやく眠気に蹴りをつけて立ち上がった。元々の朝食当番は俺だったのだし、飲み物の用意くらいはしなければ。

 白石は、溶き卵を菜箸に伝わせて鍋に落としているところだった。手元を覗くと、とろとろ光るスープの中に、小松菜の緑と卵の黄色が鮮やかだ。小松菜は、今朝彼のベランダ菜園から採れたものだろう。「美味そう。ありがとうな」と声を掛け、コンロの後ろのキッチンボードへ向き直る。

 飲み物の用意とは言っても、種ヶ島はコーヒー、白石は紅茶が毎朝のお決まりだ。コーヒーメーカーに豆をセットし、紅茶用にケトルでお湯を沸かすとすぐに手持ち無沙汰になった。振り返り、スープを掻き混ぜるエプロン姿の背中にぎゅうと抱き付いてみる。

「わ。……ふふ、なぁに」

 いつもは「危ない」と叱ることの多い手が、甘い声といっしょに腕をさすった。おお、なんか、いつもより優しい。いつもだって十分すぎるくらい優しいけど。嬉しくなって首元に髪を擦り付けると、「こら、こしょばい」と笑う声が、やっぱり蜂蜜みたいに鼓膜に垂れた。

 

 

 いつもの食パンと、かきたまスープ、作りおきのコールスローがテーブルに並んだ。湯気を上げるブラックコーヒーを一口飲み、種ヶ島は向かい合わせでマーマレードトーストにかぶりつく白石を眺めた。

 くったりとした髪は、起きてブラシを通しただけだろう。顔は少しむくんで、目元は昼間よりぼやけている。最近部屋着になったよく分からないロゴのTシャツにカーディガンを羽織り、彼はぼんやりテレビを見て頬袋をむぐむぐさせていた。

「癒されるわぁ……」

「んえ?なんですか?」

「なんでもない」

 職場である薬局の同僚やお客、アドバイザーをしているテニス部の生徒たちなどは、こんな姿を決して知らない。今も外へ出れば完璧に映ることが多いだろう彼が、気兼ねも遠慮もない気の抜けた姿を見せてくれることは、いつも不思議な幸せをくれる。

「蔵ノ介は今日何するん」

「特に予定ないですけど、図書館行きます。今日が返却期限で」

「おー」

 ピーナッツトーストをかじって窓の外に目をやると、レースカーテンに透けた青空が見えた。きらきらと射し込む白金の光は、見ているだけで気持ちがよくて、まるで外へ手招きされているみたいだ。

「……俺もついて行こかなぁ」

「構いませんけど、休んどいた方がええんちゃいますか」

「おかげさんで遅く起きれたし、大丈夫。図書館までゆーっくり散歩しようや」

 紅茶の入った新緑色のマグカップを片手に、白石が種ヶ島の視線を追いかけるように窓の外を見た。そして、合点がいったように微笑む。

「……確かに、リフレッシュにはええかもしれませんね」

「そやろ」

「なら、少し先の野草公園まで行きませんか。花はもうないけど、まだ紅葉が見ごろかも。芝生とかあるし」

 その提案に、ぱあっと心が躍った。彼と紅葉狩りは初めてかもしれない。今日の天気なら、絶対にいい景色が見られる。

「ええなぁ、それ。ほな、おにぎりとお茶持って行こ」

「おにぎり?」

「紅葉見ながら食べたら美味そうやん。今年は花見できひんかったし、リベンジ!」

「なるほど。ふふ、なんや遠足みたいでおもろそうですね」

 やってみましょか、と白石が笑って、秋の休日のささやかな予定が決まった。目まぐるしい日常からひととき抜け出して、ゆっくり深呼吸するような一日を、今日はふたりで過ごそう。

 

 

  ◆

 

 

 当番だった少しの洗濯を済ませてベランダから戻ると、キッチンではもう白石がおにぎりを握り始めていた。エプロンの紐がクロスした背中の上、テンポよく握るのに合わせて外跳ねの髪がひょこひょこと揺れている。それをこっそり眺めつつ、種ヶ島は洗濯かごを片付けてキッチンへ戻った。

「作ってくれておーきに。俺お茶係するわ。おにぎりは蔵ノ介に敵わんから」

「おだて上手ですねぇ」

「ほんまやって。職場で食べてんのめっちゃ美味いで」

「……それはまあ、よかったですけど」

 春から始まった自炊生活の一環で、平日は朝食と一緒に二人分の弁当を作ることが決まりになった。忙しい朝に立派な弁当を作るのは難しいと早々に悟り、それぞれ上手な手の抜き方を編み出してきたけれど、前夜の残り物や作りおきにおにぎりを組み合わせるのは、彼が週に一回ほど使うパターンだ。

 軽やかに三角形を作っていく手元を見て、上達したものだ、と種ヶ島は密かに感心した。

 春、自分の作るおにぎりが種ヶ島の作るそれに劣ると気がついた彼が、かわいらしく眉を寄せたことがある。彼のだって立派に形になったおにぎりだったのだが、「俺のだけならともかく、あんなん修二さんに食わせられへん」と不満そうに口をへの字にしていた。

 握り過ぎひんのがコツやで、程度のことを教えた覚えはあるけれど、それからというもの、彼の腕は週を経るごとに上達していった。聞けばどこで覚えて来たのか、炊きたてのごはんで握ることも重要なのだという。俺よりも熱さに強いらしい彼のてのひらで手早く握られるおにぎりの味には、とっくに及ばなくなっていた。たぶん、本か何かでおにぎり作りのコツを勉強しては実践しつつ、失敗作は自身の弁当に入れたりしながら上手くなってくれたのだ、と種ヶ島は推測している。その努力の原動力のひとつは自分の存在なのだろうことを思うと、頬は自然と綻んだ。

「やけどせんでなぁ」

「今更しませんて」

 白石の横顔は満足そうだ。種ヶ島は釣られて笑みを深めながら、キッチンの戸棚を開けた。

「お茶も家から持って行くんですか?」

「ペットボトル禁止中やし、おにぎりには熱いお茶やろ。水筒のお茶がないと雰囲気出えへんしな」

「ご家族で花見のときはいつも持って行ってたんでしたっけ」

「そうそう。あら?コップつきのやつどこ行った?」

「食器棚の下は?」

 彼が顎で指した扉の奥に、目当ての水筒は見つかった。蓋が取っ手つきのコップになっていて、中にもうひとつ小さなカップが入った大型だ。それぞれのマグボトルもあるけれど、一つの水筒からお茶を注ぎ分けて飲む特別感が、子どもの頃からなんとなく好きだ。 

 それを手にキッチンへ戻ろうとすると、ダイニングテーブルに何かが置かれているのが目についた。ペンと、A4サイズの白い紙だ。その上に並ぶ重々しいブロック体がくっきり目に飛び込んできて、胸がどきりと鳴った。

「……退職届」

「あ、はい。話は一年前に通してありますけど、正式な書類の提出は来週からってことになってるんです。修二さんはとこはまだでしたっけ」

「うん、年明けでええらしい」

「ぱぱっと書いてしまおうと思ったら、作法とかよう分からんくて。あとで書き方調べな」

 初めて書くからなぁ。そう言って、彼はいつもと変わらない顔で笑った。

 種ヶ島はほうじ茶を淹れながら、ダイニングテーブルの退職届をもう一度横目に見た。白石は、四月から東京の調剤薬局への再就職が決まっている。あれは当然書かなければならない書類だ。けれど、あれを提出してしまえば彼の戻る道が本当になくなるのだと思うと、とてつもなく重いものに見える。

 来年Uー17日本代表育成チームのスタッフになることが決まったのは、俺だけだ。同じ場所を目指しているとはいえ、彼自身はまだ東京に用はないはず。新卒で入社して以来勤めてきた職場とも、生まれて以来ずっと暮らしてきた大阪とも、まだ離れなくてよかったはずなのだ——それなのに。

 そんな気持ちが一年ぶりによみがえった気がして、種ヶ島は内心で首を傾げた。今更気後れでもしようというのだろうか。次の春、揃って新しい世界へと踏み出すことを二人で決めたのだ。それを覆す気なんて毛頭ないのに。

 それなら、どうして胸が詰まるのだろう。塞いでいるようで、しかし飛び出したがっているようでもあって、何が詰まっているのだかもよく分からない。

 白石の手元では、おにぎりが完成しようとしている。いつも彼が握る大きめの三角形が、一人ふたつ。最初は梅や鮭だけだったレパートリーも、上達と共に随増えた。今日はどちらも混ぜごはんのおにぎりだ。塩昆布と炒り卵のやつが一つ。もう一つは、鮮やかな緑が混ぜ込まれている。一昨日京都の実家から届いた壬生菜の漬物だろう。

「あかん、もう美味い」

「まだ食べてへんのに?公園まで我慢できます?」

 うーん、なんとか。答えて笑い合い、種ヶ島はできあがったおにぎりを二つずつアルミホイルに包んだ。

 見ると落ち着かなくなる退職届を、視界から追い出すようにして。

 

  ◆

 

 

「忘れもんないですか」

 スニーカーの紐を結び直すと、鍵を持った白石が振り向いた。マルシェバッグの中には、おにぎりと水筒、ウェットティッシュ、それから、レジャーシート代わりのラグ。準備は完璧だ。

「ない!」

「よっしゃ、ほな出発!」

 エレベーターを降りてエントランスを抜けると、外は見事な秋晴れだ。清流みたいにひんやり肌を滑る大気の向こうに、抜けるような青空がある。種ヶ島はそれらを胸いっぱいに吸い込んで、隣を見た。同じように胸を膨らませた白石の瞳と髪が、ヴェールのような午前の日差しの向こうで光っている。「寒ないか」。尋ねた自分の声が思ったより柔らかくて、ちょっと驚く。彼はいつものように目を細めて、「はい」とこちらへ微笑んだ。

 すると、どう、と急に冷たい風が押し寄せた。膨らんだ白いビニール袋がはずむように車道を転がっていく。一息に体温を剥ぎ取っていく木枯らしに思いきり首を縮めると、白石が噴き出すように破顔した。そうだ、彼より俺の方がずっと寒がりなのだった。

「笑うなやぁぁ」

「すんません、すんません」

 薄手のコートの前をしっかり合わせる種ヶ島の横で、白石はロングカーディガン一枚を靡かせてへっちゃらな顔だ。彼は謝りながらもしばらくの間笑っていたけれど、本の入ったバッグを反対の肩に掛け直すと、温かい肩をそっと寄り添わせてくれた。

 裏道を抜けて日当たりのいい大通りに出ると、街路樹のイチョウの木は一つ残らず紅葉し、秋晴れの太陽を浴びて一斉に輝いていた。頭上を埋め尽くす金色に、わあ、と思わず漏れた感嘆の声が重なる。

「あー、おひさんあったかぁ」

 イチョウからこぼれる光を体に染み込ませるように伸びをすると、隣で白石がこっちを見ているのに気がついた。なに?と視線で問うと、楽しそうに首を振り、ふふと笑って前に向き直る。

「この分なら公園の紅葉も見頃ですね」

 光るイチョウ並木を映した大きな瞳が、幸せそうに弧を描いた。

 

 

 もうじき図書館へ着くところで、小さなカフェを通りかかった。イチョウの葉の積もった軒下に、黒板風のメニューボードが出ている。

「フレンチトースト二十分かけて焼くって書いてんで」

「ほんまや。……時間かけると美味いんやろか」

「ここ入ったことないもんなぁ。近いのにな」

 外壁の白いペンキに木目が透けているこのカフェは、家から歩いて十分ほどの距離だ。店の内装が見えない作りだからだろうか、この街に来た時からあった店なのに、なんとなく足が向かずに五年が経とうとしている。

「そういえばそうですね。俺が子どもの頃からある気がしますけど」

 白石がそう言って看板を見上げた。初めて聞く話だ。種ヶ島は思わず眉を上げた。

「へえ。この辺、子どもの頃から来てたん」

 種ヶ島の職場であるテニススクールと、白石の職場である調剤薬局。二つの中間地点であるこの地域は、彼の実家のある大阪中心部からは少し離れている。車か電車でなければ訪れるのは億劫な、郊外だ。

「図書館はこっちの方が大きいし、あと、俺がしょっちゅう野草公園に行きたがったんで。電車で連れて来てもらっとったから、いつもこの道歩いてたんです」

「そやったんや」

 ふと見ると、道の先の古本屋の前に、母親に連れられた小さな女の子がいる。伸びあがって看板を覗き込み、腰を折った若い母親と何やら楽しげに笑った。たどたどしさの残る足取りに合わせてやわそうな髪を躍らせ、母親を先導するように元気いっぱい歩いていく。それを横目に「図書館帰りやろか」と笑う彼も、あんな頃からこの道を歩いていたのだろうか。天使みたいに愛らしかったろうその子が母親に手を引かれて歩くところを思い浮かべ、種ヶ島はそっと微笑んだ。

 

 

 図書館が入った複合施設に着いた。ここに図書館があることは知っていたけれど、来るのは初めてで、種ヶ島はガラス張りの建物をきょろきょろと眺めた。白石はといえば、自動ドアのくぐり方も、図書館のフロアまでのエレベーターの選び方も、どことなく手慣れている。家にいるのに似た気安ささえあるような気がした。この図書館も、彼にとっては昔から親しくしてきた場所なのだ。

 エレベーターが開くと、そこには書架で埋め尽くされた広い空間があった。静寂と、音のないざわめきが満ち満ちている。

「これ返して来ますね」

 白石が小声で肩に掛けたトートバッグを指した。手には使い込まれた貸出カードが見える。「先に見て回ってるわ」と返し、小さく手を振り合って一旦彼と分かれた。数十メートルは続いていそうな書架の列を眺め、彼はこんなに大きい図書館に通っていたのか、と種ヶ島は目を丸くした。

 ふと見ると、書架の端に備え付けられたソファに幼い男の子が座っている。広すぎる座面に体全部を沈ませて、大きな目が夢中で図鑑を見つめていた。――彼もこんなふうだったろうか?なんとなくそう思って、種ヶ島は白石の行った方を振り返った。やはり慣れた様子で返却手続きをしている背中に、見たこともないはずの幼い彼の背中が重なって見えた気がした。

 俺にとってのこの場所と彼にとってのこの場所は、まったく違うのだ。

 ふと、そんなことを思った。俺にとっては、今日初めて訪れ、二度と訪れないかもしれないようなところだ。どれもこれも目新しくて、しかし一か月も経てば、ここで見たものを思い出せなくなっているだろう。しかし、彼にとってはそうではない。空気の手ざわり、絨毯を踏んだときの感じや、におい。そういうものを永久にどこかで覚えているような場所であるに違いなかった。

 図鑑を読む小さな男の子の横を通り抜ける。ゆっくりとそぞろ歩くと、かつてここにいただろう幼い頃からのすべての白石の姿が、書架の森の隙間に浮かんでは消えるような気がした。

 

  ◆

 

 

 まるで燃えているみたいだ。図書館からさらに五分ほど歩いた野草公園は、そう思ってしまうほど赤々と一帯を輝かせ、風に体を大きく揺らしていた。秋晴れの空の下、立ち並ぶ木々が一つ残らず紅と橙に色付き、振り落とした葉は波打つ芝生の広場までを埋め尽くしているのだった。遊歩道の傍に設えられた池にもそれらの景色が映り込み、静かな水面に鏡映しの秋が描き出されている。

 白石は迷いのない足取りで落ち葉に覆われた丘を登ると、ここにしましょう、と振り返った。真っ赤に照る大きなもみじの木陰だ。そこへふたり両端を持ってラグを広げる。

 さっきまで日が当たっていたらしい落ち葉の絨毯の上は、座ってみるとふかふかとあたたかい。高くなってきた太陽が落とす木漏れ日が気持ちよくて、種ヶ島はばたりと大の字に寝転んだ。そよぐもみじの枝葉の向こうに、透けた雲のたなびく青空が光っている。

「疲れました?」

 そこへ微笑む白石の顔が現れて、種ヶ島は目を細めて首を振った。

「ううん。ええとこやな」

 そうでしょう。覗き込んだ白石が嬉しそうに笑い、亜麻色の髪がきらきらと揺れる。冬に向かって薄れ始めている太陽が、後光のようになって彼の輪郭を透き通らせ、かんばせに美しい翳を落としていた。

「秋に来るの、何年ぶりやろ。懐かし」

 白石が隣に腰を下ろし、広場を見渡した。

「秋、よく来てたん?」

「小学生の頃、家族で毎年紅葉見に来とったんです。いつもこの木の下で一休みして、由香里が毎度そり遊びしたがるから、一緒にそのあたりでやっとった。俺がテニスで忙しなってから、なくなってもうたけど」

「へえ……」

 全然変わってへん。ほら、あれがヤマボウシ、向こうにはプラタナスの木もあるんですよ。指差す子どもっぽい横顔を、種ヶ島は寝転んだまま、ぼうっと眺めた。振り返った白石が、秋のおひさまと同じ穏やかさで笑いかける。

「まだお腹減りませんね。少し眠ってもええんですよ、昨夜遅かったんやから」

 白い指先が、目にかかった前髪をやさしく払った。そよ風のような手つきと声に瞼が緩んで、ああ、俺は眠いのか、と遅れて気がつく。でも、せっかく彼と一緒にいい場所に来たのにな。そんな僅かな逡巡を感じ取ったように、彼は微笑んだ。

「俺は本読んでますし、お腹空いた頃起こしますから。ね」

「……、……じゅっぷん、だけ」

「はい。分かりました」

 にっこりと頷く顔に、ほら吹きやな、と声に出さず笑って種ヶ島は目を閉じた。彼はいつものように、起こし忘れたふりをして二十分は寝かせてくれるつもりに違いないから。

 そっと髪を梳く指に送り出され、浅い眠りに漕ぎ出していく。弱い風が紅葉の木々を揺らす音と鳥のさえずりに混じって、また耳の端をくすぐるように、本のページをめくる音がしていた。その音を何回聴いた頃だろうか。種ヶ島はまだ微睡みつつ、ふっと小さく瞼を上げた。

 立てた膝に読みさしの文庫本を預けた白石が、景色を眺めていた。遠くへ投げられた瞳に滲む深い愛おしさに、夢の淵を漂うまなこが引き寄せられる。

 彼の視線の先へと目をやってみた。さっきと変わらない秋の色が炎のように揺れているけれど、今の彼の心に描き出されているのは、やっぱり、俺が見ているのと同じ景色だけではないような気がした。

 だって俺は、さっき彼が諳んじてみせた木の名前も、もうよく思い出せなかった。彼の目の奥にある懐かしさのみなもとも、彼がいつ、どうやってあの木の名前を覚えたのかも、この木陰にかつてどんな時間があったのかも、俺は知らない。あの図書館や、ここへ来るまでに歩いた大通り、他の場所にある彼の無数の思い出だって、知らない。

 ここ大阪はずっと、彼の場所だったのだ。

 生まれてからまるごと四半世紀の時間を、彼はここで生きた。俺が彼を知るよりはるか昔から、彼はこの街を知っていたし、この街も彼を知っていた。

 眠りの世界との境界線上で揺られながら、それが俄かに、とても大きな、決して切ってはいけないえにしのように思えた。小鳥が二匹、空に輪を描くように同じところを旋回している。遠くで遊ぶ子どもの笑い声がする。つめたい風と一緒に、無垢なその声が責めるように胸を引っ掻いた気がした。

「あ、起きました?寒ないですか」

 種ヶ島が目を覚ましたのに気がついた白石が、ぱっと景色から目を離して微笑んだ。

「くらのすけ、ここ、すき?」

「え?はい、まあ、そうですね……?」

「さよか。そんなら、そんならなぁ、」

 ――大阪に残ってもええんやで。

 口が夢うつつにそう動こうとしていることに気付き、種ヶ島ははっと覚醒して口を噤んだ。白石が怪訝そうな顔をした後、じとりと目を眇める。

「……あんた今何言おうとしたん」

「あ。あー、なんやったっけ。もう思い出せへんわ。忘れてもうた」

「嘘」

「なんでぇ!」

 思わず後退ると、昔のように誤魔化されてはくれなくなった白石が種ヶ島の腕をがっちりと掴んだ。ああ、こんなに白くてきれいなのに、相変わらずなんて力強い手!さすが今もラケットを握っているだけのことはある……なんて考えている場合ではない。まっすぐで、時に鋼のように頑固になる目が真剣にこっちを見ている。これは敗色濃厚である。

「言いなさい」

「そや、腹減った!おにぎり食べよか!」

「こら、ちゃんとこっち見んかい!」

「え、うわ!」

「わぁ!」

 苦しまぎれに手を伸ばしたマルシェバッグを取り上げられて、空を切った腕と一緒に体が傾いだ。種ヶ島の腕を掴んだままだった白石ごと、あの木枯らしの中のビニール袋よろしく弾むように回転して、ラグの外へ転げ出た二人は落ち葉に埋もれるように倒れ込んだ。はずみで舞い上がったもみじの葉が、覆いかぶさる形で止まった白石の頭に、種ヶ島の額にはらはらと落ちる。

 種ヶ島と白石は数秒、丸くした目をぱちくりと瞬かせ合うと、やがてぷっと噴き出した。

「はは、あはは!もう、なんなんこれ!」

「アハハ!めっちゃきれいに回ったぁ!」

 髪にもみじの葉をつけて大笑いする白石を見上げ、二人で涙が出るまで笑ってから、種ヶ島は口を開いた。

「大阪に残ってもええよ、言おうとした。ごめん」

「そんなことやと思った。あーあ。今回はそういうの言わんでいてくれたなぁ思っとったのに、心の中じゃやっぱり考えとるんや。俺は最初っから、修二さんが先にUー17受かったら一緒に行くつもりやったのに。あー寂し」

 あなたらしいけど。白石は尖らせた唇で付け加えると、そっぽを向いてしまった。

 苦笑いが浮かぶ。これまでのツケだ。彼の自由を守るつもりで選んだ言葉や行動で、悲しませてしまったことが何度かあるから。悪癖であったと思う。今思えば、彼の意思を置き去りにして、勝手に結論を出してしまったことも一度ではない。彼にだけは、そうしてはいけなかったのに。

「考えてへんて。寝ぼけただけ。ほんまに」

「ほな、なんでそんなん言いそうになんねん」

「……まぁ、内定出る頃は、ちょびっと考えてもうてたから」

「……」

「けど、それが最後。今は考えてへん。考えたって、結局あかんかったし」

 種ヶ島は眉を下げて笑った。

 彼が夢を叶える時まで、東京と大阪に分かれて暮らす方法もあった。彼にとってはその方がいい、なんて考えたこともある。だけど、自分に正直になってみれば、もう少しの空白も嫌だった。彼が傍にいてくれるこのあたたかい毎日を、いつまでも、いつまでも、途切れることなく。それはいつの間にか、簡単にゆずってやれるような望みではなくなっていたから。そして――彼もそれを望んでくれたから。

「もう一緒に来てくれな困る」

 そっぽを向いたままの白石の髪に、橙色のもみじが絡まっている。それを丁寧に取ってやりながら、種ヶ島は微笑んだ。

 むくれて波打つ白石の眉が少し緩み、不機嫌そうだった目がちらりとこちらを見る。もう一度目が合うと、今度はゆっくりと向き直った。大きな瞳がじっと種ヶ島を見つめ、一瞬泣き出しそうに歪んで、それから喜びも幸せも愛おしさも、全部を詰め込んだ眩しい笑顔に変わった。

「『来んな』言われてもついてったるわ!」 

 

 

 湯気をたてる水筒のコップをラグに置き、二人は「いただきます」と手を合わせた。かぶりついた壬生菜のおにぎりはとっくに冷めているのに、やっぱり魔法がかけてあるみたいに美味い。これこれ、蔵ノ介のおにぎり。なんて思って、彼の作るおにぎりの味まで体に染み込んでいる自分がおかしくなった。隣では白石が、ほうじ茶を啜って満足そうにため息をついている。

「帰ったら退職届の続き書くん」

「ああ、あれもう書いてしまいました。修二さんが服選んでくれてる間に」

「え」

「封して通勤バッグに入れたし、もうやることなし。完璧ですわ」

「さよか……」

 あまりの迷いのなさに呆気に取られたまま、種ヶ島はむぐ、ともう一口おにぎりを頬張った。

美味い。緩やかな風が吹き渡り、目に痛いくらい鮮やかに色付いた木々がざわざわと震えた。もう一口食べる。胸の奥から、何か大きなものがふくらんでくる。今朝退職届を見つけたときにも胸に詰まったのと同じ、切なくなるほどの何かだ。ああ、そうか、俺は——嬉しいのだ。

 代表スタッフの内定を報告した日もそうだった。彼は拍子抜けするほど軽々と、俺と一緒にここを旅立つことを決めてくれた。きっと、俺が思うよりずっと早くに決めてくれていた。そういえばさっき、彼は「最初から」と言った。「最初」って、一体、どんなに前からだったんだろう。

 生まれ育った街にも、職場にも、親友にも、家族にも、彼は長い別れを告げようとしている。大好きだった場所だ。平然としているように見えても、寂しさだって、不安だってあるに違いない。

 それなのに俺は、嬉しくてたまらなかった。ただ俺と一緒に行くために、彼がいくつもの大切なものとの別れを決断してくれたことが。少しも迷わず、俺をいちばんにしてくれたことが。彼が寂しいのも不安なのも嫌なのに、彼を大事に思うなら喜ぶべきことではない気がするのに、そのことがどうしようもなく、嬉しい。

「ええっ、修二さん?どうしました」

 ぽろ。気付いたら、涙がひとつぶ転がり落ちていた。目敏く見つけた白石が、ほうじ茶でむせかけている。

 小さくなってきたおにぎりをもう一口かじる。少しでもいいものを食べさせてあげたい。彼のそんな気持ちを固めたおにぎりは、いくら食べてもやっぱり美味い。健気でやさしくて、まっすぐに想い続けてくれて、当たり前みたいに全部をくれて——たぶんこの世でいちばん美味い。一生食べて暮らしたいと、思わずにいられないくらいに。

「なんや、美味すぎて泣けてきたぁ」

「ちょっと、ほんまに大丈夫ですか?」

「あはは」

 わけわからへん、修二さん。そう言って笑いながら、彼の目にも、まるでうつってしまったみたいに、同じような涙が浮かんでいる。

「東京でも作ってあげますよ」

 涙を拭おうとする優しい手が伸びてくる。微笑む目尻があたたかく光る。ああ、やっぱり彼と、一緒に生きていきたい。

 真っ赤に燃える公園の真ん中で、時がゆっくりと進んでいく。またひとつ、背中から涼しい風がどうと吹いた。色とりどりの落ち葉がからから音を立ててふたりを追い越し、傍らの彼があっと指を差す。促されるまま見てみると、色付いた葉が木々から水彩めいた秋の空へと一斉に舞い上がり、風の中を踊っていた。二匹の小鳥が旋回をやめ、葉の隙を縫って遊ぶように遠ざかっていく。

 その先で、空の底に青く沈む山が真白い帽子をかぶっているのが見えた。種ヶ島は隣で笑うぬくもりに肩を寄せ、今度は自分の人差し指をのばして、その景色を教えてやった。

 季節は冬へ向かっている。旅立ちの春に続く、最後の季節へと。

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