七月 わけあうたまご粥
音を立てて上がった水しぶきが、無遠慮に歩道のタイルを濡らす。通行人がいたらどうするんだ、といつもなら考えたろうか。濁った水を浴びせられる歩道を見ているばかりで流れも巡りもしない頭を、ぼやけた体から引き抜かれた別の自分が見下ろしている。
(何があかんかったんや……)
少々荒っぽいタクシーの運転に揺られながら、白石は力なく溜め息をついた。脱力感に任せて後部座席の背もたれに沈むとやけに心地よかったが、それだけ体から力がなくなっているのだと思うと気が滅入る。内から染み出すような鈍い身震いが、座席と背中の間を這い登っていく。食生活も睡眠も、特に怠った覚えはないのだけれど。
思い返してみると、今朝起きた時から、暑いのか寒いのか分からないような感覚はあった。それは朝の支度と午前中の業務の忙しなさに紛れてしまう程度のものだったと思うのだが、昼の休憩に入ったら急にこの有り様だ。せっかく作ってもらった弁当もほとんど食べられなかった。日頃から健康に人一倍気を付けている成果だろうか、彼と暮らし始めて四年以上が経つが、本格的なのはこれが初めてかもしれない。
どうしよう。
知れば大層心配するであろう優しい人の顔を思い浮かべ、白石はビルの隙間から空を見上げた。今日も薄墨が垂れ込める七月初めの空は、その向こうに頑なに夏を押し止め、ここ数日ずっとぐずついて雨続きだ。窓ガラスには切りつけたような線を引いて雨粒が走り、びしょ濡れの歩道には大きな水たまりが波紋を纏っている。
赤信号で車が止まれば、休みなく往復するワイパーの音がやけに大きく聴こえ、無機質な規則正しさが狭い車内をいっそう暗くしていく。シャッターの閉まった店の軒下にずぶ濡れで佇む一匹きりの小鳥が、やけにくっきりと目に留まった。
◆
仮眠から覚めて計りたくない熱を計ってみれば、体温計の示した数字は三十八度を大きく超えていた。こんな数字を見るのは成人してからでさえ初めてかもしれない。家に着いた時はもう少し低かったのに、と白石はダイニングテーブルにばったり伏せた。 認めたくないが、怠さも頭痛も明らかに増している。瞼に再び種ヶ島の顔が浮かぶ。
ここ数年は特に体調を崩すことなく過ごして来られたけれど、種ヶ島は白石の体の不調に対してすこぶる繊細だった。少し頭痛を訴えたりした時でさえ、平静を装う彼の目の奥には不安と心配が渦巻き、回復を知らせるまで決してそれが晴れないことに、白石はとっくに気付いていた。それは彼の深い愛情が姿を変えたものなのだと分かっていても、いまだに見慣れず、白石にとって、できれば見たくないものの一つであった。
そのとき、白石ははっとして壁掛け時計を見上げた。十九時を回っている。間もなく種ヶ島が帰って来る頃だ。いけない、今日は夕飯当番だった、と慌てて立ち上がるが、途端に泥でも飲んだかのような気持ち悪さがこみ上げる。白石はどさりと椅子に逆戻りして、再び静かに身を伏せた。参った、これは相当に、本格的な風邪らしい。
この状態ではすぐに異変を悟られてしまうな、と観念しかけたそのとき、白石の目に壁掛け時計の下のカレンダーが飛び込んできた。去年の年末の買い出しで種ヶ島が選んだ月めくりのカレンダーには、世界各地の鮮やかな海の写真がついている。それの今日の日付のところに、明るい青のマジックペンで書き込みがされていた。彼の予定のしるしだ。
「……、ナイスタイミングや……」
白石は力ないため息と一緒に呟いた。そうだ、今夜彼は職場であるテニススクールの飲み会があると言っていたのだった。隣の市で月に一度行われている出張テニス教室から車と荷物を置きに帰って来て、すぐに出かけてくれるはず。
種ヶ島がここに滞在するわずかの間だけ頑張って、先に眠ってしまおう。一晩ぐっすり眠れば今よりは良くなるだろうし、彼に知られるならせめてその後の方が心配させずに済む。
白石はそう自分を励まし、仮眠の間に乱れた髪を直すべく脱衣所に向かった。
「ただいま」
「おかえんなさい。どうでした、テニス教室」
「おもろかったで!屋内やってんけどやっぱり暑くてなぁ。でも子どもらは元気なもんやったから、負けへんように遊んで来た」
「ふふ、遊んで来た?」
「あ、ちゃうちゃう、教えて来た。着替えて出るわ」
「風呂は?お湯張ってへんかった」
「使わへん使わへん。飲み八時からやねん」
「ほな急がな。もうギリギリアウト濃厚ですよ」
帰って来た種ヶ島は、仕事着のウェアを慌ただしく脱いで洗濯機へ放り込むと、着替えを選ぶべく自室へすっ飛んで行った。
ドアが閉まったことをきっちり確認し、カモフラージュにと開いていた読みさしの実用書を閉じて、白石は大きく息をついた。普通に笑うだけでも力が要る。
どうして彼がリビングを出たことにほっとしなければならないのだろう。あと少し頑張れば出かけてくれる、なんて、まるで彼に早く出て行ってほしいみたいだ。そう考えると、鳩尾あたりのむかつきがぶくぶく大きくなって、白石は顔を顰めてテーブルに伏せた。
深呼吸を繰り返し、不安定に暴れようとする神経をなんとか鎮める。呼吸が落ち着いた頃、クローゼットの戸が閉まる音がして、白石はもう一度しゃんと背筋を伸ばして表情を作った。彼にとってはせっかくの楽しい夜なのだ。同僚との大切な付き合いもあるだろう。せめて明日の朝まで心配事はない方がいい。
何より、彼が外出を取りやめて一晩中そばで心配されるようなことになってしまっては、不調に加え、彼を不安にさせていることまでもが気にかかって、こちらも辛くなるのだから。
「さて、ほな行って来るわ!先寝とってな」
スマートフォンをポケットにねじ込むと、種ヶ島はダイニングテーブルを振り返って両手を広げた。ハグをせがむポーズだ。朝仕事へ出かける時にも、彼は寂しそうにハグをねだることがある。飲み会に出かける前でもかい、と思わず笑い、白石はいつものように腕を伸ばして応えた。よかった、これでようやく送り出せる。
「気を付けて。鍵持った?」
「持った。寂しかったら俺のベッドで寝ときぃ」
「自分のベッドで寝れますー」
「そんな遠慮せんと……、……」
ぎゅ、と子どものように抱き着いた大きな体にハグを返すと、その瞬間、種ヶ島の動きが止まった。
「……蔵ノ介?」
腕を緩めて覗き込んだ瞳を見て、白石はこれまでの努力が水の泡になったことを悟った。見たくなかった色が優しい目の奥にじわりと滲み始めたのを認め、悪いことをしたのがばれた子供みたいに胸が小さく縮んでいく。
種ヶ島は確かめるように腕に小さく力を込め直すと、いよいよ確信を得た様子で問いかけた。
「熱あるんちゃう?」
嘘だろう、こんな小さなハグひとつで。この体のことを知り尽くした人の洞察力を呪いたい気持ちになりながら、散り散りの思考回路をかき集めて次の方針を選び取る。こうなってしまった以上、この人を相手にしらを切るのは得策ではない。大丈夫、まだいつもどおりに振る舞える。
「ああ、はい、実はちょっとだけ。でも、微熱なんで」
「ほんま?」
「はい。普通に動けますし、今日早よ寝れば良うなりますわ」
しっかり笑顔を作り、十分安心してもらえるように言えたつもりだった。これで、なぁんやそっかぁって、笑ってくれるはず。そう思ったのに、種ヶ島は表情を変えず、ただふるりと一度、怖がるように瞳を揺らした。
「……俺、飲み行かんでここおるわ」
「いやいやいや、いくらなんでも過保護ですって、子どもとちゃうんやから。はよ行かなもう八時になりますよ。俺も修二さん見送ったら寝てしまおうと思ってましたし、行って。ね」
「でも、おらんよりおった方が」
いつもは頼もしい弧を描く眉はひそめられていくばかりだ。窘めてみても、精一杯笑ってみても、それは一向に緩んではくれなくて、白石はとうとうぱっと腕を振りほどいて立ち上がった。
その顔見たないから言ってんねん、と幼子のように泣いて怒りたい気持ちを抑え込み、一直線に自室の扉へ向かう。
「ほら、もう寝かせてもらいますんで。酔っぱらって入って来たらだめですよ、うつったらあかんし。明日には元気になってますから」
「蔵ノ介」
「いってらっしゃい。気ぃつけて」
ばたん。底が見え始めた気力をかき集め、どうにか笑みを貼り付け手を振って、呼ぶ声を追い出すように扉を閉めた。思いがけず鳴らしてしまった大きな音は、暗い自室に落ちる静寂を冷たく尖らせた。彼を理不尽に打ち据えただろう乱暴な音が冷たい雨音に置き換わるのを聴きながら、白石はベッドの横に崩れて顔を伏せた。
気持ち悪い。青白い蛍光灯が照らすリビングから「蔵ノ介」と呼びかけた彼の残像が、いっそう吐き気をひどくしている気がする。心配させたくなかったのに、あんな声聴きたくなかったのに、どうして上手くいかないんだろう。行って、とにかく、早く行って。暴れたがる内臓を宥めながらそう念じる時間がばかみたいに長い。
やがて、扉の向こうで種ヶ島の気配が静かに動いて遠ざかり、玄関のドアと鍵が閉まる音が聴こえた。よかった、とようやく深く息をすると、これで収まると思っていた不快感がまた襲ってきた。収まるどころか、今までで一番の大波だ。呼吸の仕方ひとつ間違えばここで吐いてしまいそうで、動けない。
いつの間にか外は大雨に変わったらしい。閉め切った暗い部屋にも、乱れた呼吸音と耳鳴りの向こうから、ざらさらと雨音が聴こえている。全部自分の仕業なのに、静まり返った家に響くその音はしくしくと心を痛めつけた。それはままならない呼吸と一緒になって苦しさに変わり、瞑った目にとうとう涙を滲ませた。「子どもとちゃうんやから」なんて言ったのは誰だ。瞼はどんどん熱く、喉は引きつって、心も体も制御できなくなっていく。
「……しゅうじさ、」
浅くなる息の下、いつでも助けてくれる人の名前を呼んだ。行かないでほしかったのだろうか。こちらから追い払っておいて今更助けてだなんて、なんて勝手なんだろう。彼は、呆れて出て行ってしまったのかもしれないのに。
――今からこんなありさまで、来年の春、俺は本当にここを出てもいいのだろうか。新たな場所で、変わる暮らしの中で、本当に、今までと同じ二人でいられる?
白石の目に、部屋の片隅に飾ったドライフラワーのブーケが映った。暗闇に沈んでいても美しいそれが、涙に滲んで見えなくなる。体じゅうで黒くとぐろを巻くものは激しい雨の音にぐらぐらと溶けていき、やがて何も分からなくなった。
◆
「蔵ノ介、……蔵ノ介」
肩を包む温かい手と優しい声が、息苦しい眠りからそっと引き上げた。ベッドに伏せていた顔を上げると、眉を下げた種ヶ島の顔がある。どろりと止まって動かない思考を置いて、ひとりでに動いた唇が「しゅうじさん」と呼ぶと、気遣わしげな微笑みが「うん」と頷いて、羽のように頭を撫でた。開ききらない瞼を瞬かせてみても、そこにいるのは彼に違いなかった。
「とりあえずベッド上がろ。床じゃ疲れてまうからな。立てる?」
「……出かけたんちゃうん」
「うん、色々なかったから買って来た。スポドリやろ、病院でもらったかもしれへんけど、一応解熱剤、おでこに貼るやつと……、あとほら、マスク。うつらんように気をつけるから、これで看病させて。な」
傍らの袋を搔き回し、ばりばりとビニールの口を破ると、彼はマスクを一枚着けて笑って見せた。雨粒まみれの白いレジ袋をぼんやり見下ろすと、ようやく少し頭が回り始め、じわり、目の前が滲む。
「……飲み会、」
「行かへんよ。行けへんなったって電話したから、心配いらん」
もう一度やわらかく髪を撫で、二つの目が優しく細められる。白いマスクで半分隠れているのに、彼の笑顔がくれる安心は少しも変わらない。じょうろからさらさらと、乾いた土に水を与えるようなそれは、いつもは心地よく注ぐばかりなのに、寂しさと後悔の土砂降りでしわくちゃになった心には滲みて、じんと痛んだ。追い出すような仕打ちをして、心配してくれた声も乱暴に潰してしまったのに、どうして。
「蔵ノ介」
唇が震え、また涙がこみ上げて落ちた。泣きたくなんかないのに、と手で拭えば、彼はすぐ腕を伸ばして包み込んでくれた。ひく、ひく、と小さく鳴る喉の震えが、温かい胸にそっと受け止められて、ざあざあ、あたたかい雨音に混ざっていく。
「ごめん、言うてから出ればよかったな。大丈夫、どこも行かへんよ。……泣かんで。苦しなってまうやろ」
あやすようなてのひら。労りでいっぱいの声。包まれながら、悪あがきをした挙げ句結局彼の世話になっている情けなさと、迷わずここに残ることを決め、大雨の中を買い物に行ってくれた彼の思いやりとが、弱った体の中に溢れた。大丈夫、と繰り返し囁く声に、白石はただ小さく頷いて応えた。「ありがとう」の言葉も、熱と嗚咽のせいで形にならない。代わりに背中に回した手にも、ろくに力が入らなかった。けれど、彼はこたえるように抱きしめ、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。
どうしてこの人に隠そうとなんてしたのだったろう?こんなに伝わってしまうのに。昔から、ずっとそうなのに。熱と温もりが混ざってふわふわと弛緩していく頭では、もう少しも思い出せなかった。
今日の雨音は目まぐるしいな、とのろく思考が回る。気を滅入らせる音であったかと思えば、すぐに心地よい音に変わる。彼の存在がそうしているのだと、熱に浮かされていてもよく分かった。今はまた、悪い事の前触れみたいな音に変わってしまっているから。
上手に白石の涙を止めてベッドに寝かせた後、薬と氷枕を運び、空調を整え、わざわざ封まで切ったスポーツドリンク二本を枕元に完備した種ヶ島は、それでもまだ足りなそうな様子で、ついには「布団ひいてこっちで寝る」と言い出した。
過保護、うつるって言ってるでしょう、うつってもうたらまた泣きますからね、と半ば脅して断念させることができたのだから、あの時間はやはり、少しだけ調子がよかったのだ。渋々諦めた種ヶ島の顔を思い出して微笑むことができたのは一瞬で、白石は一呼吸ごとに鉛を流し込まれていくような体にうんざりと目を閉じた。
小康状態のうちにシャワーを浴びて汗を流せたのは良かったが、ベッドへ戻って少しすると、具合は完全に元に戻った。むしろ悪化している気がする。夜が深くなって熱が上がってきたのだろうが、ますます体が重たくて、スプリングにめり込んでしまったみたいだ。熱で強制的に息が上がり、浅い呼吸が繰り返されて苦しい。
種ヶ島は、白石と入れ違いに浴室へ入った。放っておいたら入浴そっちのけで看病を続けそうだったので強引に入らせたのだ。部屋には、暗い雨音と一緒に、遠いドライヤーの音が聞こえている。茹だるように熱く重たくなっていく体と痩せ細っていく心とが、その音がもう何十分も続いているような錯覚をもたらしていた。
まだかな。苦しい。早く来て。
ままならない呼吸も相俟って、また情けなくくたびれてしまった胸が軋む。すぐそこに居るのに、彼が他のことをしているのが悲しくて、子どもの頃母親を恋しがった時のように、目に懲りない涙が滲んだ。 熱で精神までやられているな、とどこかで思うが、そんな分析は何の役にも立たない。
やがて物音が止み、彼がペットボトルとタオルを持って寝室に入ってきた。部屋に入るなりこちらを見た彼と、ぱちりと目が合う。
来て。こっちに来て。そう弱く念じると、彼はそれが届いたみたいにまっすぐ枕元へ来てくれた。
「蔵ノ介」
心配を微笑みでくるんだ優しい顔で覗き込むと、彼はまるで苦しさを感じ取ったようにそっと頭を撫でた。 その手つきが、きりきりと寂しさに虐められていた胸をそっと緩めていく。髪を梳く手と静かな声が心地よくて、安息を取り戻した白石はぼうっと目を細めた。
「眠れそう?」
「……」
緩慢な頭で少し考えて、白石はこくんと頷いた。彼はそれを見て何か言いかけ、飲み込んだようだった。恐らくは「やっぱりここで寝る」というような言葉だろう。しょうがない人、と白石はまた少しだけ微笑んだ。
息苦しさは、もうそれほど気にならない。彼が寛げてくれた胸で、このまま眠ってしまえるだろう。雨音が心地よく思えるうちに眠ればいい。既に落ちかかっている瞼には、簡単なことに思われた。
「夜中、苦しかったら携帯鳴らして。すぐ来るから」
「ん……」
「……ほな、おやすみ。よう寝てな」
白石が零した笑みに少し表情を和らげた種ヶ島は、そう言い聞かせて背中を向けた。指が離れ、やさしい瞳が見えなくなる。
すると、遠ざかる後ろ姿を見た途端、せっかく宥めてもらった胸に音がしそうなほどの寂しさが噴き出した。一人きりで越える夜の心細さが瞬時に想起されて頭を埋め、その深さに怯えた体が「まって」と声を上げる。
彼ははっと振り返り、すぐに枕元に膝をついた。
「どした?」
安心させるように微笑む種ヶ島の瞳には、なんだって解決してくれそうないつもの頼もしさがあるけれど、今は隠しきれない心配を湛えて頼りなくもあった。両方の色を重ねて揺れる瞳を見ていると、既にがたがたと形を失いつつあった心は簡単にほどけた。白石は、自分が言うべきではないことを口走ろうとしていることに気付いていたが、口から出る前にそれを止めるには熱い頭は鈍くなりすぎていたし、種ヶ島の目は優しすぎた。うつったらまた泣きますからね、なんて脅し文句で彼の言葉を却下したのは、俺なのに。
「……手、さわっといて」
「ん?」
「そこにおって。ねるまで」
ああ、俺はわがままを言っている。しかも、とびきりずるいわがままだ。なぜなら俺は、
「任せとき」
彼がそう言って微笑み、頷いてくれることを知っているのだから。
くたびれた右手が、温かい手のひらにそっとくるまれた。触れたところから、信じられないくらいに深い安らぎが生まれて、白石は目を眇めた。注ぐ深い紫色の虹彩をぼんやりと見つめていると、やがて体を苛んでいたすべてが優しくそこへ吸い取られ、右手のぬくもりに導かれるようにして、意識はようやく穏やかな休息へと沈んでいく。
彼が見ていてくれる。いつも何より大切にしてくれる瞳の中で、守られている。そのことがもたらす安堵は瞼が落ちても変わることなく、白石を眠りの世界に誘っていった。
「……ようなってや」
夢への入り口で、優しい雨の音と囁くような祈りが、疲れた体を包んだ気がした。
◆
翌朝、深い海底から浮上したような心地で目を開けると、黄色い物体が目の前に現れた。ぱち、と重い瞼を瞬かせてみれば、それは鮮やかな胸を堂々と張ってこちらを見ていた。……アヒルである。
いつもは浴室の隅にでんと座っているこのビニールのアヒルは、一年ほど前に種ヶ島が突然買って来たものだ。当初は、首輪よろしく二百九十八円の値札が掛かっていた。白石にはよく分からない琴線に触れたものを衝動買いする癖がある種ヶ島だが、「見てみ!俺に似すぎやろ!他人とは思えへんかってん!」と大笑いしつつ説明されたこのアヒルの購入理由には、今のところ賛同しかねている。
白石は、つぶらな目とふてぶてしい顔つきのアヒルとしばし見つめ合い、くすりと笑った。彼が自らの代理のつもりでわざわざ持って来たのだろう。目を覚ましたとき、白石が寂しくないように。そういえば、昨夜は散々寂しがってしまったのだった、と思い出して、白石は寝癖のついた髪を撫でつけた。
窓を見ると、もうすっかり明るくなっていた。無事に一晩眠れたらしい。慎重に体を起こしてみれば、昨夜よりずっと軽くなっている。
白石はアヒルに手を伸ばし、やわいビニールの体をそっと押して、きゅう、と鳴かせてみた。すると間もなく、コンコン、と小さなノック音が鳴る。まだ大きい声は出せそうになくて黙って待つと、音もなくドアが開き、そろり、とエプロン姿の種ヶ島が顔を出した。こうして何度か様子を見に来てくれていたのだろうか。覗いた顔も仕草もとてつもなく心配そうで、ぷ、と思わず吹き出すと、それを見つけた種ヶ島がぱっと表情を和らげて笑った。
「おはよう」
静かな、しかし嬉しそうな声があいさつした。白石は大きく頷いて見せ、もう一度アヒルを鳴かせた。なんだかこそばゆくて肩を揺らして笑えば、種ヶ島はますます顔を輝かせてドアをくぐった。カーテンをきれいに開け、ベッド際まで来ると、屈んでこちらを覗き込む。一息に明るくなった部屋にちかちかする視界の中で、銀色に波打つ髪と笑顔が一段と眩く陽光を弾いた。
「いくらか良うなった?」
「だいぶええみたいです。おかげさんで」
「さよか!よかった。ああ、ほんまよかったぁ。蔵ノ介が熱出すん初めてやったから、俺もうびっくりしてもうて。慌ててもうてごめんな。ちゃんと良うなりそうでよかった……」
彼は眉を下げて笑うと、優しく肩をさすってくれた。その手から何かの香りがした気がして、白石はくんと鼻を鳴らした。開いたドアからも同じ香りが漂っている。
「そや、お粥作ってん。食欲ある?」
「食べたいです。お腹すいた」
昨夜は水を飲むのも躊躇われる惨状だったが、気付けば腹の辺りに居座っていた不快はすっかり消え、美味しそうな香りが微かな空腹感を目覚めさせている。種ヶ島はいよいよもって嬉しそうに目を細め、頷いた。
間もなく運ばれてきたお粥は、たっぷりと丸いカフェオレボウルの中で、朝日に光る純白の湯気を吹いていた。種ヶ島はそれが乗った盆を、なぜか自分の膝の上に置き、にこにこ顔で器と匙を両手に持った。意図は一瞬で読めた。黙って両手を突き出す。
「……」
「……〝あーん〟してみたい、んやけど……」
種ヶ島は控え目に抵抗を見せたが、やがてしょんぼりと盆を差し出した。ふふ、と笑いが零れる。
「わ……卵入りや」
「種ヶ島家の風邪の定番。そっけない味やけど美味いで」
「へえ……」
器の中身は、あたたかいお日さまの色をしていた。「いただきます」と手を合わせ、たんぽぽみたいな黄色を匙で掬う。立ち上る真っ白な湯気を何度か吹いて口に入れると、まだ少し熱いくらいの温度と一緒に、ふんわりと卵の香りが広がった。塩で味を調えただけだろう素朴なたまご粥が、不思議なくらいに空腹感を癒す。動き始めたばかりの内臓をおどかさないやわらかさで、そっと体に入っていく。
ふと顔を上げると、真っ白な朝日の中から、ベッドに腰掛けた種ヶ島が穏やかに笑ってこっちを見ていた。白石は、幸せそうなその顔からなぜだか目を離せなくなった。そのまま二口めを頬張る。ふわふわのたまご粥がじんわりと舌をあたため、喉を通る。
「……おいしい」
ぽつりと呟くと、彼は目を細め、「さよか」と深く微笑んだ。もう一口食べる。彼の優しさを固めたような味と温度が体じゅうへ染みるように広がり、到達した胸の奥をじんと震わせた。
白石が食べるのをこの上なく幸せそうに見つめる種ヶ島の気持ちに、覚えがあった。同時に、昨夜彼がどんな思いだったかにようやく思い至る。
彼そのもののような、萎れた体と心に寄り添うように力をくれるたまご粥をひと匙ずつ味わううち、白石の目からはぽろりと涙が落ちた。滲む視界で、種ヶ島が目を丸くして手を伸ばすのが見える。頬をそっと滑った固い指先の温かさに喉が震え、ふたつ、みっつと落ちて行く。種ヶ島の手をすり抜けた一粒が唇へ流れ、たまご粥を塩っ辛くした。
「蔵ノ介?どした、無理に食べたらあかんよ」
「ごめんなさい」
昨夜熱に気付いてくれたときから、ずっと見守り、想ってくれた双眸を見つめ、白石はありったけの心を込めて詫びた。昨夜、彼を追い出すように閉めたドアの隙間から見えた顔が目の前に浮かぶ。「蔵ノ介」と呼んだ悲しそうな声が蘇る。
「おれ、具合悪いの、隠そうとした」
彼はあの時、とても傷ついたはずだ。
どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。どうして素直に頼ってしまわなかったんだろう。誰よりも大切で守りたい人に、ひとり知らないところで苦しむことを選択されるのがどんなに悲しいか、寄り添わせてもらえないことがどんなに悔しいか――俺はよく知っていたはずなのに。
「ごめ……っ」
小さな傘を差すことくらいしかできないとしても、そばでできることをさせてほしい。それは彼だって、同じなのだ。
「蔵ノ介。ええて。俺が言えたことちゃうしなぁ」
種ヶ島は切なそうに目を細め、白石の頬に流れる涙をもう一度拭った。盆と匙をそっと取り上げ、あたたかな胸に抱き寄せてくれる。昨日から何度もそうしてくれた指先は、今朝も変わらず髪を梳いた。お前が大切で仕方ない、と雄弁に語るこの手を、払いのけてしまったなんて。
「ほら、もう泣かんで。また気持ち悪なってまうで」
小さな子どもをあやすようにおどけた声が、柔らかい毬のように耳元で弾んだ。くすり、彼の意のままに笑みを引き出され、白石はいとしい胸に頬を預けて頷いた。
視界には、いっぱいに広がる彼の白いシャツと、それから、端に佇むあの黄色いアヒル。たまご粥と同じ色だ、と思ったらおかしくてまた涙が出た。あたたかな色彩は、彼に似ていなくもないのかもしれない。
大雨は過ぎ去った。開け放たれたカーテンの向こうから、夏に向かう太陽が二人を照らしている。