top of page

​九月 世界一のキムチ炒飯

 朝食当番、どっちやろ。

 この暮らしを始めてから起きて一番に考えるようになったことを、今日も変わらず考えた。カーテンの隙間から天井へと光が漏れているのが見える。二人の住むアパートに朝が来ていた。

 昨日は確か、彼か作ってくれた豆乳スープを食べて出勤した。いくつかある彼のスープのレパートリーの中で一番好きなやつだったから、朝からちょっと嬉しくなったっけ。ということは、今日の当番は俺だ。彼は何のスープが食べたいだろう?種ヶ島は薄明かりの天井をぼうっと眺めて思案した。

 キャベツを入れたかきたまスープ?それとも、袋半分ほど残っていたはずの冷凍シーフードでクラムチャウダー?眠たい頭に候補を並べてみるけれど、どれもいまひとつ決め手を欠く。

 考えあぐねて枕元のデジタル時計を見ると、時刻は六時半を回ったところだった。これはいい。この時間なら彼は必ず起きている。ラジオに合わせてお手本のような健康体操をするのが彼の日課だからだ。ここはひとつ、部屋を訪ねてリクエストを窺ってみよう。そう決めて寝転がったまま伸びをして、そこでようやく気がついた。

「……あー、そうや」

 寝ぼけた頭がようやく覚醒し始め、種ヶ島はむくりと体を起こすと、寝ぐせのついた頭を掻きまぜてひとりごちた。壁の向こうから聴こえるはずの健康体操のピアノの音がしない。一晩中抱いて寝ていた、彼の髪と同じ色のお気に入りのクッションが、ベッドの下へぽとりと落ちた。

 今日、彼は家にいないのだった。通りを走る自動車のエンジン音がひとつ、無愛想に通りすぎていなくなる。種ヶ島は取り残された静かな部屋でしょんぼり肩を落とすと、やがて緩慢にベッドから降り、一人きりの休日を始める覚悟を渋々決めた。

 カーテンを開ける。外は憎たらしいくらいにいい天気だ。

 

  ◆

 

『明日の夕飯は家で食べられますから』

 ボストンバッグを提げた白石は昨日の夜、そう言って出かけて行った。今日の朝から丸一日、東京の本社で行われる会議に出席しなければならないのだという。なんでやねん、リモートでええやん、と泣き言を並べつつ玄関まで見送りに出て、最後にいつもよりうんと長めのハグを頂戴したら笑われた。けれど、やっぱりあれでも足りなかった。分けてもらった温もりも、今朝はもう少しも残っちゃいなかった。

 部屋を出ると、朝一番のリビングにはカーテンの隙間から白い朝日が射し込み、ローテーブルに置きっぱなしのガラスのコップを二つ光らせていた。窓の反対側のキッチンは、まだ夜が明けていないような暗さの中に沈んでいる。カーテンを開け放ってみるけれど、今日はそれでも寒々しい。彼より先に起きた朝だって同じ景色を見ているはずなのに、彼の部屋のドアの向こうに温かな寝息の気配がないだけで、家じゅうに冬が来たみたいだった。

 いつもの癖でノックをしかけた手を下ろし、そのまま白石の部屋のドアを開ける。当然彼はおらず、きっちりとカバーがかけられたままの平らなベッドだけが種ヶ島を出迎えた。部屋に残る白石の残り香がかえって不在を際立たせて、種ヶ島は開けたカーテンをきれいにタッセルで留めると足早にリビングへ戻った。

 すると、スマートフォンのバイブが鳴った。画面に表示された「蔵ノ介」の三文字に、種ヶ島の心は急に浮かび上がった。いそいそとロックを解除すると、白石からのメッセージが現れる。

〈おはようございます 仕事行ってきます 十九時過ぎに帰れる予定です〉

 種ヶ島はそれを見てふにゃりと頬を綻ばせた。忙しい出張先の朝でも、彼の頭の中に俺がいて、わざわざ連絡をくれる。彼が聞けば「そんなん普通のことでしょう」と怪訝な顔をしそうだけれど、一人きりのリビングで受け取る遠くの白石からのメッセージはとても甘やかだ。種ヶ島は間違いなく今日初めて、笑顔になった。

 おはよう、了解、気を付けてな。連続で打ち込み、さらに〝さみしい〟と〝がんばれ〟のスタンプを選んで送信する。一拍置いて、もう一つ〝さみしい〟を付け加えた。画面を見て笑っているだろう白石の横顔を頭に描き、種ヶ島はもう一度微笑んでスマートフォンを置いた。彼は東京の宿泊先で、いつものように身支度をしているところだろう。毎日目にしているその慌ただしい光景が見られないというだけで、こちらはなんだか落ち着かないけれど、元気に朝を迎えているなら何よりだ。

 さて、朝食はどうしよう。種ヶ島は大あくびをしつつ思案した。彼がいなくて元気は出ないし、なんだか全部が面倒だ。今朝はいっそ朝食を抜いてしまって、このまま二度寝を満喫するのも悪くないかもしれない。種ヶ島がそう企んで食卓に背を向けたところで、再びスマートフォンが鳴った。

〈朝ごはんはちゃんと食べてくださいね〉

「……」

 トースターに食パンをセットし、つまみを回す。

 我ながら単純すぎる。誰かが見ていようものなら笑われそうだ、と種ヶ島は口を歪めた。しかし、単純で結構。日頃から種ヶ島の健康を気遣ってくれている白石が、今夜減っていない食パンを見つけて浮かない顔をするよりましである。俺は自分のことなんか少しくらい蔑ろにしたって構わないが、彼が大事にしているものを蔑ろにするのはごめんなのだ。だって、それは彼を蔑ろにすることだから。

 パンを焼いている間に飲み物の準備にかかる。いつもはコーヒーを朝食のお供にしているけれど、なんとなく、今日は紅茶の缶を手に取った。白石が毎朝の食卓で飲んでいるものだ。赤い缶の蓋を開けると、彼と一緒に過ごす朝の香りが立ち上り、冷えがちな今朝の心を少しだけぬくめてくれた気がした。

 紅茶をポットからマグカップへ注いで席に着くと、種ヶ島はやはりいつものピーナッツバターではなく、白石が愛用しているマーマレードを塗った食パンにかぶりついた。なるほど、紅茶に合うなぁ、と思って顔を上げても、いつもそこにいるはずの眠たそうな白石の姿が今朝はない。ダイニングテーブルの下に収まったままの指定席と、その向こうの白い壁とを見て、種ヶ島は今日何度目かのため息をついた。

(急に休みになるんやもんなぁ)

 仕方のないことだが、と種ヶ島は食パンをもう一口かじって肩を落とした。

最近は二人揃って土日休みのことが多く、休暇となれば家にはいつも彼がいた。たまに一人の休暇だってあったけれど、その時は退屈しないよう何かしら予定を作るようにしてきたのだ。しかし、同僚の急な都合でシフトを交換することになり、今日が休暇と決まったのは昨日の朝、勤務先のテニススクールへ出勤した後のことだ。彼のいない一日に備える時間は全くなかった。平日に今から捕まる友人もいるとは思えない。大人の平日休暇は孤独である。

 不運を嘆きつつパンを食べているうちに、時刻は八時半を回った。白石の始業時刻だ。もうメッセージを送っても返って来ない。そう思うと、種ヶ島はいよいよ誰もいない場所に取り残されたようになった。

(……さみし)

 すっかりしょぼくれている自分に気付き、種ヶ島はぶんぶんと頭を振った。ひとりきりの一日が始まってまだ二時間も経っていない。いい大人がこんな調子ではいかがなものか。

 種ヶ島は気分を切り替えようとポットから二杯目の紅茶を注いだ。すると、ポットから出てきた紅茶はすっかり濃くなってしまっていて、種ヶ島は、あちゃあ、と舌を出した。そういえば、茶葉は適当なタイミングで取り出さなければならないのだと、いつだか彼が言っていたっけ。慣れないことをするものじゃないな、と頭を掻き、ミルクティーにして飲んでしまおうと種ヶ島は冷蔵庫へ足を向けた。

「あ!」

 種ヶ島はそこで急に声を上げると、冷蔵庫の扉に留められていた一枚の紙をひっぺがし、大慌てで白石の部屋へ向かった。

 まずい。非常にまずい。彼に植物の水やりを頼まれていたのを、忘れていた!

 

『ここに書いてあるとおりにしてもらえたら大丈夫なんで』

 そう言って白石が冷蔵庫にカブトムシのマグネットで貼って行ったメモは、A4サイズの紙に図まで書き込まれていて、メモというより取扱説明書の風体である。赤のボールペンで書かれた〝なるべく朝イチで!〟の文字に勢いよく二重下線が引かれているのは昨夜のうちに確認していて、今朝起きたらすぐにやるつもりで眠りについたのに。

 じょうろ、霧吹き、ピンセット。〝道具は俺のデスクの上にあります〟の文字どおりに用意されていたお世話アイテムを手に、種ヶ島はリビングの窓からベランダに転がり出た。彼はいつも起きてすぐに植物の世話をしているようだったし、九時前の水やりはとても遅いような気がする。ごめん蔵ノ介、と心の中で謝り倒しつつ、メモに書かれたとおりに葉を点検し、水をやった。萎れているところはない……と思う。

 白石が育てる植物は、かつては毒草ばかりであったのだが、近年はそれに小さな野菜が加わるようになった。初夏に二人で二十日大根を収穫したプランターには、今は防虫ネットがかけられて、何か別の葉が土から顔を出している。少し前の夕飯の席で、「小さいほうれん草を植えたんです」と楽しそうに言っていたのがこれだろうか。別の大きな丸鉢には、ミニトマトが支柱に沿って高く育っていた。夏が来てから毎日のように我が家の食卓を彩っているトマトは、まだいくつも赤い実をつけて元気そうだ。植物のゆっくりとした変化を見守ることの面白さは、彼と一緒に野菜を収穫するようになってから、少しだけ分かってきたような気がしている。

 どれも彼が毎朝大切に手入れをしている植物たちだ。もし俺の間抜けのせいでだめになってしまったらどんなに悲しむか……と想像して種ヶ島は身震いし、頼むから枯れたりせんといて!と念じて手を合わせた。

 

 とぼとぼとダイニングテーブルに戻り、ぬるいミルクティーを飲みつつ種ヶ島は嘆息した。全くだめだ。昨夜寝る前にあれほど忘れるまいと誓った水やりを忘れていたことをはじめ、今朝は完全に気が抜けている。

 こんなんあかん、と種ヶ島は背筋を伸ばしてみた。急な休みで何も予定を作れなかったとはいえ、白石がいないとはいえ、せっかくの休日であることに違いはないのだ。このまま萎れて過ごすのはもったいない。そうだ、俺だって少しの間彼がいなくても楽しく過ごせるのだということを、今日一日で証明して見せようではないか!

 種ヶ島は心の中で宣言して少々無理矢理に自分を奮い立たせると、マグカップに残ったミルクティーをぐいと飲み干し、立ち上がった。ともかく食器を片付け、顔を洗ってしまおう。その間に、楽しい今日の過ごし方をなんとしても思いついてやるのだ。

 

  ◆

 

 三十分後、種ヶ島は力なくリビングのソファに沈んでいた。途方に暮れているのであった。朝食に使った皿とマグカップをのんびり洗い、洗顔と少しばかりのスキンケアをしながら、面白そうなことを力の限り考えてみた。それなのに、種ヶ島にはついに、何一つとして思い浮かばなかった。

 節約生活を続けている今年には珍しく、今月は小遣いにも少しだけ余裕がある。それなのに、秋物の服を探しに行くのも、海の見える方へ小旅行に繰り出すのも、少しも魅力的に思えない。だっていくら想像してみても、彼が一緒でなければ楽しくないのだ。一人のときにどうやって過ごしていたのだったか、何を楽しいと思っていたのだったかを考えてもみたけれど、なぜだか今はどれも面白いと思えなかった。

 どこからかちゅんちゅんと高い声がする。見ると、ベランダの柵に小鳥が二匹留まっているのがレースカーテン越しに見えた。見るからに仲睦まじそうな様子にため息をつき、ソファの背もたれに両腕を乗せて、種ヶ島は時間も体も持て余して天井を見上げた。

「お前は蔵ノ介がおらなあかんのかい……」

 ため息混じりの独り言が、静かなリビングに吸い込まれていく。こういう時、どうすればいいのだったろう。

 種ヶ島はふと、四月に出張先の東京から帰って来た夜のことを思い出した。そうだ、今日とは立場が逆だった。あの日、彼はどうやってこの家で、一人で過ごしていたのだろう?

 あの日は、出張帰りの新幹線を遅らせた大雨が、この街でも日没後まで降り続いていたはずだ。彼は、俺が彼の手料理の中でいっとう気に入っている肉じゃがを作って待っていてくれた。雨の中、仕事帰りに一人で買い物に行き、久しく食べることができていなかった豚肉をタイムセールで手に入れて、俺の帰りが遅れることが分かっても、夜中まで自分も夕食を食べずに。そして雨がだめにしてしまった街の桜の代わりに、八百屋で見つけたという桜を用意して待っていてくれたのだ。おかえんなさい、と洗面所から顔を出した姿を思い出す。まるで、小さなおひさまみたいだった。

「……蔵ノ介」

 ぽつりと呼んだ次の瞬間、種ヶ島は急に目の前の靄が晴れた心地がして、すっくとソファから立ち上がった。さっきまでちっともときめかなかった胸が、急にわくわくと弾み始めた。

 分かった!今日の楽しい過ごし方!

 

  ◆

 

 

 ふうっと一息ついて、シャワーの蛇口をひねる。捲り上げたズボンに水を掛けないよう注意して、口笛を吹きつつ浴槽の泡を洗い流すと、種ヶ島はスポンジを放って汗を拭った。十九時に湯が溜まるようにタイマーをセットし、排水口に忘れずゴム栓を押し込んだら、風呂掃除は完了だ。これで疲れて帰って来る彼を、清潔な一番風呂に入れてやれる。部屋中に掃除機をかけたし、ベランダでは、きれいに洗ったシーツとブランケットが乾いている頃だろう。

 出張から帰って来た蔵ノ介を喜ばせること。それがとうとう見つけた、「楽しい今日の過ごし方」だ。これはやってみればみるほど素晴らしい名案で、掃除も洗濯も、それで彼が笑ったり寛いだりしてくれるかもしれないと想像するだけで、宝探しの冒険に早変わりしたのだった。

 さて、次は買い出しだ。種ヶ島は気合いを入れ直し、シャワーヘッドをホルダーへ戻して浴室を出ようとした。すると、浴室の隅から俄かに強い視線を感じた気がした。振り返れば、「お忘れですよ」と言わんばかりのふてぶてしい顔でこっちを見ている奴がいる……アヒルである。

 黄色いボディにオレンジのくちばしででんと胸を張っているそいつは、一年ほど前、商店街の古い金物屋で購入したものだ。店頭のワゴンに山積みで売られていたうちの一匹と目が合った瞬間、他人とは思えなくなった。改めて見ても、丸っこい黒目が笑えるほど俺にそっくりだ。白石には何度説明しても「そ、そうですか……?」と首を傾げられるばかりで、共感を得られないのだが。

 しかし、白石が一人で入浴している時、実はこのアヒルをかわいがっているのを種ヶ島は知っている。夜、キッチンで皿洗いをしていると、時折「きゅう、きゅう」というこのアヒルの鳴き声が、壁の向こうから聞こえてくるのだ。そのたび皿洗いを中断してかわいい音を楽しませてもらっていることは、なるべく長く内緒にしておきたい。

 彼の大事な友人では仕方ない、お前も洗ってやろう、と種ヶ島はアヒルを手に乗せてシャワーを浴びせ、スポンジに残った洗剤で丁寧に擦ってやった。

「パーフェクトやー、ってな」

 ぴかぴかになった黄色い体に満足して、種ヶ島はシャワーを止めた。やわらかいビニールの体を一押しすると、いつも壁越しに聴いているのと同じ声で、アヒルは「きゅう」と鳴く。何度かそうして鳴き声をきいて遊び、種ヶ島はアヒルを定位置に戻した。

「やっぱ、寂しいなぁ」

 屈みっぱなしで凝った体でうんと背伸びをし、苦笑混じりに呟く。降って湧いた休日を彼のおかげで楽しく過ごせてはいても、恋しい気持ちだけはどうしようもない。

 けれど、それもあと少し。時刻は四時を回った。急いで買い出しに出かけよう。学生の頃から彼が「世界一美味しい」と言ってくれるキムチ炒飯の材料を買いに。それから、ちょうど余裕のある小遣いで、あのとき以来の花を買おう。スーパーの向かいにある大きな花屋で、彼が喜んでくれそうな花を選ぶのだ。

 

  ◆

 

 買い物袋を提げた種ヶ島が玄関をくぐった頃には、日はほとんど沈んでしまっていた。

 花を真っ先に開封し、白石がいつも使っている花瓶に水を入れて活ける。テーブルに置いてみると、食卓にひとつ、特別な幸せが増えたような気がした。白石はこのために時々花を買って来るのかもしれないな、と気付いて、種ヶ島は微笑んだ。

 次に、食器棚の引き出しを開ける。ついでに記帳してきた水色の通帳の中身を眺めてから、種ヶ島はそれを大事にしまって引き出しを閉じた。二人で節約を始めて半年ほど。貯金額は順調に増えている。

 その時、ポケットでスマートフォンが鳴った。

〈大阪に着きました〉

 途端に胸がぱあっと温かくなって、種ヶ島は勢いよく〝了解!〟のスタンプを送った。

 スーパーでの食材の調達は順調に進んだのだが、花を選ぶのに予定よりも時間をかけてしまった。白石がこの家に到着するまでは、あと三十分ほどだろう。種ヶ島は、なんのその、腕の見せどころだとばかりにシャツの袖をまくり、キッチンの壁に二つ掛かったエプロンから紺色の方を取って腰紐を締めた。

 長葱とニラを刻みつつ、一番大きいフライパンに油を熱して、溶き卵を流し込む。すぐにほかほかのご飯を追加して卵を纏わせるようにほぐし、フライパンを煽りながら炒めていくのがべたつかない仕上がりのコツだ。

 フライパンの中身を宙に踊らせるこれをやるたび、「それ、ようできますね。俺ぶちまけてしまいそうででけへん」とじっと見てくる両目を思い出し、種ヶ島はキッチンでひとり笑いをした。大学時代の下宿で、東京の大学院時代の台所で、そしてこの家に暮らすようになってからも、炒飯を作る時はいつの間にか横にいて、白石は種ヶ島のフライパン捌きを興味深そうに見学しているのだった。

これも金魚すくいの要領やって。それ全然分からへん。そんないつものやりとりがないのが残念だけど、「美味しい」と喜んでくれる顔は、きっと今夜も見られるだろう。思い浮かべると、誰もいない家でも心が温まり、口が綻ぶ。

 結局今日一日、彼に一緒に過ごしてもらったようなものだったなぁ、と気付き、種ヶ島は苦笑いを浮かべた。きっと、洋服を見に行っても、海への小旅行に繰り出しても、同じだった。行った先で彼に似合いそうな服に目を引かれ、彼に見せたい景色を見つけて写真を撮ったに違いない。

 今や種ヶ島にとっての白石は、例えるなら、あたたかな大地だった。今日を歩もうと思えば当たり前のように足元に広がり、どこでどう時間を過ごそうと離れることはない。その当然で不可欠な心地よい引力があるから、虚空に放り出されることなく日々を踏みしめていける。彼のことをすっかり忘れられる時間なんて、最初からあるはずがなかった。

 ――彼にとっても、そうだろうか?

 種ヶ島はふと考え、微笑んだ。きっとそうだろう。四月のあの日、種ヶ島がいない夜に桜を買って、肉じゃがを作っていてくれた彼だから。「朝ごはんはちゃんと食べてくださいね」と、遠くにいても言葉をくれた彼だから。そんなことを思ったら、長葱はもう刻み終えたはずなのに、目に少しだけ涙が浮かんだ。

 豚肉と野菜、キムチを炒めて汁気を飛ばし、一度フライパンから出しておいた卵チャーハンを戻す。長葱の緑色の部分を彩りに加え、塩と醤油、白ごまで調味して全体を混ぜたら、とっておきのメニューができあがった。その時を見計らったように玄関のチャイムが鳴り、種ヶ島はエプロンを脱ぎ捨てて玄関へ飛んだ。

「蔵ノ介!おかえり!」

「わ!あはは、ただいま、修二さん」

 元気に帰って来てくれた体を飛びつくようにして抱きしめると、ころころ笑う白石が「あ!この匂い!」と肩口で叫んだ。

「キムチ炒飯!」

 目をきらきら輝かせる白石の顔を見たら、なんだか食べてもらう前から胸がいっぱいになった。正解!と頷いてやり、「やったぁ」と無邪気に喜ぶ声を聴きながらもう一度ぎゅっと抱きしめる。あの日、彼も俺の喜ぶ顔を見て同じ気持ちになってくれたのだろう。そのことを思うと、やっぱり少し涙が出た。俺たちはなんて、幸せなんだろう。

「ありがとうなぁ、蔵ノ介」

「え?ありがとう言うんは俺の流れちゃいますの?」

 不思議そうに首を傾げた白石の額にキスをして、種ヶ島は「そうやったかぁ」と笑った。

 

 

 二人一緒にリビングダイニングへ入り、荷物を自室に下ろしに行った白石を見送った後、種ヶ島はふと、テレビ横の壁面収納の一角に目を留めた。二人にとって大切なものを飾ることにしているその棚に一際映えているのは、二つの金メダルだ。もう十年ほども前、全てが始まったあのW杯で手にしたそれが、今も変わらない輝きを放っている。その手前、仲間たちとの写真や、二つともすっかりメッキの剥げた学生時代のペアリングなんかが並ぶ中から、種ヶ島は白いフォトフレームを手に取った。

 オーストラリアから帰る船の売店で見つけたフレームはすっかり古くなり、角の塗装が剥げて木材の色が覗いている。けれど、このフレームだけは変えるつもりはない。たぶん、一生。種ヶ島はフレームの窓の部分をきれいに拭くと、くすりと微笑んだ。

「かわええ、〝のすけ〟」

 ゆらゆらとした波模様が彫刻された古いフレームの中で笑っているのは、高校三年生と中学三年生の種ヶ島と白石だった。どこか面映ゆそうな二人の写真は、W杯決勝の日の夜、メルボルンの砂浜で想いを告げ合った直後、揃って平静を装いつつ戻った祝勝会で撮った。『記念に一枚撮っとこか!』なんて言って目配せし、強引に肩を抱いて、仲間たちには先輩後輩の記念撮影だと微笑まれながら撮った、二人のはじまりの日の写真。帰国してすぐにプリントして白いフレームに収めたその写真は、京都の実家、大学時代の下宿、そして東京の大学院時代に借りた部屋を種ヶ島と共に渡り歩き、今はこの家に飾られている。

 好き合えたことが嬉しくて、ただそのことにだけはしゃいでいる幼い二人の笑顔を眺め、種ヶ島は緩く息をついた。

 付き合うようになってしばらく経った頃、いつでも心のどこかで彼のことを考える自分に気付き、どんどん大きく、深く根ざしていく彼の存在が、怖くなった時期もあった。このまま彼なしでは生きられないほどになって、そのあとで彼がどこかへ行ってしまったら?三つも若い彼が他の誰かのところへ行きたいと望んだときに、手を離してやれなくなってしまったら?よく知りもしなかった喪失を漠然と恐れ、そんなことばかりに頭を巡らせて。

「さあ、食べましょ。お腹減ったぁ」

 朗らかにドアを開け、部屋着に着替えた白石がドアの向こうから出て来た。種ヶ島は白いフォトフレームを元に戻し、炒飯を温め直すべくキッチンに足を向ける。

「あれっ、ブルースターや!修二さんが買ったん?」

 テーブルの上、不格好に活けた花を見つけた白石が、また嬉しそうに笑う。「なんや買いたい気分になってん」と返し、コンロに火をつけて、種ヶ島は満ち足りた胸に息を吸い込んだ。

 今はもう、とっくに開き直っている。彼がいないなんて考えられないから、ずっと笑って傍にいてもらおうと。彼のいない日々の歩み方なんて忘れてしまったから、ずっと彼と一緒に生きていこうと。

「なぁなぁ、朝、東京からメッセージくれてありがとう」

「ええっ、何ですか改まって。そんなん普通のことでしょう」

「ふは。うん、普通のことやんな」

 想像していたとおりの返答に、種ヶ島は目を細めて笑った。

 きっと、彼も同じように思ってくれている。だからそのために二人、心を尽くして生きていくのだ。

 

 キムチチャーハンにわかめとねぎの中華スープ、サラダ。種ヶ島が今夜の献立が揃った食卓に着くと、白石がベランダから採って来たミニトマトを洗って、サダラボウルに三つずつ添えた。今日もまんまるつやつやの、元気そうなミニトマトだ。……。

「あ」

「はい?」

「蔵ノ介、あのな、水やり。俺起きてすぐ思い出されへんくて、遅れて、その、九時ごろになってもうてん……ごめん」

「え?なぁんや、そんなこと。九時なら上等なくらいや。ありがとうございます」

「か、枯れたりとか」

「せえへんせえへん!心配いりません。植物はまあまあ図太いですから」

「さよか」

 おおらかに笑う笑顔に胸を撫でおろし、二人で「いただきます」と手を合わせる。真っ先に炒飯にスプーンを入れた彼は、いつものように大きな口を開けて一口目を頬張った。見るも満足そうに頬袋を動かして、高らかに宣言する。

「うん!やっぱり世界一美味い!」

 種ヶ島はまた涙が出そうになったのをスプーンを取って誤魔化した。今朝は空っぽだった指定席で弾ける笑顔こそ、種ヶ島にとっては世界一だった。

 二人の夜が更けていく。部屋の隅では嬉しそうに笑う幼い二人が、白いフォトフレームの中からこっちを見ている。

© 2035 by Tony Williams. Powered and secured by Wix

bottom of page