エトワール
白くて丸いそれは、今夜も大層高いところに置いてある。唯一性を際立たせるかのように上から見下ろしているそいつは確かに眩しいが、いっそ喰らって腹の中へと消してしまいたい。
夜空をくりぬき穴を開けたように佇んでいる月を憎々しく見上げ、種ヶ島修二は正面に視線を戻した。ビニール袋の中には、愛飲する炭酸飲料が二缶。宿舎の自動販売機には見当たらず、仕方なしに熱帯夜の中最寄りのコンビニまで足を伸ばした帰りだ。いかに日本一の都市東京とはいえ、自動販売機にあらゆるものが揃っているというわけではないらしい。
のろのろと元来た道を戻っていると、車通りも少なくなった静かな道に、どこからか耳に馴染んだ風切り音が聴こえて来た。ぶん、ぶん、と等間隔で聴こえるそれは、テニスラケットが空気を裂く音に違いなかった。歩きつつ、なんとなく音のする方へ顔を向けると、その出どころはちょうどすぐ横の安そうなビジネスホテルの裏庭のようだ。だいぶ近くなった音の主の姿が、庭木の隙間から見えてきた。
こちらに背を向け、一心にラケットを振っているのは、一人の少年だった。現在、この辺りでは高校生のインターハイと中学生の全国大会が行われているから、近隣のホテルの多くは各学校の宿舎になっている。その少年は、背は高い方だが体つきは未完成で、やや細い。インターハイの方は今日が最終日であったし、彼は中学生だろうか。
少年は一度リストバンドで額の汗を拭い、再び同じ素振りを開始した。街灯に透けるような色素の薄い外跳ねの髪と白い腕が、暗がりの中に浮いて見える。ラケットを持つ前腕には包帯が巻かれている。素振りをする動きを見るに、怪我人には見えないが。
試合後だか試合前だか知らないが、いずれにしてもこのタイミングで、しかも夜も遅くに素振りとは、適切な調整方法を理解していないか、相当な物好きかのどちらかだ。種ヶ島はふいと目線を戻すと、途切れない風切り音を置いて宿舎へと歩いた。
だるい。早く京都へ帰りたい。種ヶ島は浮かない心を持て余して足元の小石を蹴った。インターハイで目にした平等院のテニスが瞼に焼き付いていて鬱陶しい。東京を離れれば解決するものではないかもしれないが、ともかくあれを見た場所からなど一刻も早く離れたい。
高校一年の頃から既に異次元の強さを持っていた平等院が、しばしば武者修行と称して海外を飛び回っていることは知っていたが、今日目にした数々の大技はその成果に違いない。リミッターが壊れているとしか思えぬ怪力や体力も、海の向こうへ飛んで行ける体も持たない自分が惨めになるようなテニスを見た。平等院にはないもの――ただ一つの武器と言っていい手首の器用さや狡猾さ、遊び心から生まれる閃きが自分にはあると常に言い聞かせてはいるけれど、今夜はそれも慰めにならない。日本代表No.1。どうしても手に入れてみたいその座は、自分では掠りもしないのではないかと思ってしまう。
種ヶ島は一度頭を振って思考を切った。気が沈んでいけない。ちょっと足を伸ばせばあるらしい繁華街に遊びに行ってしまいたい。異郷の地で、一応学校の看板を背負っている分際で実行に移そうとは思わないが、一夜の享楽でもあればこの落ち込みようも少しは紛れるのに。深いため息をつき、種ヶ島は自室に引っ込んだ。窓からは図ったように満月が見えていたので、すぐにカーテンを引いて追い出してやった。
◆
「なぁ、俺先帰るわ☆」
「だめに決まっとるやろ。この試合見学して帰ることになってんねんから」
「奏多は帰ったやんか」
「あいつは生徒会の仕事があるからや。お前何もないやろが」
翌朝、チームメイトににべもなくそう返され、種ヶ島はテニスコートの観客席でうんざりと肩を落とした。今日は朝から相当気温が高く蒸し暑い。日中はどうなるのか考えたくもない。種ヶ島の憂鬱を余所に、目の前のコートには選手たちが入場し、着々と試合の準備が進んでいく。
そして、審判のアナウンスが響いた。湿った夏の風が通り抜けて行く。空は真っ青で、雲ひとつなく晴れ渡っている。
《これより全国大会準決勝、青春学園対四天宝寺の試合を開始いたします!》
《第一試合シングルス3、不二周助対白石蔵ノ介》
インターハイ期間中、長く宿泊していたホテルは先ほどチェックアウトを済ませた。すぐに京都へ戻ればいいものを、本日行われる中学生の全国大会を見学せよとの顧問からの指示により、種ヶ島はチームメイトと共に観客席に座る羽目となっていた。これ以上抵抗する気も起きず、仕方なく着席してあくびを噛み殺していると、第一試合が始まった。
サーブが放たれる。ボールを追った黄色と黄緑色の鮮やかなユニフォームを着た選手がコーナーぎりぎりへリターンした後、ローボレーで相手の体勢を崩したところにドロップショットを決めた。応援団らしき中学生たちがどっと沸く。種ヶ島は眉を片方だけ上げた。
(えらいおきれいなテニスやこと)
台本どおりの殺陣のような動作を見て、試合の流れを握る先取点を確実に奪うために予め考えていた作戦だったのだろうと種ヶ島は判断した。相手のサーブのパターンに応じていくつか用意していた作戦の一つを履行したのだ。周到と言えば周到か。
その時、片手を上げて声援に応えた選手が向こう向きにひゅんとひとつ素振りをし、その腕に白い包帯が巻かれているのが見えた。ミルクティーベージュ色の髪が揺れ、本当にテニス選手かと疑いたくなるような白い肌が真夏の太陽を弾いている。その時種ヶ島は、彼は昨夜見た少年だと気がついた。目鼻立ちは遠目にも分かるほどに整い、真夏の太陽を強く反射した瞳と自信のみなぎる眉、迸ろうとする情熱の手綱を引く眦の僅かな冷たさが、不思議に視線を惹きつけた。彼は全国大会を準決勝まで上がって来る強豪校の選手だったらしい。それも、応援席から断片的に聞こえる言葉を総合すると、彼は部長で、チームメイトからはその実力を相当信頼されているようだ。大事な準決勝前夜の時間を素振りに割くような選手が?と種ヶ島は首を傾げた。
次いで、青いユニフォームを着た相手が不意にアンダーサーブを繰り出した。サーブの前、ボールを落とす左手が鋭くスピンをかけたのを視界の端に捉える。野球の変化球の如く手元で外へ曲がった打球は今日初めて種ヶ島の目を引いたが、少年はひらりと回転してボールの変化した先を捕え、難なく返球した。相手の選手はさっきのお返しとばかりにドロップショットを繰り出したが、既に少年はネットに詰めている。拾われたボールはベースライン際に叩き込まれ、ポイントは再び少年のものとなった。
続いていくワンサイドゲームを眺めながら、種ヶ島は少年についての評価を少し修正した。彼は台本や作戦をなぞっているのではない。いや、ある意味ではそうなのかもしれないが、彼は、あらゆるケースに対する正しい対処法を知っていて、それを即座に選び実行に移しているのだ。目の前の展開に本能やセンスで対応している気配はしない。意図的に脳と体に叩き込んだ何千、何万ものパターンの中から最適なものを取り出し、正しい対応を完璧に再現している。そこに相手の大技への対処法も含まれているところが抜け目ない。スピード、パワー、体力、精神力、技術、どれも突出したものはないが、全ての要素を平均を大きく上回るレベルまで鍛えてあることも彼のテニスを可能にしているのだろう。あのプレイスタイルを実現するまでのプロセスは地道極まりないはずだが、少年のプレーは彼がそれを全てクリアしてきたことを伝えている。顔に似合わずというか何というか、相当な粘り強さと根性のあるタイプと見える。
あれは凡人が到達できるところのひとつの極致かもな、と種ヶ島は相手を圧倒し続ける少年をぼんやりと眺めた。積み上げた単調な練習と途方もない時間が透けて見えるような胸を打たれるところのあるテニスだが、それでもせいぜいこのレベルが「極致」となってしまうところに凡人の悲哀がある。心が微かに重くなるのを感じ、種ヶ島は再び小さく嘆息した。
反対側のコートに目を移す。まあ、相手があれではひとまずこの試合の勝利は少年の手中か。
終始劣勢の青いユニフォームの選手が時折見せる大技と反応、発想には、むしろ目を見張るものがあった。明らかに高いセンスと器用さが光っている。基礎能力で少年より一枚劣り、試合運びは完全に上回られているが、底知れない可能性と才能が見え隠れする。何よりの問題は、勝利のために才能も体も精神も使い倒してやろうという気概がいまひとつ感じられないことか。天才型にはままあることだ。しかし天才はそういう気迫や情熱を兼ね備えると、本当に手が付けられなくなる。昨日見た平等院のテニスがフラッシュバックし、種ヶ島はひとつ強い瞬きをして振り払った。
《40-0!マッチポイント白石!》
あっという間に少年のマッチポイントだ。種ヶ島はもうひとつあくびを噛み殺し、ペットボトルの水を呷った。本当に暑い日だ。せめて次の試合はもう少し面白くなってくれなければやっていられない。
すると、最後の打球を追ってコートに倒れ込んだままの青いユニフォームの選手に、白い帽子に同じユニフォームを着た小さな選手が応援席を降りてすたすたと近寄り、助け起こすでもなく何かを言った。やがて立ち上がった選手の目の色が変わったのを認め、種ヶ島は静かにペットボトルを下ろしてキャップを閉めた。
彼の中で何かが起こったらしい。俄かにがむしゃらに、時折大声を上げて打球に食らいつき始めた青いユニフォームの選手を、種ヶ島はうっすらと空恐ろしさを覚えながら見た。反対側のコートでまだ余裕の笑みを浮かべている少年は、神に愛された者の本当の怖さを知っているだろうか。
種ヶ島が予感したとおり、マッチポイントからなんとか一ゲームを取り返した天才のラケットが急激に冴え渡り始めた。全ての技のキレと威力が、突然見違えるほどに上がる。既存の技を応用し、新しい技を短時間に思いつき実現していく。これができる選手はそういない。種ヶ島は初めて口許を上げ、少し身を乗り出してコートを見た。少年の表情は冷静さを失っていないが、ただならぬ事態に気付き始めている顔からは遂に笑顔が消えた。
そして、相変わらず正しいプレーを続けているはずの少年の打球がネットを越えなくなった。どう打ってもネットの前で失速して落ちる打球を眺め、種ヶ島はすうっと胸が冷えていくのを感じた。――天才。青いユニフォームの選手のことを、今やそう断定せざるを得なかった。インパクト時に一瞬でラケットの面が返り、通常ではありえない回転のかかった打球が飛んで、どんな返球もネットを越えて行かなくなる。こんな無敵とも言える大技を即興で編み出し実行してしまう集中力、発想、センス。舌を巻くほかない。
種ヶ島の得意技であるところの「已滅無」にかかれば何ということはない技だ。しかし、それはこの体が生まれ持った数少ない才能が、打球の回転を消すことに向いたものだからできる芸当。どう見ても、あの少年にそういう才能はない。案の定、返球の術を持たない少年の打球は惨めにも次々と自分のコートに落ちて行く。前半戦から一転、まともなラリーすらさせてもらえなくなってしまった少年を横目に、種ヶ島は今日何度目かのため息をついた。かわいそうに。だが、往々にしてこういうものなのだ、天才と凡人いうのは。神は、明らかに青いユニフォームの選手の勝利を望んでいる。そしてその采配のまま、少年が途方もない努力でもって手に入れかけていた勝利はあっけなく相手のものとなるだろう。
チェンジコートとなり、少年がこちら側のコートへ戻って来た。もはや目を背けたくなるような試合となっていたが、少年の放つ打球がネットにかかった位置にふと目を留め、種ヶ島はさっと少年の表情を窺った。
既に試合の様相すら失われつつあるコートで、神の加護のない少年の顔は、当然のようにまだ戦っていた。よく張り詰めた冷徹な集中が眉と目尻に満ちている。大きな瞳は少しも揺れていない。次の打球が再びネットにかかる。種ヶ島は瞠目した。間違いない、ボールがネットにかかる位置がほんの一センチ、確かに上がった。
何球打ってもネットにかかるボールが、亀やかたつむりの進行を見るようなじれったさで、しかし確実に、地道にネットの上辺へと近づいていくのを、種ヶ島は気付けば興奮に目を見開き追っていた。笑みが、笑いがこみあげて来る。どう見ても青いユニフォームの選手に栄光をもたらそうとしている神に、まるで空気の読めない我儘を言うように、駄々を捏ねるように、聞き分けの悪い執念の乗った打球が上がっていく。ある種の才ある選手ならば、一、二球で回転を打ち消す方法を見つけることができるだろう。少年はそういう者ではないというのに、まったく単調な試行と反省の繰り返しでそこへ辿り着こうとしている。神の采配など見えていないかのようなまっすぐな眼差しは、辿り着けると信じている。痛々しいまでの純粋さとひたむきさ、そしてこの状況にあってもそれらを失わない強さが眩く滲む汗まみれの横顔は、種ヶ島の瞳をぐんと惹きつけ、胸をきつく締め付けた。
――綺麗だ。どうして、ここまで綺麗でいられるのだろう。
そしてとうとうその時は来た。もう何十球目だろうか。マッチポイントまで追い込まれた少年の放った打球が、ネットを越えた。
種ヶ島はそこで遂に笑い出した。あんまり駄々を捏ね続けられて、神さまが疲れ果て根負けしてしまったみたいだ。こんな我儘の通し方があるか。溢れて来る笑いが止まらない。種ヶ島は湧き上がる歓声に紛れ、肩を揺らし、目に涙を滲ませて笑った。
「さあ、反撃や!」
言い聞かせるように少年が宣言する。種ヶ島は、その時初めて少年の声を聴いた。容貌と違わぬ朗々とした声に、深い執念が滲んでいる。白い肌も輝く髪もびっしょりと汗で濡らし、獲物に照準を合わせた端正な顔が恐ろしいほど美しく笑んだ。涼やかな瞳は綺麗なままだ。
結局、少年はそのまま、青いユニフォームの選手のために用意されていた勝利をもぎ取ってしまった。最後のポイントは相手のミスだった。ボールに飛び込んだ無理な体勢から再び天才が放った大技は、僅かにラインを割りアウトとなった。最後の最後で、少年は相手の大技に対するケアをほんの少し怠ったようだった。結果オーライの最終ポイントに複雑な顔をしていた少年が、チームメイトの元でようやくふわりと笑ったのを横目に、種ヶ島はひょいと立ち上がった。
「俺やっぱ帰るわ!さいならー!」
「は?また何言って……ってちょっと、おい!」
ラケットバッグを拾い上げ、チームメイトに一方的に言い置いて、種ヶ島は観客席を駆け上がった。俺の気侭な行動に慣れている彼らは、大事にはせず放っておいてくれるだろう。あとは帰った先で顧問の小言と、にっこり笑う入江の嫌味を一つ二つ聞き流してやればいい。
駅へと歩く足は、朝までとは比べ物にならないほど軽い。いいものを見た。じりじりとネットを上っていったボールを、あの少年のどこまでも綺麗だった横顔を忘れないうちに部のコートに戻り、ボールを打ちたい。真夏の日差しの下弾む足が、汗が流れるのも構わず駆け出す。
才能が何だ。海を渡れないのが何だ。W杯が終わるその時まで、俺もあの少年のように聞き分けのない駄々を捏ねてやるのだ。呆れ果てた神さまが勝利を、№1の座を、世界一の栄冠をこちらへ放って寄越すまで、あらん限りの図々しい我儘で根競べをしてやる。手に入ると信じ続けてやる。全身に清々しい力がみなぎって、種ヶ島は駅までの道を一息に駆け抜けた。
数か月後、日本代表選抜合宿において少年が再び目の前に現れることを、そしてその綺麗な横顔に励まされるのは今日の一度きりではないことを、この時はまだ知る由もなかった。
――あれ?あいつの名前、なんやったっけ。
大阪四天宝寺の……なんとかのすけや。……なにのすけやったかな。
…………。
……ま、ええか。「ノスケ」やな、「ノスケ」☆