12
『聞いてほしい話があんねん』
『なんや楽しそうですね。なんです?』
『俺のな、新しい夢の話』
見つけた道しるべは、そのときはまだおぼろげで頼りなかった。気の迷いではないか、人生など懸けてよいものなのか、分からないくらいには曖昧だった像。そんな俺の新たな夢に、力強い支柱を通し、美しい輪郭を与えたのは彼だった。この夢の起点でもある、蔵ノ介の言葉だった。
『俺は、すごくいいと思います。修二さんはひとの気持ちを汲むのが上手やし、問題の本質を的確に見抜ける。それに、教えた選手が活躍するのを、自分が活躍するのと同じくらい喜べる心を持った人やから。俺はそういう修二さんに教えてもらえたからこそ、あんなに嬉しかったんやと思うから――』
◆
床と壁しかない空っぽの部屋に、暗い夜が訪れている。手に馴染まない浴室でシャワーを浴びた種ヶ島修二は、ぼんやりとその光景を眺め、部屋の中へ足を踏み入れた。
昨日入居を済ませ、今日引っ越しの荷物を運び入れただけの部屋には、持って来た少しの家電と家具、布団一組しかなく、あとは部屋の隅に段ボールがいくつか重なっているだけだ。床を滑るスリッパの音を妙に反響させる部屋は冷たく、まだ余所者を受け入れていない。
入居前から気に入っていた出窓の前を横切ると、夜空に昇った月がちょうどよく見えた。今日は弦月か。足を止め、しばしその光に見入る。月を見ると、殊にあの夜と同じ弦月を見ると、どうしても蔵ノ介のことが思い出される。不意にぱた、と音を立てた床を見下ろし、種ヶ島はそれが涙の落ちた音であることに気付いた。
(……まだ出るんか)
次々に落ちていく涙を無感情に眺め、種ヶ島は月へと視線を戻した。
今日までは、移動に入居手続き、荷物の受け取りに追われ、心をすべて奪われてしまうことはなかった。だが、転居もほとんど済み、忙しさに一区切りついてしまった今、心がずぶずぶと感傷に沈んでいく。
ふと振り返る。視線の先、部屋の角に、運び込まれてとりあえず置かれただけのあのソファがある。やめておけばいいのに、と自分に呆れながら、種ヶ島はそのソファを出窓の前まで運び、定位置であった右側に腰掛けた。目の前の窓はあの船の窓ほど大きくないが、あの夜とよく似た月が見えた。
今でも夢に見て、飛び起きることがある。 学校帰りの白石と食事をして別れた後、彼の行った方から聞こえた音に驚いて引き返したあの夜のことを。夜露に濡れた冷たいアスファルトと散乱するガラス片の上、力なく横たわる姿と、閉じていった白い瞼を。蔵ノ介が失われてしまうかもしれない。あの時喉元に迫って来たその可能性よりも恐ろしいものを、俺は知らない。
運ばれた病院で、怪我はごく軽傷ですぐに目を覚ますだろうし、数日様子を見れば退院できると聞いて、その恐怖から解放された時の安堵は、何と言葉にしたらいいのかも分からないほどだった。だから、さほど気にせず帰ったのだ。たどたどしく零れた「どちらさまですか」という言葉と、他人行儀な双眸のことは。頭を打った直後で記憶が混濁していただけだろう、明日もう一度病室を訪ねよう、ただそう思い、蔵ノ介に短いメッセージを送った。
返事は来なかった。
入院後三日ほどは、病院に家族以外の面会を断られ、返事がなく既読もつかないメッセージに気を揉んで過ごした。それが起きたのは、四日目になってようやく病室を訪ねる許可が出た時のことだ。病室から廊下に漏れてくる数人分の笑い声の中に、確かに蔵ノ介の声を聴いた。大きく胸を撫でおろし、歩みを早めた直後、病室から同級生と思しき仲間と連れ立って、病衣姿の蔵ノ介がゆっくりと出て来た。蔵ノ介、と数日ぶりに呼ぼうとした名前は、声になることはなかった。
蔵ノ介は、目の前にいた俺を一瞥もせず、俺のすぐ横を通り過ぎて行ったのだ。まるで、雑踏で赤の他人と擦れ違うように。その時、俺はようやく理解した。蔵ノ介の世界に、俺はいなくなってしまったのだということを。
記憶喪失のほとんどは一過性で、脳がダメージから回復すれば記憶は戻る。記憶喪失が長期に及ぶ場合は、その記憶を司っていた部分が破壊されたことが原因であるから、記憶が戻ることはない――。
開いた医学書には、そんな無慈悲な言葉ばかりが並んでいた。メッセージの返事を待ちながらその絶望的な文字をなぞり、二か月が過ぎたある日、俺は急に、すとんと何かが落ちるように認めることができた。蔵ノ介が俺を思い出すことはもうないのだと。
蔵ノ介に会い、事情を打ち明けてみようか随分悩んだ。彼は戸惑うだろうが、代表合宿で一緒であったことなどは仲間の手を借りれば証言がある。交際の事実を知る人はほとんどいないが、三年間のメッセ―ジや写真がたくさん残っていたし、蔵ノ介は真剣な人の話をぞんざいに扱う人物ではない。状況を理解してくれる可能性は十分にある。
ただ、そうしたところで彼の中に俺の記憶が蘇るわけではなく、代表合宿からこれまで二人の間にあった出来事を忘れた蔵ノ介が、かつて俺に想いを寄せていた事実に納得できるとは思えなかった。
どの道、元の二人に戻れる可能性はない。こんな時まで淡々と現実を分析する頭がそう結論し、俺は蔵ノ介に敢えて事実を知らせないことに決めた。彼の命が助かった幸運だけを喜び、このまま彼の世界から消えたままでいようと。蔵ノ介は、この先の長い人生を、俺との出会いがなかった世界で生きていくのだ。彼の新しい世界を荒らしたくはない。
そして何より、あれほど愛情深く笑いかけてくれた瞳がよそよそしく俺を見るのを想像すると、耐えられないほど悲しかったのだ。
欲が出たのは、大学で蔵ノ介と再会してからだ。よそよそしくても、あの瞳に捉えられれば体中に湧く切ない歓喜は、悲しみを覆い隠すのには十分だった。図書館まで会いに来てくれたことが嬉しくてたまらなかった。名前を教えても、やっぱり蔵ノ介が何かを思い出すことはなくて、危うく涙を堪えきれなくなりそうだったけれど。
初めは、大学のカフェのチーズケーキを二人で食べて、せめてかつての約束と誕生日のお祝いを密かに果たさせてもらい、彼がちゃんと元気になったことを確かめて、それっきりにするつもりだった。心理学の講義を勧めたのは、もし講義を取ってくれれば、白石が元気に過ごしているのを毎週確認できるという下心からだったが、いつも後ろから三列目の通路側の席に来ているのを見て、安心して、それで満足していたのだ。この頃までは。
それが本当にどうして蔵ノ介は、再び俺に恋などしてしまったんだろう。
梅雨が夏に変わったあの嵐の晩、一睡もできずに出した結論は、とても冷静なものではなかった。今思えば、蔵ノ介の告白に応じるべきでなかったことは明白だ。あの三年間を知る俺と、知らない蔵ノ介。二人が始める恋愛は難しすぎると、俺は十分に判断できたはずなのだ。どう考えても、踏み切らないのが正解だった。
あの晩、蔵ノ介には「考えさせてほしい」などと言っておきながら、俺は少しも考えてなどいなかったのだ。結論は最初から決まっていた。少しくらい歪でもいい。蔵ノ介と再び愛し合えるのなら、愛し合いたい。そう叫ぶ自分を宥める方法など持ち合わせていなかったのだから。大丈夫、明かさなければいいのだ、案外うまくいくかもしれない。調子のいい言い訳ばかり並べて、俺は垂らされた蜜を吸ってしまったのだ。
少なくとも、〝過去の恋人〟の存在を白石に知られたあの時に、もうやめるべきだった。その恋人は女性で、死別したものと捉えたらしい蔵ノ介の誤解を解かず、それどころか利用するようにして傍に置き続けのだから最悪だ。俺が夢から醒めたくない一心で、何も知らない〝白石〟を〝蔵ノ介〟の姿をした人形のようにさえ扱って、散々に傷つけた。ようやく口にすることができた別れの言葉は、どう考えても遅すぎた。誰より大切であったはずなのに、新たな世界を生きる彼の「初恋」につけてしまった傷は大きすぎる。悔やんでも、もう取り返しはつかない。
状況判断は得意な方だった。いつもなら、もっと賢く、あらゆることを冷静に天秤にかけ、最善の選択ができた自信がある。けれど、蔵ノ介のこととなると、俺はてんでだめになってしまう。ずっと前からそうだった。計算も理屈も放り出して、まるで子供のように、一緒にいることばかりを望んでしまう。ほかでもない蔵ノ介を傷つける可能性に気付いていながら、それでも自分の我儘を優先してしまうほどに極まった愚かさであったとは、今年初めて思い知らされたことだが。
でも、幸せだった。
蔵ノ介をあれほど悩ませておきながら、心のどこか身勝手な部分が確かにそう感じている。
四月、もう二度と蔵ノ介とかつてのような日々を過ごせないことに打ちひしがれていた頃、彼は俺の前に現れてくれた。いつも盛大に祝っていた互いの誕生日をささやかにだが祝わせてくれたし、祝ってくれた。もう一度想い合いたいという心の奥底に沈めた願いを掬い上げるように、好きだと言ってくれた。たくさん一緒にいて、夢への道を支えてくれた。
なぜだかいつも救世主のように現れた蔵ノ介のことを思い、小さく笑う。本当に、どうしてなのだろう。思えば、彼は昔から――辿って行けば最初に彼を見たあの日から、本人にはそのつもりがないのにどういうわけか俺を救ってしまう人だった。俺との三年間を忘れてしまっても、不思議なことにそれは変わらなかったし、透き通るようにまっすぐで強い心根も、それが表出した美しい姿も、そのままだった。
俺が好きになった〝蔵ノ介〟を何一つ失っていない〝白石〟のことが、本当に好きだったと思う。嘘をつくようなことをしてでも一緒にいたいと思ってしまったのは、〝蔵ノ介〟だけではない。あの三年間を何一つ覚えていなくたって、白石蔵ノ介のことが好きだった。奇跡のように再び始まった二人の時間を、叶うなら、永遠に終わらせたくなかった。
今度こそ、もうあの日々は戻らない。
一切が停滞した静寂の中、顎の先から胸へと時折落ちて行く涙の音だけが微かに聞こえている。
俺はこんなに弱かったろうか?この一年余りの間、何度自分に問いかけたか分からないことを、再び思う。永遠に続くものなどひとつもない。そんなことは、俺にとってははるか昔から自明の理であった。だから、蔵ノ介と俺の間に起きたことも全く不思議ではないし、無限に広がる時空の中では些細なことなのだ。頭ではそう思う。
けれど、とても受け入れることができない。どうやって受け入れろと言うのだろう。立っていた地面は、蔵ノ介を失ったときに全て崩れ去ってしまい、今俺はどこに立っているのか、それともどこかへ向かって落ちているのか、全く分からない。心には穴が空くどころか、心ごとなくなってしまったみたいになっていて、心のあった場所だけがじくじくと無意味に痛んでいる。勝手に涙が出る。そういう自分をどうしていけばよいのか、手掛かりも掴めない。
立ち上がらなければ、と、心のどこかが小さく呼びかける。
俺はここへ、一人打ちひしがれるために来たわけではない。来月からは、念願だった大学院でスポーツコーチングを専門的に学ぶことができる。ここからは少し遠いが、テニススクールのアシスタントのアルバイトをさせてもらえることにもなっている。夢に向かう忙しい日々が始まるのだ。
次世代のテニス選手を育成する優秀なコーチになること。それが今の俺の夢だ。自分にその適正があるのか、まだ迷いながらその新しい夢を打ち明けた日、蔵ノ介は一も二もなく賛成してくれ、俺自身も気付いていなかった俺の一面を教えてくれた。あの言葉がどんなに心強かったか、蔵ノ介は知っていただろうか。
この道は、蔵ノ介が背中を押してくれた道だ。蔵ノ介が遺してくれた道だ。だから、しっかりと歩いて行かなければならない。分かってはいるけれど。
右手の薬指に嵌まった指輪に目を落とす。結局、外して強がっていられたのはあの日だけだったな、と自嘲的な笑みが浮かぶ。するりと指から抜いて、小さな輪の裏側を覗き込んで月明かりを当てた。
小さなシークレットストーンが、きら、と微かに、金色に輝く。あの日、このソファとよく似た二人きりの場所で、朝日を受けて金色に透き通り光っていた蔵ノ介の瞳の色。あの色にそっくりな、ゴールデンシトリンが光を反射している。
蔵ノ介のことを振り切って新たな人生を始めるのなら、この指輪も、このソファも捨ててしまうべきだったのだと思う。けれど、どうしてもそれができなかった俺は、新たな人生を始めたくなどないのだ。この指輪にあの日の瞳を見ながら、このソファで目を閉じると現れる蔵ノ介の姿を見ながら、確かに存在した二人の三年間の延長線上にある人生を、歩いて行きたい。
蔵ノ介。
静かすぎる部屋に虚しく響くのが怖くて声にできない名前を、心の中で呼ぶ。途端、想いと悲しみが一気に溢れて、必死に声を殺す。
好きだ。あの綺麗なひとが、今も、これからもずっと好きだ。痛くて、苦しくて、どうにかなってしまいそうだ。今すぐここへ助けに来て。あの日、日本へ帰る船の上で、一人悔しさを持て余していた俺の元へ来てくれた時のように、夜の廊下を渡り、階段を上り、ここへ。
それがもう二度と叶わないとまだ分からないのか、聞き分けのない心は蔵ノ介に救いを求めている。どうして来てくれないのだと喚く。涙は性懲りもなく流れていく。
俺がこんな風に蹲って、名前を呼び泣いていると知ったら、〝蔵ノ介〟は悲しい顔をするだろうな。早く歩き出して、安心させてやらないと。そうぼんやり考えながらも、疲れ安らぎを求めた目蓋が下りていく。
隣に、あの夜月明かりに照らされていた蔵ノ介が現れる。絹のような髪と大理石めいた白い肌が暗闇に浮かび上がった。日だまりを宿したようにあたたかな瞳に捉えられれば、ひび割れていた心が蕩けていく。涙を拭おうとする優しい手が伸びてきて、俺は自然と微笑むことができる。
蔵ノ介。今はまだ立ち上がれない。桜が咲く頃にはきっと前を向くから、ちゃんと立って見せるから、だからそれまでもう少しだけ、ここにいさせてほしい。