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 自動ドアが開いては閉まる。また開いては閉まる。もうこれを何回見ただろうか。白石はあくびを一つ噛み殺した。

 白石が大学図書館前の広場に置かれたベンチに座ってから、かれこれ三十分が経過しようとしている。さすがに少々冷静になってきて、白石は空を仰いだ。

(何しとるんやろ、俺)

 何をしているかと言われれば、人聞きが悪いが、「待ち伏せ」としか言いようがない。

 あの男と会ってからちょうど一週間。暇を見つけては西キャンパスをうろつくも、全くその姿を見つけられなかった白石は、先ほどようやくあの男の尻尾を掴んだ。木曜の一限、白石の期待とは異なる方向へ展開しつつある博物学の講義がそろそろ終わるという頃だ。窓から見える中庭を横切る三人の男の中に、あの白と小麦色のコントラストが間違いなくいた。遠くから見てもいっとう華やかなその姿に、ペンを握る手には勝手に力が入り、なぜか綻ぼうとする頬を必死で止めなくてはならなかった。

 彼らがそれぞれ数冊の本を持っていたことから、彼らはすぐそこの大学図書館へ向かったに違いないと推測して、白石は講義の後まっすぐにここへとやって来たのだった。

 しかし、あの男が出て来ない。白石はため息をついた。よく晴れた青い空を、ぴちちち、と囀りながら小鳥が飛んでいる。

 思えば、ここでいつまで待ったって、あの男が出て来るとは限らない。白石がここへ着く前に図書館を出たかもしれないし、そもそも図書館に来ている保証もない。図書館内には、長居できそうな自習席もたくさんあったはずだから、もしそこで長時間の作業に取り掛かっていれば出て来るのは何時間も後かもしれない。それなのにここでこうして待つなんて、全く無駄が多すぎる。用もないのに毎日西キャンパスをうろついてしまったことといい、あの男に会ってからというもの、本当に自分が自分らしくない。

 やめた。そのうち薬学部の仲間も大学へ来るし、それまで学食かどこかで時間を潰そう。そう決めて、白石はバッグを持って立ち上がった。

 するとその時、視界の端で図書館の自動ドアが再び開いた。気付いたときには、もう目を奪われていた。出て来たのはあの男だった。

 今日は黒いパーカー姿だ。裾から白いインナーを覗かせている。ほとんど黒一色のラフな格好なのに、あの真っ白な髪と端正な面差し、腕まくりした袖から覗く長く逞しい小麦色の腕とで、十分すぎるほど華がある。不意に、隣を歩く仲間と何かを言い合った男が、あの少年のような顔で笑った。あはは!という明るい笑い声が聞こえてくる。やっぱり、どうしようもなく惹きつけられる。

 我を忘れて見惚れていると、不意に男がこちらを見て、ばちりと目が合った。心臓が跳ね上がり、鼓動が軋み加速し始める。男は白石が先週会った一年生であることに気付いたと見え、大げさに肩を上下させてため息をつく仕草を見せた。その顔は呆れたように笑っている。

「あーあ、見つかってもうた!」

 男はあの朗らかな声でそう言うと、連れの二人に断りを入れてこちらへ歩いてきた。白石は、男を置いて行ってしまった二人と男とをおろおろと見比べる。

「待ち伏せとはやるやんか」

「あ、あの、すんません!お二人となんや用事やなかったですか」

「平気やで。図書館でそれぞれ資料漁っとっただけやから」

 そうですか、と安堵して頷く。目の前で足を止めた男の体から、あの香りがふわりと漂ってきた。やっぱり、すごく好きな香りだと思う。その芳香と、男のまぶしさみたいなものに掻きまわされる頭を、平静を保ちつつ必死で回す。

「さっき見かけたんで、絶対名前教えてもらおう思て待ってました」

「ははは!ほんまかいな。自分負けず嫌いやなぁ」

「すんません、ご迷惑やったらええんですけど……」

「ええで、約束やからな。教えたるわ」

男は面白そうに肩を竦めて言った。不快な顔をされなかったことに深く安心しつつ、その前にと急いで口を挟む。

「俺は白石蔵ノ介いいます。薬学部一年です」

「白石な。よろしゅう」

 男がきゅっと目を細めて白石の名前を復唱する。優しいのにやっぱりどこか色っぽい目に微笑んで見つめられると、なんだか照れてしまう。うまく声が出なくて、白石はこくりと頷いた。

「種ヶ島修二や。文学部心理学専攻四年」

「……種ヶ島さん」

 ようやく手に入れた呼び名をゆっくりと声に出してなぞる。種ヶ島の目は、観察するようにひたりと白石を見ている。たねがしましゅうじ。海上をまっすぐ進む船のような、強く凛々しい響きがする。この人によく似合う、なんてかっこいい名前だろう。顔が勝手に綻ぶ。名前を心の中で反芻するたび、なんだかものすごく嬉しくなる。

「めっちゃきれいな名前ですね」

 気付いたら、満面の笑みでそんなことを口走っていた。種ヶ島の目が微かに見開かれ、瞳が戸惑うように揺れた。あ、俺変なこと言うた。白石はまた言ってしまった後で失言に気づいた。種ヶ島は数秒の沈黙の後、ぷっと吹き出すと、声を上げて笑い始めた。

「ははは、あははは……っ!」

「えええっ、そないに笑わんでも!」

「いやいや、自分おもろいわ……っくくく……」

 種ヶ島は腹を抱え、目に涙さえ滲ませながらひとしきり笑うと、悪い悪い、と手を合わせて呼吸を整えた。

「はぁ、笑った笑った。無邪気にそんなん言う奴あんまおらんで」

「あー……はい、言うた後でミスったと思いました」

「さよか……ふふふ……っ」

 恥ずかしい。でも、種ヶ島がころころと笑うのを見ているとつられて楽しくなってきて、あはは、と笑ってしまう。二人で笑うと、楽しくて、幸せで胸がいっぱいになった。先週は見ることがなかった種ヶ島の生き生きとした表情や仕草を、ずっと見ていたいと思ってしまう。

白石はぎゅっと拳を握ると、思い切って言ってみた。

「あの、一緒に学食行きませんか!」

「ん?俺朝飯食うてもうたわ」

「あ、俺もです。……やのうて!その……、もうちょい話したいなあと」

 口ごもりながらも言ってしまえば、種ヶ島は「ふぅん?」と興味深そうに眉を上げた。おかしな意味に聞こえただろうか。いや、そもそもこれがおかしいのか何なのか、自分でもよく分かっていないのだが。

 居心地の悪い数秒の間の後、種ヶ島はぱっと笑って「ま、ええか!」と言った。

「その代わり、学食やのうてカフェな」

「カフェ?」

「西キャンパスの奥にあってな。ちょうど今日ケーキ食べたろ思っててん。奢ったるから付き合うてや!」

「え!それはあきません、俺が無茶言うてるのに!」

「そんな気分やねん、気にせんと奢られとき。俺を見つけた褒美っちゅうことで☆」

 流れるようなウィンクとともに笑いかけられ、白石はその眩さに圧倒されて思わず頷いてしまった。種ヶ島は満足そうに笑うと、「ほな行こか」と先に立って歩きだした。

 種ヶ島にとって、白石は一週間前にたまたま道を聞かれて助けてやり、今日また会っただけの一年生に過ぎないはずだ。ご馳走になるなんておかしくはないだろうか。白石は初めこそ悶々とそんなことを考えたが、それは間もなくきらきらとした気持ちに塗りつぶされていった。種ヶ島さんと二人で話せる。広がっていくすばらしい時間のイメージに、白石はすっかり舞い上がって種ヶ島の後を歩いた。

 

 ◆

 

「来たことないやろ?」

「初めてです。こんなんあったんや」

 種ヶ島が連れて来てくれたのは、西キャンパスの一番奥にあるカフェだ。一週間前、道に迷ったときに建物だけは目に入ったかもしれない。学食や購買店が入ったビルの上階にあるそのカフェは、街中に本店を構えるカフェの分店らしい。白石は、アンティークっぽいテーブルやソファが絶妙に配置された店内をきょろきょろと見回したが、種ヶ島は慣れた様子で窓際のテーブルを確保し、手招きした。店員がメニューと水を運んで来て、まるっきり街中のカフェの雰囲気である。学校にこんなんあるなんて、大学ってすごいとこや、と白石は目を瞬かせた。

 種ヶ島はメニューに目を落としている。瞬きのたびにふわと揺れる睫毛の長さと、高く通った鼻筋が強調され、その下ではページを捲る長い指が色っぽく動いていて、やっぱり訳が分からないほどかっこいい。

 ていうか俺、なんで種ヶ島さんとこんなおしゃれなカフェにおるんやろう……。

 冷静に状況が見えてきて、白石は急に緊張を覚えた。どうやって座ってればええんやっけ。手はどこにどう置いたらええんや……。心臓がどきどきとうるさくて、手には汗が滲んでいる。本当に、この人が絡むと体がおかしくなる。

 白石が平静を装いつつもあたふたしていると、種ヶ島はケーキセットのページを開いてメニューをこちらに向けた。

「どれにする?好きなの選んでええで」

「あ、えーと……種ヶ島さんのお勧めとかありますか」

「バスクチーズケーキやな。ここのは絶品って評判やで」

「へえ!なら、それにします」

 種ヶ島は「了解☆待っとき」と立ち上がると、カウンターへ注文と支払いをしに歩いていった。ほどなくして、見るからに濃厚そうなチーズケーキが二つと、種ヶ島のブラックコーヒー、白石のアッサムティーが運ばれてきて、白石はしばし緊張を忘れて目を輝かせた。

 実のところ、白石はチーズが好物だった。一番好きなのはチーズリゾットだが、チーズを使った料理や菓子は全般的に目がない。チーズケーキは最後に食べた記憶を思い出せないくらい久しく食べていなかったが、まさか今日食べられるとは思わなかった。「食べよか!」と種ヶ島がさっそくフォークを取ったので、白石もフォークを持ち、いそいそとケーキにフォークを差し入れる。

 口に入れたチーズケーキは、ほろほろと砕けたかと思うととろりとほどけ、芳醇なチーズの香りとほどよい酸味が広がった。口許がふにゃりと緩んでしまう。後味まで完璧だ。種ヶ島の言ったとおり、これは絶品と呼ばれるのも分かるおいしさだ。

「気に入ったん?」

 種ヶ島がにやにやと上目遣いに窺った。感想が全て顔に出ていたらしい。慌てて緩んだ顔を立てなおしながら頷く。

「はい、めっちゃおいしいです!ほんまにありがとうございます!」

 すると、種ヶ島は「さよかぁ」と嬉しそうに目を細めた。その表情がひどく甘いものだから、すぐに直視できなくなってしまって、手元のケーキをもうひとかけら口に運んで誤魔化す。ゆっくり味わうふりをしてからちらりと見ると、種ヶ島はなおも目じりを緩ませたままこちらを見ている。

「あ、あの、そんなに見られると……」

「ん?ああ、悪い悪い。あんまり美味そうに食べるから、ついなぁ」

 種ヶ島は苦笑して目を離すと、コーヒーに手をつけた。白石はようやく少し安心して、紅茶の入ったカップとソーサーを手に取る。香りのいいアッサムティー、のような気がする。かわいいものを見るように笑っていた種ヶ島の顔が目に焼き付いていて、香りも、カップを持つ手の感覚も心なしか遠い。

 その時、白石はふと、カップを置く小麦色の右手に光るものがあるのに気づいた。薬指に嵌められた銀色のリングだった。少し幅のあるシンプルなそれは美しい手によく馴染んで見えたが、種ヶ島が今日のファッションの一部として選んだようには見えない。――彼女がいるのか。その洞察はなぜだか胸に引っ掛かり、種ヶ島を少し遠くした。

「一年なら、講義選ぶのめんどい頃ちゃう?」

「はあ、だいたい決まったんですけど……」

 空気を変えるように、種ヶ島が気さくに尋ねたので、白石は微かに覚えた蟠りに気付かないふりをして話し始めた。

 第一セメスターで取ることに決めた単位分の講義は、ほとんど今日までに選び終えていた。ただ一つ、あの博物学を除いて。今日の講義の内容をふまえると、あの博物学の講義では、白石の期待していた植物の毒性や薬効ではなく、商工業的な有用性がメインで取り扱われることが決定的だった。来週以降の出席はあまり気が進まない。だが、もう講義期間は二週目に突入していることもあり、今から別の講義を取ることもしにくい状況だ。このままあの博物学を取るか、取らずに次以降のセメスターで単位を補うか、悩みどころであった。

 種ヶ島は、なるほどなぁ、と相槌を打ちつつ思案していたが、急に「そうや!」と楽しそうな顔になった。

「オススメの講義教えたるわ」

「え、なんですか」

「心理学概論。明日の一限、文学部第一教室。うちの教授がやるねん。おもろいで」

「しんりがく……」

 あまりイメージの湧かない学問に、白石は少し尻込みした。種ヶ島によれば、担当の教授は学会で先週中不在にしており、明日が初回の講義なのだという。内容は専門的すぎないし、教授は話の上手い人なので、一般人が聞いても面白いと思う、求められるのは最低出席回数と期末の簡単なテストのクリアだけだから、単位も取りやすいはず、との見解であった。

それから、最後にこう付け加えた。

「俺、助手やる予定やねん」

 その一言で、どちらかと言えば履修に消極的だった気持ちが一気に変わった。

「種ヶ島さんがずっとおるんですか」

「そ。助手言うても、講義に出るついでに手伝いするだけやけどな。うちの教授機械だめやから、一人やと資料の投影できへんねん」

 けらけらと笑い、「気が向いたら覗いてや」とあっさり話を切ると、種ヶ島はコーヒーをもう一口飲んだ。

 明日の一限。他に講義は入っていない。せっかく勧めてもらったのだし、種ヶ島がいるなら、覗くだけ覗いてみようか。弾む気持ちで思案しながら、またチーズケーキを一切れ口に運ぶ。ケーキは、いつの間にか半分以上がなくなっていた。

 

  ◆

 

「付き合うてくれておおきにな」

「いえ!無茶言うた上にご馳走にまでなってもうて、ほんまありがとうございました」

「ええて。ほなな、元気で頑張りや」

 そう言って西キャンパスへ戻って行く種ヶ島を見送り、白石は大きく胸を膨らませて深呼吸をした。久しぶりにまともな息をしたような気がする。

 夢のような時間は、一時間ほどでお開きになった。「長居したいとこなんやけど、明日までに作らんとあかん資料があんねん」と種ヶ島は両手を合わせて謝ったが、白石の方も色々と限界であったので、ちょうどいいタイミングだったかもしれない。

 単位の取り方や慣れない一人暮らしのこと、四年生から見ればちっぽけであろう白石の悩みを、種ヶ島は優しく聞き出しては頷いてくれた。心理学専攻と言っていたっけ。いつもそれほど個人的な悩みを口にすることのない白石が、するするとそんなことを話し続けてしまったのは、種ヶ島が何か仕掛けをしていたからなのだろうか。そんなことを疑うほどに、彼は話しやすい人であったし、彼の言う「大丈夫」は魔法のように白石を安心させた。

 一方で、頬杖をつき、白石の目をじっと見つめ、時折頷きながら話を聞く種ヶ島が目の前にいて、白石はテーブルの下でずっと拳を握っていなければならなかった。そうしなければ、目は直視できずに泳ぎまくり、顔は真っ赤になって、種ヶ島を困らせていただろう。

 なんだかどっと疲れて、白石は手近なベンチにふらふらと腰掛けた。疲れたけれど、とてもとても楽しくて、幸せだった。すごく、本当にすごく、優しい人だった。空を仰ぐと、図書館の前で見たときよりも青く、明るくなったように見えた。時間が昼に近づいたのだから当たり前だろうか。それとも、これもあの人の仕業だろうか。

 すると、正午を知らせるチャイムがキャンパスに鳴り響いた。午後の講義に向けて、そろそろ薬学部の仲間が大学へ出てきているかもしれない。白石は余韻に浸りながら、現実に引き戻される思いでスマホを取り出した。ロックを解除して現れた通知に、一瞬固まる。「メッセージが二十一件あります」。なんだこれは。

 家族や友人から届いている大量のメッセージを開くと、そこには「誕生日おめでとう」の文字が並んでいた。

「え?……あ!」

 白石は、そこでようやく思い出した。今日は四月十四日。白石の誕生日だ。慌ただしい新生活の中で、すっかり存在を忘れてしまっていた。

 去年、テニス部の仲間たちから盛大に祝われた誕生日を思い出す。薬学部の同級生たちはみんな気のいい連中のようだから、今日が誕生日だと告げれば気持ちよく祝ってくれるだろうが、さすがにパイとたこ焼きとボケとツッコミが飛び交っていた去年までのようにはいくまい。白石は過去の騒々しさを思って苦笑いした。高校までの仲間たちとは、結局誰とも大学が一緒にならなかった。メッセージの送り主たちの懐かしい名前を見ると、どうにも寂しい気持ちになる。やかましすぎると思うことも多かったけれど、今年は一人で過ごすほかないのだと考えたら、それも恋しい。

 でも、ケーキはもう食べたな。

 そう考えて、白石は小さく笑った。さっきまでのきらきらとした特別な時間を考えれば、悪くない誕生日だと思えた。とんだ偶然だけれど、見るだけで幸せになってしまうような人と一緒で、図らずも美味しいケーキまでごちそうになって、誕生日を祝われたような気になってくる。勝手にほかほかと満足に浸りつつ、白石は種ヶ島の去って行った方を眺めた。

 

 ◆

 

 明くる日、白石は文学部第一教室の前にいた。これも西キャンパスの教室だったが、昨日念のため種ヶ島に場所を聞いておいたので、今度は迷わず着くことができた。

 しかし、この様子なら教えてもらわなくても迷わなかったかもしれない。教室へ向かう学生の数が、博物学と比べてずっと多い。どうやら文系学部の生徒の間で人気の講義らしい。これなら教室の場所が分からなくても、人波に乗ってここまで来られただろう。

 講義室は、大きな階段教室になっていた。見渡した印象では、今までの講義の中で一番聴講者が多いかもしれない。まだ空いていた後ろ寄りの席にバッグを下ろして座る。講義までは、まだ十分ほどある。ペンケースとルーズリーフをバッグから取り出していると、後ろの出入り口が開いた。吹き込んできた風にあの香りが混じっている気がした。

「おはよ」

 白石が不思議に思って顔を上げるより早く、小麦色の長い指が机の上に何かを置き、濃い香りと弾むような声が横の通路を通り抜けて行った。座席の間の階段通路を大股で一段飛ばしに降りていくあの背中は、種ヶ島だ。白石は、講義室が急にきらきらと輝きだしたような気がした。

 袖を捲り上げた黒のロングTシャツにジーンズ、白スニーカー。今日もシンプルな服装なのに、あの美しい体と肌の色で纏うと本当に目を惹く。そのことに目敏く気付いた前方に座る女子学生たちが、隣同士身を寄せ合って控え目に沸いているのが見える。

 種ヶ島は教室を最前まで縦断すると、持っていた荷物を教卓に置いた。それから付近を何やら操作して、天井に備え付けてあるスクリーンを下ろす。てきぱきと最前列にプリントを配布しているうちに、前方の入口から担当教授と思しき壮年の男性が入って来て、種ヶ島と何やら談笑を始めた。くるくると準備を進める仕草もいちいち絵になって、白石は軽やかに動き回る種ヶ島の姿をぼうっと見ていた。やがて講義開始の時間が迫ると、種ヶ島は最前列左寄りの席に座った。

 ふと机上に目を落とすと、透明なビニールに個包装されたキャンディーが二つ転がっていた。種ヶ島が通り抜けたときに置いて行ったのだ。掲げてみると、黄色い星の形をしたかわいらしいキャンディーだ。なんだか種ヶ島さんっぽい、とちょっと笑ってしまう。

 講義の内容は、博物学よりもずっと面白かった。種ヶ島の言っていたとおり、この教授は冗談をたくさん言うし、話術が巧みで面白い。この講義に人が集まっている理由も、たった一度の講義にしてよく分かったくらいだ。

 同時に、白石は時折、前方に座る種ヶ島の姿を見ることができた。腕組みをしたり、ノートに何かを書きつけたりしながら講義を聴く真剣な横顔は、ずっと見ていられるような凛々しさで、彼がこの学問に熱心に取り組んでいることを知らせていた。

 講義が終わり、白石は種ヶ島の様子を窺いながらのろのろと片付けを始めた。すると、スクリーンを片付け終えた種ヶ島がくるりとこちらを振り返った。目が合い、にこりと笑って右手を振られる。白石はぱぁっと嬉しくなって、バッグの柄をぎゅっと握って会釈を返した。種ヶ島は荷物を持つと、教授の後に続いて前方の出入り口から講義室を出て行った。

 その背中を見ながら、白石は決めた。この講義を取ろう。内容は面白そうだし、何よりこの講義に出れば、一週間に一度、必ず種ヶ島に会える。昨日のような時間は望まない。話せなくても構わない。あの横顔をどこかの席から眺めていられるのなら十分すぎる。白石はそう考えてひとり頷き、バッグを持ち直して講義室を後にした。

 ああでも、何回かに一回は、少しだけ話に付き合ってくれたらいいな。話せなくても、さっきのように手を振り合ったりくらいはできないかな。階段を降りながら、諦めの悪いそんな考えが一歩ごとに浮かんでは消え、欲張りな自分に、白石は小さく苦笑した。一体どこが「十分」なのだ。

 ポケットに入れていた星型のキャンディーを一つ取り出してみる。小さな光の形をしたキャンディーは、次々と膨らんでは弾ける小さな期待とよく似た、子供のようなかわいらしさだ。白石は封を切り、星をひとつ口へ放り込んだ。甘酸っぱいレモンの味だった。

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