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7

 ついこの間まで青々としていた桜の並木道は、涼しくなった空気に晒されて急激に色を変えた。日当たりの悪いところに僅かな緑を残し、あとはすっかり橙色に染まった西キャンパスの道を、白石は東キャンパスの端に立って眺めた。

 橙色の下を、資料の入った重そうなバッグを提げた種ヶ島が小走りにやって来る。種ヶ島は、東キャンパスとの間の道路を渡りながら、「すまん、遅れた!」と両手を合わせた。問題ない、と白石が笑って首を振ると、二人は並んで歩き出した。

「夕飯どうしましょうね」

「寒いしもう鍋いけるんちゃう?」

「確かに。スーパー寄って帰りましょうか」

 もうすっかり体に馴染んだリズムで言葉を交わしながら、キャンパス沿いの道を歩く。風のある日だ。時折赤く色付いた桜の葉がぶわりと辺りを舞い、からからと音を立てて道を滑っていく。春や夏に吹く風と違い、ぬるく乾いた秋の風は、のろのろと長く、渦を巻くように吹くような気がする。落ち葉も、髪も、木々の枝も不規則に巻き上げ揺らし、空の上でごうごうと鳴って、漠然とした心許なさを連れて来る。

 それは、そんな秋風の中で急に訪れた。

「あれ、修二やん!久しぶりー!」

 反対側から歩いて来た人が種ヶ島に声を掛けた。小さな顔に、きれいに巻かれた金色の髪を豊満な胸の上で遊ばせた女性だった。他はよく見えなかった。種ヶ島がさっと白石を背に庇うように立ったからだった。

「おー、しばらくぶりやなあ。なんでこっちにおるん?」

「こっちの教務に出す書類あってな。めんどいわー。ってか、あんたに連絡しようと思っててん!あたしこの前彼氏と別れて暇してんねん。高校のときみたいに相手してくれへんかなーって」

 可愛らしい、しかしさばさばとした声であっけらかんと紡がれた言葉に、白石は硬直した。元カノというやつなのだろうか。それにしてはおかしな言い回しだった気がしたが。いずれにせよ、白石の本能が声高に告げていた。彼女の言葉をこれ以上聞いてはならないと。しかし、どうしようもない。往来の真ん中で耳を塞ぐわけにもいかず、そんな抵抗をしたところで、至近距離で交わされる会話を完全に遮断できるとも思えない。白石は種ヶ島の背後に立ち尽くし、白石の知らぬ種ヶ島を知っているらしい女性の声を聞くしかなかった。種ヶ島の表情は見えない。

「その連絡しようとしとったん?自分なら他にいくらでも相手おるやろ」

「あんたよりええのはそうおらんやん。修二、大学入ってから全然遊んでくれへんし」

「なんや飽きてもうてな、ああいうの」

「飽きたっちゅうか、大事なカノジョがおったからちゃうん?そんで最近別れたらしいやん。色々噂聞いてんであたし」

「色々やてえ?あちゃあ、イケメンは辛いわ☆」

「はいはい、よかったなあイケメンで。話聞くしさ、もうあたしと遊んでも……って、あれ?指輪しとるやん。なに、別れてへんの?」

 女性は、芝居がかった仕草で顔を覆った種ヶ島の右手を指して言った。白石には見えないが、彼女はそこに嵌まった銀色の指輪を認めたのだろう。

「さあな?噂のことはよう知らんけど、とにかく相手はせえへんから他当たってや」

「なあんだ、年明けから急に研究室飲みの付き合い良くなったって聞いてガチっぽいと思ったのに。ならええわ、カノジョと上手くやりや。じゃ」

 女性は納得すると、さっぱりと手を振って去って行った。種ヶ島は、最後までさりげなく、けれど徹底して白石と女性の間に体を入れた。女性に迫られるのが苦手であることは既に種ヶ島に打ち明けてあったから、白石に興味を抱かせないまま女性をやり過ごすことに徹してくれたのだ、と白石は頬を綻ばせた。

「あー、あいつお前のこと見えたやろか……後でお前に声かけよったらどないしよ……。まあ、ここのキャンパスの奴とちゃうからいつもはおらんはずや。万が一何かあったらすぐ俺に言いや」

「大丈夫ですよ。ありがとうございました、庇ってくれて」

 なぜか白石よりも心配そうな種ヶ島を見てぷっと吹き出し、白石は笑って礼を言った。けれど、その一瞬のときめきと幸せは、すぐにもやもやとした気持ちに塗りつぶされていった。耳に入った女性の言葉がこびりついている。大事な彼女。そして、指輪。

 白石の表情が僅かに曇ったのを目敏く見つけ、種ヶ島は、何か覚悟を決めたように白石を見て言った。

「あいつの言ったことやろ。家で話そう。うまく話せるか分からへんけど」

 

  ◆

 

 

 車がエンジン音を上げて通り過ぎていく。その音を遠くへ追いやりながら、脳が、もうほとんど忘れかけていた記憶を勝手に引き出していく。半年ほど前、あの心理学の講義室で耳にした、種ヶ島の「彼女」の噂だ。

『誰も見たことないらしいよ。でも昔からずっと指輪してるし、女がいる飲みは断るって有名なんだって』

 さっきの女性の言葉も、同じようなことを示唆していた。種ヶ島には関係の長い彼女がいて、右手の指輪はそのしるしだというようなことを。

 そう、種ヶ島の右手にずっと嵌まっているあの指輪。本当は、ずっとどこかに引っかかっていた。一時は、女避けみたいなものだ、白石が望むのなら外す、と説明されて納得していたのだ。けれど、その後種ヶ島と時間を過ごすにつれて、あの指輪は他とは何かが違うと漠然と感じるようになっていた。

 種ヶ島はとてもお洒落だ。大学ではシンプルな服を纏っていることが多いが、遊びに出る時は色鮮やかな服を絶妙なバランスで着こなし、アクセントにアクセサリーを使うことも多い。そして、首元や指先を飾るそれらは、いつもピカピカに光っている。アクセサリーには詳しくないが、きっとこまめに手入れをしたり、傷んだものは買い替えたりしているのだ――ただ一つ、あの薬指の指輪を除いては。

 傍にいるようになって知ったことだが、あの指輪は間近で見ると、実は随分とくすんでいて、端はところどころメッキが剥がれている。装飾だけが目的のアクセサリーなら、種ヶ島はそんな状態になる前に買い替えそうなものだし、少なくとも身に着けることをやめるだろう。それをしないということは、あの指輪でなければならない理由があるのではないか。そして、一日たりともあの指輪を外さない理由も。

 噂には尾ひれ背びれがつくものだ。しかし、今日会った女性は種ヶ島について何も知らない風ではなかったし、彼女の言ったことが全くのでたらめとは思えなかった。講義室で聴いた噂と一致することを考えても、一定の信憑性を感じざるを得ない。あの指輪は、種ヶ島にとって大切な誰かに関係するものであるに違いない。

 そして、白石にはもうひとつ心当たりがあった。種ヶ島の家には、二人用のものがいくつもある。二つ揃いの食器。セミダブルのベッド。二人掛けのソファ。椅子が二脚ついたダイニングテーブル。まるで過去にあの部屋にいた〝もう一人〟のために揃えられたようだと思うのは、決して考えすぎではないだろう。かつて、種ヶ島にはいたに違いない。銀の指輪の輝きが鈍り、メッキも剥がれるような長い時間、傍に寄り添っていた人が。

 あの日、「彼女おらへんで」と言った種ヶ島の言葉が嘘だとは思えない。思いたくない。その後、種ヶ島が白石に注いでくれた優しさも、思いやりも、白石にとっては疑いようのないくらいの愛情だ。もう片方の手を他の誰かと繋いでいたなんて、考えられない。けれど、種ヶ島が今もあの古い指輪を外さずにいるということは、少なくとも彼の心は今も――。

「――……らいし、白石!待って、聞いてや。お前以外の相手なんかおらん!」

 手を引かれて、白石ははっと我に返った。きょろきょろと辺りを見渡すと、そこはもう種ヶ島の家の廊下だった。くるりと振り返ると、種ヶ島が珍しく焦った顔でこちらを見つめている。大学からここまでの道中、全く記憶がない。俺はどんな顔で歩いていたのだろう。この人は俺に何か言葉をかけたのだろうか。それに俺は答えず、黙って歩いて来たのだろうか。

「ごめんなさい、なんやずーっと考え事しとって……喋らへんくてすみません」

「お前だけや、信じて。頼むわ」

「種ヶ島さん」

 努めて穏やかに名前を呼び、必死に言い募る種ヶ島を遮る。

「分かりました。今そばにいるのは俺だけ、それは疑いません」

 心から言って、小麦色の頬を両手で包むと、種ヶ島は詰めていた息を小さく吐き、こく、と頷いた。どういう事情があるのか分からないが、これまで彼がくれた優しさには、いつもあたたかい血と心が通っていた。自分は鋭い方ではないかもしれないが、あれが紛い物だったなんて到底思えない。きっと、どれも本当だった。数えきれないそれらを思い返せば、白石は自然と、穏やかに笑うことができた。だからこそ、知りたいのだ。

「でもね、教えてくれませんか。あなたの大切なひとのこと」

 離れても、今も彼の心にいるのであろうその人のことを。そして、今彼の傍にいるのにふさわしいのは、本当に自分なのかを。

 両手の中で、種ヶ島が微かに息を飲むのが分かった。紫の瞳は、しばらくの間苦しそうに白石を見つめていたが、やがて観念したように伏せられた。項垂れるように頷いた種ヶ島の手を引き、白石は廊下の先の扉を開けた。

 

 白石は少し迷ってからソファに腰掛けた。きちんと話をするならダイニングテーブルがいいかとも考えたが、向かい合わせに椅子が並ぶテーブルでは、種ヶ島を尋問するみたいになってしまいそうだった。隣合い、触れ合える距離で話す方がきっといい。そう思って選んだソファに、種ヶ島が続いて座る。

「どっから話そかな……えーと……」

 種ヶ島は淡々とそう切り出したが、それきり言葉が繋げられないようだった。「ちょっと待って」と糸口を探すように数分黙っていたが、やがて、うーんと唸ると、途方に暮れたようにため息をついた。

「ごめん、何から話したらええか分からへん」

「なら、俺から質問してみましょうか」

「……やってみるわ」

 種ヶ島は自信がなさそうに頷いた。白石は、種ヶ島を責めるような響きを帯びないよう、慎重に声と言葉を選びながら、ゆっくりと確認を始めた。

「長く付き合うてきた人がいたんですよね」

「……うん」

「いつから?」

「大学入る前から、ずっと」

「その指輪は、その人とのペアリングですか」

 種ヶ島は右手首を少し起こして指輪を見つめると、黙って一つ頷いた。白石は、どくどくと鼓動が加速し始めるのを感じ、唾を一度飲み込んでから、さらに慎重に、静かに言った。

「……その人のこと、今も好きなんですね」

 種ヶ島は答えなかった。瞳はただ苦しそうに右手の指輪を見つめ続け、辛そうに眉が顰められていく。その横顔を見ていると、白石はこの確認を続けることに挫けそうになった。なんらかの理由で、種ヶ島はずっと一緒にいたその人と離れることとなり、忘れられず、一方で白石に恋をした。きっと、自分を中途半端だと責めて苦しんでいる。苦しめるようなことを、この口が言っている。

 すると、種ヶ島が俯けていた顔を上げ、迷子の子供のような眼差しで白石を見た。

「お前のこと好きなんは嘘やないねん」

 言葉を見つけられず、一番言いたいことをとにかく口にしたような、彼にしては不器用な言葉だ。白石は眉を下げて微笑み、頷いた。

「はい、嘘やなんて思いません。あなたがくれた優しさとか、言葉とか、とても偽物とは思えませんから。でも、種ヶ島さん。俺が心配してるのは、余計なことかもしれませんけど、その……」

 急に口が渇いて、白石はひとつ静かに深呼吸をした。

「俺よりも、その人のところへ行かなくてええんですか、ってことです」

 思い切って口にしたら、急に胸がひりひりと痛み出した。ああ、嫌だ。これ以上言いたくない。言いたくないけれど。痛みを無視して微笑んで見せる。種ヶ島は瞠目してこちらを見ている。

「別れても、それ外されへんくらい好きなんですよね。俺、何も事情を知りませんけど、そんなに好きな人を、諦めてほしくないです」

 笑ったまま穏やかに言い切ることができて、白石は密かに安堵した。うっかり涙が出ないよう、胸の痛みに集中しないように意識をぐっと逸らしながら、白石は種ヶ島の言葉を待った。種ヶ島は辛そうに白石を見つめると正面に向き直り、ゆるゆると首を振った。

「ずっとこれ着けとったのは……別れてへんかった、っちゅうか……」

「え……?」

「ちゃう!ちゃう、……別れるつもりなんかなかってんけど、あいつが、なんていうか……いなくなってもうて」

「いなくなった?」

「……」

「どこにおるか分からへんのですか」

 深いため息と共に背もたれに頭を預け、白石から顔を背けるようにして、乾いた声で種ヶ島は答えた。

「神様の懐にでもおるんちゃうか」

 白石は目を見開いて種ヶ島を見た。

「――……それは……」

 種ヶ島の表情は見えない。しかし、一切を静止させるような沈黙が、白石の控え目な問いかけを肯定していた。種ヶ島の言ったことの意味――その人が帰らぬ人であることを理解し、白石の頭は真っ白になった。言葉を探すこともできずにいるうちに、顔を背けたまま種ヶ島が続ける。

「戻って来うへんねん、もう。あんまり急やったから、これ外すきっかけもなくてな」

 なんでもない風に聞こえるよう調節された声の下で、閉じ込められたものがのたうっているのが分かる。白石はどうしたらいいか分からなくなって、ソファに力なく投げ出されている種ヶ島の左手を握った。種ヶ島は振り返らず、応じることを躊躇っているようだったが、しばらくしてやっと握り返してくれた。

 これ以上聞いていいのだろうか。白石は、全貌の見えない種ヶ島の傷を抉ることに怯えながら、向こう向きの種ヶ島の表情に細心の注意を払って続けた。

「……いつのことですか」

「去年の冬」

 白石は戦慄し、体が小さく固まるような感覚を覚えた。まだ一年も経っていない。短くとも三年ほどの間愛し合ってきたたった一人を、彼はつい最近、永久に失ったのだ。その時、いや、今この時も、彼のこの体をどんな痛みが襲ったのだろう、襲っているのだろう。想像するだに、まるで種ヶ島の痛みが伝染するように胸が激しく痛んで、全身が震え出す。

「どんな……っ、……どんな人やったか、聞いてもええですか」

 白石は俯き、種ヶ島の手を握り締めて最後の質問を絞り出した。種ヶ島はがたがたと震える声と手に気付き、はたと振り返った。その円い目を見ると、今までずっと気付けなかった、今も血を流す深い傷が見えてくる気がして、同時に、その人との間にあったものの大きさを思い知らされる気がして、白石はたまらなくなって首を振った。

「ごめんなさい、答えへんでええです、ごめんなさい」

「ううん、ええねん。……ほんまに優しいな、お前は」

 種ヶ島は潤んだ瞳を緩め、白石の髪を撫でた。

「そうやなあ」

 少しの間虚空に視線を投げ、種ヶ島は言葉を切った。白石は、思い出の海に沈んでいく横顔をずっと見ていた。白石には一生共有することが叶わぬ深い深い海の中で、種ヶ島は一筋涙を零し、ようやく口を開いた。

「俺にはもったいない、とびっきり綺麗な人やった」

 切なそうに眉を下げ、けれど幸せそうに頬を綻ばせ、はるか遠くに焦点を結んだ瞳からぽろぽろと涙を零しながら、種ヶ島はそう言った。白石は、もう何も聞かなかった。

 

「なあ、こんなんで信じられへんやろうけど、お前のことは、ちゃんと好きになったつもりなんよ。……でも、もう嫌か。俺とおるの」

 涙が止まった頃、種ヶ島が言った。

「俺はお前と一緒におりたい。前言ったとおり、これもお前が嫌ならほんまに外せる。でも、できることはそれぐらいや。俺と一緒におってお前が傷つくなら……、俺はお前とおったらあかんと思う」

 種ヶ島の眼差しは、痛いほどに真剣だった。白石は、少しだけ逡巡した。もういないその人への想いと、白石への想い。決して小さくないその二つが種ヶ島の中にどのように仕舞われ共存しているのか、分からなかった。これほど強い想いが並立するものだろうか。最愛の人を失った経験のない身には、理解しようもないことだ。

 けれど、応じない選択肢はなかった。これまでの想いに加え、新たに知った種ヶ島の深い傷の存在が、抗いようのない庇護欲を掻き立てている。この人を守りたい、一人にするわけにはいかない。滲みるように切なく溢れて来る慈愛の端は、微かに甘美でもある。常に明るく振る舞う種ヶ島が、隠した傷を晒し、助けを求めることができるのは自分だけなのだという甘い蜜が垂れている。

 それに、あの春の日に降ったわけの分からない恋は、過去の話を聞いてもなお変わらず、白石の中にあった。種ヶ島が好きだ。これまでどおり傍にいられると言うのなら、望まずにはいられない。傷を知り、今までよりも更に特別で、深い存在として傍にいられるのなら、尚更だっだ。

「これからも一緒におります。種ヶ島さんのこと好きやから」

 白石ははっきりと言い切った。種ヶ島は、どこか複雑そうに白石を見つめ、「さよか」と呟いて瞳を揺らした。その表情は白石の拒絶を望んでいたようにも見えて、白石はどきりとした。少し迷って、一度だけ聞いてみた。

「種ヶ島さんは、本当にええんですか」

 語る間、ずっと苦しそうだった横顔が蘇る。二つの想いは、種ヶ島の中でも整理がついていないのかもしれない、と白石は思った。これまでもこれからも、白石と過ごす限り、種ヶ島は大切な人を二人ともを裏切るような思いに苛まれることになるのかもしれない。

「……分からへん。……いや、ええわけないわ、こんなん……絶対……」

 種ヶ島は眉間に深く皺を刻んで首を振り、両手で顔を覆って俯いた。 

「……けど俺、どうしてもお前とおりたいねん」

 血を吐くような種ヶ島の望みを聴き、白石は小さく丸まった背中を抱きしめた。どうしようもない恋があることを知っている。望むことをやめられないのは、白石も同じだった。だからせめて、許してあげたい。

「一緒にいましょ、これからも」

 種ヶ島は顔を上げ、白石をしばらくの間じっと見上げると、何かに引きずられるように白石の背に腕を回した。どこか甘えるような仕草に、心が温度を取り戻していく。

「ありがとうございます、話してくれて。……俺は、身近な人を亡くしたことあらへんから、種ヶ島さんの気持ち、分かってあげられへんのやと思います。想像するしかできへん。でも、辛いとき、俺にできることがあったら教えてください。俺もできること考えるし、思いついたら全部やったりますから」

 心からの気持ちを伝えると、種ヶ島は、ぎゅっと腕に力をこめてひとつ頷いた。

「その指輪は、俺が外せなんて言うてええもんやないですわ。つけといてください、あなた自身が外すときまで」

 その一言は、言わなければならないことだった。言い切って、白石は内心不安になった。これからもあの指輪を着け続けるであろう種ヶ島の隣で、自分に向けられた種ヶ島の気持ちに嘘がないことだけを喜んでいけるだろうか。彼にだってどうしようもないのだということを忘れずにいてあげられるだろうか。

 けれど、そんなことをいくら心配したところで、どの道、今この腕を解く術はない。

「ごめん」

 種ヶ島がそう言い、指輪のついた右手をぎゅっと握る気配がした。白石は黙って首を横に振る。

 自分たちは本当になぜ、あの春突然恋に落ちたのだろう。種ヶ島には忘れられない人がいて、白石は恋さえ知らなかったのだというのに。白石に説明がつかないように、種ヶ島にも説明がつかないのだろう。白石は、神様の采配の奇妙さを思った。

 もうどうやっても種ヶ島と同じ世界にはいられず、白石との間に割って入ることもできないその人への罪悪感や同情に揺られながらも、自分たちは、不思議な引力に引き寄せられるまま抱き合うしかない。不条理でも、誰かを傷つけることになるのだとしても、人は抗えないようにできているのかもしれない、と白石は思った。

「ごめんな」

 腕の中でもう一度だけ落ちた謝罪が誰に向けられたものだったのか、白石には分からなかった。

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