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​冬の朝

  おはようさん 

  無理させてもうたな、痛いとこないか……? 

  ……ん、ならよかった 

  もう少し寝とき な 

 

 

 とろり、心地よい重さで沈殿する微睡みの淵、甘い夜を内に閉じ込め、朝を帳で堰き止めた部屋で、真綿のような声と微笑みにくるまれた。 

 春風の柔らかさで髪を撫でる手と、目覚めきらぬ肌が浸かる香りと温みが、そっと現に夢心地を綯い交ぜて、開いた薄目はうっとりと夜の名残りに溶けていった。  

 

 雲の上に揺蕩うような短い夢から覚め、何度かのろのろと瞬きして、白石は引き留めようとする温かい寝具から抜け出した。いつもより些か強く感じる腰の重さは、昨日二人の間にあった熱さと甘さに比例しているのだと思えば、緩やかな恍惚を生んだ。 

 一晩中添っていた人の高い体温を吸ったシーツは、もう微温い。カーテンの向こうからは、白い朝日に混じり、結露した窓を伝った真冬の冷気が漏れ出している。寝室には暖房を効かせて眠ったとはいえ、スリッパを履き損ねてうっかり素足をついた床は、もう縮み上がるように冷たかった。白石はスリッパをきちんと履き直して立ち上がると、やってくる冷気に備えぐっと身構えて寝室の引き戸を開けた。 

 冷気はやってこなかった。 

続くリビングはカーテンが開け放され、もうまっさらな明るい朝が来ている。夜の間、氷のような窓に冷やされ水分を奪われ刺々しくなっていたであろう空気は、既に体を包み抱くような温度にまであたためられ、丸く湿って滑らかに鼻腔を通った。こぽぽと小さい音を立ててはたらくコーヒーメーカーが充満させているのは、白石の家とは違う、種ヶ島の家の朝の香りだ。 

 すう、と胸いっぱいにその空気を吸い込み、ドアに隔てられたキッチンでがさがさと動く気配を聴いて、ため息と共に顔が綻んだ。あたたかい。この部屋にだけ春が来ているみたいだ。花も思わず咲くんじゃないか。 

 キッチンへ続くドアに手をかける。このリビングをつくってくれた背中に、早く頬を胸をくっつけたい。すると、磨り硝子の向こうに朝日と同じ色の髪が揺れた。がちゃり、とドアが開いて、空のマグカップとパンの包みを持った種ヶ島が白石を中に押し込めるように入ってドアを閉めた。 

「ノスケ、この先はあかん、行ったらあかん、ほんまに寒い!」 

「えー?」 

 冗談と本気が半々といった様子で悲鳴を上げる種ヶ島に、白石はリビングへ押し戻されながら更に目尻を下げた。暖房のないキッチンを少しでも暖めるためにここを開けておけばよかったでしょう、とか、あなたの方が寒がりなのに、とか、言いたいことはいくつもあったけれど、どれも胸にしまうほかなかった。 

 ぽかぽかのリビングへと背を押されながら見えるのは、暖かい風を吹くエアコン、湯気を上げるコーヒーメーカー、白い霧を吐く加湿器、スイッチの入ったこたつ。この家の暖房機器の中で唯一キッチンでも使えるはずの小さな電気ストーブまでもリビングを暖めるために使ってしまっている種ヶ島の、冬のおひさまのような優しさと労りで編まれた空気をもう一度吸い込んで、白石は振り返り、少し冷えた逞しい胸にそっと頬を寄せた。 

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