フレア
「ええんですよ、そんなん」
彼はそう言って、素足でつまらなそうに波を蹴った。白い爪先から散ったしぶきが宙を光り、金銀が揺蕩う水面に還る。まだ冷たいだろう海水が寄せ、うたかたを無数に作っては砂に染みていく波打ち際に、彼は肌を馴染ませるようにして立っているのだった。
「種ヶ島さん以外、撮れるわけないし」
夕暮れの海鳴りに紛らせるようにして続け、彼は湿った砂を辿ってゆっくりと歩き始めた。透明な波が足跡を濡らし、浚っていく。穏やかな回答は種ヶ島の胸に沈み、静かに波紋を描いていった。
そろそろ他のカメラマンとも仕事をしてみたらいいのに、なんて、心にもないことを言ってしまったのはなぜだろう。この半年で、彼は緩やかに、けれど着実に知名度と評価を上げていた。そうですね、ほなそうします、とでも答えられてしまったら、どうするつもりだったのか。その可能性を考えもせず言葉を放った自分に、今更気付く。
「……さよか」
俺はたぶん、知っていたのだ。彼が決してそう答えないだろうことを。
顔とスタイルは申し分ないんだけどねぇ。
業界の知人がそんな言葉を添えて紹介したのが彼だった。「白石です。よろしくお願いします」。教科書どおりのあいさつを並べた緊張の面持ちを思い出せば、懐かしく口許が綻ぶ。種ヶ島が白石のポートレートを撮るようになってから、一年が経とうとしていた。
春の辺鄙な砂浜に人はおらず、沖に船の一隻も見えない。海上にあるのは、珊瑚色の薄墨を流した空ばかりであった。その中から射す光がじわりと強まっていく。沈む太陽が雲の塊を抜け、今日最後の輝きを放とうとしているのだった。
振り返った白石がひとつ頷く。種ヶ島は小さく笑みを返して屈み、手に馴染んだ一眼レフカメラを持ち上げた。
ファインダーの奥に光がある。レンズの向こうの世界を小さく固めた、四角い光だ。種ヶ島はほんの一秒、目を眇めてそれを眺めた。長く写真を撮ってきたけれど、この光をこれほど切なく感じたことはなかった――彼に出会うまでは。
種ヶ島は息をひそめ、そっと右目でファインダーを覗き込んだ。真っ暗なトンネルの先から光り輝く世界が近づき、音もなく飲み込まれる。まぶしさに目を瞑りそうになるのを堪え、種ヶ島は現実であって現実でないその空間に身を投げた。
とうとう遮るものをなくした黄昏の陽光が、濡れた砂浜をまばゆい光の野原に変えていた。その中にしっとりと立ち、振り向いた白石だけが、金色に塗りつぶされた世界に透き通った影を落としているのだった。
ファインダー越しの世界は、シャッターを切るごとに一瞬白く消える。光の波がとがったくるぶしに絡み、風が懐いた白いロングシャツが靡く光景に連続でシャッターを切れば、真っ白になる一瞬が連なって、まるで目が眩んだようだ。あるいは、本当に目が眩んだのかもしれなかった。内側から滲むような澄み切った光を纏い、影さえも味方につけて微笑む姿は、それほどまでに美しかったから。
マジックアワー。昼と夜の狭間に、地上のあらゆるものに魔法をかけるこの時間さえも、彼が作り出しているように見えた。レンズが捉える何もかもが、彼の存在ひとつで痛々しいほどの輝きを帯びる。種ヶ島にとって、白石はそういう人物だった。
「めっちゃ綺麗」
目の前で煌めくすべてに心のまま告げて、シャッターを切る。ちか、ちか、と断続的に白む景色の中、白石はくすぐったそうに笑ってこちらへ歩み始めた。
その姿を切り取り続ける種ヶ島の胸を、まだ止まない波紋が濡らしていた。
カメラを向けられると人が変わる。世に出たいくつかのポートレートを目にした人々から、今や彼はそう語られ始めている。けれど、種ヶ島が出会った頃の白石はそうではなかった。素材は超一級品なのに、カメラを向けられると固くなるのが致命的。長くそう言われてきたのだという。彼の中で何が変わったのか、これまで尋ねたことはない。
――種ヶ島さん以外、撮れるわけないし。
無造作に心へと投げ入れられた言葉が木霊している。人々が目を瞠った濡れたように柔らかな佇まいを、カメラではないどこかへと心をあけ渡した表情を、俺以外には撮れるはずがないと、彼は言ったのだ。
その言葉の意味に、手を伸ばすのは躊躇われた。当然のことだ。うっとりと溶けそうな目をカメラで隠し、ファインダー越しにしか彼を見つめられずに過ごしている、臆病者の俺なのだから。
ちか、ちかちか。シャッターのまたたきをしばらく重ねて気付いてみると、髪も肌も夕日に溶けこませた彼が、いつの間にかすぐそこに立ってカメラを見下ろしていた。頬の上で光と影を交差させたかんばせがしみじみと瞳を緩めて、息が止まる。まるで愛おしむような、そのまなざしに。
「だめ」
声と同時に、白い指先が伸びてレンズの縁に触れた。一瞬泣き出しそうに歪んだ顔にシャッターを切り損ね、種ヶ島はそこで初めて、自分がカメラを下ろしかけていたことに気がついた。白石の指は、それを制したのだった。
時が止まった一瞬の後、種ヶ島はカメラを構え直した。ちか、ちか。再びまたたき始める風景に、ほっとしたような笑みが映り込む。金色に揺れる双眸が優しく見下ろし、触れていた指が離れていく。
「――綺麗」
現実を幻想に変える箱の中の白石へと、種ヶ島はもう一度告げた。臆病者、なんて、彼だけは詰らずにいてくれるだろう。レンズの向こう側からしか、こうして見つめてはくれない彼なのだから。
もし怯える指を裏切ってカメラを下ろし、この目であの表情を捉えていたら、彼はどうしたのだろう?あるいは今、あの言葉の意味を問い質したら?種ヶ島は白石から目を離さないままぼんやりと考えた。――分からない。分からないから、できないのだ。
これまでカメラを向けてきたあらゆる被写体の価値は、彼を知ったときに残らず消え失せた。今の種ヶ島はただ、この半幻想の中でだけ注がれる白石のまなざしと、白石のいる世界の輝きを見つめるために、カメラを持っているようなものだった。酩酊にも似た恍惚の中で、永遠にこれだけを見て生きたいとさえ思う。この美しい光を、万に一つも失いたくなかった。
「……もっと見せて、ノスケ」
シャッターを切る。ファインダーの奥が瞬き、潮風に髪を煌めかせた白石が切なく微笑む。深い恋しさを帯びたまなざしに目の前が再び強く輝いて、まだ微かな波紋に揺れていた胸も、巣喰うもどかしさも、やがてその光に飲まれて見えなくなった。
目が眩む。現実でも、幻想でも、もうどちらでもいい。空に溶けた夕日と同じ瞳で見つめる白石だけが、この瞬間の世界のすべてだった。