晴れの日に
白石は走っていた。強い横風の吹くなだらかな坂を、大事な丸筒だけを左手に握り、ただもう飛ぶように下っているのだった。
仲間たちには最後まで世話になった。部室であいさつを済ませた後、窓からの脱出計画を彼らが手助けしてくれなければ、白石はどこから湧いたのか知れない女子の大群に阻まれて、今も校門までさえ辿り着けずに立ち往生しているところであった。約束があるわけではない。しかし、白石はもう一秒だって余計に待ちたくはなかった。
向かうのは、三年前に告白した人の下宿だ。「さよか。おおきになぁ」。彼がくれた返事はそれきりだ。それでも、以来二人は一緒に出掛けるようになった。二週間会わずに過ごすことはなかったし、彼の下宿にだって、椀と箸のしまい方をとっくに覚えてしまうくらいに何度も行った。あいにくと他の恋を知らない人生だが、彼と二人きりで過ごす時間に湧き出す切ない甘さを帯びた空気が恋人同士のそれのように感じられるのは、気のせいとは思えなかった。けれど、勇気を振り絞って触れようとするたび、決まって彼はこう言うのだった。「あかん。だってノスケ、まだ高校生やんか」。
高いマンションの影を抜け、薄れた横断歩道を蹴り、どうと吹きつける春風を裂いて、白石はまだ走った。行く手が開け、右に光る大きな川が見えたら、反対側に設えられた急階段を上る。上った先にある、黒い鉄骨階段つきの古びたアパートが彼の下宿だ。その前でようやく立ち止まり、白石はふうふうと息をついて黒い丸筒を握り直した。制服の胸につきっぱなしの赤い花とリボンが風にはためいている。
校門付近には、OBたちが大勢お祝いに来ていたらしい。「種ヶ島先輩もおるんちゃうか」と誰かが言ったが、確認には行かなかった。いるわけがないと思った。誘えば必ず会ってくれるくせに、会いに来てくれたことは一度もない人だからだ。そして、彼はこの部屋にいるはずだと思った。近づいてきてはくれないくせに、近づかれて逃げたことは一度もない人だからだ。白石はその確信ひとつを胸に、一直線にここまで駆けてきたのだった。
ドアの前に立って呼び鈴を鳴らす。十秒待ち、二十秒待ち、物音ひとつしない時間に焦れてドアノブに手を掛けると、銀色のそれはくるりとあっけなく回り、薄い扉をひらいた。その抵抗のなさにいよいよ決壊しそうになる感情を誤魔化すように、白石は「お邪魔します!」と高らかに宣言した。
革靴を脱ぎ、暗く短い廊下を大股に踏破した先に、思ったとおり彼はいた。六畳ぽっちの空間に木の文机とベッド、ラケットバッグを置いた殺風景ないつもの部屋で、畳にあぐらをかき、頬杖をして窓の外を眺めていた。吹き込む春風が狭い部屋の中を窮屈そうに回っている。
「高校、卒業して来ました」
弾む息もそのままに告げると、種ヶ島がゆっくりと振り返った。丸筒から出して突き出したもらったばかりの卒業証書を認め、眩しそうに目を眇める。おめでとうさん。優しい声が落ちる。
「もう何も言わせません」
やはり逃げ出す素振りもなく、種ヶ島はただ風に髪をそよがせて座り、じっとこちらを見ていた。白石は泣きたいような切なさでいっぱいになって、とうの昔に溢れている想いをもう一度まっすぐに種ヶ島へ放った。
「好きです。三年前よりずっと」
「…………読みが外れたなぁ」
そのうち飽きると思ったのに、とでも言いたげに頭を掻きながら、種ヶ島は穏やかな笑みを浮かべていた。初めて見るその表情に引き寄せられるように、白石は卒業証書を放り出して種ヶ島の前に膝をついた。窓の桟に手をかけて追い詰めても、彼はただ微笑んで見ている。
一線を越えずにいるうちに、興味を失ってくれたらいい。
人よりずっと多くのことを考えられる彼は、最初のうち、確かにそんなことを願っていたのかもしれなかった。けれど少なくとも今日、玄関の鍵を開けて待っていたこの人は、もう知っていたはずだ。彼の寂しい願いは遂に叶わなかったということ。今日俺が扉を開け、ここへ捕まえに来ること。そして彼はこの部屋に身を置いたまま、その時を待っていてくれたのだ。
「敵を侮りましたね」
震えるような歓喜に熱くなっていく喉を抑えて負けじと嘯き、白石はもう必要なくなったブレザーを脱ぎ捨てた。幾度胸を焦がしたか分からない精悍な頬に手を伸べる。近くで見るといっそう強く引き込まれる紫色の瞳が観念したように伏せられる刹那、ふ、と弧を描いた唇がどこか満足そうに呟いた。
「……参ったわ」
唇が重なる。開いた窓から再び春風が強く吹き入り、畳に転がった卒業証書が乾いた音を立てて舞った。二人きりの小さな部屋に待ち焦がれた沈黙が訪れ、やがて長い腕がそっと白石を抱き寄せた。それは三年前に白石が種ヶ島に想いを告げてから、初めてのことだった。