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 急に頭上から音楽が流れ、受付台に座る老画家ははっと顔を上げた。天井に取り付けられたスピーカーが奏で始めたのは、閉館十分前を知らせる音楽だ。いつの間にか、うとうとと船を漕いでいたらしい。彼は?慌てて立ち上がり、ギャラリーを出る。重い足を叱咤してロビーへ向かうと、青年はさっきと少しも変わらず、一人で座っていた。 

 本当に、来ないのか。 

 虚しく肩が落ちる。館内に流れているのは、ベートベンだ。この小さな美術館で昔から閉館の音楽として使われている、ピアノソナタ「告別」。その音色は、とうとう誰も迎え入れることのなかったロビーに緩く流れ、消えていった。 

 彼は覚悟していたとはいえ、あんまりじゃないか。今も誰よりその人と共にあることを願い、遠い昔の言葉を健気に守った彼への報いが、本当にこんなものだなんて。老画家が落胆に言葉を見つけられずにいると、青年が振り向き、また愛想のいい、しかし些か疲れた笑みを作って口を開いた。 

「あんたの個展も今日はおしまい?」 

「そうだね、そろそろ片付けないと。……その、何と言ったらいいか」 

「アハハ!あんたお人好しやなぁ。今日一日、おかげさんで随分気が紛れたわ。今度はほんまにあんたの絵、見に来てみよか。俺にも分かるとええなぁ」 

「……」 

 彼はからりとそう言うと天井を仰ぎ、穏やかなため息と共にソファに沈んだ。高い天井に埋め込まれた小さな照明は、白にセピアを混ぜたような、微かに懐かしい色でやわく光っている。それを見つめて微笑む青年のついたため息は、どこか満足げに響いた。 

「よかった。これで約束守れたし。いやな、ほんまにちょっと心配やってん。先輩のこと以外好きになれへんと思います、とか言うたこともあったし、最後までぐずぐず言うてたから。でも、きっともうそんなこと思わんと、あいつはちゃんと、幸せにやってんねや」 

「そうかも、しれないね」 

「うん、よかった。……これでよかった。ほんまに」 

 青年は微笑んだまま、何度も頷いてそう言った。来なかった待ち人の幸せと、果たせた約束を喜ぶ淀みない言葉は、本心なのだろう。けれど、今日見た中で一番清々しく、やわらかなその表情は、かえって老画家を辛くさせた。 

 彼の大切な人の幸せは何よりだ。だが、彼は?彼の想いはどこへ行くのだろう。人の気配がするたびに彼の顔に輝いた明らかな歓喜の色は、決して見間違いではないはずだ。本当は、その人が来てくれることをこそ、切望していたのではないのか? 

「……片付けをしてくるよ」 

 老画家はそう言い、青年の肩をそっと叩いて踵を返した。この結末を肯定する権利も否定する権利も、彼以外にはない。何より、彼は一人で泣きたいかもしれない。そう考えたのだった。青年は返事を返すことも、立ち上がることもなく、黙してそこに残った。 

 

 受付台の下に置いていた鞄にほとんどない持ち物を片づけ、ギャラリーをぐるりと見渡す。この個展を終えたら、もうしばらくキャンバスに向かうのはやめようと思っていた。 

 けれど、その前にもう一枚だけ小さな絵を描いてみようと老画家は思った。今日、誰もいないロビーに満ちていた、あの青年の穏やかで、胸が締め付けられるほど純粋な想いを、せめて色と光でキャンバスの上にとどめたい。衰えた筆が、彼の心にはとても及ばないとしても。老画家はそう密かに決めて、ギャラリーの照明を全て落とし、扉を閉めた。 

 短い通路を歩きながら、ロビーの手前に自動販売機を見つけ、老画家は足を止めた。ココアか。それともミルクティーだろうか。慰めになど到底なるまいが、寒い冬の夕暮れを、その人のいない元の世界へと一人で帰るのだろう彼に、温かくて甘い飲み物を持たせてやりたかった。 

 長年、筆やペインティングナイフを握り、すっかり節くれ立った指は、しばしば不便だ。二つ折り財布の小銭入れは、老画家の指にはいつも少々狭い。それは、硬貨を掴めない不器用な指先に耐えかねて、小銭入れの中身をてのひらにあけてしまおうとしたときだった。 

 通路に、急に凛と冷えた空気が流れ込んで来た。濃い雪の匂いを含んだその冷気の来た方へと顔を上げた瞬間、老画家の心は奪われ、取り落とされた財布と鞄がどさりと足元に落ちた。 

 

 ロビーは色を変えていた。一日中差し込む光はなく、暗い吹雪の中に人工の光がかりそめの昼を作るばかりだったそこに、目を眇めずにいられないほどまばゆい琥珀色の光が溢れている。眩む目をなんとか開けてその先に目を凝らせば、光に埋もれるように立つ何かが見えた。 

 それは人影だった。青年しかいないはずのロビーに、新たな人影がある。たった今飛び込んで来たらしいその影は、吹雪が去った空からの強烈な西日が差し込む入り口の前に立ち止まり、肩で息をしているように見える。それは、橙色の夕日に透けるような淡い色の髪と、中世のフレスコ画のように白い肌を輝かせた、それは美しい、もう一人の青年だった。 

 あの子だ!あの子に違いない! 

 老画家はそう確信し、思わず物陰に身を隠して息を殺した。 

 その時、ふと思い出した。この美術館の閉館の音楽として昔から使われているのは、ピアノソナタ「告別」の最終楽章、終結部(コーダ)。作品全体が「告別」と通称されているけれど、各楽章には個別に標題がつけられている。さっき、青年の待つロビーに、まるで何かをしらせるように流れた最終楽章の標題は──「再会」だ。 

 強い光はロビーの奥にも届き、待ち続けた青年がふらりと立ち上がるのが見えた。開いた自動ドアから舞い込む粉雪が、溢れる光の中をきらきらと瞬き遊んでいる。ロビーを斜めに切り取るように大理石の床へと注ぐ強い夕日は、飛び込んできた美しい青年の足元から、唖然と立ち尽くす彼の方へと、まっすぐに伸びていた。光と、雪の粒の瞬きと、二人の青年だけの世界で、彼らの視線が、心が、一瞬にして結びつくのが分かった。解き放たれたように駆け出し、太陽が落とす今日最後の日向の端で抱き合い一つになった二人が、同じ日を浴びて金色に光る。 

 老画家は、組んだ両手に鼻先を押し付け、震える息を抑え込みながらその光景を見た。── 神様。いつもは信じることなどできないその存在が目の前に舞い降りたかのような、眩しく、切ないほどに美しい光景を。 

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