新しい日
小さな時計のてっぺんをかちりと押すと、青だか緑だか分からない光が目を焼いて、白石は思い切り顔を顰めた。光の矛先を向こうへ逸らしてなんとか時刻を確認すると、薄れたデジタル数字が「3:07」と刻んでいた。白石はうんざりとため息をつき、時計を元に戻した。
安っぽいシルバーのアラーム時計は、白石が十一才の冬、妹の由香里と共に参加させられた町内会のビンゴ大会で図らずも白石のものとなった。それほど大事にしていたわけでもないのに、もう四年ほど白石の近くではたらき続け、なんだかんだとこの船の上にまで持って来られている。最近心なしか元気がなくなり、昼間などはほとんど光が分からなくなってきたくせに、真っ暗闇の中だとやたら刺々しい光である。夜こそ控えめに光ればいいものを、まったくうまくできていない。
白石はもうひとつため息をつくと、静かに毛布を退けて起き上がった。カーテン越しの微かな光しかない部屋は、まだ真っ暗である。向かいの壁にかかった壁掛け時計の秒針が進むカリカリという音と、そろりそろりと身動きするたびに起こる衣擦れの音以外は、全くの無音と言って良かった。同室の二人の眠りを守る暗闇と静寂を壊さぬよう細心の注意を払い、そうっとベッドから足を下ろして立ち上がる。二人に動く気配のないことを横目で確認して、ドアの下から少しだけ漏れている微光を頼りに二歩、三歩進むと、たっぷり五秒もかけて慎重にドアを開け、白石は誰もいない夜の廊下へ滑り出た。
小さな常夜灯と、非常口の緑色のランプが頼りなく照らす暗い廊下を、低いエンジン音が満たしている。オーストラリアから日本への航路の途上にあるこの船は、夜間も生真面目に航行を続けているのだ。
W杯が日本の優勝で幕を閉じた後、代表選手は飛行機で帰国するか、応援団と一緒に船で帰国するかを選ぶことができた。間もなく冬休みとなることもあり、滅多に機会のない船旅に目を輝かせた多くの代表選手が乗船した。白石もその一人であった。部屋割りは、ほとんど合宿所時代のものが踏襲され、そのためもあってか、各校の部長、副部長たちによって、かつての消灯時間以降の活動は自然に抑制されていた――最も、自身も部長であるところの白石は、この点についてそれほど熱心ではなかったが。そんな訳で見事に人っこ一人いなくなった真夜中の船内を、白石はそぞろに歩いた。
なぜ眠れないのだか、得心がいかない。 どこか痛むわけでもないし、何か興奮するような出来事があったわけでもない。昼寝をしすぎたわけでもない。W杯が終わって緊張が解けたことや、慣れない船上に身を置いていること――他にも最近変化したことはあるが、ともかく昨日も一昨日も同じ条件下でぐっすりと眠れたのだ。だというのに、今夜に限って、白石はもう四時間ほどベッドで悪戦苦闘させられており、辟易していた。何やら胸が落ち着かないのだった。嬉しいのだか、悲しいのだか、悔しいのだか、怖いのだか、はたまた眠れず苛ついているうちにそうなったのだか、源は明確に特定できないのに、心が直接空気に晒されているようにひりひりする。
心当たりもないのに眠れないとは、理不尽ではないか。明日をよい日にするためには睡眠が欠かせないと分かっているのに、眠れないとはじれったいではないか。一体俺の明日をどうしてくれるのだ。自分が何時間も不条理に悩まされる中、すやすやと、いとも簡単に眠り続ける幸村と不二に、いい気なものだと幼子のような不満を覚えさえした。
そして四時間の格闘の末、白石は眠ろうとするのをやめた。とうとうそんなものすべてと取っ組み合うことに疲れたのだった。と言うより、相手をしているのがばかばかしくなった。これは手の届かないところにある扉、出口があると見せかけて無い迷路、そんな類のものだと思うことにした。取り合わずにおくのが賢いというものだ。最適解というやつだ。その最適解とやらに辿り着くのに四時間という膨大な時間を費やしてしまった点については、この際目を瞑る。
部屋を出ることにしたのは、逃れるためだ。人々が寝静まるべき時間に、その理想に従って眠っている幸村と不二のいる部屋は、「お前も眠るべきなのに」とでも言っているようで、やはりあれらの理不尽やら焦燥やらと戦わせようとし、そうしないことを責められているような気にさせられる。十五才にはまだまだ親しみの薄い、深い深い夜の時間の、これは逃避行だ。眠るべきであることも、だのに己は眠れないということも、ひととき忘れ去るための。
客室の扉が続く狭い廊下。壁にかけられた船内案内図。椅子という椅子がテーブルの上に逆さに乗せられた閉店中の食堂。船内は、あらゆるものが藍色の夜に沈んで息を潜め、朝を待っている。ここが海の真ん中に浮いた小さな空間であるからか、まるでこの世の全てのものが眠っているようで、自分だけが世界の約束事に反しているような気がしながら、あてもなく歩く。乗船して三日。もう何度も往復した船内のはずなのに、今は少しだけ心細い。いつも親しい人たちの気配に満ちている場所は、それが空っぽになるだけで、どうして急によそよそしくなるのだろう。一方で、仲間たちは見ることのない特別なこの場所の姿を、自分だけが独り占めしているようで、少しだけわくわくもする。相反する気持ちに両側からひっぱられながら、静かに足を進めていく。
気がつくと、ロビーまで出てきていた。消灯時間までは、シャンデリアのきらきらした光と、談笑する仲間たちの賑やかすぎる声が満ち満ちているこの空間も、今は暗闇の中でがらんどうだ。階を貫く吹き抜けの中を折れ曲がりながら伸びる階段は、明るい場所で見るよりも重厚感を増している。その階段をぼんやりと視線で辿っていると、その先に青白い光が見えた。最上階だ。確か展望スペースになっていて、自動販売機があった。その光らしい。白石は急に喉の渇きを覚え、寝間着代わりのジャージのポケットにコインケースを入れて来たことを確かめると、階段を上ることにした。
うっかりどしんと足をつかないよう慎重に階段を上っていく。すると、最後の踊り場を折り返した瞬間、自動販売機の前の人影が目に入った。自分の他に誰もいないと思っていた世界に突然現れた影に、思わずびくりと全身がすくむ。心臓をばくばくさせながらよく見ると、長身が自動販売機と吹き抜けの間の転落防止柵にもたれかかり、こちらを見ている。影は白石が気付いたことを認めると、ひらりと右手を上げた。右手の指が、あの風変りなあいさつを口にするときと同じ動きで、一度くいと曲げられたのが見えた。
すくんだ体から、心から、するすると力が抜けていく。止まっていた息がゆるゆると吐きだされる。いつからか、あの姿を見るといつもこうだ。明るい銀色の髪と健康的に焼けた褐色の肌のコントラストや、その中で優しく笑う顔、悠然としたあの佇まいを目にすると、いつもなら決して抜かない力まで抜けてしまう。
ああ、会いたかった。自然とそんな気持ちが湧き出て、泣く直前のように喉の辺りが熱くなる。
自動販売機を背に、闇の中でぼんやりとした青白い光を纏うその影は、種ヶ島だった。四日前、夜のメルボルンの砂浜で、白石の初めての恋人となった人。W杯が日本代表の優勝で幕を閉じた、その夜のことだった。
残り数段の階段を静かに上る。種ヶ島は、柵に頬杖をついて微笑みながら、それをじっと目で追っている。暗がりで薄い光に照らされた種ヶ島は、それだけで訳が分からないほどかっこよくて、足元を見るふりをして目を逸らす。
「意外やなあ、こんな時間に。もしかして俺がおるの分かったん?☆」
「分かってたらあないにびびりませんわ。心臓止まったかと思った」
「あらら、止まらへんくて良かったわ」
最上階に到着して歩み寄ると、種ヶ島はいたずらっぽく笑って話しかけた。静かすぎる深夜の船内で小さく潜めた、白石にしか聴こえないような声が鼓膜を撫でた。いつもの声と全く違う、ほとんど吐息だけでひそひそと話す声の中で、種ヶ島の唇や舌が紡ぐ音が妙に目立って聴こえ、それがやけに色っぽくてむず痒い。また視線が足元へと落ちていく。この暗さと、横から照らす自動販売機の青白い光はいけない。種ヶ島の顔の輪郭を匂い立つように美しく際立たせ、喉仏や鎖骨のもとに艶やかに滲む陰を作る。
「飲みもん?奢ったるで」
「、あかん!」
目を合わせない白石を詰るでもなく、種ヶ島がいつものように財布を取り出そうとした。咄嗟にばっと顔を上げるのと同時、思ったよりきつい声が出る。しまった、と思うも手遅れだった。ああ、そんなつもりはないのに、と歯がゆくなる。四日前から、どうにもうまくいかない。驚いて目を丸くした種ヶ島からさえ目を背けてしまう。
「え、なんで?」
「俺もう〝後輩〟だけやない、ですから」
なぜかしどろもどろでぶっきらぼうにしかならない声でそう言って、コインケースから硬貨を拾い上げ、自動販売機に入れた。からから、かしゃん。からころ、かしゃん。くだらない意地と緊張を嘲笑うような音を立てて、硬貨が定められたとおりに箱の中を落ちていく。最後の一枚があるべき場所へ収まった音と同時に、種ヶ島の肩がぷるぷると震えているのに気付いた。
「わ、笑わんといてほしいです……!」
「ふふ、ごめんごめん、くふふ……っ」
白石は真っ赤になって抗議した。ああもうまったくだめだ。この人の恋人になった瞬間から、今までどうやって接していたのだったかをすっかり忘れてしまって、どうにもならない。あれから四日、あいさつを交わす時さえ目を合わせられない有様だ。一人でぎくしゃくし続けているのを、種ヶ島がそっとしておいてくれていることも分かっているのに。
恋人とは、両想いの人間同士とはどういう風にしていればよいものなのか、人生において初めてその当事者となったばかりの白石には、全く掴めないままだった。恋人となった人と二人きりのときに今までどおり先輩として飲み物を奢ってもらうのは何か違うような気がして咄嗟につっぱってしまったが、これも間違えたのかもしれない。白石は恥ずかしいやら情けないやらでそっぽを向いた。そんな自分の態度は不愛想にしか見えないであろうことは明らかで、嫌われはしないかと心の反対側が怯える。
「ごめんて。あー、今のなんやぐっときたわ~」
「……」
「でもちょっとさみしい」
「なんでですか」
「俺はもうノスケに奢られへんのか、しくしく……」
種ヶ島はわざとらしく泣き真似をして見せた。泣き真似をしているのに、楽しそうな声をちっとも隠していないのがおかしくて、思わず頬が緩む。ぷ、と吹き出すと、焦って縮こまっていた胸が、魔法にかかったみたいにほぐれたのが分かった。四日ぶりに、種ヶ島の前で自然に笑えた気がした。そっと種ヶ島の方を見てみる。やわらかく笑うその目を、今度は見ることができた。
「そないに奢りたいんですか」
「そうや?ノスケになんやしてあげれた気になんねん」
種ヶ島は、子供のようににこにこしながら言った。白石はくすぐったくなりながら、ミネラルウォーターを選んでボタンを押す。ピ、がたん、と、静謐な空気を読めない音を立てて登場したペットボトルを取り出す。
「なー、たまには奢らせてな」
「嫌です」
「……くそう、見とき!」
「何を……?」
「どんな手つこてでも奢ってみせるわ」
「ふ……っ、その情熱何なんですか」
「まあええわ、帰ったらでっかいプレゼントしたろ。〝先輩〟じゃできへんプレゼントも、今やできるわけやしな☆」
種ヶ島がさらりとウィンクを飛ばして言い放った。意趣返しのような言葉と、ネタにもならないほど決まりに決まったウィンクへの返答に窮しているうちに、種ヶ島が入れ替わるように自動販売機の前に立って財布を開ける。骨ばったきれいな指に取り出された硬貨が数枚、投入口に消えていった。
白い光に照らされた横顔は穏やかだ。そのどこか満足そうな表情を見ているうちに、じわじわと身に沁みてきた。種ヶ島が笑い、軽口を叩いたのは、白石の緊張をほぐすために違いない。この人はいつだってそういう人だ。急に罪悪感がのしかかってきて、白石は項垂れて口を開いた。
「あの、ほんまにごめんなさい」
「ん~?何が」
「あれからずっと変な態度で。目ぇ見られへんし…。」
「そんなん気にせんでええで」
「……あの、嘘やないですから、俺ちゃんと、先輩のこと……その、」
「大丈夫、わかってる。慣れへんことなんやし焦らんでええよ」
ボタンを押そうとした手を下ろして、種ヶ島は白石に笑いかけた。頷いてみるけれど、気が済まなくて唇を噛む。種ヶ島は急かさずにいてくれるけれど、残すところたったの二日でこの船は日本に到着し、種ヶ島とは一旦離れなければならない。このままというわけにはいかなかった。
眠れなかったのはこのためかもしれない、と白石は思った。四日前から、白石は種ヶ島の恋人である。そこに疑いはないけれど、どう考えても中身が伴っていない。四日前のあの時から、二人の行動は変わっていないに等しい。変わったことと言えば、白石の種ヶ島に対する態度がぎこちなくなった点くらいで、それは恋人らしい振る舞いから逆走しているのだから笑えない。
種ヶ島の方はと言えば、一度船内で会ったとき、今までとは違う甘えるような顔で笑いかけ、名前を呼び、頭を撫でようとしてくれたことがあったが、すぐ近くに仲間たちがいる状況であったために、白石が盛大に肩を強張らせてしまった。敏い目がそれを見逃すはずもなく、種ヶ島は苦笑して先輩の顔に戻ると、これまでと同じようにぽんぽんと頭に手を乗せたのだった。それから種ヶ島は、先輩の顔を崩さなくなった。仲間の目があるところではどう見られるかという不安が付きまとうことは事実であったので、その気遣いに感謝していた側面もある。だが、この船内にいる限り、周囲に人がいない瞬間はないに等しく、結果的に、種ヶ島は依然として「先輩」のままであった。
そうしているうちに三日が過ぎた。時間はあと二日しかない。最後の一日は、下船に向けた荷造りや、世話になった仲間たちとの別れを惜しむのに忙しくなると予想すれば、自由になる時間は明日一日しか残っていない。帰国すれば切れる縁だなどとは思っていないし、思いたくもない。幸い、二人の居住地はそれほど離れておらず、再会は容易だと思う。連絡先も知り合っている。それでも、このままの状態で離ればなれになってしまうのは嫌だった。朝から晩まで――こんな夜中でさえも、種ヶ島がすぐ近くにいる。こんな生活は、帰国してしまえばもうないかもしれない奇跡なのだ。それを享受できるうちに、自分と種ヶ島は恋人であるという手ごたえを掴みたい。この人との関係が変わり、それはそう簡単には切れないのだということを感じておきたい。
あの告白以来初めて二人きりになれたこの時間は、きっと最初で最後のチャンスだ。珍しく眠れなかった夜に、たまたま種ヶ島がここにいてくれた、それこそ奇跡のような夜なのに、こんな時さえうまくいかない自分に歯噛みしたくなる。問題は周囲の人の目ばかりではない。
「どうしとったらええのか、分からへん」
「どうしとったらええのか?」
「俺、誰か好きになるんも、付き合うんも種ヶ島さんが初めてやし、……その、恋人って、何せんとあかんくて、何したらあかんのかとか…」
悩みを拙く言葉にしてみると、種ヶ島は目を丸くした。
「えええ~? またどえらい型にはまろうとしてんなぁ」
ぐっと言葉に詰まる。確かにそうだ。種ヶ島は、くすくすと笑いながら白石が買ったものと同じミネラルウォーターのボタンを押した。再び場違いな音が轟いてボトルが転がり出る。
「ノスケ」
屈んでそれを取り出した種ヶ島は、そのまま白石を見上げると、目尻を緩ませて、優しく諭すように言った。
「俺、絵に描いたような恋愛がしとうてノスケに惚れたんとちゃうよ?」
あたたかな声が、胸をじんわりと濡らしたような気がした。その感覚は、四日前の、あの砂浜での出来事をフラッシュバックさせる。
いつか萎んでなくなるまで、胸の内に固くしまっておこうと決めていた恋だった。祝勝会から連れ出された砂浜で、思いもよらなかった両想いを突然知らされて混乱し、なぜ種ヶ島のような人が自分を好きになるのか、そんなはずはない、嘘だ、あれほど不甲斐ないところばかり見せたのにと、これまた情けなく泣いた。人前で泣いたことなどいつ以来だったか分からない。それを抱きしめてくれた腕の優しさ、「そういうの、全部好きやねんて」と告げた、聞いたことのない切ない声が蘇る。
「難しいかもしれんけど、楽にしてええんやで。したいことできたら、すればええ」
種ヶ島が立ち上がりながら言った。至らない部分も包んでくれるまなざしはあたたかい。あの時もそうだった。優しい腕の中で、嫌いでならなかった弱い自分も、醜い自分も、全部許された気がした。種ヶ島が自分のすることを否定しないでいてくれるであろうことは、信じられる。
〝したいようにする〟というのがなぜか白石には難しいのだが、種ヶ島を信じてやってみるしかない。何より、一刻も早くこのぎこちない自分をどうにかしなければ、いつまで経っても本当の恋人になれない。そう言い聞かせながら白石が頷くと、種ヶ島がちょっと迷うようにしてから口を開いた。
「あー、……なんて言うてるけどな、ノスケ」
「、はい?」
「実はな、俺もけっこう落ち着かへん」
種ヶ島が困ったように笑って言った。
「これ言ったらノスケ嫌かな~とか、こんなことしたらあかんかな~とか、考えてばっかや」
意外な告白に、思わずぱちぱちと目を瞬かせた。 種ヶ島のことを神様のように完全だと思っているわけではないけれど、それでも自分の何倍も余裕があって、経験があって、恋人との関わり方だって、迷わず正解を選んでいける人なのだろうとどこかで想像していた。そういう人と付き合うことになったのに、何も分からず迷ってばかりの自分に焦っていた。
「……種ヶ島さんも、そんなことあるんですか」
「あるよ、いっぱい」
「そう、なんや」
「俺かて初めてやしな。こんなに好きになんの」
最後の言葉は、随分恥ずかしそうだった。この人も、この関係に迷うのか。揺れるのか。あたらしく知ったそれは、不思議な安心と愛おしさをもたらした。自分とそう変わらない仕草でふいと目を逸らした種ヶ島を見ると、縮こまっていた心が少し解れる。
分からないことが嫌だったのではなかったのだ、と白石は思った。種ヶ島には簡単に分かることを、自分は分からないということが嫌だった。その差異が怖かった。触れたいのに、触れることを許されたはずなのに手が届いていないような気がして、苦しかったのだ。
すると、じっと白石の顔を見ていた種ヶ島が、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「…こりゃ俺がかっこつけとったせいやな」
「え?」
「俺もどうしたらええかわからんって、言うてまえばよかったな」
眉を下げ、ごめん、と種ヶ島が顔の前で手を合わせた。その仕草に、思わず頬が綻んだ。種ヶ島が接し方に迷いながら、それを隠して余裕のある恋人であろうと頑張っていたらしいいじらしさ、白石が悩んでいるのを認めてそれをあっさり放り出してしまった優しさが、じんわりと染みる。
「謝ることありません。今教えてくれたし」
種ヶ島はちらりと白石を見ると、ほっとしたように表情をやわらげた。
「ま、そのうち収まりようなるやろ。落ち着かんのも今だけや。楽しまなな☆」
前向きに笑う顔をしっかり見返して、白石は少しだけ晴れた気持ちで頷いた。一緒に迷いながら二人のやり方を探していけるのなら、置いて行かれることはない。ただ、その時間がもうほとんど残されていないことは消えない問題であったが。
種ヶ島がペットボトルの口を開け、水を一口呷った。手の中のボトルをすっかり忘れていたことに気付いて、同じように封を切る。種ヶ島が思い出したように眉を上げた。
「寝えへんでええの?ノスケ」
「ええと……、はい、もうちょいいます」
「……眠れへんの?」
忘れていたかった事実と、あの四時間に渡る格闘を思い出させられて、白石はがっくりと頷いた。
「何かあった?」
種ヶ島は、白石の肩に手を置いて顔を覗き込むと、そっと尋ねた。気遣いに満ちた仕草と、心配でたまらないと書いてあるような表情とに、胸がきゅっと鳴る。
眠れなかった理由には既に心当たりがあるけれど、それはどう口にしても、種ヶ島のせいで眠れなかったように聞こえてしまう理由だった。言いたくなくて、首を横に振る。
「なんでかわからへん」
「……さよか」
微笑んだ種ヶ島を見て、無駄な抵抗やったかな、と白石は内心でひとりごちた。人の気持ちを肌で感じ取ってしまうようなところのある種ヶ島には、眠れなかった理由を既に半分見破られている気がした。すると、種ヶ島がにっこりと笑った。
「なら俺とおんなじやな」
ぽんぽんと頭を撫でられ、え、と顔を上げる。
「種ヶ島さんもそんなことあるんですか」
「本日二回目やで、それ」
「……何遍言うてもええですやん」
「たまーにあるわ。人の心なんか自分でもよう分からへんもんやし、眠れへんもんはどうしようもないわなぁ」
種ヶ島はあっさり言うと、ペットボトルを弄びながら、展望用の大きな窓の方へ歩いて行った。見ると、長い脚が向かう先には、窓際に設置されたテーブルとソファがある。窓から差す月明かりに照らされたテーブルの上には、空のペットボトルと一冊の本、ソファには、客室から持ち出したと思しき青色の毛布が一枚掛かっていた。種ヶ島は早々に眠るのを諦め、しばらく前からここにいたらしい。
毛布を取り上げると、種ヶ島はそれを背に羽織って白石を振り返った。今度は窓から差す月明かりが種ヶ島の姿を浮かび上がらせる。青い光に照らされた美しい体が、神聖な生き物のように見えて息を飲む。次の瞬間、肩を覆う青い毛布に月光が当たって青さを増し、振り返り両手を広げた種ヶ島の姿が、真っ青なショールを纏った聖母のように見えた。こんなに凛々しい男性を相手に突飛な印象を持つものだ、と一瞬おかしくなったが、すぐに立ち消えた。だって、実際この人には、まるで母親のような愛情深さを感じることがあるのだ。見知らぬ場所で迷子になっても、必ず探し出して抱きしめ、底抜けの安心を与えてくれるような。
俺は、本当にこのすばらしい人の〝特別〟なのだろうか。
「ノスケ、こっちにおいで」
招くように青い毛布を広げながら、夜の奥に浮かぶ種ヶ島が笑いかけた。
「一緒にいよ」
種ヶ島が居座っていたらしい丸テーブルと布張りのソファは、展望スペースの角にある。吹き抜けに背を向け、角の大窓に向かって置かれた囲い込むような形状のソファの前へ回ると、背後の広い空間とは隔絶された、屋根裏のように小さな世界ができあがった。
テーブルにそっとミネラルウォーターのボトルを置く。ソファの反対側から回った種ヶ島がすぐ傍にやって来て、心臓がどきりと勝手に脈打ち、体が浮く。種ヶ島はしなやかな筋肉のついた腕をすらりと伸ばし、同じようにペットボトルをテーブルに置いた。白石はどぎまぎしながら、ぼうっと二つのペットボトルを見た。並んで月明かりを受けるそれは、ただのペットボトルに違いないのに、今ふたりが一緒にいることの証明のようで、とても大切なもののように映る。結露した水滴が宝石のように煌めき、滑らかな外壁にしがみついて震えている。
「ほい、そっち持って」
「、はい」
種ヶ島が毛布を広げて差し出すので、指示のとおりに毛布の端を持って背中へ回し、その中にぎくしゃくと体を入れる。自分のものではない体温がすぐそこに接近しているのを感じて、心が勝手に狼狽え始める。隣で穏やかに微笑んでいる気配のこの人は、本当にこの距離に戸惑っているのだろうか。
見上げれば、いたずらな目とかち合う。「せーの、」と囁かれて、思い切って左手に握った毛布の端を引き寄せた。種ヶ島が反対側を同じようにしたので、二人の体は一枚の布に巻き込まれ、互いの方へと押される力に従って、とんと肩がぶつかった。息が止まり、体が強張る。
「はは、大丈夫か~ノスケ」
毛布を掻き分けるように種ヶ島の左腕が背中を周り、優しく肩を揺らした。なんとか頷いて、体中を包むものを感じ取る。――あたたかい。接したところがやわらかく溶けてしまいそうな気がする。生きた人間の体が温かいのは当然なのに、それがこんなにも心に染みて、幸せで、顔が熱くなるなんて。知らなかったことをまた一つ知って戸惑う。
種ヶ島が、そのままソファに座ろうと目くばせした。頷いて、毛布をしっかり引き直すと、ふたり毛布にくるまったままソファに腰を下ろす。ぎし、二人を中心にとソファが沈み、さらに二人を近づける。さっきよりも触れ合う面積が増し、熱い体温が腰や太腿からも伝わってくる。どきどきどき、と忙しない心臓をちっとも御せない。さっきからずっと息が止まっている気がする。二人を隠すような背もたれがいよいよ周囲の空間を切り落とし、世界に二人だけしかいないような錯覚に陥る。
すると、堪えきれないように、すぐ隣で種ヶ島が肩を揺らした。その振動さえもが直接伝わってくる。
「あかん、これめっちゃええわ。ノスケあったかいなぁ」
はしゃぐような、くすぐったそうな声が、耳からだけでなく、触れ合ったところからも聞こえてきた。種ヶ島の体に響いた声の振動が伝わり、白石の体内にも僅かにその音を響かせたのだ。その感覚は、自分が種ヶ島の体の一部になっているような、不思議な心地よさを生む。
種ヶ島は、相変わらずくすくすと嬉しそうに揺れている。どんな顔をしているのかと何気なく隣を見上げたら、今までで一番近いところ、月光を浴びて光る髪の毛の一本一本もよく見えるような距離に種ヶ島の整った顔があった。ぎょっとして正面に向き直る。隣で種ヶ島が笑みを深めた気配がした。心臓が壊れたように早鐘を打っている。またも思わず目を逸らしてしまったけれど、少しだけ見た。その顔が、一瞬で瞼に焼き付いてしまったみたいに目の前に浮かんでいる。
柔らかな花が綻んだような、凛々しいのにどこか少女めいた笑顔。頬も少し赤かった気がした。間違いなく、これまでには一度だって見たことのない顔だった。まだ目の前に鮮やかに浮かぶその表情に、まるでそれ以外の感情を奪われてしまったように、この人が好きだとひたすらに思わされる。内側から勝手に溢れる感情ではちきれそうな胸が切ない。
その時、二つの体の真ん中で、不意に手と手が掠るように触れた。白石の手の在り処を掴んだ種ヶ島の左手が、戴き、と言わんばかり、白石の右手を包み込むように攫った。再び呼吸が止まる。ぴたりと肌が吸い付くような感覚がして、ふたつの手が繋がった。きゅっと握り合えば、肩が触れたときよりも更に甘く、胸の端が溶け出す。優しく握る大きな掌は、種ヶ島が自分との触れ合いを求めてくれていることを如実に伝えてくれる。毛布の隙間から覗き見れは、見慣れた自分の白い手を、一回り大きな小麦色の手がしっかりと握っていて、それは不思議なほどに幸せな光景だった。
やがて、白石の様子を窺いながら、種ヶ島があやすように呼んだ。
「ノスケ」
くいくい、と繋いだ手を小さく引かれ、少しだけ落ち着いてきた体で、そろそろと顔を上げる。近すぎる距離にまだまだ緊張するけれど、今度はしっかり目を見ることができた。すると、種ヶ島はとろりと表情を綻ばせ、膝を抱え込むようにソファの上に持ち上げるとその上に顔を突っ伏してしまった。
「え、先輩?」
「ん」
「どうしました」
「んー」
「んーやのうて……」
「顔がやばい」
うれしい、とにやけた顔が見えるようなくぐもり声が聞こえた。一瞬の衝撃の後、まるで伝染したようにゆるゆると口角が上がる。
「なんですか、それぇ」
あの種ヶ島が、この状況が嬉しくて、見せられないほどに表情を崩しているらしい。面映ゆくて、幸せで、なんだか笑ってしまう。
やがて、多少落ち着いた様子の種ヶ島がくるりと首を捻り、膝に頬を乗せるようにしてこちらを見た。高い眉弓の下に並んだ目が猫のように細められ、優しく、下から覗き込むようにじいっと見つめている。これも今までには見たことのない、明らかに「先輩」のものとは違う甘さを含んだ眼差しだ。白石の顔を隅々まで改めるような視線が、五秒経っても、十秒経ってもまだ注がれ続け、見られれば見られるだけ顔が熱くなって、白石はとうとう見つめ返せなくなって種ヶ島の視線を遮るように毛布を引き上げた。種ヶ島が不満げに毛布を引っ張る。
「あー。ええやん見せてやぁ」
「嫌や、もう見られんの恥ずいです……!」
「ノスケも見てええで?」
「そういう問題やのうて!」
種ヶ島は楽しそうに笑うと、毛布を引っ張るのをやめた。諦めてくれたか、とちらりと毛布を下げれば、種ヶ島はまだ同じようにこちらを見ていた。騙された、と再び毛布を上げると、またころころと笑われる。それから、種ヶ島はすっと静まって小さく尋ねた。
「…嫌?」
「…嫌では、ないけど」
「うん」
「なんや、先輩今までとちゃうから」
戸惑ってしまうのだ。せっかく今までどおり接することができるようになったと思ったのに、またどうしたらいいか分からなくなる。 種ヶ島は、「さよか」と頷くと、急に優しく掠れた声になって言った。
「でも俺なぁ、ずーっとこうしたかってん」
思わず毛布を下げて種ヶ島を見る。相変わらず優しく見つめた目がうっとりと細められたる。
「大会終わって、ノスケが好きって言ってくれて、やっと二人っきりで……ほんまやっとやねん」
せやから堪忍、と種ヶ島はなおも白石を見つめた。 白石の造形や僅かな表情の変化も、瞳の揺れさえも、全てを目に収めようとするかのように、飽きる様子もなく眺め続ける種ヶ島を見て、その言葉を反芻して、白石は胸が熱いものでひたりひたりと満ちていくのを感じた。
――種ヶ島先輩は、俺のことが好きなんや。
四日前から知っていたはずの事実が、急にはっきりとした輪郭を持ち始める。禁じていた振る舞いを解放した種ヶ島の表情や仕草が、一気にそれを浮き彫りにしていく。種ヶ島がいつから好意を寄せてくれていたのか分からないが、頼りになる先輩であり続ける傍ら、心ではこんな距離を、触れ合いを願い、じっと待ち焦がれていたのだ。その事実が、今更のように迫ってくる。
すると、不意に種ヶ島の瞳が揺れた。
「ノスケ、ほんまに嫌やったら言うて」
「え?」
唇を噛んで黙りこくった白石に何を思ったのか、種ヶ島は笑みから甘さをひっこめ、膝からわずかに顔を上げて言った。深い瞳が、気遣わしげにこっちを見ている。
「恋愛初めてなんやもんな。まして、俺男やし。やっぱ無理っちゅーのも全然あると思うし」
種ヶ島は、先輩の顔で笑おうとしているように見えた。けれど、白石の目にもそれは失敗していた。白石の逃げ道を作ろうとする声は優しかったけれど、切なそうに下がる眉から、瞳の奥から、寂しさが漏れ出している。種ヶ島が自らの言葉に傷ついていくのが見える。またも目の前に広がる未知の色を止めたいのに、声が出ない。
「無理だけはあかんよ」
白石が絶句している間に、種ヶ島は言いたいことを言い切ってしまった。「ちゃいます!」ようやくのろまな口が動いた。思わず繋いだ手にぐっと力が入る。
「嫌やありません、全然、嫌やないです」
「……ほんま?」
なおも心配そうな種ヶ島に向かって、伝わるように祈りをこめて、大きく頷く。
「ほんまに、ほんまです。俺全部初めてやけど……、今めっちゃ幸せなんはめっちゃ分かります」
信じて、ください。最後に付け加えた言葉は、喉が震えて小さく掠れてしまった。伝わってほしい、悲しむ理由なんて存在していないのに悲しまないでほしい。そう願って見つめると、種ヶ島の目がゆっくりと大きくなった。
「……さよか」
ぽつ、と小さく声が落ちて、その目がふわりと笑う。
「さよかぁ」
再び花のような笑顔を咲かせ、種ヶ島は小さく息を吐いた。
白石は再び言葉を失う。種ヶ島があの砂浜で「好き」という言葉で表現した想いがどんなものか、そのかたちが、色が、ますますくっきりと浮かび上がって、触れられそうなほどになって、手の中に落ちてくる。ずっと見ていたい、嫌な思いをさせたくない、でもできるなら一緒にいたい、そんな必死で健気な想いがあの種ヶ島の中にあり、それが他でもない自分に向けられている事実が信じられなくて、なのに、信じるほかないほどに鮮やかで、胸がいっぱいになる。
だが同じだけ、どうして、という気持ちが頭をもたげていく。 自分が種ヶ島を好きになった理由は、種ヶ島が与えてくれた数々のものを辿ればいくつも思い当たる。ギリシャ戦で立ち尽くすしかできなくなったところを救ってくれたこと。新しいテニスへのきっかけをくれたこと。金太郎への思いに理解を示し最後の試合を共にしてくれたこと…。それだけではない。種ヶ島が見守ってくれていることや、その存在自体が、初めての国際大会に臨む白石にとってどれほど心強かったか。困ってもあの人がいる、泣いても崩れてもあの人がいる。いつも心のどこかでそう思っていたから、最後まで立っていられた。そういう存在だった。
それに比べ、自分はどうだろう。考えるまでもなくて悲しくなる。種ヶ島にこれを与えられたと、自信を持って思い出せるものはひとつもない。一方的に世話になるばかりだった。合宿では厳しい練習に、W杯では次々にやってくる試合と試練に対応するのがやっとだった自分の存在が、日本代表の中でも№2の重責を担った種ヶ島にとって、何かの足しになっていたとも思えない。種ヶ島が好きになってくれる理由が、見当たらない。
「どうしたん、ノスケ」
再び黙ってしまった白石に、種ヶ島は今度は問いかけた。はっとして種ヶ島を見るが、その顔は優しく微笑んでいた。その中に痛みも寂しさもないことを確認して、ほっと胸を撫でおろす。
「先輩、ほんまに好きになってくれたんやって思って、嬉しくて」
「うん、ほんまやで」
「そんで、でも、なんでやろって」
「んー?」
「好きになってもらえる要素ないっちゅーか……、思いつかへんし」
正直に吐露すると、種ヶ島は目を丸くして、「ないわけないと思うけどなあ」とおかしそうに笑った。
「やから、現実味がない?いや、腑に落ちん……?」
「ふふ、うん」
「あ、先輩の気持ち信じてへんわけやのうて!」
「うん、うん」
種ヶ島は優しく相槌を打ちながら下手な話を聞いてくれた。それから、うーん、と首をひねる。頭を上げると、膝の上に頬杖をついて少し考え込むような仕草を見せた。その瞼が、いつもより少しだけ落ちている。あれ、眠れないと言っていたはずなのに、いつの間にか少し眠そうだ。
「好きになった理由なあ…」
繋いだ方の手の指が、ぱら、ぱら、とリズムを刻んで手の甲をたたいている。こそばゆい。しばらくそうして考えてから、種ヶ島は言葉を選ぶように話し始めた。
「一言で言うんは、難しいなぁ」
「そうですよね」
「ただ、なんや…ずっと見てたいとか、助けたいとか…、俺なら助けられる、とか」
「…」
「最後のは、俺がそう思いたいだけやけど…テニスやないことでも、これからもずっとそうしたいって、思ってまうねん」
微かに眠気を帯びた声がゆっくりと語る。種ヶ島は「あー、やっぱむずい……」と眉を寄せた。白石は種ヶ島の想いを喜んで聞きつつも、まだ納得できなくて言葉を返した。
「でも俺、先輩になにもあげられへん」
「ん…?」
「先輩は色んなことしてくれはるけど、俺はなんにもできへん」
それを聞いて、種ヶ島はゆるりと白石の方を見た。それから、「ああ、そういうことな」と微笑むと、右腕を伸ばして髪を撫でた。
「ノスケは俺に何かしたいと思ってくれとるんや」
「……そら、そうでしょ」
好きなんやから。とは声に出さなかったけれど、種ヶ島は「嬉しいなあ」とふにゃふにゃ笑った。それから、ぴたと目を合わせて言った。
「俺いっぱいもろてるよ、ノスケから」
「え?」
「いーっぱいもろてる」
種ヶ島はそう言うと、白石に体を預けるように寄りかかって深く息を吐いた。予想外の回答に、「ほんまですか」と唖然と問いかけると、種ヶ島ははっきりと頷いて見せた。嬉しくなって、白石は目を輝かせて種ヶ島に迫った。
「た、例えば!」
「えー……言わへん。はずい」
ぐ……と前のめりになった体を引くと、くすくすと笑われた。問い詰めたところで、この様子では言ってくれなさそうだ。 種ヶ島は、白石に与えることを喜んでいるようだけれど、そればかりでは不公平だ。それに、最初はどうあれ、ひとつも与えられない人間がいつまでも愛されるとは思えない。優しい種ヶ島だって、いつかは与えることに疲れてしまうだろう。種ヶ島を一方的に消費し、損なう存在になるのもまっぴらだ。自分が何かを与えられるのかということは、白石にとって、種ヶ島とずっと想い合っていけるかどうかを左右する大事な鍵でもあった。だから、自分が与えられるものとは何なのか、是非にも聞いておきたかったのに。
しょんぼりと項垂れると、種ヶ島は「ノスケ」と呼び、少しだけ真剣な声になって言った。
「お前がなんもできへんわけあるかい。……ほら、今やって眠なってきたし。さっきまでめっちゃ目冴えててんで、俺。ノスケがおるから、安心してもうたんよ」
種ヶ島は手をしっかりと握り、毛布で体を覆い直すと、体温に擦り寄るように白石へと体をくっつけた。寛ぐように目を閉じ、もう一度幸せそうなため息をついた顔は、穏やかに緩んでいる。これも、昨日までは知らなかった表情だ。白石は、それをまじまじと見つめた。まだ信じられないが、今種ヶ島のその表情を引き出した人物は、どう考えても自分以外にはいない。
安心と言うなら、白石も深い安心を感じていた。触れ合っているだけなのに、信じられないくらい満たされていて、ちっとも退屈じゃない。初めての体温の新鮮さに泡立っていた体は、いつの間にかふわふわ、ぽかぽかとした感覚に宥められていた。落ち着かなかったはずなのに、いつしかどの場所にいるときより安心している。赤ん坊の頃、母親の胸に抱かれている時ってこんな感じだった気がする、と、覚えているはずもないことを思う。自分があるべき場所にあるような、肌になじんだ場所にあるような、圧倒的な据わりの良さがある。心がほどける。
同じ安らぎを、この人も感じているのだろうか。もしそうなら、自分はこの人に、少しは何かをしてあげられたということになるだろうか。
あたたかい喜びがふつふつと湧く。ひとつ、ふたつ呼吸をした頃にはおかしいくらいに嬉しくなってきて、胸に熱いものが膨張して涙が滲んだ。よかった、よかった、やった、と駆け回りたいような気がして、勝手に顔が綻ぶ。まるで長年の夢が叶ったみたいに、体が熱くなっている。
白石は、毛布を持った左手を、気付かれないようにぐっと握った。種ヶ島に何かをもたらすことができたという初めての小さな実感を、大事に握りしめるように。
◆
種ヶ島の体温が、胸をかき乱すものから安らぎを与えるものへと変わり、白石は、ようやく窓の外を見ることができた。とは言っても、そこにあるはずの空も海も、ほとんど黒に塗りつぶされて見えなかった。空にはぼやけた弦月が昇っており、青い光で海面をちらちらと照らしていたが、水平線を浮かび上がらせてはいない。真っ黒な空と海はのっぺりと繋がっていた。
ひとつの毛布と、その内側で溶け合った体温にくるまって、会話は穏やかに途切れ、心地よい沈黙が空気を満たしている。種ヶ島は白石に体を寄せ、背もたれに頭を預けて、ぼんやりと月を見ているようだった。ふと窓の外から視線を落とすと、テーブルの上に無造作に置かれた本が目に入った。
「……『月と六ペンス』」
そうタイトルが印刷された青い装丁の文庫本は、昔読んだことがあった。確かイギリスの小説家が書いた戦前の純文学。種ヶ島には些か似合わない気がする本だった。
「読んではったんですね」
「見とっただけや。読んだことあるし。竜次の荷物からパクってきてん☆」
「また叱られますよ」
「俺がいつも叱られてるみたいに言うやん」
本を取り、傷めないようそっとページを捲ってみる。綴られているのは、白石には理解できぬ、そして一生なれぬ男の話。
「読んだことあるん?」
「はい、だいぶ前ですけど。好きなんですか、これ」
「好きではないけど……まあ、印象に残るやん、こういう人」
種ヶ島の語尾が急に抑揚を失い、硬質な冷たさを帯びた。その口からあまり聞いたことのない声色にひやりとして、思わず横目に様子を窺う。無表情に本を見ている種ヶ島に、発言を取り繕おうとする様子はない。声色をコントロールしきれなかったことに気付いていないようにも見えた。だとしたら、並外れて気の回るこの人には有り得ないくらい珍しいことだ。けれど、その横顔にだけは見覚えがあった。
――〝その絵を描いたのは、知ってはならない秘密を知った罪深い男だ。〟
手の中の本の一文が蘇る。人に理解されることを望みもせず、一般的な幸福や安定には目もくれずに、異形の絵を描き続ける主人公。彼が狂気を孕んだ人生の最期に描き上げた、人の心を暴力的なまでに揺さぶる神の所業の如き絵を描写した一文。
思い出した。いつも朗らかなこの人の、珍しく無表情な、しかし決して目を離さないこの横顔は、いつだったか、彼が平等院のテニスを眺めているときに盗み見た顔だ。そしてこの本の主人公は、どことなく平等院に似ている。この本に平等院の姿を重ねているのだろうか。それを、眠れない夜の共にわざわざ持ってきたのだろうか――。そこまで考えて、白石の胸は急に鉛のように重くなった。悟ったのだった。種ヶ島が、この暗く寂しい場所で、たった一人で、何と戦っていたのかを。
あの日。白石と種ヶ島にとって最後の試合となったダブルスで、遠山金太郎がまたひとつとんでもないことをした。種ヶ島の最大の必殺技であるところの不会無を破ったのだった。それも、神に選ばれたとしか思えぬその才能ひとつで。
種ヶ島と大曲は起きたことをすぐには理解しかねたようだったが、遠山を長く見て来たこの目にはよく分かった。
『金ちゃんには種ヶ島先輩…見えてたんやと思います。』
試合後の興奮と、改めて感じ入った遠山の才への陶酔に押され、気付けばそんな風に口走っていたことを、冷静になってから少し後悔した。種ヶ島の前で口にすることではなかったかもしれない、と。種ヶ島は、彼にとって大きな衝撃だったであろうあの出来事を、あの言葉をどう捉えたのだろうと、ずっと気を揉んでいた。
そして今、白石は改めて自らの不用意な発言を悔いた。あれを口にしなかったとしても、種ヶ島はすぐに何が起きたのかに気付いただろうが、だからこそ、敢えて上塗りするようなあの言葉は全く余計だった。手を繋ぎ、肩を接したあたたかな種ヶ島の体を、今まさに内側から焼いているのは、あの時の悔しさに違いない。触れ合ったところから、激しい痛みが伝わってくるようだった。もう取り消せぬあの言葉は、彼の痛みを増幅させているかもしれない。
この本の主人公は、明らかに平等院の方に似ていて、遠山に似た雰囲気は感じない。種ヶ島はきっと、今回遠山にしてやられた悔しさに、平等院との間にある何かを重ね、この本を持ってここへ来たのだろう。種ヶ島は、本当は、眠れない理由をちゃんと知っていたのだ。もう五日ほど前の出来事になるが、それが今になって眠れぬほど悔しくて、悔しくて、どうにもならずここへ来たのだ。
その時、隣ではっと我に返った種ヶ島が本から視線を離し、黙り込んだままの白石を見た。いつもどおりの、まあるい種ヶ島の目だった。しばらくじいっと見つめると、種ヶ島は眉を下げて笑い、繋いだ手を両手で握り直した。
「そんな顔せんでええよ」
手の甲を撫でながら優しく言われ、慌てて手で顔を触る。今、自分はどんな顔をしていただろう。もう分からなくなっていた。種ヶ島は、既にいつもどおりの顔で笑っている。白石に心を読まれたことを察したらしい。種ヶ島は白石の沈んだ気持ちを引き上げるように、ごく明るく続けた。
「あーあ、こらあかんな。あったかいから力抜けてもうて、頭回ってへんかったわ。気ぃ遣わせて、先輩失格やぁ」
「やめてください」
最後に連なった聞き捨てならない言葉に、反射的に強く喉が震えた。種ヶ島が口を噤み、驚いた顔でこちらを見る。ああ、こんな声を聞かせたのは、初めてだったかもしれない。
「そんなん聞きたない、そんなわけないです、先輩の口からでも、そんなん許さへん」
「……うん」
種ヶ島はこくりと頷いた。
怒りだか悲しみだか分からないものが引かずに渦巻いている。何が失格だというのか。悔しくて当然の出来事だった。それをおくびにも出さずに過ごしていたのは、彼のチームメイトへの思いやりに他ならない。誰も煩わせぬようこんなところでひとり戦っていた人の、何が失格なのだ。
白石は、種ヶ島の背負ったものの重さと、あの出来事の悔しさとを想像しようとした。同じにしていいとは思わないけれど、近しいものなら、少しは知っている。
四天宝寺でテニスをした時間は、ずっと続けばいいと心から願っていたほどに楽しく、幸せだった。けれど、二年に渡る部長の務めが楽であったとは、とても言えない。
強くなければならない。支柱であらねばならない。みんなを委縮させる存在であってはならない。そういう理想を追えば追うほど、部員たちは頼りにしてくれた。「白石部長なら大丈夫」、「さすが白石」、そんな声は、誇らしい反面、時に肩に食い込むようにのしかかった。いつしかその信頼は、一切の疑いも含まないほどに純度を増してゆき、最後には、応えられぬ可能性すら許されていないように思っていた。完璧以外のあらゆる道が閉ざされていくように感じ、「俺は神さまでもなんでもない」と叫びたかった一方で、彼らの信頼に応えるためなら神さまにだってなりたいと、本気で思っていた。
だから、個人的な悩みも苦しさも、部員たちの前では握りつぶして、部長らしく笑ってきた――春、入部したての遠山金太郎に負けたときも。あの瞬間、部長の顔を突き破って飛び出そうになった醜い激情も、次の瞬間には反射的にそれを屠り笑顔を貼り付けていた体の気持ち悪さも、あまり思い出したいものではない。凡人がどんな努力をしたところで追いつけぬと思わされるあの傑出した才能には、その後もしばしば不条理を突き付けられてきた。遠山自身がどこまでも無邪気で優しく、テニスをひたすらに抱きしめ頬ずりするような子でなかったら、自分はあの才能を愛せなかったかもしれない。
合宿所に来たばかりの頃、白石の目には、種ヶ島も遠山と同じ天才のように映った。けれど、彼のテニスや練習を何度も見るうちに認識は変わっていった。一番近くで、毎日のように遠山を見てきた自分にはよく分かる――この人は、神さまに選ばれた人ではない。そして、そのことを冷徹に自覚している。 そうでありながらGenius10の中でも№2のポジションを担い、「守護神」などと呼ばれていたこの人には、恐らく、自分と似たような苦しみがある。
「月と六ペンス」と書かれた表紙を撫でる。 本の内容をふまえれば、このタイトルはいくつかのものを暗喩している。普遍的な価値のあるものと、時によって価値が変わるもの。超越的なものと俗物、あるいは、少数の天才と、大勢の凡人。
「俺はこれ、あんまり好きやないです」
白石はぽつりとつぶやいて、種ヶ島の手をぎゅっと握った。種ヶ島は驚いたように、じっと白石の顔を見ている。
「……いやでも、好きかもしれへん」
往生際悪く付け足し、腹いせのように表紙を下にして本をテーブルに戻すと、種ヶ島は目を丸くしてぷっと吹き出し、肩を揺らして笑い始めた。白石は何とも言えぬ気持ちでもう一度本を見た。
才ある者が突き付ける不条理は、到底好きになどなれない。ひとが夥しい汗と涙を流してようやく掴んだテニスさえ、彼らにはそよ風になってしまうことがある。彼らに落ち度がなくても、そういうことが起きてしまうこの世界の理を、ひどいと思わずにはいられない。
けれど、彼らの才能はいつも美しい。彼らの存在によってますますテニスは輝きを増し、自分たちを惹きつける。届かないのかもしれないと思わされても、手を伸ばさずにはいられなくなる。神様が贔屓したとしか思えないような才能たちを、愛しく思ったり憎く思ったり、シーソーのように揺れながら、結局自分は、これからもずっとテニスをするだろう。それさえも神さまの采配どおりのような気がして、少し腹が立つけれど。
「それやそれ」
ふるふると笑い続けながら、おかしそうに種ヶ島は言った。
「あー、涙出てきた、腹痛い……」
声を殺して笑いながら、種ヶ島は指で目頭を拭った。白石には、なんとなく種ヶ島が泣きかけているのを誤魔化しているように見えた。ひとしきり笑うと、種ヶ島は背もたれに寄りかかり、はあ、と大きくため息をついた。その顔から、一呼吸ごとに笑みが消えていく気配がする。それから長い間逡巡するように口を噤んでいたが、種ヶ島はとうとう口を開いた。
「悔しいねん」
長い間声にならなかったのであろう言葉が、静かな夜にぽつりと落ちた。
胸を焼く感情はまだまだあるだろうに、それきり再び閉じてしまった唇は、ずっと言葉を飲み込んできたせいで開かなくなってしまったみたいに見えた。その隙間から、たった今ようやく零れた一粒が、肌を接した白石の心を激しく締め付ける。この一粒さえも決して零さぬように、この人はずっとずっとこうして唇を引き結び、泰然として笑ってきたのだ。そうしてチームを、白石を、支えてきた。
一緒にするのはおこがましいと思うのに、白石はそんな種ヶ島の姿を、自分と同じだと思わずにはいられなかった。種ヶ島の零した言葉が、自分の零した言葉であるかのように思える。自分の心からも血が流れ出すのを感じながら、白石は大きくひとつ頷いた。その拍子に、いつの間にかこみ上げていた涙がぼとぼとと毛布に落ちる。胸が締め上げられるように苦しくて、涙は止まってくれない。
はたと白石の顔を見た種ヶ島が、眉を下げて髪を撫でる。最初は微笑んでいたその顔は、泣く白石の頭をしばらく撫で続けるうちに、みるみる歪んでいった。
「……あんな、気ぃ悪くさせたらごめんな」
「……っ?」
「ノスケになら言えるかもって思っとった。分かってくれるかもって」
苦しそうに言い切った種ヶ島の頬に、一筋だけ涙が伝った。種ヶ島の涙を見るのは、もちろん初めてだった。
「ごめん、巻き込んで。……でも、嬉しいわ」
労わるように髪を撫でる手は優しい。自分が種ヶ島の痛みを感じるように、種ヶ島にもこの痛みが伝わっているのだ、と白石は思った。自分だけのものと考えて疑わなかった悔しさや葛藤が、それを吐き出せぬ苦しさが、種ヶ島のそれと嘘のように共鳴し、大きな音を上げる。
種ヶ島の深い瞳を覗く。この人の目は、暖かい夜のような、本当に優しい色をしている。きっと今、この目には、自分が隠し続けたものがすべて見えている。
それでも構わない、と白石は思った。誰一人にも悟らせるものか、悟られたところで肯定などしてやるものかと思っていたけれど、もういい。 この人の目に映るのなら、いいのだ。
「ようやってきたなぁ、ノスケ」
労わるようにそう言って目を細めた種ヶ島の目から、もうひとつ、ふたつ、涙が零れる。
白石は胸がいっぱいになった。この人は、四天宝寺の部長として過ごした二年のことを、何も知らないはずなのに。すべてを知る人がかけてくれた言葉のように、種ヶ島の労いが深々と胸に沁みていく。白石は、手の甲で涙を拭いながら、謙遜も遠慮も忘れ、こくんと子供のように頷いた。
「せんぱい、も」
白石が喉の震えに負けないように言うと、種ヶ島は涙に濡れた頬で切ない笑みを深め、毛布を離して白石を抱きしめた。
白石は、初めて種ヶ島の背中に手を回した。流した涙のためか、さきほどよりも熱くなっている種ヶ島の体を、抱きしめなければいけないと思ったのだった。きゅっと力を込めると、逞しく盛り上がった背中の筋肉が触れ、体の厚さがよく分かる。それは、己が選ばれた者ではないと知りながら種ヶ島が重ねてきたものの象徴のようで、また涙が出る。胸で、肩で、腕全部で種ヶ島を感じ、目を閉じて肌の香りをいっぱいに吸い込む。種ヶ島がぎゅうと腕の力を強める。優しく撫でてくれる背からも体温が流れてくる。
心が開くどころか、壁も扉もなくなり溶け合っているようで、ふたつの心が同じ温度で震えている。心の真ん中を理解してくれる人がいること、理解されてもいいと思える人がいることは、こんなにも満たされるものなのだと初めて知る。感じたことのない幸せに溺れそうになりながら、白石は長い間種ヶ島の胸に顔を埋め、大きな体を抱きしめていた。
◆
かくん、と頭がゆれて我に返った。あたたかい種ヶ島の腕の中で泣くうちに、心地よい眠気が絡みついていた。種ヶ島がそっと体を離す。長い間ひとつになっていた体の間に冷気が入り込んで、少し寂しい。
「戻って寝るか?」
種ヶ島があやすように問いかけるが、白石はいやいやと首を振った。種ヶ島の目も随分眠たそうだ。朝が来るまで、あとどれくらいだろう。分からないが、種ヶ島と二人だけでいられるのは、それまでの間だけだ。大事な時間を手放したくない。とはいえ、二人の瞼が完全に落ちるのは時間の問題だろう。駄々を捏ねる白石の頭を種ヶ島が撫でた。
「なら、一緒に寝よ。みんなが起きる前にアラームして」
種ヶ島はポケットからスマホを取り出すと、すいすいと指を滑らせてテーブルへ放り、ウィンクして見せた。嬉しくてぎゅうと抱き着くと、優しく抱き返してくれる。――って、あれ、ついさっきまでは種ヶ島に対してどうしていたらいいかも分からなかったはずなのに、今俺抱きついた?
眠気のせいか、完全にほどかれてしまった心のせいか、ついさっきまで悩まされていたはずの余計な緊張は、どこかへ行ってしまっていた。 ソファの奥へくしゃくしゃに追いやられていたかわいそうな毛布を直し、もう一度二人でくるまる。そうすると、再び内側に溜まっていくぬくもりに、あっという間に眠気が強まっていく。
身を寄せ合う二人の頭上で、靄の彼方にある弦月が、相も変わらず光っている。種ヶ島はもう一度だけそれを見上げて微笑み、やがてぽとりと視線を落とすと、白石に擦り寄って目を閉じた。 白石は左腕を伸ばし、美しくウェーブを描く銀髪を、労わりを込めて撫でてみた。種ヶ島が薄く目を開け、目が合い、深い瞳を縁取る長いまつ毛がふるりと揺れて、小さな微笑みが浮かぶ。そのまま、再びゆっくりと瞼が下りていった。
「ありがとうな、きてくれて」
眠りに落ちる間際、低い船のエンジン音に紛れてしまいそうなほど静かに囁かれた感謝の言葉は、なぜか、今夜隣にいたことだけに向けられたものではないような気がした。 さっき、白石からいっぱいもらっている、と言った種ヶ島の言葉を思い出す。この二か月ほど、振り落とされないようにしがみつくことだけで精一杯だったはずの自分が、種ヶ島に与えたものとは何なのだろう。それは、種ヶ島にとってどんな意味を持ったのだろう。気になるけれど、それを聞くのは多分、この船の上ではない。
種ヶ島の呼吸は次第に深く穏やかになり、頬から、額から、ゆっくりと力が抜けていく。精悍な輪郭の中に、遊び疲れて眠る子どものようないとけなさが浮かび上がり、白石の心を再び震わせた。種ヶ島もただ一人の人間でしかないことを知らせるそのかんばせが、笑顔のまま戦い続けたこの人の強さを、飲み込んだであろういくつもの痛みを、描き出しているようで。
規則正しい息を妨げぬようにしながら、もう片方の手も添えて種ヶ島の手を包む。今夜見たのは、恐らく種ヶ島が抱えてきたもののほんの一部に過ぎない。白石がまだ歩んだことのない三年の間には、きっと想像を絶するような試練がいくつもあって、種ヶ島はそれを乗り越え、飲み込み、ここまでやってきた。持たざる者が天才たちに肩を並べるまでの日々は、一体どんなものだったろう。その一日一日にこうして傍にいて、今日のように苦しさを打ち明けてもらえる存在であれたらよかったのに、と叶うはずもないことを思う。
青白く光る、戦い尽くしたひとのあどけない横顔。その輪郭を見つめながら、白石は願った。今は難しくても、いつか話してもらえる日が来ますように。この人が何を思いながら、あんなに強くなるまでテニスをしたのかを。
◆
目を覚ますと、辺りはだいぶ明るくなっていた。窓の外にまだ太陽は見えなかったが、空は白くなり、果てしなく広がり揺れる海と、水平線がはっきりと見えた。そのすぐ下に、太陽が迫っているのだろう。
「おはようさん」
やわらかい声のした方へぼんやり顔を向けると、優しい顔の種ヶ島がこちらを覗き込んでいた。ぎょっとして一気に目が覚める。種ヶ島はきゅうと目を細め、そっと指で頬に触れた。ふにふにと捏ねるような初めての触れ方に思わず身じろぐと、種ヶ島はくすくすと笑って手を離した。
「かわいすぎやん~」
「か、かわいくないです」
「なんや、さっきまでは無抵抗に触らせてくれとったのに」
「へ?」
さっきからちっとも目を逸らさず、じいっとこちらを見つめたままの目は、もしや眠っているときからずっとそうして見つめ、触れていたのだろうか。いたずらに笑う種ヶ島の顔が、その疑いを肯定していた。
「起こしてくださいよ!」
「なんで。めっちゃ綺麗でなんぼでも見てられたわ」
「は、」
「ゆーっくり目が開いてくとこなんかほんま……」
「黙って……!」
眠気を引きずった甘い声で畳みかけられて両耳を塞ぐと、種ヶ島があはは、と笑った。
時刻は、種ヶ島がアラームをかけた時刻よりも前のようだった。東を向いていた大窓から差す光に目を覚まされてしまったのだろう。
「すんません、長いこと一人で起きてましたか」
「んーん、俺もさっき起きた。だいぶ眠れたわ。ノスケのおかげやな☆」
「……なら、よかった」
辺りが明るくなったせいかもしれないが、昨夜より元気に見える種ヶ島の顔を見て、ほっと嬉しくなる。白石も四時間の苦闘が嘘のようにあっけなく眠れていたが、眠れたのは、多分、種ヶ島といられたからだった。
月はもう見えなくなっていた。空には僅かにパステルオレンジが見える。水平線に沿って筆で刷いたようなそれは、白い大気の中に溶け出すように滲んでいる。見ているうちに、そのパステルオレンジが彩度を増していく。太陽が足元に迫っている。朝がやって来るのだ。
種ヶ島と白石は顔を見合わせて目を輝かせると、夜の間そうしていたように毛布を直し、一緒にくるまって寄り添った。半身を触れ合わせ、手を繋ぎ、溶け合った温度の中で空と海を眺める。
少しずつ、だが着実に空は色を増し、パステルオレンジの上をたなびく雲が黄金のように輝き始める。海はまだ暗い青に揺れていたが、水平線が微かに発光している。黄金の雲が光を強めていく。やがて、空と海の間に、錐で穴を開けたような小さく強い光が現れた。どちらからともなく、ぎゅ、と繋いだ手に力が入る。その光は、しばらくの間大気の中で小さな炎のようにゆらゆら揺れると、不意に一回り大きな光になって、水平線の上に頭を出した。黄味がかった眩い光が、まっすぐに二人のもとまで届く。水平線には、二人の目の前から太陽まで伸びた道のように、きらきら輝く光の帯ができていた。
壮麗な眺めに思わず二人でため息をもらし、顔を見合わせる。
「「わ……」」
その瞬間、二人分の驚いた声が重なった。
「ノスケの目、めっちゃきれい…」
「……それ、俺が言おうとしたんに」
「え、俺も?」
白石は、陶然と頷いた。白石の目を夢中になって覗き込む種ヶ島の瞳は、生まれたばかりの強い光を受けて透き通っていた。いつもは深い紅桔梗色に見える虹彩が、目の前で淡い紫水晶(アメジスト)のようにきらきらと輝いている。白石は息を殺してその光の揺らめきを見つめた。
「ノスケの目な、金色に光ってんねん。琥珀みたいや…」
愛おしそうに見つめ続ける種ヶ島との距離は、いつの間にか息がかかるほどに近づいていた。うっとりと言葉を紡いだ唇が、すぐそこにある。白石は、気付かれないように、きゅっと小さく下唇を噛んだ。「したいことできたら、すればええ」。ここで偶然出会った直後、種ヶ島がそう言ってくれたことを思い出し、たった今生まれた気持ちを、思い切って口にしてみる。
「先輩」
「ん?」
「……キス、してみたいです」
種ヶ島はぱちぱちと目を瞬かせて白石を見た。顔が熱くなっていく。どう反応されるか、審判を待つような一瞬の後、種ヶ島はびっくりしたまま呟いた。
「あらら、言われてもうた……」
「え?」
「今、キスしたいって言うてみようかめっちゃ迷っててん」
種ヶ島が照れくさそうに笑った。今度は白石が、ふたつ、みっつ、瞬きをした。次いで、沸騰したようにぶわりと胸が熱くなった。嬉しくて、面映ゆくてたまらない。白石は赤い顔のまま、ふふと笑みをこぼした。種ヶ島は、白石の髪を大事そうに撫でた。
「なあ、目瞑って」
優しく笑ったまま、種ヶ島が囁くように言った。見上げると、安心させるようにひとつ頷いてくれる。白石は種ヶ島に全てを委ねる決心をして小さく頷き返すと、すっと目を閉じた。
視界が遮断され、種ヶ島が僅かに体の角度を変える衣擦れの音が聞こえた。一瞬の間が心細くて、行き場のない左手を繋いでいた方の手に重ね、両手で種ヶ島の左手をきゅっと握る。頬がそっと掌で包まれる感触がした。種ヶ島の長い指が耳元で僅かに髪を掻き分け、不思議と心地よいその感覚に身震いする。
「ほんま、綺麗」
空耳かと思うような小さな囁きが聞こえた直後、まるで花びらが落ちるように、そっと唇が触れた。種ヶ島の唇は、思っていたよりずっとやわらかくて優しい。じんわりと押し付けられると、体の奥に感じたことのない震えが起こり、白石は種ヶ島の手を握る両手に縋るように力を込めた。大きな手が、応えるように握り返す。
永遠のように感じた数秒の後、種ヶ島がゆっくりと唇を離した。目を開けると、大写しになった種ヶ島の顔が、まだすぐそこにあった。朝日を受ける銀髪が煌めいている。紫水晶(アメジスト)の瞳は白石の目を捉えると、ふといたずらな色になって、もう一度唇を寄せてきた。白石は慌てて目を閉じる。
再びそっと触れてゆっくりと押し付け、離れるかと思えばもう一度押し当てられる。ふわ、……ふわ、ふわ。離れようとするたび、もう一度、もう一度と、種ヶ島は何度も触れるだけのキスを繰り返す。求められるその感触がたまらなくて、白石は震えそうな息を殺し、頬を包む種ヶ島の手に左手で縋りついた。キスを繰り返すうち、少しずつ押された白石の体がとうとう背もたれについてしまうと、種ヶ島はようやく顔を離した。
頬を覆っていた手がするりと離れる。白石が目を開けると、切ない顔で白石を見つめる種ヶ島がいた。その口角が押さえきれなかったように上がり、ふにゃりとはにかんだ種ヶ島が白石を抱き寄せて肩に顔を埋めた。
「〜〜あかん、もっとしたい……」
ぎゅうっと抱きしめる力を強めながら、種ヶ島は蕩けた声で言った。きらきら光る銀髪からは、赤くなった耳が覗いている。
「…ふ、ふふ」
可愛らしくて、大好きで、幸せで、笑いと涙が一緒にこみ上げる。白石は種ヶ島の体をしっかり抱き返して泣き笑った。肩で、種ヶ島が満足そうなため息を吐くのがきこえた。
夜はすっかり明け、太陽は水平線の上に全身を現わしている。間もなく、この奇跡のような時間は終わりを告げるだろう。その時が、刻一刻と近づいている。きっと、この夜を一生忘れない。今夜ここで種ヶ島と見つけたいくつものものを思い、白石は目を閉じて種ヶ島の肩に頬を寄せた。今、間違いなく種ヶ島は白石の恋人であり、白石は種ヶ島の恋人であった。
「なあ」
不意に、種ヶ島が顔を上げて言った。
「今度いつ暇?」
「え?」
朝日を反射して輝く目が、楽しげにこちらを見ている。唐突な質問に白石が思わず目を丸くすると、種ヶ島はふわりと笑った。
「会う約束しよ。俺大阪行くわ」
日の光が急に強まって、辺りが一段と明るくなったように見えた。この船を降りた先にも、二人の道は続いているのだ。
金色の朝日に照らされた恋人の両目をまっすぐに見つめ、白石は「はい!」と元気よく頷いた。
新しい日は、もう始まっている。