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​残像

「なに黄昏れてんだし」 

 無遠慮に声を放てば、男は振り返った拍子に視界を遮った前髪を掻き上げ、笑った。らしくもない微笑であった。 

「ええやん、黄昏れたって。実際黄昏時やろ」 

「……黄昏時か」 

 黄金めいた巻き髪を靡かせる姿はどうにも見慣れない。それは辺り一面をやまぶき色に満たした陽光の悪戯に過ぎなかったが、平素この男が微かに纏っていた針先のような鋭さを奪い、調子を狂わせた。 

 だらりと柵にもたれ頬杖をついた姿は、意外な新鮮さを生んだ。こういう姿を見たのはいつ以来だろうか。長く相棒として過ごした男は飄々として自由奔放な人物であったが、この数か月は両肩にチームを背負い、笑顔の目立つ顔の下で、常にどこかに力をこめていたのだろう。今更知らされたそのことには触れないまま、大曲は返した。 

「まぁ、そうだがよ」 

 

 船というのは随分のんびりと進むものらしい。大曲は種ヶ島の横に立ち、のろく通り過ぎていく波を目で追った。船尾の方を眺めてみるが、既に豪州は見えなくなっていた。じれったい速度でも確実に、船は夏から遠ざかり、一直線に冬へと向かっている。

 船を取り囲んでいるのは、何もない、泣きたくなるようなだだっ広い世界だ。残っているのは、水平線に足先をつけようとしている橙色の夕日と、そこへまっすぐに伸ばされた金色に揺れる一本道だけだった。 

 大曲はしばし思案したのち、諦めて頭を掻いた。この男のようにうまい言葉を思いつく性分でもないと開き直り、何の捻りもなく問いかける。 

「よかったのかよ、白石のこと」 

 

 

 豪州で過ごす最後の夜、話したいことがある、と白石が種ヶ島を連れ出した。種ヶ島は微塵も表情を崩さなかったから、あの時この男の何かがびしりと硬くなったのを察したのは、すぐ隣にいた大曲だけであっただろう。翌日、飛行機で帰国する面々と別れの挨拶を交わそうという時、野暮とは思いつつも尋ねた。 

『昨夜の話、何だったんだ』 

『暑苦しい礼言われてもうた。恥ずかしくて死にそうやったわ』 

『……そんだけか』 

『そんだけやで』 

 種ヶ島の気楽な横顔から、その回答は事実と知れた。白石はと言えば、世話になった種ヶ島との別れだというのに、ロビーの端でいつものように遠山に手を焼いていた。ほんの僅か、こちらを見ないように振る舞っているようにも思えた彼には、言えなかった── あるいは、言わないと決めた── 言葉があったのだろう。そのことに、聡いこの男が気付いていないはずがない。 

 

 

 頬杖をついたままの種ヶ島が、視界の端でちらとこちらを見て、へらりと笑った。 

「ノスケがどないしてん」 

「どうにでもできたんじゃねえのか。おめえが本気で落としにかかりゃあよ」 

 ごうごうと船の進む音が沈黙を埋める。いつものように憎たらしく躱されてしまうかと思ったが、予想に反して、種ヶ島はそうしないまま佇んでいた。地平線に沈み始めた太陽をしばらくの間眺め、呟くように口にした答えは、もう少しで風の音に掻き消されてしまいそうだった。

 

「どうにかしてええ子やないやろ」 

 

 聴いたことのないやわらかな声色に思わず振り返ると、薄く微笑った口許が見えた。風に吹かれた前髪に隠された目がどんな色をしていたのかは、分からない。 

 

 彼らの帰る街は近い。けれど、恐らくこの男は、二度と白石に会おうとはしないだろう。金色の光に浸された横顔を一瞥し、大曲はそう観念して静かに嘆息した。 

 種ヶ島は、既に半身を海に沈めた夕日をなおも眺めている。目が潰れてしまうのではないかというほど眩しい光を、少しも離すことなく、目を細め、ずっと見ている。いつもはからりと乾いているかんばせが、今はしっとりと水気を含んだようにしてそこにある。僅かに瞳が潤んでいるように見えるのは、果たして眩さのためだけだろうか。 

 夕日が沈んでいく。海上に煌めき揺れている太陽へと続く道は、少しずつ海の彼方へと引き取られ、間もなく消え失せようとしていた。その先の最後の光をただ見つめ続けている種ヶ島の瞼には、触れることも、手を伸ばすことさえもできないほどに心奪われ、網膜を焼いたあの強い光の残像だけが、長く残り続けるのだろう。 

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