春爛漫
苔むした石段の隅までもが、もうすぐ真っ白に塗りつぶされそうだった。でこぼこしたその古階段は、落ち合った旧商店街の外れからの近道だ。藪に埋もれた小さな祠を通り過ぎ、上り終えて公園に入れば、押し寄せる春に一瞬目が眩み、隣で無邪気な歓声が上がる。
年に一度の壮麗で儚い風景よりも、ふとこちらを見た瞳の揺れひとつが深く胸を震わせる訳を、種ヶ島だけが、もうとっくに知っていた。
二人で桜を見に行こう。少し辺鄙なところだけど、とっておきの穴場があるから。
種ヶ島がそう誘えば、白石は大喜びで頷いた。本当は、桜が咲いてさえいればどこでもよかった。けれど、どうせなら静かな方がいいと思った。このかわいらしくも鈍い後輩が気を散らす余地のないような、静かなところが。種ヶ島の家からも白石の家からも遠い寂れた公園までやって来て、十時にもならない朝早くから花見を始めることにしたのは、ただそのためだけだった。
満開を二日ほど過ぎたばかりの公園の桜は、まだ地上をすっぽりと覆うように咲いている。通路は一面真っ白な海と化し、春風に流れた花びらの波が時折しぶきを上げる。朝の公園にはまだ誰もおらず、風が足元から巻き上げる花びらの音さえ聴こえるくらいだ。
「な、ええとこやろ」
「はい、ほんまにすごい。こんなにぎっしり咲いてるの、初めて見ました」
興奮気味に答えた白石の瞳がそわそわと動き、またいつもより早く逸らされたのを認め、種ヶ島は頭上を見上げた。
無理もない。静まり返った満開の桜の中で二人きり、なんて、誰だってちょっと変な気になるだろう。無闇に変な気になられても困るので、普段なら間違っても誰かと迷い込んでしまわないよう注意するような状況でさえある。だが、今日ばかりは例外だ。自らここへ白石を連れて踏み込んだ。だって彼にだけは、早く変な気になってほしかった。
「先輩って、やっぱりめっちゃかっこええ。桜の中やと見惚れてしまいそうや」
いつになくはしゃいで歩く白石が、食べごろの桃のような頬で今日もそんなことを言った。のすけは褒め上手やなぁ、なんて返すのもすっかり上手くなった。
自覚と下心のない素直さは時にむごいというのは、彼に恋をして初めて思い知ったことのひとつだ。軽々放られるそんな言葉と仕草に虚しさを覚えつつ喜ばずにもいられない胸をぶら下げ、種ヶ島は白石の横を一歩分離れて歩いている。
「あ、出店開きましたよ。俺たこ焼き買って来ます。先輩の分も。この辺りで待っといてもらえますか」
「さすが気が利くなぁ。ほな頼むわ」
ゆっくりと広場に差し掛かると、白石はやはり上気した頬でそう言い置いて広場の奥へ駆けて行った。公園に入ってからずっと落ち着かない様子の彼は、満開の桜が醸す奇妙な雰囲気がむず痒くて、いっとき逃げ出したのかもしれない。元気に遠ざかっていく白いシャツを見送りつつ、種ヶ島は小さく苦笑した。桜の効果は上々、のようだが、彼自身がそれと気付かないことには意味がない。問題はいつもそこなのだった。
種ヶ島は、冬からずっと手を焼いている。あからさまに舞い上がって輝く頬や、時折どぎまぎと揺れる瞳からそれはもうだだ漏れと言ってもいいくらいなのに、どういうわけかそれらを恋や愛の類と認識してはくれない、あの後輩に。
あいにく彼ほど初心でも無垢でもなく、オーストラリアの地でいつの間にか芽吹いていたものの名を早々に悟ってしまったこちらはと言えば、おかげでそれを延々燻ぶらせて過ごす羽目になっているのだからひどい話だ。
白石が出店から戻って来る気配はまだない。待つしかない種ヶ島は、重たそうに目の前まで垂れている枝を眺め、広場のふちをそぞろに歩く。
枝の先で風に揺れる花は、どことなく白石の色彩に似ている。色だけではない。春色の中に冬の凛としたつめたさが滲む澄んだ佇まいも、そこにあるだけで目を奪ってしまう理屈抜きの美しさも。自分だけのものにしてしまおうと手を伸ばしても、見つめるほど手折ってはならないと思わせるところまで、そっくりだ。
だから、こうして待っているのだ。彼が自ら気付き、望んでここへやって来てくれるのを。
「先輩!」
呼ぶ声がして振り返る。気付くといつの間にか、種ヶ島はどこもかしこも満開の桜に囲まれた一面の薄桃色の中に立っていた。花を見て歩くうちに、広場から桜の木が密集した小道へと入り込んでいたらしい。「よかった、先輩おらんようになったかと思った」。小道の入り口で、白石がそう言って胸を撫でおろすのが見えた。
その時、公園に強い風が吹き、種ヶ島は小道の真ん中で立ち尽くした。天井のように頭上を埋めた満開の桜がぐらりと体を揺らし、巻き上がる花びらと木漏れ日で煌めくトンネルの中に、白石がいる。相変わらず桃色の頬で微笑んで、花びらの水面に波しぶきを舞わせて歩いて来る。見えたものと言えば、ただそれだけだ。それだけで、胸は桜の天井と同じぐらいにざわざわ揺さぶられ、種ヶ島は動けなくなった。
「……ああ、ずるい」
ほとんど声にならなかった呟きは、止まない桜吹雪の中に紛れて消えた。
こんなのは不公平だ。たこ焼きが入っているのだろう野暮ったいビニール袋をさげて、反対の手には浮かれたりんご飴を二本握って歩いて来る、そんな姿まで綺麗に見えるほど、もうこっちはおかしくなっているっていうのに。
「お待たせしてもうてすんません。先輩の分も買って……、先輩?」
追いついた白石が首を傾げた。その目に映る自分がどんな顔をしているのか分からなくて、種ヶ島は花びらのついた白石の髪を両手でくしゃくしゃと搔き回した。両手が塞がってろくに抵抗できない白石はされるがまま、うわ、と目を瞑って首を竦める。絹糸の髪が起こす小さな風の湿ったかぐわしさに、くらり、眩暈がして、唇が動いた。
「――はよして、のすけ」
早く気付いて、そして、俺と同じくらいおかしくなって。
種ヶ島の静かな声に、白石が「え」と瞼を開けた。乱れた前髪越しの澄み切った目と視線がぶつかって、胸が大きく脈打つ。当惑して揺れる琥珀色は、今度こそ自分の中にあるものの正体に気付いてくれるだろうか。長い数秒、何かを探すように泳いでいた双眸は、髪に絡んだ花びらが全て取れる頃になって自信なさげにこう言った。
「すんません。たこ焼きだけのつもりやったんですけど、りんご飴、先輩と食べたなってもうて」
ひらり、ひらり、彼によく似た花が舞い落ちていく。ついに彼の肩に降りるかと思えばまた浮き上がり、再び高く舞って、掴めない柔らかさで風に遊んでいる。
的外れに頭を下げた生真面目で鈍感な瞳は、どういうわけか憎たらしいよりもかわいらしく映って、種ヶ島は降参だとばかりに声を上げて笑った。
「さよか。ほな一緒に食べよ」
どうやら今回もこちらが捕まえられるばかりで、とても捕まえきれそうにない。困惑気味なかわいい瞳を覗き込み、種ヶ島は眉を下げて微笑んだ。
それから負け惜しみに、差し出されたりんご飴を白石の左手ごと引き寄せ、つやつや光る真っ赤な表面にがぶりと歯を立ててやった。芽吹いたものが花開く春爛漫の季節を迎えても、不条理な片恋に押し込められたままの種ヶ島は、ぎょっと目を瞠った白石の頬が桜色からりんご飴のような赤に変わる様子に目を眇め、今日のところは留飲を下げたのだった。