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​特等席にて

「こんにちは。もしかして待ち合わせですか。お連れの方がまだなら、少し話し相手になってくれたら助かるんですけど」 

 いつものカフェのテラス席、白石は春先の強い風に吹かれながら、組んだ脚を解かずに思案した。礼儀正しく話しかけているようにも聴こえるこれは、白石の考える限り、確実にナンパであったからだ。長年不本意な形で高められてきた経験値が声を揃えてそう報せているので間違いはなかった。ナンパは白石が人生において、最も歯の立たない天敵と認めるところであった。 

 しかし、今日は勇気を失わずにいられた。なぜならその声は、男の声だったのだ。女からの、いわゆる逆ナンであればもうお手上げ、口も頭も回らず全力で逃げるくらいの抵抗しかできない白石であったが、男ならまだあしらいようがある。幸か不幸か、男に声を掛けられた経験もないではなかった。ようし、ここはひとつ上手く追い払ってやろうじゃないか。瞬時にそう思考を巡らせ、勇んで視線を上げた白石はしかし、その先でぱちくりと目を瞬かせることになった。 

「わ!こら思った以上のイケメンさんや☆」 

 折り目正しい口調を早々に放棄した男が、昼下がりの陽射しにくるりと瞳を光らせた。鼻梁の高い小麦色の肌と波打つ銀髪が目に眩しい。深い紫色の虹彩には引力さえあるのじゃないか。 

 放っておいたら巻き込まれてしまうだろう心を引き締めつつ、白石はわざとらしい口説き文句に口の端を上げて見せ、目の前の色男を怯まず見返した。驚いていることは否定できないが、男の手の上から逃げ出すのも負けたようで悔しい。 

「そういう台詞、あなたは使わん方がええんとちゃいます?嫌味にしかならへんし嫌われてしまいますよ」 

「あらら、いきなり褒められてもうた?おーきに!店員さん、俺にもこちらさんと同じの一つ」 

「あなたもコーヒーですか。あっちの広い席が空いてますよ」 

「お兄さんの綺麗な顔眺めながら飲みたいんやん」 

「誰が相手するなんて言いました。これからデートやねんから邪魔せんといてもらえます?」 

「ほな恋人が来るまでは暇っちゅうことや。そら嬉しい。あ、どうも」 

 男は白石の攻撃を軽々いなし、とうとう白石と同じカプチーノを手に入れ腰を据えてしまった。崩れるどころか深まっていく愛嬌たっぷりの笑顔が眩しくて、憎たらしい。 

 ――この男になら負けてやっても構わないか。白石はそう思い始めている自分に気付いていたが、もうしばらくこの勝負に興じるべく、心底呆れたという風にため息をついて見せた。 

「あーあ、えらい手慣れてはるわ。今までに何十人引っ掛けてきたんです?」 

「なんとこれが人生初やねん。お兄さんがあんまり綺麗でついな」 

「ほんまかいな。それにしては板についた切り返しですね」 

 じとりと目を細めてやると、どうも分が悪いと踏んだのか、男が初めて言い淀んだ。白石は少しだけ気が咎め、くすりと一つ笑ってそれらが言葉遊びの一環に過ぎないことを知らせてやった。それで気を取り直したらしい男は、半分以上減った白石のコーヒーカップの中に目を落とすと、脚を組み替えてさりげなく話題を変えた。 

「しかしどんな奴やねん。お兄さんをこんな寒いとこで、こんなに待たせる恋人っちゅうのは。俺なら絶対待たせへんけどなぁ」 

 びゅう、とひとつ、春の到来を告げる強風が吹き抜ける。やはり核心に迫って来た、と白石は内心で少し考えた。飄々とした笑みはそのままだけれど、円い瞳の奥は真剣に見える。男は最初から、ここへ踏み込もうと声を掛けてきたに違いなかった。 

「俺が早く来すぎるんです。待つのが好きなんで」 

「そら物好きやこと。待つなんて退屈なだけとちゃう?」 

「いいえ、楽しいもんですよ」 

 小さく笑って答えると、男は形の良い片眉をひょいと上げてみせた。白石はしばし、手元のソーサーの縁を恋々となぞった。何といっても、これは出来る限り自分だけのものにしておきたい秘蔵の宝物なのだ。明かしてしまうのは惜しかった。けれど事ここに至ってはもう仕方あるまい。白石は春風の中へすっと左腕を上げると、テラスが面した大通りの奥を指さし、歌うように口を開いた。 

「待ち合わせ場所はいつも、この先の広場の噴水なんです。約束の時間より早く来てこのテラスにおると、向こう側の歩道を広場に向かって歩いていく恋人の姿が見えるんです。その人といったらそれはもう、素敵な人なんですよ。俺は世界一や思ってるんですけど。その世界一素敵な人が、俺に会うために、俺を待たせへんよう約束の時間より十五分も早く、ここを歩いて行くんです。麗しい人なんで、すれ違う人が物欲しそうに振り返ったりするんですけど、そんなんちらりとも見んと、まっすぐ歩いてく。いつもです。ほんまにいっつも、そうなんですよ。それを俺は内緒で、こっそり、ここから見てるっちゅうわけです。どうです、こんなに楽しいことないでしょう」 

 このテラス席から何度か見た、そのとっておきの風景の煌めきを思い、うっとり微笑んだまま男を見遣ると、男は微かに頬を赤らめた。あれほど流暢だった軽口も叩こうとして失敗したらしく、テラスの外へと視線を泳がせて頬杖をつく。 

「……そらお兄さんみたいな人が寒い中待ってくれてると思ったら、そうもなるんちゃう」 

 紡がれた言葉は、さっきまでとは打って変わって、ぼそぼそと聞き取りにくかった。男は手元で冷めていくばかりになっているカプチーノを見つけ、誤魔化すようにスプーンを取ってぐるぐるかき混ぜ始めた。ラテアートのハートがとろとろと溶けていく。 

「へえ、そう思います?ほな俺の恋人もそうなんやろか。ああ、でもね、もうあかんかもしれへんのです。前のデートのときもここにおったんですけど、歩道を歩くあの人に見惚れとったら、目が合ってもうた気がして。あの日は何も言わずにいてくれたけど、勘のええ優しい人やから、今日あたりここに来られてもうて、全部吐かされてしまうかもしれへんなぁ」 

 白石が言葉を切った頃には、男のラテアートのハートはすっかり溶けきってしまっていた。大事な楽しみを一つ失くしてしまったけれど、こんな珍しいものを見られたのだからよしとしよう。白石は男のコーヒーカップを眺めてひとりそう満足し、とうとうがっくりと首を垂れてしまった男に愛を込めて呼びかけた。 

「――ね、修二さん」 

「……」 

 広場へ続く大通りを風が強く吹き抜け、葉のない街路樹の枝をきらきらと揺らした。まだ顔を上げられない男――種ヶ島の頬に垂れる銀髪をつい、とどけてやれば、真っ赤になった耳が覗き、恥ずかしそうな手が白石の手を優しく払いのけたのだった。 

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