狸
これはあかんやろ。
種ヶ島はため息と共に内心ひとりごちた。
休養日のコートで偶然、看過すべからざる大問題を発見したのである。
高校生数人で街へ繰り出し、束の間の息抜きをして来た帰りだ。なんとなく体を動かし足りず、散歩をして戻ると告げてここを通りかからなかったら、この問題はここに放置されていただろう。既に日は傾いて赤く変わり、足元の影を背後へ長く引き伸ばしている。これで日が沈んでしまったら一大事となっていたかもしれない。
もう一つ、今度は静かにため息をつき、思案する。はてさて、これをどうしてくれよう。
それは、コート横のベンチにごろりと、あまりに無造作に転がっていた。ちょうど木陰になったベンチの上は、少々固くてもさぞ心地よいのだろう、胸を健やかに上下させながら眠っていたのは、白石だった。
張り出した喉仏や角を帯び始めている骨格はいっそ早熟なくらいなのに、力の抜けた長い睫毛とほんの僅か開いた唇は、さながら眠り姫のごとく無垢だ。とろりとしたミルクを惜しげもなく、それはたっぷりと注ぎ混ぜたように淡い彼の色彩は、昼間はよく光を弾いて眩いぐらいだけれど、薄橙色をした夕暮れの光には溶け出してしまいそうに滲んでいた。休養日だというのにひとり練習に励んでいたのだろう、薄く残った汗が、額に細い前髪を貼り付けている。
「ノスケ、風邪ひくで」
近寄っても、声をかけてもすやすやという寝息は途切れない。身じろぎする気配もない姿に目を眇める。
「おーい。起きやぁ」
この様子では良からぬことを企む狐や狸が近づいても気付くことはできなかっただろう。寝ている間に何をされていたか分かったものではない。彼は利発であるのに、自らの姿が人に与える影響についてはいまひとつ理解していないところがあるから困ったものだ。俺がここを通って本当によかった。── ああ本当に、俺でよかった。
「……はよ起きへんと襲ってまうで」
腰を折り、あどけない寝顔にぐっと近づいて囁いても、美しい陰を落とす長い睫毛は少しも揺れない。熟れた果実に似た赤い粘膜と、貝殻のように白い歯が僅かに覗く唇を間近に見てしまえば、あとはもう、吸い寄せられるほかなかった。
起こさぬよう僅かだけ触れるつもりだった唇は、白石のそれの上で予定よりもずっと長居をした。雲に口づけたようなやわらかさと、ぬくい吐息にもう少し浸かっていたくなってしまったのだから仕方がない。最後にほんの少し、そうっと吸って、名残を惜しみつつ離れると、目の前で花が開くように瞼が開いた。
ふわり、ふわりと二つ緩く瞬いて、やはりミルクを混ぜ込んだ大きな瞳が漸うこちらを捉える。
「……せんぱい……?」
「ちゃい☆おはようさん」
「いま……なにか……」
「さあ、なんやろなぁ。こんなとこで寝とったらあかんで」
まだ半分夢を見ている様子でぼんやりと頷く白石ににっこりと笑い、種ヶ島はくるりと踵を返した。背中がやけに熱いのは、きっと強い夕日のせいだけではない。
次に会うとき、彼はどんな顔でこちらを見るだろうか。何を言うだろうか。今から種ヶ島のことをたくさん考えてくれるであろう健気な人のことを思い、種ヶ島は日の沈み始めた宿舎への道を足取り軽く歩いた。
種ヶ島が去ったコート横のベンチの上で、くたと横になったままの白石がぽっつり囁いた。そのひとりごとは、誰の耳にも届かないうちに風にさらわれて消えた。
「……やってみるもん、やなぁ」