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​一番星の輝くほうに

「一緒に出掛けてもらえませんか。俺に服を選んでほしいんです」 

 

 二週間前、電話の向こうのそんな言葉に浮かれた事実は、終生秘密にしておかなければならなくなった。別に構わない。明かすつもりもなかったことだ。それなのに今、種ヶ島は火を吹き消された蝋燭みたいになっている。急に命をとられてきょとんと白煙を上げる、間抜けな蝋燭みたいに。 

「好きな人ができたんです。今日告白しようと思ってて」 

 初めてで、どうしたらええか分からへんくて。先輩に聞くのが一番ええと思ったんです。どうしたら先輩みたいにかっこよくなれますか。髪とか服とか。香水、とかも使った方がええんやろか。 

 白い頬の下に桃色を溶け込ませ、はにかむ顔は初めて見た。人生初のアルバイトに挑戦して、夕食にとびきりのレストランを予約したのだという。彼はこんなふうに恋をするのか、と種ヶ島は蚊帳の外に蹴飛ばされた心地で思った。出会った頃から生真面目な白石は、恋のしかたまで一生懸命だ。 

 それを見ていたら、首は勝手に頷いていた。何かに手を伸ばす彼を見ていると、手を貸さずにいられなくなってしまうのはどうしてなのだろう。それは三年前にあっけなく心を奪われて以来、種ヶ島にとって変えようのない不思議であった。 

「よっしゃ、付き合うたるわ☆」 

 種ヶ島は白石のことが好きだった。 

 別に構わない。明かすつもりもなかったことだ。 

 

  ◆ 

 

「どんなんがタイプなん、その子。好きな芸能人とか、元彼とかは?」 

「ええと……すんません、あんまり聞いたことないんです」 

「さよか。ま、タイプなんてそんなにあてにならへんしな」 

 白石の予算をふまえて連れて来たセレクトショップは、高校時代からよく利用する店の一つだ。選りすぐられた服はオーソドックスな形の中に個性が光るものばかりで、いつかここで彼に似合う服を選んでみたいと思っていた。その小さな夢が叶う時をこんな形で迎えるなんて、さすがに予想していなかったけれど。 

 湿りかけた気持ちを振り払って顔を上げると、ちょうど店内の大きな鏡の中の白石の姿が目に入った。思わず呆れたため息がもれる。 

「ちゅうか、ノスケはそのまんまで十分すぎるわ」 

 元も子もない言葉は本心だった。鏡には、シンプルな装いでも強く人目を惹く青年が映っている。均整の取れた健康的な体つきに、内面の真摯さが表出した端正な顔立ち。三年前より深い、時折色気にも変わる余裕を湛えるようになった彼に請われたなら、誰もが手放しでその胸に飛び込んでいくに違いない。「……そうやろか」と自信なさげに鏡を見ているのは本人ばかりだ。 

「……まあ、気合い見せたいっちゅうことなら、ちょっとだけおしゃれしてみよか」 

 彼の曇った顔にはどうにも弱い。ひとまずそう請け合うと、白石はほっとした顔で頷いた。種ヶ島はその姿を頭からつま先まで改めてみたが、整いすぎていて手のつけどころは実に少ない。すると、緊張した面持ちの耳元にふと目が行った。 

「襟足伸びたなぁ。ふわふわやん」 

「あ、これは、ちょっとした憧れで」 

「伸ばしてみたかったん?意外やな」 

「似合いませんか。短い方が良さそうやったら切りに行きます」 

「ううん、めっちゃ似合ってると思うで。その子、こういうの嫌いっぽいん?」 

「嫌いではないと思います……、けど、どうやろ」 

「ならとりあえずこのままでええんちゃうか。大人っぽいし。そやなぁ、サイドの髪だけ……こうするとか」 

 手を伸ばして触れた髪は微かにぬくい。思わず強張りそうになる指先が震えないよう気をつけて、滑らかな毛束をそっと後ろに流してやる。露わになったこめかみの艶めかしさに、種ヶ島の胸はどくりと大きく脈打った。 

「めっちゃ綺麗。かっこええやん」 

「ほんまですか!」 

 平静を装いつつも思ったままを口にしてしまえば、何も知らない白石は不安そうな表情をぱっと緩め、しげしげと鏡を覗き込んだ。 

「ほな、こうしてみよかなぁ」 

 嬉しそうな呟きと共に、涼やかな目尻に希望が満ち、美しい筆先のように細まり笑った。緩んだ頬にまた幸せそうな朱が差すのを認めて種ヶ島は苦笑し、髪を元に戻してぽんと撫でてやった。 

「後でトイレの鏡借りよ。ばっちりセットしたるわ」 

 彼が欲しいのは俺の誉め言葉ではない。今夜彼が望むものを手に入れられるように、せめてできる限りのことをしてやろう。 

 一世一代の告白を前に、彼が一番に頼ってくれた「先輩」として。 

 

 

「おー、派手なのも着こなしよるやん」 

「あはは、なんやちょっと先輩みたいや。こういうのの方がええですか」 

 鮮やかな原色のパーカーを中に仕込み、上からワンサイズ上のミリタリージャケットを羽織った白石が笑った。柄物のインナーも言い付けどおりに裾から覗かせて、試着室の鏡に映る自分を珍しそうに眺めている。 

「うーん、ええけど、ノスケっぽくはないなぁ」 

 種ヶ島はそう言ってくすりと笑った。よく似合っているし新鮮さは魅力だけれど、全体的に崩れた脱力感のあるシルエットに対して、白石の佇まいは少々正しすぎる。 

 白石に少し待つように告げて、種ヶ島は服を選び直しに戻った。 

 形はどうあれ、せっかく彼に似合う服を選ぶ夢が叶ったのだからと少しだけ遊ばせてもらった。何を着ても驚くほど違和感がなく、むしろ服の方が引き立てられている感さえある白石に似合うものを見繕うのは、ずっと思い描いていたとおり、楽しい。 

 けれど、役得を貪るのももうこれくらいにしよう。 

 白石が今夜、初めて恋をした人に想いを伝えに行くのなら、彼の美しさを正直に伝えてくれる服がいい。彼はありのままがいっとう素晴らしい。世にも幸運なその想い人とやらがどんな人か知らないが、少なくとも、飾らない彼を好きになってくれる人であってほしかったし、彼が好きになった人ならそういう人物であるような気がした。 

 再び試着室のカーテンを開けた白石を見て、種ヶ島は満足して頷いた。 

「うん、そのジャケットええわ。かっちりめやけど、一回り大きいの着たらシックになりすぎへんし。ボタンとポケットの形かわええしな。髪の色にもよう合ってる」 

 白石の髪より僅かに暗い、こっくりとしたグレージュのシンプルなジャケットが、種ヶ島がこの店で最高の服として選んだものだった。 

「でも……こっちやなくてええですか。先輩みたいでかっこええと思ったのに」 

 白石が少し戸惑った顔で、さっきまで着ていた服に目を落とした。 

「俺はこっちが好きやけど、ノスケが選んでええで。ノスケの勝負やねんから」 

 種ヶ島がそう言うと、白石は鏡の中とさっきの服とをかわるがわる眺め、やがて「こっちにします」とグレージュのジャケットを揺らして笑った。 

 

  ◆ 

 

 ショッピングモールをあとにしてペデストリアンデッキに出ると、街はもう暮れかかっていた。冷えた秋風にもう夏の面影はない。薄紫色に染まる狭い空の下、大通りを車や人が忙しなく行き交っている。今から白石はこの中に消え、広い夜のどこかで想いを遂げるのだろう。 

 羨ましい。自分の中のそんな感情に気付き、種ヶ島は内心で自嘲した。手に入れようなんて思ったこともないくせに、失ったような心地になるとはおかしな話だ。それでも少しだけ、彼の心が誰かのものになる前に気持ちを明かしていたらどうなったのだろう、と思う。 

「一日付き合わせてしまってすんません。ありがとうございました」 

 後ろからついて来ていた白石が言い、種ヶ島の隣に立って道路を見下ろした。種ヶ島はなんとなく白石の方を見られずに、笑みだけを作って応えた。 

「ええて。俺も楽しかったわ」 

 彼が星を掴み取りたいと望むなら、そうさせてやりたい。そんなことばかりを思う恋だった気がする。相応しい終わり方だ。彼ならきっと掴める。あとは白石を、その星のある方へと送り出してやるだけ。白石と出会い、この恋が始まったあの時と同じことだ。胸が痛いのは、そのうち治るだろう。 

「さ、もう行き。相手より先に着いとくのは鉄則やで」 

「はあ。でも、その人にはこれから店とか教えようと思ってて。サプライズで」 

「その子、連絡待ってくれとるってこと?もうじき時間やろ、早よせな」 

「そうですね。……あはは、なんや急に緊張してきた……」 

 手に汗が滲んでいるのか、白石は一度そわそわと両手をこすり合わせた。ジャケットの裾を落ち着かない手つきで伸ばし、一度深呼吸する音に続いて、「よし」と小さく意を決した声がする。 

「ほな先輩……いや、種ヶ島さん。今夜、食事に付き合うてもらえませんか」 

 え、と振り返ると、煌めき始めた夕暮れの街の中に、美しい瞳を熱っぽく揺らした白石が立っていた。痛い胸がざわりと震える。 

「俺なりにええ店――種ヶ島さんが喜んでくれそうな店探したんで、お願いします」 

 必死にこちらを見つめているのは、水も滴りそうな色男だ。彼はいつの間にこんなに大人になっていたのだろう?髪を整え、いつもは隠れている耳元と額を覗かせた白石の美貌は、もはや隠しようもない。種ヶ島が選んだ、白石のために誂えられたような色彩のジャケットが夕風にはためき、少しも遮られない一途な瞳の美しさが胸を射抜く。 

 呆気にとられた種ヶ島が、彼にしては緩慢に白石の言葉の意味を理解する頃、白石は眉を下げ、また自信なさげに笑ってぎこちなく両手を広げて見せた。 

「ちょっとはかっこよく見えてます?」 

 少しでも、あなたに釣り合いたかったんですけど。そう言って、薄暗くても分かるほど頬を染めた白石がこちらへはにかむのを見て、種ヶ島は全身の血が沸騰したようになった。頭も口もろくに回せずにいるうちに、白石はポケットからカードを一枚取り出すと、種ヶ島に握らせた。 

「六時に、ここで待ってます」 

 触れた白い手は、微かに震えていたかもしれない。けれど白石は穏やかに、きっぱりとそう言い切って踵を返した。 

 しゃんと伸びた背が階段を降りて人混みに紛れていくのを見送り、種ヶ島が唖然としたままカードに目を落とすと、そこにはここから程近い、この街で一番のホテルのレストランの名前があった。 

 胸の中で何かが少しずつ、次々に弾け始める。瞼に焼き付いた強いまなざしを思い出して情けなく視線を彷徨わせるうち、ふと自分のブーツのつま先に小さな土汚れを見つけ、種ヶ島はふわふわと屈んでそれを擦った。 

 ――靴は、服は?このままで釣り合うだろうか。髪も直さないと。 

 考えるべきはそんなことではないような気がするのに、そんなことしか考えてくれない舞い上がった頭を持ち上げ、種ヶ島は空を仰いだ。 

 一番星の輝くほうに、一際高いビルが聳えきらめいている。彼がこの日のために選んだというとびきりのレストランはあの中だ。『好きな人ができたんです』。そう言って一生懸命に恋をしていた白石の横顔が蘇り、忙しなく鼓動する胸にじんと溶けていった。 

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