1
あれ。ここはこんなところだったろうか。
目の前の景色のどこかが急に変わってしまった気がして、白石蔵ノ介は後ろを振り返った。見えるのは今来た道であるはずなのに、ここから見ると、やはり歩いたときとは違う道のように見えた。白石は首をかしげ、ともかく前に伸びた道を歩き始めた。
胸が冷え、足が震えているのはなぜだろう。
夢中で歩いてきたそこは、どう見てもキャンパスのはずれであった。いつの間にか人気もなくなった景色に白石はため息をついて踵を返し、歩道に敷かれた煉瓦を大股に踏みつけて、桜が満開の並木道を引き返し始めた。たった今、ここへ歩いて来る間にきょろきょろと見た風景が逆再生されていく。右手首の腕時計を見れば、講義の始まる時間まであと十分ほどしかない。ああもう!と口に出したくなるのを我慢して、白石はさらに歩調を早めた。
(経済学部第二教室ってどこやねん!)
もう二十分ほど白石が唱え続けている文句である。ついでに、なぜ博物学の講義が経済学部の教室で行われるのかという苦情も付け加えさせてもらいたい。
先週入学式とオリエンテーションを済ませたばかりの大学は、白石にとってまだ馴染みのない場所には違いなかったが、それでも、今日までこんなことはなかった。
記念すべき一学期、ではなく、第一セメスターの講義期間が始まったのは、今週の月曜日だ。今日は木曜日だから、大学生として本格的にキャンパスを使用し始めて三日は経過したことになる。
言い訳をさせてもらうなら、昨日までは、同じ講義を受ける薬学部の仲間と共に講義を回ることができたのだ。それに、今までの講義はすべて、一般教養科目ばかりが開講される東キャンパスで行われていた。大きな講義棟が三つだけあり、中の教室には一〇一、一〇二……と極めて分かりやすく無駄のない番号がふられた東キャンパスでは、迷うこともなかったのだ。
博物学の講義も一般教養科目の一つであったが、仲間内に受講を考えている者は見当たらなかったから、今日は一人でキャンパスを歩くしかなかった。その上、博物学の講義は上級生が使用する専門研究棟ばかりが並ぶ西キャンパスの教室で行われることになっていた。ほとんど初めて足を踏み入れる西キャンパスは、東キャンパスより古いと見え、どの学部のものだか分からない建物が雑然と立ち並んでいて、歩きにくいことこの上ない。親切な案内板も少ない。先ほど、入口に「経済学部棟」と彫られた建物をやっと見つけ、中の構内図を見たけれど、何度見てもその中に「経済学部第二教室」はなかった。この名前の教室が、「経済学部棟」になくてどこにあると言うのだ。舌打ちを堪えたのを褒めてほしい。
薬学部の白石が、一般教養科目の一つとして博物学の講義を受けたかったのは、講義内容に「各地域における植物相とその変遷について取り扱う」とあったためだ。昔から、なぜか植物、特に毒草や薬草に目がないのである。植物を主たるテーマとして十回以上も講義が行われるなんて、高校までにはありえなかったことだ。この講義になら自分の求める世界の片鱗があるかもしれないと思ったのだった。
しかし、あと十分以内に教室に辿り着ける気がしない。
西キャンパスには木が多く、早朝であるためか、昨日までいた東キャンパスより人も少なくて、桜が咲いているというのになんだか暗い。周囲には新入生と思しき学生は一人もいないし、まるっきり大人の姿をした先輩たちばかりが歩いていて、白石は浮いているように思えた。
朝早い一限の授業だし、一般教養科目は他にもたくさんある。実際にどんな講義かも分からないし、この際、取るのをやめてしまおうか。
捨て鉢な気持ちになりながら、経済学部棟付近まで戻って来た。「経済学部第二教室」があるとしたら、やはりこの辺りが有力だろうと当たりをつけたのだった。
まだ行っていない道を選んで進むと、複数の研究棟に囲まれた中庭のようなところに出た。中央には古びた噴水が一筋の水を噴き上げているが、よく見る余裕はない。周りには、まだ中を見ていない研究棟が大小四つも見える。全てを見て回っている時間はないな、と焦って辺りを見回すと、中庭から十五段ほどはありそうな階段の上に聳える研究棟から、人が一人降りてくるのが見えた。
きっと上級生か先生だけれど、あの人に聞くしかない。白石は決めると、思い切って階段の方へ歩き出した。
見れば、その人はすらりとした長身の男だった。しなやかに筋肉のついたモデルじみた体躯に、長めの白い髪。階段を下りる仕草は軽やかなのに、落ち着きがある。年上と見えた。様子を窺いながら近寄っていくと、男ははたと白石を見て足を緩めた。
白石は、思わず息を飲んだ。
かっこいい、なんて言葉は安すぎて話にならない。常人のそれを五倍にも十倍にも煮詰めたような、なんて濃厚なオーラを放つ人だろう。
ワイルドともセクシーとも形容されそうな、彫りの深い印象的な顔立ちの中に、どこか愛嬌のある双眸。見るからに迷子という様子の新入生が珍しいのか、その目は丸くなって、こちらをじっと見つめている。近付くと、髪の色は光の加減によって白にも銀にも見えた。ふわふわとウェーブのかかったその髪と、綺麗に焼けた小麦色の肌とが妖しいコントラストを成している。ビッグサイズのTシャツの襟ぐりからは、発達した僧帽筋と、それが際立たせる鎖骨、男らしく張り出した喉仏が無造作に覗き、陰影をなしている。
辺りが急に、さあっと明るくなった。太陽にかかっていた雲が流れたのだろうか。男の髪が、白いTシャツが、きらきらと光っている。白石はどぎまぎしながら、思い切って声をかけた。
「あの、突然すみません。経済学部第二教室ってどこか分かりますか。迷ってもうて」
やけにぎくしゃくとした声が出て、白石は心臓がばくばくと暴れているのに気づいた。人見知りをする方ではないはずなのに、なぜかめちゃくちゃに緊張している。胸が痛い。
平静を装って返事を待つと、男はぱちぱちと瞬きして、すぐににこりと笑って答えた。
「経済第二な。すぐそこやで。ついてきいや」
きゅっと口角の上がった唇から、人懐っこい朗らかな声が出て来た。どこかはんなりとした、やわらかい関西弁だ。
男は白石の横を通り過ぎながら、おいでと手招きした。慌てて「ありがとうございます!」と返して背中を追う。
白石は、こっそりとその背中を観察した。自分の目線と比較するに、一八〇センチ代半ばはあろうかという長身だ。シャツから覗く腕にはしなやかな筋肉がついている。サ、サ、と小気味よい音を立てながら歩く、黒い細身のパンツに赤いスニーカーを履いた長い脚。太腿には二連のウォレットチェーンが揺れている。男が通ったあとの空気からは、大人っぽい香水の香りがした。チャラい、と表現されかねないような身なりにも思えるのに、不思議と軽薄な印象は受けない。
白石は、もうほとんど戸惑っていた。初対面の人に、ここまでひたすらに「かっこいい」と思わされたことはない。
(なんなんや、この人は)
心の中でひとりごちて、その不可思議な背中を見続ける。すると、男が足を止めて指差した。
「ここやで」
「え、ここ……?」
「階段上った先のドア入ればええよ」
案内されたのは、古いコンクリートがむき出しの二階建ての建物だった。二階建てとは言っても、実際一階はなく屋外と繋がっていて、ゲートのように立った建物の上に実は教室があるといった形だった。中庭へ入るときに潜った建物だったが、この中に教室があるとは考えなかった。よく見れば、一階部分の左右には、二階へ上るための階段がついている。まともな照明のない暗い階段の柱に、「経済学部第二教室」と書かれたお世辞にも大きいとは言えない看板があった。文字はところどころ剥がれかけている。
……分かるかい。白石は深いため息をついた。
「歴史ある大学も考えもんやんなぁ」
男はけらけらと笑って言った。「ほんまですね……」と心の底から同意する。時計を見ると、講義の三分ほど前だ。間に合った。その時、背中から男が「おーい」と呼んだ。振り返ると、目の前に人差し指。
「あっち向いてホイ!」
続いた言葉に、条件反射で頭が下に動く。視界の端で、男の指も連動するみたいに下へ動くのが見えた。
え。なんや、突然。
「――俺の勝ち!」
いたずらが成功した子供のようにそう言って、男はひらりと踵を返した。去っていく背中を呆気に取られて見ていたが、はっと我に返って慌てて声をかける。
「あの!……ええと……?そや、名前!教えてください!」
男は足を止めて振り返り、その目が値踏みするようにゆっくりと、白石の全身を舐めるように動いた。
困惑気味なその反応を見て、今のはもう一度深い礼を言うべき場面だったのではないか、と白石は気付いた。慌てていたにしても、どうして名前を聞いてしまったのか分からない。しかし、今更発言を取り消せる流れでもない。気まずい数秒に耐えながら男の対応を待つ。心臓がまた鼓動を早める。
男はしばらくの間思案するような仕草を見せた後、急に困ったように微笑んだ。
「また会うたら教えたるわ」
それまでより心なしか穏やかに言って、男は今度こそ背中を向け、右手を上げて去って行った。
◆
めっちゃスタイルよかった。おしゃれやった。あと、いちいち仕草の色っぽい人やった。最後に上げた右手、えらいきれいやったな。大人っぽいと思ったら、急にあっち向いてホイしかけてめっちゃ子供っぽく笑わはるし。ていうか負けたし!ああでも、最後に笑った顔はやっぱり大人っぽくてかっこよかった。あんな身なりやのに、声も表情もめっちゃ優しかった。まんまるくなったり、ふっと力抜けたみたいに細まったり、ちょっと上目遣いみたいになったり、色んな形になる目やったな、瞳は紫がかった不思議な色してたような。
あとええ匂いした。俺、香水とか人工の匂いってだめやと思ってたのになぁ。この匂い嗅いでたいと思ったん、初めてかもしれへん。そうそう、ちょうどこんな、焦げ臭い……、え、焦げ臭い?
「うわぁ!あかんあかん!」
白石は、慌ててフライパンを持ち上げ、コンロの火を消した。微かに煙を上げるフライパンを恐る恐る覗くと、ハムエッグの端が黒く焦げている。食べられないほどではないと判断し、ふう、とため息をつく。夕食のおかずがなくなるところだった。
まだ不慣れな自炊といえども、コンロの前に立っているのにフライパンを焦がすとは。自分の失態に些かショックを受けながら、白石はハムエッグを皿に移した。スーパーで買ったサラダも盛り付けて、少しは栄養バランスを考えた食事ということにする。味噌汁がインスタントでなければ、もっとまともな食事になるのだが、自炊を始めて間もない食卓ではこんなものだろう。
テーブルに皿を並べ、一人きりの部屋で「いただきます」と手を合わせる。作業机を兼ねた小さな食卓セットとベッド、本棚でいっぱいになってしまうワンルームの部屋は、まだ殺風景でよそよそしい。気休めにパソコンから聞き慣れたトランスミュージックを流してみたが、それも浮いているようで、いつものように親しくは聴こえなかった。実家から大学まではそう遠くはなかったが、自立した生活力を身に着けたいと我儘を言わせてもらい、大学入学と同時に始まった一人暮らし。毎晩ひとりきりの生活は初めてで、まだ心許ない。
音楽を止め、小さなテレビをつけてみる。この時間帯のバラエティ番組はあまり見慣れない。昔から世話になっているお笑い番組が始まるまでは、まだあと三時間ほどある。
「次のテーマはこちら!〝男女の友情〟はあると思う!?……」
ナレーターが大げさな調子で読み上げている。あまり興味を引かれない話題だ。静寂を埋めるのにはちょうどいいかもしれない。白石は音量を少し下げてリモコンを置いた。
ハムエッグをかじる。焦げたところが固い。
すっかり噛み切りにくくなっているハムと小さな格闘を繰り広げながら、こうなったのはあの男のことを考えていたせいだ、と腹いせのように思った。今朝、魔力のようなものさえ感じるあの男に会ってから、白石はずっと呆けている。
楽しみにしていた博物学の講義は、植物も扱う歴史学といった様子で、期待したほど植物に焦点が当たらない雰囲気であったこともあるが、それにしても白石は聴講者として集中力を欠いていた。経済学部第二教室の窓からは、ちょうどあの男と会った中庭が見えた。教室に入ってすぐそのことに気付き、中庭側の窓に寄ると、あの男が階段を上って研究棟へ戻って行くのが見えた。そのまま手近な席に腰を下ろし、講義が始まってもちらちらと中庭を見ていたのだから、担当の教授に対しては全く失礼な態度であった。
あの姿をもう一度見たい。
講義中の白石の頭の中は、植物よりも歴史よりも、なぜだかその思いでいっぱいだった。それが西キャンパスを離れ、帰宅した今までずっと続いている。
あの人のすらりとした形や、懐っこい笑顔、朗らかな声を思い出すと、不思議といい気持ちになる。和むような、弾むような妙な心地になる。また会えたらとても楽しいだろうという確信に近い予感がする。今日初めて会い、交わした言葉は数えられる程度、共有した時間はほんの二分か三分といったところだ。いかにかっこいい人であったとはいえ、こんな僅かな接点の再来をこんなに楽しみにするなんて、おかしなことだ。一体、これは何なのだろう。
「本日最後のテーマはこれだ!ずばり、〝一目惚れ〟ってあると思う⁉」
テレビからそんなナレーションが聴こえて、白石はすすっていた味噌汁で盛大にむせた。テーブルに下ろすのが間に合わなかった右手の椀が揺れて味噌汁が零れる。なんやねん、と言いたくても言えない。ベッドサイドからティッシュを何枚か引っこ抜いてテーブルを拭き終わった頃、ようやく咳が落ち着いた。はあ、と思わず深く息をついて、椅子に座り直す。
(……〝一目惚れ〟やって?)
テレビの中では、お笑い芸人やタレントが「ある派」と「ない派」に分かれて議論している。白石はといえば、完全に「ない派」であったが、一目惚れ経験者らしい男性タレントが喚いている。
「俺も一目惚れとか意味分かんないと思ってたんすけど!あったんですもん!こう、見た瞬間この子や!ってびびっと来たんですよ!」
(いやいやいや、ないやろ……)
白石が一目惚れを信用しないのは、初対面では見た目程度しか情報がないはずであり、その僅かな情報で惹起されるときめきは、恋や愛と呼ぶには薄すぎるものであったり、短命なものであるはずというオーソドックスな理由からだ。
その上、白石は生来の並外れて端正な顔立ちのために、まさしく外見以外に白石のことを知っているとは思えぬ数多の女子からの告白に日常的に対応しなければならないような中学、高校生活を送ってきた。彼らが自分を理解した上で好意を持ってくれていると感じられたことはない。白石にとっては虚しい経験の数々である。
だから、やっぱりこれは恋などという立派なものであるはずがない。それにあの人は男だ。白石に交際経験はまだないが、淡い恋心を覚える相手はいつも女子だった。男は恋愛対象ではない。
そう結論し、白石は空になった皿を重ねてキッチンへ運んだ。
白石は、ひとまずこのおかしな感情に名前をつけようとするのを止めた。新たに出会ったものが自分にとってどういうものか、見定めるのは難しい。慣れない環境の中ではなおさらだ。今は、考えたところで答えなど出るまい。
明日は西キャンパスでの講義はない。それでも、明日も少しだけ足を踏み入れてみようか。また偶然、あの人が通るかもしれないし。そうだ、また会ったら、名前を教えてくれるかも。そう考えると、皿を洗う手に力が漲った。分かりやすすぎやろ、と自分の体につっこみたくなる。
あっち向いてホイに負けて、尋ねた名前も煙に巻かれて、このままでは勝ち逃げされるようで悔しいし、こうなったら絶対にもう一度会って、名前を聞き出してやろう。
このおかしな執着が何と呼ぶべき感情なのかは、今はどうでもいい。あの人に会えるかもしれないと思ったら、正直なところ心細さを覚えていた大学生活が、急にこんなにわくわくしたものになるのだ。あの人に迷惑をかけない範囲で、しばらく楽しませてもらおうじゃないか。白石はそう開き直り、シンクを流してキッチンの灯りを消した。
戻った部屋では、バラエティ番組のエンディングが流れている。一目惚れに関する議論の結末がどうなったのかは、分からないままだ。