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『さよなら、蔵ノ介』

 やけにはっきりとした声が頭に響いて、白石は急にぱっちりと目を開けた。何か月も眠っていたような気がする。部屋には、カーテンの開いた窓から明るい陽射しが差し込んでいる。自分が今どの時間の中にいるのか分からなくなって、白石は枕元のデジタル時計を見た。十一時五十六分が表示されている。昨日の夕方頃から今まで、随分長い間眠っていたらしい。こんなに長時間寝たのは初めてだ。眠る前に襲われていた頭痛は、嘘のようになくなっていた。

(修二さん、何しとるやろ)

 寝ぼけた頭が、あの頃毎朝考えていたことをぼんやりとなぞった。次の瞬間、さっき聞こえた「さよなら」の声を思い出し、白石はがばりとベッドを降りて立ち上がった。

「え……、……え?」

 急に立った体かぐらりとめまいを生んでいる。たった今一年三か月ぶりに戻った記憶と、既に起こり過ぎ去ってしまった数々の事実とにようやく理解が追い付き、白石は唖然として座り込んだ。そんなはずない、と何度も記憶を整理してみても、他の結論には辿り着かない。

 あの事故の後、俺は修二さんとの記憶を一切失い、そのことに気付かないまま、今年一年修二さんと過ごしたのだ。決してそのことを言おうとしなかった修二さんの右手にあった指輪は。あの人が忘れられず苦しんでいた過去の恋人は――。

「嘘や……嘘……」

 呼吸が、体が震えている。白石はほとんど放心したまま、スマートフォンのメッセージアプリを開いた。あの交通事故の後、心配した仲間たちから無数に届いたメッセージに埋もれ、ずっと下までスクロールした先にその未読メッセージはあった。

<怪我軽くてほんまによかった 連絡待ってる>

 がたがたと揺れる手の中で、一年以上前の事故当日の日付を表示したそれを、遅すぎた指がなぞる。「待ってる」。その文字に触れたとき、白石は弾かれたように立ち上がり、家を飛び出していた。

 

 修二さん。修二さん。

 心の中でそれだけを唱えながら、白石は走った。外は昼だというのに身を切るように寒く、真っ白い空から綿雪が舞っている。走りながら、この一年何度となく使った種ヶ島の番号に電話をかける。コール音はすぐに無機質な自動音声に変わり、既にこの番号が意味を失ったことを知らせた。涙が流れるのも構わず走った。赤信号に焦れながら送ったメッセージに既読はつかない。

 辿るのは、種ヶ島のアパートへの道だ。種ヶ島が大学生となり一人暮らしを初めてから、高校生活の合間を縫って何度あの部屋を訪れたか分からない。種ヶ島は少し大学から遠くなるのも構わず、白石の家や高校からアクセスのよい地下鉄駅近くで部屋を探し、白石と過ごす時間のためにセミダブルのベッドを選んでくれた。あのソファだって、二人のためにあの部屋に置かれることとなったのだ。そこで数えきれない言葉を交わし、幾度も肌を合わせ、愛しい時間を過ごした。あの場所へ向かうたびに胸は弾み、あたたかくなった。そんな忘れようもないことを、どうして昨日まで忘れていられたのだろう。

 やっと着いたアパートの階段を駆け上がり、種ヶ島の部屋へ走る。そのままインターホンを押そうした足が、悄然として止まった。ドアに取り付けられた郵便受けにガムテープが張られ、この部屋に既に住人がいないことを告げていたのだ。

 息を切らし、涙を拭ってそれを見下ろしながら、白石はインターホンを押した。部屋の中で呼び鈴が鳴る籠った音が聴こえ、消えていく。もう一度だけ押し、同じ音を聴きながら、白石はドアに額をつけた。走り通して乱れた呼吸の他には物音ひとつしない寂しい廊下に、風に押された雪が舞い込んでいる。

「……修二さん」

 世界一きれいだと思う名前が、空気を白く染めて消えていく。いつもこのドアを開けて出迎えてくれた姿が蘇る。触れたドアは、種ヶ島とは似ても似つかない冷たさで体を凍えさせるばかりで、開きもしなければ、気配のひとつも伝えて来ない。

 分かっている。種ヶ島は昨日言っていたとおり、これまで白石との間に結んできた幾千もの糸をすべて手放し、昨夜のうちに遠くへ行ってしまったのだ。昨日、否、これまでもずっと、種ヶ島はどんな思いで白石と一緒にいたのだろう。

今なら分かることがいくつもある。春、図書館の前で名前を聞いたとき、「きれいな名前ですね」と間抜けに答えた俺に大笑いして見せたのは、泣きそうなのを誤魔化すためだ。

 いつも自宅まで送りたがったのは、二人で出かけ、別れた直後にあの交通事故が起きたからだ。あの出来事の再来が恐ろしくてたまらなかったのだろうし、あの日自分が家まで送っていればと後悔に苦しんでいたのかもしれない。

 俺が記憶を失っていることを決して口にしようとせず、いくつか嘘をついてまで悟られないようにしたのは、一生彼のことを思い出さずに生きるかもしれなかった俺の人生を肯定し、守ろうとしてくれたからに違いない。

 そして、この一年、彼が流したいくつもの涙。今ならようやく分かる――あの人は、あんなに泣く人ではない。出会ってから三年の間、白石が種ヶ島の涙を見たのは、W杯から帰る船の上と、彼がテニスの第一線から退くことを決めたときだけだ。素直に弱った姿を見せることはあっても、涙まで流すことは滅多にない強い人が、何度も、大粒の涙を流して泣いていた。彼はどれほど深く傷つき、打ちのめされていたのだろう。

 そして昨日、あの人はひとつも涙を見せなかった。元々、苦痛を堪えて笑うのが得意な人だ。泣けば俺が気に病むと思って、それをやったのだ。やらせてしまったのだ。最後の最後、愛おしそうに、焼き付けるようにこっちを見ていたまなざしを思い出す。「さよなら」の声が蘇る。

 白石は、ドアを伝うようにずるずると崩れ落ちた。胸が破れたように痛い。けれど、「痛い」なんて思えない。思っていいはずがない。種ヶ島はもっと痛かったはずだ。あの優しくやわらかい心が、種ヶ島を忘れた白石の言葉や仕草の一つ一つにどれほど傷ついたのか、かつての白石が失われてしまった事実に何度潰されたのか、想像もつかない。その上、恐らくはもうこれ以上煩わせないようにと考えて、静かに俺の人生から消えようとしている。たった一人で、身を裂くような思いで決めたに違いない。

「ぅ……っ、修二さ、修二さん……、嘘や……っ」

 種ヶ島を傷つけた、その感覚が呼吸を止めるような重さでのしかかる。種ヶ島にどれほど大切に思われていたのかが胸に突き刺さる。

 圧し潰されるように深く項垂れ、氷のような床に膝をついて、白石は日が落ちるまで泣き止むことができなかった。種ヶ島は白石を愛したまま、傷を負ったまま、行ってしまった。

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