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毎週金曜日の朝。この密かな楽しみの時間は、桜が散る頃に始まった。あれから季節は少しだけ進み、西キャンパスの木々には若葉が茂り始め、一週ごとに明るい青さを増している。先週よりもまた一段と鮮やかになったしなやかな枝と青空を見上げて、白石は物憂げにため息をついた。
プロジェクターが大きなスクリーンに資料を投影している講義室。教壇では、愛嬌のあるフクロウみたいな教授が、時折レーザーポインターでスクリーンを示しながら、軽妙な講義を続けている。
教授の飛ばす冗談に、学生たちから時折さざめきのような笑い声が起こるのを聴きながら、白石は斜め前へと視線を投げた。照明が落とされた講義室の中で、スクリーンに反射した光を纏いながら、いつものように種ヶ島が座っている。すらりと大きな体には、講義室の机と椅子が少々窮屈そうだ。
ここからあの姿を見るだけで幸せだと思えた時間は、白石が思っていたよりもずっと早く――二回目の講義で、種ヶ島が一度も白石の方を見なかったときに、あっけなく終わってしまった。
あの日も、てきぱきと講義の後片付けをする種ヶ島の姿をこっそり窺い、一瞬でもこちらを見てくれたならすぐに反応できるように身構えながら、できるだけゆっくりと荷物を仕舞っていた。種ヶ島がこちらを見ないうちに持ち物をバッグへ収めきってしまい、席を立つしかなくなって講義室を出たとき、白石の胸に落ちたのは、明確な落胆だった。何のためにここへ来たのか、来た甲斐がなかった、そんなことを言いたげな感情が胸の底を湿らせていた。種ヶ島の姿を目に収められたことをただ喜べばいいものを、それを押しのけるように己の中に生まれた卑しく身勝手な感情に、白石は少なからず衝撃を受けた。
その感情は、凝りもせずに毎週白石の胸に湧いて出た。種ヶ島は、結局あれから一度も白石へ手を振ることはなかったからだ。
講義室のドアをくぐり、定位置となっている座席に荷物を下ろす。前方では、既に種ヶ島が講義の準備をしている。スクリーンとプロジェクターの用意をし、資料を配り、いつも通りくるくると動く均整のとれた体。零れる人懐っこい笑顔。その姿を見るだけで、今日も心のどこかがほろりと和む。同時に、きゅっと締め付けられる。もう種ヶ島がこちらを見ることはないのだろうと思うのに、動き回る姿をちらちらと追うこの目は、今日こそあの瞳がこちらを向くのではないかと、性懲りもなく期待している。自分がこんなに身勝手な分からず屋だったことを、白石は初めて知った。
彼にとっては何もおかしいことではないと、頭ではよく分かっている。
種ヶ島にしてみれば、同じ研究室やサークルに属しているわけでもない白石は、「たまたま二回会った変わった一年生」程度の認識でしかないはずだ。春に妙な接点はあったにせよ、今となっては、週に一度同じ講義を受けるだけの、この広い講義室にいる大勢の学生たちとほとんど変わらない存在だろう。あの日のことなんかもう思い出さないかもしれないし、白石のことも忘れてしまっているかもしれない。その方が自然なくらいだ。
だから、こんな不満のような感情を抱くのは、筋違いも甚だしい。白石は、聞き分けの悪い感情をぴしゃりと打つようにそう言い聞かせた。
その時、後ろの席に並んで座っているらしい女子生徒たちの会話がやけに大きく聞こえてきた。
「あー今日もやばいイケメン」
「種ヶ島さん?ほんとやばいよね」
「あの人元読モらしいよ」
「え、そうなの。すご。ていうか納得」
「どこ情報?」
「サークルの先輩。あと彼女いるらしい」
「「えー!」」
「でも当たり前か」
「どんな美女だよ彼女さん」
「誰も見たことないらしいよ。でも一年の時からずっと指輪してるし、女がいる飲みは断るって有名なんだって」
「ええ……かっこよ……」
「惚れ直すわー」
「惚れてたのかよ」
きゃははは、と楽しげに笑う声を、白石ははぜか重たい気持ちで聴き流した。講義開始のブザーが鳴る。種ヶ島は、やっぱりこっちを見なかった。
自分は種ヶ島に存在を覚えていてほしかったし、特別扱いしてほしかったのだ、と白石は思う。あの日、会ったばかりの白石をカフェへ連れ出し、甘く笑いかけてくれたのは、種ヶ島にとって、白石が何か特別であったからではないかと思っていた。否、思いたかったのだ。そうであったらいいと思っていた。だから、あの日種ヶ島との間になんらかの小さな絆を結んだような、自分にとって都合のいい解釈をした。それを今、勝手に裏切られたような気になっているだけなのだ。無関係の種ヶ島の彼女まで憎みたいような気持ちになるなんて、どうかしている。
つまりは、彼が自分の思ったとおりに動いてくれなくて拗ねているだけ。あまりにも子供じみていて、しょうもない、と白石は嘆息した。頭では、こうして自分の心に起きていることを冷静に理解し窘めているつもりなのに、毎週懲りずに期待することも、落胆することもやめられない自分に辟易する。高校までそれなりに厳しい環境で長くテニスをしてきたし、部長の重責を担った期間も短くなく、感情のコントロールには自信がある方だったのに、種ヶ島への奇妙な執着だけはまったく制御が効かない。強制的に乱高下させられ疲弊するばかりなのに、それでも種ヶ島の方へと寄りたがる心を、どうやって引き離してやればいいのか分からない。
悶々と考え、種ヶ島の横顔を時折眺めながら、今日も九十分の講義が終わった。
この後は、薬学部の仲間で図書館へ集まり、課題の調べものをする約束がある。いつもと違い、手早く荷物をまとめなければならないのを一瞬惜しく思ったが、白石はすぐに頭を振って打ち消した。いつものようにたらたらと身支度をしていたところで、種ヶ島がこちらを見るわけではない。また勝手に落胆するだけと分かっているのだから、むしろこの方がいい。これからも、講義の後に未練がましくここにいる時間を延ばすのはやめて、すぐに講義室を出てしまおう。種ヶ島から離れるための小さな一歩として。
そう決めて、大学図書館に近い前方の出入り口へと足を向ける。必然的に、後片付けをする種ヶ島の方へ近づくことになるが、努めてそちらを見ないようにしながら通路を降りる。余ったプリントをまとめている種ヶ島の横を通り過ぎるとき、あの香りが鼻をくすぐって、白石は思わず顔を俯けた。
「白石?」
一瞬呼び止められたことを理解し損ね、白石は二、三歩歩いてびくりと足を止めた。あの声だった。種ヶ島の声だった。恐る恐る振り返ると、種ヶ島が一歩、二歩と距離を詰め、心配そうな顔で覗き込んで来た。
「元気ないな。調子悪いん?」
その瞬間、白石は心臓のあたりがマグマでも湧いたように熱くなるのを感じた。炉に差し込まれた硝子のように、高温に溶かされた心が一瞬形を失い、痛いほどの切なさを帯びる。
「……なんも!元気いっぱいですわ」
詰まる胸から、白石はなんとか明るい声と笑顔を捻り出した。
「さよか?ならええわ。今日もがんばりやぁ」
安心したように笑って、指輪の光る手を振る種ヶ島に会釈をして、白石は講義室を出た。
キャンパスを歩いているうちにいてもたってもいられなくなって、気付けば白石は新緑の並木道を全速力で走り出していた。木漏れ日が目の前を煌めかせながら流れていく。出会った頃にはほとんど葉がなかった桜の樹が、青々とした残像を引きながら何本も通り過ぎる。まるみを帯びた初夏の風を切り、振り落としそうになるバッグを肩に掛け直し、白石はなおも走った。
一か月ぶりに聞く声。一か月ぶりの眼差し。白と紫と小麦色の美しいコントラスト。呼ばれた名前。やさしい言葉。僅か数秒のうちに燦燦と降り注いだそれらに何度も何度も胸を焦がされながら、白石は走り続けた。
やがて並木道が途切れ、白石はかつて迷った末に足を踏み入れた西キャンパスのはずれにいた。足を止め、若葉の茂る桜の幹に寄りかかる。はあはあと肩で息をしながら、白石は空を見上げた。びゅう、とやわらかく強い風が吹いて、白石の髪を巻き上げる。風に遊ばれる前髪と、生い茂る新緑がきらきらと輝いて、その隙間から鮮やかに光る空が見えた。白い雲が速く走っていく。
覚えていてくれた。心配してくれた。
それだけのことで泣き出しそうなほどに震えている胸を押さえ、あたたかく吹き過ぎる風の中で、白石は観念した。
種ヶ島さんのことが好きだ。好きで好きで、たまらない。
◆
種ヶ島への恋心は、一度認めてしまえば、意外なほどすんなりと腹に落ちた。むしろ、自分が種ヶ島に執着する理由が分かって、すっきりしたくらいだった。自分が同性を好きになったことに対する驚きと戸惑いはあるが、誰に知られているわけでもないと開き直る。まして、彼女をとても大切にしているらしい種ヶ島に伝えるつもりも毛頭ない。誰にも明かさずに、消えてしまうまで持っておけばいいのだと納得した。
翌週の金曜日、白石は、少しばかり芽生えた欲を携えて心理学の講義を受けていた。先週、少なくとも種ヶ島は白石のことを覚えており、僅かでも関心を向けてくれることが分かった。この恋の進展なんて恐ろしいことは望まないから、ほんの少し距離を縮めて、時々話す仲くらいになら、なっても罰は当たらず、種ヶ島や、種ヶ島の恋人の迷惑になることもないのではないか。そんなことを考えていたのだった。
講義が終わると、白石は後片付けをする種ヶ島に思い切って近づいた。種ヶ島は、白石が何か言いたそうに寄って来るのに気づいて、「ん?どうしたん」と声をかけてくれた。やっぱり、近づけば拒まずにいてくれる。白石は弾む胸を押さえながら、長いこと考えてようやく思いついた会話の糸口を繰り出してみた。
「今、少し大丈夫ですか」
「ええで?」
「あの、先月。ケーキご馳走してもろたとき、俺誕生日やったんです」
「ええっそうなん?」
「はい、忘れとって、後から気付いて。そんで、めっちゃ嬉しかったんで、お礼したいんです。種ヶ島さんの誕生日、教えてもらえませんか」
なるべく自然に、と心がけて言い切ると、種ヶ島は困ったように笑った。「気まぐれやったし、礼なんてええって」と言う口に、教えてくれるだけでもいいと食い下がると、やや躊躇いがちに教えてくれた。
「五月二十九日やけど」
「五月……、え、明後日?」
「そやで」
その日は僅か二日後の、日曜日だった。「タイムリーやなあ」と種ヶ島はのんびり笑っている。予定では、誕生日と一緒に好きなものか行きたいところを聞き出して、来るその日までの間に何かいいものを用意するつもりでいたのだが。
「なら、今日お祝いせな……!」
「いやいや、ええから。ほんまに」
一人で慌てる白石を止めるように、種ヶ島は掌を突き出した。その声には少しばかり真剣な響きが垂らされていて、白石ははっと種ヶ島を見た。
「俺、お前が誕生日って知っててやったわけとちゃうし、そこに礼されても困ってまうわ」
「……そう、ですよね」
もっともな論理と「困ってしまう」の言葉に、白石の欲はすっかり火を消されてしまった。困らせたいわけではないし、迷惑だけはかけたくなかったのに、面倒な奴だと思われたかもしれない。「すんません」と思わず肩を落として詫びると、少し哀れに思ったのか、種ヶ島が言葉を繋いだ。
「なら、〝おめでとう〟って言うてくれへん?」
「え?」
「今、〝おめでとう〟って。そしたら嬉しいなあ」
種ヶ島はにこりと笑って言った。思い通りにいかず落ち込んだ子供をあやすための言葉だろうか。何かをあげたいという白石の我儘を、僅かばかりでも叶えてやろうとする優しさからの言葉だろうか。白石はそう考えて惨めな気持ちになりかけたが、じっと白石の反応を待つ種ヶ島の目は純粋であるような気もした。本当にその言葉を望んでいるようにも見えた。そう思いたかっただけかもしれないが。
白石は心にかかる靄を振り払い、バッグの柄をぎゅっと握って居住まいを正すと、できる限りの心を込めて言った。
「少し早いですけど……お誕生日おめでとうございます」
紫色の瞳が一瞬揺れたように見えたのは、己の願望が見せた幻だったかもしれない。それでも、祝福の言葉がじわじわと沁み込んでいくみたいに、種ヶ島の顔がゆっくりと綻ぶのを、白石は確かに見た。
「……うん、ありがとう。めっちゃ嬉しいわ」
きゅっと目を細めて、種ヶ島はそう言った。もう一度「ありがとうな」と言って、種ヶ島は荷物を持って講義室を出て行った。白石は思わず振り返ったが、扉の向こうへ去って行く背中は、もういつもどおりであった。
握った手に、静かに力がこもる。祝ってほしいという言葉がしょうのない後輩を宥める方便であったとしたら、あんな風に笑うだろうか。心からの喜びが溢れ出すみたいに笑うだろうか。それとも、あの人は誰にでもそういう顔を向けるのか。あの笑顔を意図的に浮かべることができる人なのか。
種ヶ島の背中はもう見えない。胸が苦しい。これは叶うはずのない恋なのだ。だからやめてほしい。あんな表情を見せて、無駄な期待をさせるのは。――いや、勝手に無駄な期待をしているのは、物分かりの悪い俺の心か。白石は心中で冷ややかにひとりごち、講義室を後にした。
弾む鼓動と火照る頬だけは、どうしようもなかった。