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「……んん……うるさいぃ……」

 ばしっ。一人きりの部屋に理不尽な音が響いて、哀れな目覚まし時計が軽く弾んで音を消した。泥のような眠りに急速に引きずり戻されていく瞼をなんとか上げ、白石は窓を見上げた。時計の指す時刻は七時。まだ明け方のように暗い部屋に首を捻りつつカーテンを引けば、空は残らず薄墨色の綿に覆われ、死んだように湿り閉ざされていた。もう何週間こんな調子だろう。長い長い今年の梅雨は、七月も下旬だというのにまだ明けていない。白石は重い体をなんとか起き上がらせ、ベッドから降りた。

 今日は、夏休み前最後の講義がある日だ。そして、きっと種ヶ島さんに会える最後の日だ。

 

 眠い。本当に眠い。何か朝食を用意しなければと思うのに、体は動かないし食欲もない。ひとまずのろのろと着替えを済ませ、顔を洗う。部屋には開きっぱなしのノートパソコンと、レポート用紙が散乱したままだ。

 七月に入ってからの過ごし方を完全に間違えた、と何度思ったか分からない。特にここ二週間ほど、白石の毎日はとんでもなく忙しかった。各講義のテストやレポートが集中していて、慣れないレポート作成は思ったよりも時間を喰った。その上、所属するテニスサークル内で夏休みにシングルスのトーナメントを開催することが決まり、負けず嫌いを発動させ練習に熱が入っていたところに、先月始めた塾講師のアルバイトが繁忙期に突入したことが極めつけだった。昨日までに全ての講義のテストが終了し、最後に残っていた明日提出のレポートもなんとか書き上げたけれど、白石はぐったりと疲れていた。テニスをやってきた分、体力には自信があったが、慣れないことだと溜まる疲労も違うらしい。現役を退いて少し経ち、体力自体も当時と同じ無茶ができない程度には落ちているのかもしれない。

 そんな日々をなんとかやり過ごし、今日から三日間ほどは休める。どうせ途中でテニスコートへ向かってしまうであろうことは置いておくとしても、バイトは入れていないし、講義関係でやるべきことも残っていない。今日という日を目指して二週間を乗り切ったと言ってもいい。

 今日の講義、出なくてもええんやけどなぁ。

 洗い上がった顔を拭くタオルの中で眠ってしまいそうになりながら、白石はついそう考えた。心理学の講義は先週テストを終えている。あのフクロウ先生は「来週は補足と蛇足だから来なくてもいいよ」と笑ったくらいで、今週の講義は、最低出席回数をクリアしている学生にとっては出席する必要性のない講義であった。薬学部の仲間の中にはもう地元へ帰省した者もあるし、そういう事情を汲んで先週のうちにテストを済ませたのだろう。

 でも行かなければ、と白石は目覚めない体を叱咤した。

 図らずも誕生日を祝う言葉を贈ることになったあの日から、白石は自分から種ヶ島へ近づくのをやめていた。「礼をされても困る」というあの時の種ヶ島の言葉は単なる正論であったが、頼りなく不安定な白石の恋心を竦ませるには十分だった。彼を困らせ、厄介な後輩と認定されるかもしれないリスクを負って、もう一度なんらかのアプローチをする勇気は、ついに出なかった。そして、白石から近づかない限り、種ヶ島はやっぱり白石の方を見ることはなく、種ヶ島の姿を眺めるだけの講義を一回、また一回と重ねるたびに、時々話せる仲になりたいというほんの小さな願いも折れていった。

 それでも、講義に出なければよかったと思った日はない。こちらを見てくれなかろうと、種ヶ島の姿は春と全く同じ温度で白石の心を揺り動かしていて、慣れない恋に振り回される中でも、ずっと見ていたいものであり続けた。

 一週間に一度彼を見ることができる日々は、今日で終わる。夏休み明けからは、西キャンパスで行われる講義を履修する予定はないから、偶然見かけることもなくなるだろう。冬が来れば、四年生である彼はこの大学を去って行く。だから、きっと本当に最後だ。種ヶ島を遠くからでも見ていられる時間は、もう今日の九十分しかないのだ。そう言い聞かせ、白石は朝食もそこそこに家を出た。

 暗い曇天のはずなのに、外の光が鋭く目に突き刺さり、思わず目を眇めた。昨夜遅くまでレポートを仕上げていたせいで、三時間ほどしか眠っていない瞳孔が馬鹿になっているらしい。

 

 

 ◆

 

 心理学概論の講義には、いつもの三分の一ほどしか学生が出てきていない。白石は、道すがら買ってきた缶コーヒーを流し込み、ぼとりと落ちそうになる瞼をこすって前を向いた。種ヶ島が、いつものように講義の準備をしている。明るい笑顔は今日も健在で、白石は心から思った。来てよかった。疲れてささくれ立った心が、今日もじわりと癒されていく。これが最後だと思うと、それもひとしおだった。今日が終わっても、種ヶ島が元気で、彼女さんとも幸せに、暮らしていってくれたらいい。

 するとその時、種ヶ島が急にこちらを見て、ぴたりと動きを止めたように見えた。たまたまだろうと白石がぼんやり見ているうちに、種ヶ島はずんずんと通路を昇って白石の席までやってきた。もう忘れかけていた香水の香りが漂う。白石は、突然の出来事を頭で処理しきれないまま、とりあえず「おはようございます」と並べて、唖然と種ヶ島を見上げた。種ヶ島は、いつもとは違う顔をして白石を見ている。

「おはよう。大丈夫か?えらい具合悪そうやな」

「え……?」

 種ヶ島は、口許から平素の笑みを消し、眉を寄せて白石の顔を覗き込んでいた。

「出えへんでもええんやで?出席回数足りとるやろ。毎回来とったもんな」 

 靄のかかった頭が、ようやく状況に追いつく。途端に鼻の奥がつんとして、白石はうっかり涙が出ないように気を付けて笑顔を作り、ふるふると首を振った。

「大丈夫です。今日も聴きたいんで」

「ほんまか?……」

 種ヶ島は、しばらくの間用心深く白石の顔を見ていたが、壁の時計をちらりと見て小さくため息をついた。もう講義が始まる時間だ。

「無理したらあかんで。だめやと思ったら机に伏せててええからな。あの先生気にせえへんから。」

 優しく言い聞かせられ、白石は笑顔を貼り付けたまま頷いた。種ヶ島はポケットから何かを出して握らせると、何度も振り返りながら戻って行った。白石はそれ以上何食わぬ顔を続けられなくなって俯いた。膝の上で手を開いて見ると、握らされていたのは、最初の講義のときにもくれた星の形のキャンディーだった。白石はぎゅっと唇を噛み締めた。

 講義の内容はてんで頭に入ってこない。種ヶ島の姿を見られる最後の時間なのに、ほとんど顔を上げることもできない。今あの人を見たら、泣き出してしまいそうだった。それに、種ヶ島が時折白石の方を振り返っては、心配そうに様子を窺っていることに気付いていた。

 どうして体調が悪いことに気付いてくれた?どうして休まず講義に来ていたことを知っている?寝不足が祟ってよく動いてくれない頭では、白石にとってとても都合のいい答えしか導き出せない――あの人は、本当はいつも俺のことを見ていてくれたのではないか。

 この期に及んで期待などしたくないのに、その甘い仮説を手放せない。

 

 講義が終わると、片付けを他の学生に任せたらしい種ヶ島が飛んで来た。眉は気遣わしげに顰められている。

「他にも講義ある?もう帰れるか?」

 顔色を見るように覗き込みながら、種ヶ島が優しく問いかける。白石は、九十分でなんとか取り戻した僅かな冷静さを総動員して苦笑いを作った。

「今日はこれだけです。すんません、ご心配おかけしてもうて」

それだけ言って去ろうとすると、「待って」という声と共に腕を取られた。肌と肌が触れ合う感触に、ざわりと体中の細胞が立ち上がる。手首を掴む小麦色の手から辿るように視線を上げた先、種ヶ島が、至極真剣な顔で言い放った。

「家まで送る」

 

  ◆

 

 ごう、とエンジン音を上げて、無言の二人の横を車が通り過ぎていく。空は朝よりも更に照度を落とし、辺りは夕方のように薄暗い。雲の底は、湛えた水を今にも決壊させそうな様子で、地上の方へ暗く黒く沈み込んでいる。湿った空気は吸うたびに肺を重く沈ませる。

 種ヶ島は、当然のように白線の内側に白石を誘導し、車道側を歩いている。白石が言葉を発する元気もないと思っているのか、時折「大丈夫か?」「家まで歩けそう?」と確認する以外は口を結んだままだ。

 あの後、白石は「ただの寝不足ですから」と、種ヶ島の申し出をなんとか退けようとしたが、家まで送らなければ心配で研究が進まない、と頑なに種ヶ島が言い張るので、途中で疲れて譲歩してしまった。おかげで白石は、自宅まで二十分ほどの道のりを歩く間、拷問のような時間を過ごす羽目になっている。

 募った恋心を持て余した身に、この状況に期待するななんて無理な話だ。けれど、これは叶うはずのない恋なのだ。期待に比例した落胆が必ず待ち構えている。期待することも、否定することも苦痛になって、何を思っても苦しいばかりで逃れられない心が潰れそうだ。

 自室のあるアパートまでなんとか辿り着き、白石は気力を振り絞って「ここでええです、ご迷惑おかけしてすみません」と笑った。種ヶ島はなおも心配そうに頷くと、続けて言った。

「部屋、何号室?」

「……え、なんでです……?」

 これ以上はもたない。もう解放してほしい。後ずさりさえしそうになりながら、白石がようよう尋ね返すと、種ヶ島が安心させるように笑って言った。

「家に食いもんあらへんやろ。そこのコンビニで何か見繕って来るから、部屋で待っとき」

 その瞬間、ぎりぎり繋げていた気力の糸がぷつりと切れた。

「もうやめてください!」

 許容量を超えた苦しさが締め付けられる心から噴出したかのように、みっともない叫びが上がる。くるりと背を向け走って行こうとしていた優しい背中を、そのひどい音が打ち据えたのが分かった。驚いて振り返る種ヶ島の目を、見られない。胸が痛くて、頭も喉もかっかと燃えているようで、思考する前に言葉が口を突いて出る。

「俺は、種ヶ島さんが好きなんです」

 数歩離れたところに立ち尽くす種ヶ島から、「え……?」と言葉を失ったような声が聞こえた。

「せやからもう、優しくせんとってください。種ヶ島さんにとっては普通のことかもしれへんけど、俺はあなたの知らんところでアホみたいに喜んでるんです。期待、してまうんです。せやから……」

 興奮で上がった息が切れ、一緒に言葉が途切れた。少しだけ頭が冷えて、のろりと視線を上げると、種ヶ島は息を飲み瞠目していた。

「………嘘、やない……、やんな……」

 唖然とした声。力なく頷けば、種ヶ島が片足をじりと後退させ、困惑に薄く開いたままの唇が「なんで」と動いたのが見えた。当然の拒絶だ。そう思うのに、白石は耐えられないほど悲しくなって、拳をぎゅっと握って頭を下げた。

「すんません。優しくしてもろたのに気持ち悪い感情向けてもうて。もう絶対に近づかんて約束します。ほんまにごめんなさい」

 早口に詫びて、白石は踵を返してアパートへ走った。「待ちや!」と後ろから聞こえるのも、聞こえないふりをして走った。

「待ってって!」

 階段を駆け上がろうとしたところで、追いすがって来た種ヶ島の手に捕まった。あたたかい種ヶ島の手が、逃がさないとでも言うように力強く手首を掴んでいる。「なんですか」。白石は顔を背けたまま、震える喉を押さえつけた抑揚のない声で返した。種ヶ島が一つ、二つ、呼吸を整えている。

「……気持ち悪いなんて思ってへん。ちょっと、びっくりしただけや」

 恐る恐る振り返ると、見たことのない顔の種ヶ島がいた。目が合うとすぐに逸らされ、その瞳は忙しなく泳いで狼狽し、唇は言葉を探して閉じたり開いたりを繰り返している。こんな顔もする人だったんだな、と、どこか冷静に白石は思った。種ヶ島は長い間言葉を見つけられない様子であったが、やがて意を決したように言った。

「……時間くれへんか。ちゃんと考えたいねん、俺自身どう思ってるか」

 白石は、手首を握ったままの手を引き剥がして叩きつけてやりたくなった。まだ期待を持たせるようなことを言うのか、もうやめてほしいと言った意味が分からないのか、こんな不毛な時間を引き延ばそうなんてあんまりだ。喉元までせり上がる怒りと悲しみが言葉にならず唇を噛むと、種ヶ島が辛そうに顔を歪めて、「ごめん」と言った。

「ひどいこと言うてるのは分かってる。分かってるけど、俺、……分からへん。今、ほんまに分からへん……」

 不明瞭な言葉を紡ぐ声が、迷子の子供のように途方に暮れている。白石の苦しみに心を寄せながらも惑う瞳を見て、唇を噛む力が抜けていく。本当に、優しい人。急にこんな感情をぶつけられて、目の前の後輩は勝手に苦しんでいて、かわいそうなのはこの人の方だ。

「俺の方こそ、すみません。ええですよ、種ヶ島さんの思うようにしてもろて」

「……ありがとう。……一晩。一晩だけくれ。明日の昼、またここに来る」

 力強い瞳で白石を見据え、種ヶ島はそう言い切った。

 

 帰宅して部屋着に着替え、このまま仮眠を取ってしまおうとベッドに横になろうとしたとき、ピンポン、と呼び鈴が鳴った。ベッドに乗り上げた片膝を戻し、のろのろと玄関へ移動してドアスコープを覗くが、誰もいない。まさか、と思ってドアを開けると、すぐ横に口をしっかり縛ったコンビニの袋が置いてあった。

 部屋へ戻って袋を開けると、一番上に、あの星の形のキャンディーがちょこんと二つ乗っている。力のつきそうな焼肉弁当とから揚げ弁当が一つずつ、紙パックの野菜ジュースが二つ、それから、コンビニスイーツと思しきパッケージに入った小さなチーズケーキが一つ。

 テーブルに並んだ袋の中身を端から何度も眺め、白石は泣いた。期待するとかしないとか、そんなことはもうどうでもよかった。空っぽに疲れた一人きりの体に、種ヶ島の気遣いと優しさがただ沁みた。元気が出るように、栄養を摂れるようにと選んでくれたのだろう。チーズケーキは、カフェに連れて行ってくれたあの日の記憶から、好物かもしれないと考えを巡らせてくれたのだろうか。

 やっぱり好きだ。優しくて、どうしようもなくかっこいいあの人が。

 明日、種ヶ島がどんな答えを持ってきてもいい。来てくれなくたって構わない。彼がこんなに優しさをくれたことと、想いを受け止めてくれたことは、もう揺るがない事実だった。あの人を好きになってよかった。そう思わせるのには十分な、あたたかい灯のような事実だった

 

 

 ◆

 

 重なった無理を取り返しているような長い眠りの間、真っ暗な夜中に一瞬だけ目が覚めた。外からは嵐の音がした。雨はざあざあと鳴り降り、時折ひゅるると鋭い音を立てては強風が吹き荒んだ。疲れた体はすぐに再び眠りに落ちたが、その嵐は朝まで街を覆っていたらしかった。

 次の日の昼、種ヶ島は約束を守ってやって来て、「そこの公園まで歩こう」と微かにくたびれた目元で言った。

 俺のせいですみません、とは言えなかった。彼がよく眠れなかった様子である理由が、昨日白石との間にあった出来事である確証はない。白石にとっては大事件であったが、種ヶ島にとってはさしたる問題でなかったとしたら、「俺のせいで」なんてとんだ自惚れの勘違いになる。そう思うと、詫びていいものか分からないのだった。

 種ヶ島が足を止めた小さな公園は、アパートや低いオフィスビルの中に挟まるようにして、白石の家から五分ほど歩いたところにある。華奢なすべり台とブランコが置いてあるだけの、小さな小さな遊び場だ。出入り口のところに、緑の葉を豊かにつけた栗の樹が一本だけ植わっている。夜の間降り続いた雨は、砂の地面に小さな水たまりを作っていた。

 種ヶ島に促され、木の下に備え付けられたベンチに並んで腰掛ける。迷った末一人分ほど空けた距離は、今の二人にとって近かったのか遠かったのか分からない。

「あれからちゃんと休めたか?」

「はい。種ヶ島さんのごはん食べてずっと寝てました」

「ははは!俺のごはんな☆」

「ありがとうございました。チーズケーキも、めっちゃ嬉しかったです。全部ほんまに美味しかった」

「さよか。元気になってよかったわ、ほんまに」

 種ヶ島は白石を見つめて明るく笑った。それから正面に向き直って、静かに話し始めた。

「考えて来たんやけどな、俺はお前が好きや」

 さらりと、穏やかに告げられた想いは、飲み込むのに数秒を要した。それから、思考を塗りつぶすような未知の感情が体に溢れてきた。白石は、自分が嬉しいのか悲しいのか、飛び上がりたいのか泣きたいのか分からなかった。すべての感情が束になって体の内側を揺さぶり、口は「ほんまに?ほんまですか?」と情けない声を繰り返し紡いだ。種ヶ島は白石をちらりと見て笑うと、「ほんま」と頷いた。

「それはな、俺の中では前から分かってたことやねん。けど、お前が俺を好きになるとは思わんやん。やから、その先を考えたことなかってん。俺はその先が欲しいのか、欲しいとしても欲しがってええのか、ちゃんと考えたかったんよ。そんで、……冷静に考えきれた自信、ないねんけど……、」

 種ヶ島は、最後に困ったように頭を掻いたが、すぐに白石の目をしっかりと見た。それからどこか必死な顔で言った。

「もしお前も望んでくれるんやったら、俺はお前と一緒にいたいと思ってる」

 揺れる紫の瞳は強く、想いの誠実さを伝えて来る。白石は圧され舞い上がりそうになる自分を必死で落ち着け、なおも言葉を続けようとする種ヶ島を遮るように言った。

「待って。待ってください。……種ヶ島さん、彼女おるんやないんですか」

「彼女ぉ?」

「……あ、噂で聞いただけですけど……、でも、指輪してはるし」

「ああ、これ……なんちゅうか、女避けみたいなもんや。彼女おらへんで。お前が外せ言うなら外しとってもええし」

 ほれ、と種ヶ島は指輪を外して見せた。白石は呆気に取られてそれを見た。それからなんだか恥ずかしくなってきて、「つけたままでいいです!」と首を振った。見目麗しい種ヶ島ならば、時に生活に支障が生じるほどに女性が寄って来ることは想像に難くない。自らも同様の体験をトラウマになるほど積み重ねているところの白石は、時として彼女らを「避ける」必要性があることに心底共感できてしまったのだった。

 種ヶ島は「さよか?助かるわ」と笑って指輪を元に戻すと、「ただな、」と話の続きを切り出した。

「俺、来年から東京なんよ」

「え?」

「大学院に進んで勉強したいことがあんねんけど、それを一番専門的にやれるんが東京にある大学やねん。入試はあるけど、絶対受かるつもりや。せやから、俺がここにおるのは、短ければあと半年ちょい。そこからは遠距離になる。あと、入試のために卒論もそこそこのもん書かなあかんから、会う時間もそんなに作られへんと思う。お前のこと、もちろんできる限り大事にするつもりやけど、付き合うても寂しくさせるかもしれへんし……、割に合わん思いさせるだけかもしれへん」

 だから、それでも一緒にいたいか考えてほしい、と種ヶ島は話を結んだ。白石は戸惑った。そう遠くない未来に離ればなれになることより先に、話を聴いただけでもとても忙しく、彼の人生にとって間違いなく重要であろうここからの半年間に、自分が割り込んでよいのかが強く気にかかった。種ヶ島にとっては、やることが増えて負担になるだけではないのか。

「……そんな大事なときやのに、種ヶ島さんは俺といたいって、いてもええって、思ってくれるんですか」

 白石は戸惑いを隠さず尋ねた。種ヶ島は大きな目をぱちくりと瞬かせると、「優しいな、お前は」と笑ってから、その上に切なさを滲ませて言った。

「うん、ちょっとでもお前とおりたい」

 白石はますます分からなくなった。自分とこの人との間に、そんなに想われるほどの何かがあっただろうか。

「……なんで、いつからそんな風に思ってくれてたんですか」

 疑うような自分の声を聴いて、白石は少しだけ我に返り、呆れた。あれほど種ヶ島に特別扱いしてほしがっていたくせに、今度は特別扱いの理由まで求めているなんて、本当に欲が深くて面倒だ。

 自己嫌悪する白石をよそに、種ヶ島は気にした素振りもなく正面へと視線を戻すと、ぽつりと呟いた。

「……いつから、か」

 さわさわと葉を鳴らし、今年初めての湿った夏の風が公園を通り抜けていく。ブランコがキィ、と軋んだ音を立てた。水たまりがさざめき、映り込んだ青空が揺れる。風に吹かれる種ヶ島の髪を、木漏れ日がちらちらと光らせている。種ヶ島は空を仰ぎ、遠くを見るように、あるいは眩しそうに、少しだけ目を眇めた。口の端に、仄かな微笑みがのぼる。雨上がりの空は真っ青で、雲ひとつなく晴れ渡っている。

「気付いたのは後になってからやけど……、多分、初めてお前を見たときからやったんやろなあ。お前が、あんまり綺麗で」

 穏やかに語りながら、種ヶ島は愛おしそうに目を細めた。白石は唖然としてその言葉と表情を受け止めた。そんなことがあるのだろうか。初めて出会ったあの春の日、この人も、自分と同じような体験をしていたなんてことが。本当に不思議なことだけれど、全く説明がつかないけれど、だからこそあり得るのかもしれない、と白石は漠然と感じた。

「……俺も、俺もそうです」

「そうなん?」

「一目惚れなんてあり得えへんと思ってたのに、春に会うたときから、なんや気になって」

「……さよか。不思議なもんや。ほんま、なんでなんやろな……」

 やわらかく瞳を緩めて白石を見つめる種ヶ島の微笑みは、いっそ苦しそうなほどに切なげだ。その熱い視線に包まれて、白石はもう、好意の理由なんてどうでもよくなった。種ヶ島も白石と同じように説明のつかない恋に落ちたというのなら、白石はむしろ誰よりもそれに共感することができる。紫の瞳がまっすぐこちらを見ているだけで十分だった。白石はようやく、戸惑いに押しやられていた痛いほどの歓喜を胸に迎え入れた。体が芯から震え、胸が熱く脈打ち、手をぎゅっと握らずにはいられなくなる。白石は熱を逃がすようにひとつ呼吸をしてから口を開いた。

「種ヶ島さんと一緒におりたいです。あんまり会われへんでも構へん。遠くへ行ってしまうんは……その時自分がどう感じるか分からへんけど……、でも、一緒におりたい。俺、種ヶ島さんの特別になりたくてずっとぐるぐるしてたんですわ。特別になれるなら、なりたい」

 その答えを聞き届けた種ヶ島は、ぐらりと瞳を揺らして顔を歪め、唇を震わせると、ぼろりと涙を零した。

 予想していなかった激しい反応に白石が驚いているうちに、種ヶ島はがばりと白石を抱きしめた。逞しい肩が抑えきれず震えている。ぎゅうう、とさらに強く抱きながら、種ヶ島は「ありがとうな」と細く言った。

 白石は種ヶ島の放った強い感情に一瞬圧倒されたが、すぐにその背を抱き返した。顔を埋めた胸から、恋い焦がれたあの香りがする。いや、あの香りとは少し違う。種ヶ島の肌や汗の香りが強く混ざった、深い安心をくれる香りだ。顔を肩の上に出して抱擁をより深くすると、種ヶ島の香りが少し薄れる代わりに、湿った真昼の空気が鼻腔を通った。

 雨上がりのアスファルトから立ち昇る香りを、なんというのだろう。誰もが知っているのに、名前のない香り。いつも待望の陽の光とともに広がり、これからすばらしいものがやって来るという報せを運ぶ湿った空気が、小さな公園に満ちている。

 腕の中の種ヶ島は、少し落ち着き、浸るように白石の髪に頬をすり寄せている。意外と涙もろくて、甘えんぼうな人なのかもしれない、と白石はこっそり笑った。見上げた空は、やはり雲一つなく晴れている。未知の冒険へと踏み出した白石は、ときめきとほんの少しの不安が弾ける胸に、雨上がりの香りをいっぱいに吸い込んだ。

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