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仕立てのいいチャコールグレーのコートが、腕の中でぎゅうと音を立てた。
何が起きたのか分からない。頭の中がひっくり返ったようにぐちゃぐちゃだ。また夢を見ているのだろうか?思い出と夢と現実の境目を掴み兼ねて、種ヶ島はぐるりと眩暈を覚えた。震えてどうしようもない腕の中には、確かな手応えと温度がある。もう過去にも夢にも変わってほしくなくて、種ヶ島はしがみつくようにそれを抱き直した。
辺り一面を染めた眩いきんいろの中、懐かしいぬくもりに引き寄せられるように目の前のマフラーに顔を埋めれば、もう思い出せなくなっていた肌の香りが鼻腔を満たし、あの頃の記憶と切なさが堰を切ったように水量を上げ、どっと胸に流れ込む。ふうふうと忙しなく息をする体は外から来たはずなのに熱く、彼がどこからか走ってここへやって来たことを伝えていた。
「──ノスケ」
あれきり呼ぶことのなかった名が、唇から滑り落ちる。
「修二さん」
変わらない美しい声が、切れた息の狭間で呼んだ。鼓膜が震えれば、考える間もなく胸は叫びを上げて涙がこみ上げ、俺はずっとこの声が聴きたかったのだ、と種ヶ島は遅れて気が付いた。
そっと腕を緩めると、夢にまで見た彼がそこにいた。あの頃より少し伸びた美しい髪が夕日に溶けて煌めいている。あの頃にはなかった濡れたような色香は、彼が立派な大人になったことを知らせていたけれど、まぎれもなく、白石その人だった。
相変わらず長い睫毛に縁どられた瞳がふっと上がり、ついに種ヶ島の目を捉える。春の陽射しのようにあたたかく、穏やかな瞳にそっと包まれれば、遠い昔に彼だけが与えてくれた手放しの安息がいとも簡単に蘇り、体じゅうが癒されるように満ちていく。あの頃と同じよう、まっすぐなまなざしが驚くほど容易く心の奥を撫ぜたと感じた瞬間、白石の瞳は目の前で緩やかにつぶれて弧を描き、溶けた宝石のような涙があふれて落ちた。
「……なんで」
どうしてここにいる?もう交わることのない新しい世界で、立派に、幸せに、暮らしていたはず。混線したままの頭でなんとか紡いだ言葉は、震える息にほとんど飲み込まれてしまっていた。すると、白石は急に我に返ったようになって、早口に答え始めた。
「すんません。タクシーつかまらへんくて、あ、成田には昨日着いとったんですけど、昼過ぎまで新幹線止まってて、それで、俺、おれ、もう、間に合わへんかと、」
「いや、待って。そうやのうて」
なんとか遮ると、感極まりかけながら夢中で説明していた彼ははたと口を噤み、不思議そうに目を瞬かせた。それは、昔何度も見た仕草だった。ああ、そう、そういうところがかわいくて、おもしろかったのだ、と口端に笑みが上り、乱れていた思考回路がようやく少し落ち着き始める。やがてようやく合点がいったらしく、白石は「だって」と眉を下げて笑った。
「約束、言うてもうたから。あの時はこんな予定やなかったですけど、でも、なんや否定のしようもないし、なら行かな約束破ることになってまうなぁと思って。おかしいでしょ。俺もおかしいと思ったんですけど、考えてみたら、もうどうやっても他の結論にならへんかったから。……俺、まだ誰より、……誰より……」
声を震わせ、睫毛を揺らしてぼろりと大粒の涙を零した白石を、種ヶ島はたまらなくなってもう一度抱きしめた。
二か月前の朝、十回目の初雪が種ヶ島に知らせてくれた、深く沈んだ本当の望み。彼も、同じものを携えてここへ来たのだろうか。十年という長い年月の隔たりの後で、そんなこと、あり得ない。あり得ないはずだったのに。
「修二さんも、ですか」
涙声で細くそう尋ね、祈るようにしがみついた白石の腕に、種ヶ島はもう言葉を継げず、ただいっそう抱擁を強くして答えた。
肩口で小さく震え始めたきらきら瞬く白石の髪の向こうには、まばゆい金色の光が溢れている。二人その光に包まれながら、種ヶ島は急に、何もない広々とした草原へ放り出されたような気がした。それはどこかで願いこそすれ、想定なんてしようもなかったことで、種ヶ島は急に広がった新たな世界にただ目を見開き、呆然と瞬いた。
きらきら、きらきら、舞い込む雪が輝いている。涙と笑いが一緒にこみ上げて、種ヶ島は堪えきれずに肩を揺らした。一体どうしよう。この先のことなんて少しも考えて来なかった。だって、この先があるなんて思わないじゃないか!
「は、あははっ、ちょお、なあこれ、どないしようか。ノスケ」
「ふふ、ほんま、どないしましょ。あはは」
二人笑いだしてしまえば、止まらなくなった。まったく途方に暮れているのだというのに、おかしくて、楽しくて仕方がない。彼といると、いつだってそうだった、と種ヶ島は笑いを収められないまま思い出した。何をしたって、しなくたって、おもしろくて満ち足りる。彼は、彼だけが、そういう人だった。十年も経ったはずなのに、こんなにも変わらない。
「これから、どこ行こうなぁ」
困り果てて口を開けば、毎日のようにここで待ち合わせた、あの切ないくらいに幸せだった日々に戻ったかのよう、自然とそんな言葉が声になった。存在しないはずだったこの先の未来を急に手渡され、二人は置き場所も分からずに、ただそれを抱えて立っている。再び手にしてしまったからには今度こそ手放すことなどできないだろうこれを持って、二人、どこへ向かえばいいのだろう?
笑いと涙で不格好に波打った種ヶ島の言葉を聴いた白石は、種ヶ島と同じ顔でおかしそうに笑い、涙を拭うと、もう一度まっすぐにこちらを見て答えた。
「修二さんがおってくれたら、どこでもええですわ」
滲んで揺れる視界の中で、彼は朗らかに言い切った。彼らしいおおらかな潔さに、「そうやな」と目を細めれば、同じように目尻を緩め、頷いてくれる。
彼の選手生活に都合のいい場所が、国内にどこかあるだろうか。ないなら、彼がテニスをやり遂げ帰って来る日を待っていたっていい。距離と時間に意味がないことは、図らずも実証されてしまったのだし。待ちきれないならいっそのこと、一緒にアメリカへ渡ってしまおうか。嫌でたまらない飛行機だって、今なら飛び乗れそうな気がしてくる。そんな考えが次々に降って来て、広がる世界はさらに明るさを増し、輝き出す。
あの朝やっとの思いで離した手と手は、いつの間にかしっかりと繋ぎ直されていた。目の前には、二人の時にだけ見せてくれたあの笑顔が、やはり子供っぽさを帯びて咲いている。種ヶ島は思った。きっと、十年後の今日も、この景色を鮮やかに思い描く── 今度は、彼と一緒に。
あたたかな夕日に煌めく雪、涙を湛えて微笑む瞳。
何度も待ち合わせた小さな美術館で、誰より一緒に生きたいと思うたった一人のひとに、もう一度出会えた日。