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やれやれ、ひどい目に遭った。横殴りに煽られ続けている軽自動車に慎重にブレーキをかけ、老画家は出来る限りゆっくりとハンドルを切った。なんとか事故を起こすことなく敷地内に到着し、雪の積もったロータリーを回りながらやっと一息つく。ヒーターがなければ一面結露して真っ白になっているであろうフロントガラスの向こうは、ひどい吹雪であった。
開館時間まではあと十分ほどだ。どうにか間に合ったが、そのことにどれほどの意味があるのか、老画家にはよく分からなかった。街はずれの小さな美術館に、まして、その隅の小さなギャラリーで細々と開かれている個展になど、今日の天気では人っこ一人来ないだろうに、「個展の主催者には開館時間までに来てもらう必要がある」というのが、事務的でのらりくらりとした声の美術館職員の回答であった。
敷地内には車の影もなかったが、平時の癖で左右を確認しながら駐車場へとハンドルを回そうとすると、視界の端に人のようなものを見た気がした。視線を戻すと、入り口の前に一人、誰かが佇んでいるように見える。見間違いだろうか。今は特別展もやっていないはずだし、こんな空模様の朝に、わざわざ開館前から入場を待っているとしたら、よほどの物好きだ。老画家は吹雪の向こうへ片眉を上げると、今度こそウィンカーを出し、ハンドルを回した。
美術館には、思ったとおり人が来る気配もない。少々寂しく飾られた数点ばかりの八号キャンバスの絵を見回し、貸りものの会議机と椅子でできた簡素な受付台に肘をついて、老画家はひとつ大きなあくびをして目を擦った。悪路を想定して一時間早起きをしただけでこれだ。若い時分はこんなではなかったし、もっと大きいキャンバスにいくつも絵を描くことだってできた。できていた、と思う。それが事実であったのか、ままならなくなっていく自分への悔しさが育てた見栄に過ぎないのか、その区別さえも些か自信がない。老いるとはつくづく、情けないことだ。
老いたのは体だけではない、と、老画家は冷めた思いで壁に掛けた絵を見渡した。どれも最近描き上げたばかりの絵だというのに、どこか色あせたようで、いつか描いた絵をなぞったようなものばかりだ。昔はあらゆる被写体に心が弾み、いきいきと震えたのに、いつからかこの胸はすっかりときめかなくなってしまった。近ごろ感じるのは、そんなことばかりであった。
昼まで二時間ほどそこに座り、老画家は凝り固まった体を丁寧に伸ばしながら立ち上がった。ロビーへ出ると、外はまだ早朝のような暗さで吹雪いていた。普段は受付が一人座っているチケット販売所は無人になっている。来館者が見込めないので、職員は暖かい事務室に留まることに決めたのだろう。
ふとロビーの端へ目をやる。老画家は、そこで初めて、この空間にもうひとり人間がいたことに気が付いた。
入口から一番離れたロビーの奥、二組ばかり備え付けられたソファセットに誰かが腰掛けている。寛いで見える姿は、職員とは思えない。
開館前に入り口の前で見かけた人物に違いない、と老画家は見当をつけた。今日は朝から電車もバスも運休していたはずだから、あの人物はわざわざ徒歩か自家用車でここへ来たことになる。一体どんな人で、何を見に来たのだろう。もしかしたら美術が好きな変わり者同士、暇つぶし程度には話が合うかもしれない。珍しくそんなことを考えて、老画家はロビーの奥へと足を向けた。
その人は足音を聴くや否や、耳聡く、はっとこちらを振り返った。老画家は思わず立ち止まった。驚いたのだった。急に振り返られたことにではない。老画家の足を止めたのは、振り向いた世にも精悍な顔に輝いた、痛々しいばかりの歓喜の色だった。目が合うと、その鮮烈な色はみるみるうちに失われてゆき、彼は微かに肩を落としたように見えた。落胆にも思えるその仕草には気付かないふりをして、老画家は問いかけた。
「やあ、こんな日に絵を見に来たのかい」
問いながら、ソファの背もたれ越しに振り向いた姿を改める。
座っていたのは青年だ。どこか日本人離れした小麦色の高い鼻梁に、白と言うべきか灰と言うべきか、きんと冷えた銀世界を思わせる色の髪が耳元まで降りて波打っている。髪の陰に一対のピアスを提げた彼は、その軽薄にも見える身なりに反して、思わず目を奪われるような、深く静かな瞳を持った青年だった。
絶妙なバランスで彼の中に収められた、最も共存しにくいであろう対照的な色彩のコントラストは、なまくらになったはずの老画家の美意識と直感を僅かに揺り動かした。近年出会ったことのない、他とは何かが決定的に違う、そういう人物だという予感が浮かぶ。
青年はその不思議な瞳を一度瞬かせると、実に愛想よく口角を上げて答えた。
「まあ、そんなとこですわ。ここ、長いことおったらあきませんでした?一応入館料は払ったんですけど」
軽快な関西訛りが飛び出る。京弁だろうか。淑やかさのようなものが通底する独特の抑揚が、余所者には真似できない類の品を与えている。礼儀正しくも悠然とした態度の中に微かな警戒を感じつつ、老画家はなるべく平凡に返した。
「別に、構わないんじゃないかい。今日はお客もいないだろうしね」
「ん?ああ、なんや、美術館の人や思いましたわ」
「私は絵を置いてもらっている方だよ。とは言っても、そこのギャラリーを借りて個展をやってるだけだがね。こんな日でなくとも、あまり人は来ない」
「あらら、寂しい話やなぁ」
肩を竦めて見せれば、ひとまず気楽に話せる相手と踏んでくれたらしい。青年の横へ回ると、男らしい印象を与える顔の中で存外丸っこい目が面白そうにこちらを見上げた。よくできた石膏像のように均整の取れた長身が目を引く。
「俺が見に行ったろか、と言いたいとこなんやけどなぁ。今日はあかんねん。堪忍」
「気を遣わなくてもいいよ。失礼かもしれないけど、きみは絵に興味がある風には見えないしね」
「あっはっは!こら参った。玄人相手に適当なこと言うもんやないな」
青年は、今度は人懐っこい笑みを浮かべて笑った。成熟した端正なかんばせが急に子どもっぽくなるその一瞬が、妙に瞼に残る。生来豊かなのだろう彼の表情が、その奥にある深い森に守られた夕暮れの湖面のような気配をかえって際立たせたのだった。いよいよ青年に興味を引かれ、老画家は尋ねた。
「絵に興味がないなら、何しにここへ?朝からいなかったかい」
「何しに、なぁ」
青年は、少し考えるような仕草を見せ、外へ目をやった。閉まったままの自動ドアの向こうは、まだ吹雪いている。どこかぼんやりとそれを見つめる青年の目が、微かに眇められる。
「さあ。何しに来たんやろ」
色のないまなざしに目を瞠ったのもつかの間、その表情を急に引っ込めた青年がやけに明るく答え、にっこりと首を捻って見せた。不意を突かれた老画家は思わず目を丸くし、声を上げて笑った。煙に巻くにしても潔いほど露骨なやり方だ。それが嫌味にならないあたり、彼は人あしらいがとても上手いらしい。
「昼食は取った方がいいよ。売店はやってるみたいだ。食堂はこの雪で休みだそうだけどね」
ギャラリーへ足を向けながら一応そう伝えると、青年は「おおきに」とに軽妙に応じて会釈をした。
「答えたくない」との言外の回答を正しく受け取りつつも、老画家は察した。あのソファから全く動く様子のない彼は、きっと何かを待っているのだ。これからここに訪れる、何かを。