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「何赤くなってるん」
「なってません」
「それ完全に無理あるくらい赤くなってんで。お前やって大概ええ体やのに」
「て、てにす、やってるんで」
片言のように答え、けらけらと笑う種ヶ島の方を白石は恐る恐るもう一度見た。鍛え上げられた美しい上半身が夏の日差しに晒され、小麦色の逞しい肩が光を反射している。さっきから目が眩んでいるのは、太陽のせいか、太陽を反射した砂のせいか、この人のせいか、もう分からない。
海辺の植物と海藻がモチーフの模様が黒で施された深い赤地の水着は、種ヶ島の肌と髪の色によく映えていた。その上に続く深い影を刻んで割れた腹筋と引き締まった腰が、妙に艶めかしく見える。
うう、もう限界。ぷしゅうと頭から煙でも出たような気がして、白石は再び目を逸らした。長くテニスをしてきて、鍛えられた男の体を見ることなど日常であったはずなのに、どうしてこの人の体を見るとこうもたまらなくなるのだ。確かに今まで目にしたスポーツマンの体の中では図抜けて美しいけれども、男性の体を見て下半身が疼いたことなど、白石の人生には一度たりともなかった。けれども、迂闊に見ていたら勃起してしまいそうなほどに、種ヶ島の体躯は白石の本能に訴えて来る。自分は本当に身も心も種ヶ島に恋してしまったらしい、と白石は改めて驚き、認めるほかなかった。
一人ぐるぐると考える白石の横で、種ヶ島のまるっこい瞳がうきうきと眺めている先は、海だ。二人が交際を始めることを決めたあの日、種ヶ島はさっきまで泣いていたのが嘘のようにぱぁっと笑って尋ねたのだ。
『なあ!デート行こ!どこがええ?』
『え?え?ええと……?海、とか?』
『おお、海ええなあ!ほな次二人で丸一日使える日に行こか!』
デートの経験などない白石は、一般的によく聞く夏のデートスポットを咄嗟に口にしただけだったのだが、即座に実行を決めてしまった種ヶ島の瞬発力に圧倒されて頷いていた。
過去にビーチでひどい目に遭ったトラウマから、逆ナンされるのが苦手なのであまり人のいないところがいいと慌てて付け加えると、種ヶ島は『遠いけど、最近ええとこ見つけてん。任せとき!ドライブも楽しいしな』とウィンクして見せ、その勢いのまま白石をここへ連れて来た。
白石の自宅からたっぷり二時間ほど車を走らせた隣県の小さな海岸は、確かに人がまばらで親子連れが多く、浮ついた雰囲気もない。それなのに、とても綺麗な海だ。空は真っ青で、負けないくらい青い海は、空より少しだけ深く、緑色を垂らしたような色をしている。砂浜は明るいベージュ色に波打っている。海面は湖のように凪いで、太陽を白く弾いてきらきら光り、ひたひたと穏やかに打ち寄せる海水はとても透明に見える。激しい波音はなく、ちゃぷちゃぷという音がいくつも重なったような短い音が、等間隔に、微かに聞こえている。
白石は、ほう、と思わずため息をもらした。静かだ。海でこれほど穏やかな気持ちになったことはないかもしれない。都市部から少々離れたとはいえ、ここはまだ関西地方だ。こんな海があるなんて知らなかった。
「気に入ったん?」
見惚れる視界に、楽しそうな種ヶ島の顔が割り込んだ。再びぼっと火が付きそうになるのをどうにか堪えながら、白石は頷いた。
「はい!めっちゃ綺麗やし、ここなら逆ナンされなさそうです……!」
「さよかぁ、そこはほんまに重要なんやなぁ」
力いっぱい返した白石に、種ヶ島はまたおかしそうに笑った。
「さ、泳ご!」
「わ!」
種ヶ島はぱっと白石の手を取ると、裸足で海の方へ駆けだした。強引なのかと思った手は、白石の腕を引いてはいるが、白石が砂浜に足をとられたりしないように加減がされている。白石はくすぐったい気持ちになって、声をあげて笑いながら走った。
冷たい、冷たいと騒ぎながらばしゃばしゃと海水の中を進み、胴まで浸かるあたりで体を海水に浸し、体が水温に馴染むのを待つ。水面に顔を近づけてみると、水は薄いエメラルドグリーンのように見え、思ったとおり、とても透明だった。
隣で一度頭まで海水に潜った種ヶ島が、ざばりと顔を出した。
「あー!やっぱ海気持ちええ!」
叫ぶように言って、水の滴る髪をかき上げた種ヶ島の快活な横顔に、白石はどぎまぎしながらしばし見惚れた。なんて海が似合う人だろう。
「な、一回り泳いで来てもええ?」
「はい、もう少しここにいますんで」
「おーきに!ほな☆」
わくわくと目を輝かせ、ざぶざぶと水を掻き分けて数歩進み、首にかかったゴーグルを着けると、種ヶ島はするりと海の中へ入っていった。美しいクロールで水を掻く長い腕が、みるみる遠ざかっていく。波がほとんどないとはいえ、ここはプールではなく海なのに、こんなに自在に泳いでいく人がいるのか。白石は、小さな海岸を一周するように泳ぐ種ヶ島をどきどきしながら見ていた。誰のものにもならない海が、種ヶ島のことは受け入れているように見える。彼が、海の一部のように見える。
こちらへ戻って来る影を見ながら、白石は、あのまんべんなく筋肉が発達した見事な体躯の理由に得心がいった。
「ただいまー!あー久しぶりに泳いだわ」
「種ヶ島さん、水泳選手やったんですか?」
「んん?そう見える?」
「はい。スポーツやっとった人の体やし」
「うん、水泳好きでな、ずっとやっとってん。大した選手やなかったけどな」
「今でも泳いではるんですか」
「家の近くにプールつきのジムがあって、そこで時々な。最近卒論でめっきり行かれへんようになってもうたけど」
種ヶ島のを好きなものを知って、白石はなんだか嬉しくなった。自分にとってのテニスと似ていたからかもしれない。
「俺も泳ごかな」
「ん!一緒に行こ。海の中めーっちゃ綺麗やったで」
「俺遅いですけど、」
「速く泳ぐ必要なんかあらへん。置いて行かへんし」
ほら、と伸ばされた手を取ると、そっと海の中へ体を引かれる。促されるままゴーグルを着けて泳ぎ出し、耳元でちゃぷ、と鳴ったのを最後に音がなくなると、目の前には別世界が広がっていた。
透明度の高い海水の中、浅い海底にはもう一つ海があるかのように海面の光が反射し波打っていた。水の中で遠くに視線を投げれば、奥へ行くほどエメラルドグリーンが濃くなっていて、薄い帳を下ろしたように向こう側を隠している。ぷは、と一度顔を上げると、同じように水面に顔を出した種ヶ島が笑っていた。
「すごい!」
「やろ!」
笑い合ってもう一度潜る。胸が弾みっぱなしで、息があまり続かなくて困ってしまうくらいだ。
少し泳ぎ進むと、海底でさっと何かが動いた。魚だ。海に潜って魚を目撃することなど初めてだった白石は、思わず目を見開いてその姿を追う。一拍遅れて気付いた種ヶ島も魚を指さした。「ん‼」とくぐもった楽しそうな声が海を伝って来る。
種ヶ島は一瞬水上に顔を出して息継ぎをすると、ゆらゆら泳ぐ銀色の魚の方に向かってひらりと潜水した。人魚のように鮮やかな動きに目を奪われる。種ヶ島が距離を取りながらゆっくりと近づき手を伸ばすと、魚は一瞬その手に懐くような仕草を見せた後、素早く方向を変え、種ヶ島の背を滑るように泳ぎ去って行った。神秘的にさえ映る美しい光景に、白石は一瞬ここが水中であることも忘れて見入る。
「あはは!ちょっと触った!」
水上で、魚に伸ばしていた左手を広げて見せながら、種ヶ島は子供のように眩しく笑った。見ているとこちらまで楽しくなって、幸せで、白石は同じ顔で笑い声を上げた。
小さな海の家で遅れた昼食を取り、もう一度海で遊んで浜に上がると、もう日は傾きかけていた。さすがに二人とも少し遊び疲れ、ぼんやり砂の上に寝転びながら、白石はふと思い出して尋ねた。
「種ヶ島さん、大学院で何の勉強するんですか」
「コーチング理論てやつやな。俺コーチになりたいねん」
「コーチング……」
「そう。気合いと根性としんどい練習ばっかりの時代もあったようやけど、最近は心理学的なことも含め、効率のいい、怪我しにくい指導方法の研究が進んどるからな。勉強して、ええコーチになりたい」
白石は、顔を傾けて種ヶ島の方を見た。乾きかけた銀髪が風に吹かれ、まっすぐな目が空を見ている。心理学の講義をいつも熱心な様子で聴いていた横顔が重なり、白石は納得して微笑んだ。
すると、種ヶ島がくるりとこちらへ顔を向けた。
「白石は、薬剤師目指してるん?薬学部って言うてたもんな」
「はい、そうなんですけど、俺もちょっと目指してるもんがあって……」
「おお、何?」
種ヶ島は目を輝かせ、体ごとこちらを向いて寝転んだ。
白石は、少し緊張して空を見た。誰かに話すのは初めてだ。中学から高校まで、青春の全てを懸けてテニスをしてきた。最後の大会が終わり、高校限りで選手としては一区切りをつけると決めた頃から、考え始めた夢。
「スポーツファーマシストになりたいんです」
「何それ?」
「ドーピング防止に関する知識があって、アスリートが使う薬とかサプリメントの指導ができる薬剤師のことです。俺はそれだけやのうて、栄養学も勉強して、アスリートが体に入れるもののこと全部助けられるようになりたいんですけど」
視界一面に広がる空と雲に向かってそこまで話し、もう一度顔を横に向けてみた。白石は、思わず面食らった。種ヶ島が零れ落ちんばかりに目を見開き、ぱちぱちと瞬きしながら白石を見ていたからだ。
「……そんな夢あったんや」
まるで見惚れているかのように熱い眼差しを揺らし、種ヶ島が静かに言った。吸い込まれるようにその目を見ながら、白石の口は不思議なほどにするすると、誰にも明かしたことのない胸の内を話し続けた。
「俺、ずっとテニスやっとって」
「うん」
「テニス、好きで。公式戦に出るのは高校で終わることにしたんですけど、ほんまに好きで。中学からずっと、俺の全部みたいなもんやったから、あそこに、自分のひとかけらだけでも残しておきたくて」
「うん」
柔らかい相槌を打ちながら、種ヶ島が優しく目を細めた。
日が傾き、空が色を変えつつある砂浜は、もうほとんど人の声がしない。静かな風が耳を撫でる音がする。相変わらず控えめな波音が時を刻んでいる。
「分かるわ。俺がコーチになりたいのもそういうことやと思う。子供っぽい話なんかもしれへんけど、もっと大人になって振り返ったらアホやったと思うんかもしれへんけど、選手辞めたとしても離れたないんよな。もう一度あの世界に、って思ってまう。どうしても」
種ヶ島はゆっくりと、まるで白石の心の中を言い当てているように言葉を紡いだ。白石は、二人の芯のようなものが共鳴する、味わったことのない感覚に襲われた。
「……さよかぁ。なんや嬉しいな。お前が俺と同じこと考えてんの」
同じ共鳴を感じてくれたのだろうか。種ヶ島はにっこりと笑ってしばし白石を見つめた。白石はぎゅうっと胸が切なくなって、思わず視線を逸らした。くす、と微かな笑い声がして、種ヶ島は体を起こして満足そうに溜息をついた。
追いかけるように起き上がると、いつの間にか海岸は姿を変えていた。青かった海と空が彩度を落とす代わりに、傾いた太陽が、まだ白に近い金色の光で一面を淡く染めている。砂浜も、水平線も、遠くに見えていた防波堤の影も、真昼よりも輪郭を曖昧にして、光に溶けようとしていた。天国って、こんな景色やろか。白石はそんなことを思いながら、恍惚と目の前の風景を眺めた。
ふと、白石は種ヶ島の方を振り返った。種ヶ島はじっと白石を見ていた。風に穏やかに揺れている白い巻き毛の先が、光に透けて金色を帯びている。低くなった太陽が、彫りの深い端正な目鼻を際立たせる影を落とす。真顔で見つめる種ヶ島の顔の中で、紫色の瞳だけが熱く、どこまでも深くて、白石は捕まったかのように目を離せなくなった。
「……キスしてもええ?」
その表情のまま、種ヶ島がそっと尋ねた。
「こんな、ところで?」
「誰も見てへんて」
そんな無意味な会話が風に流されていく。白石はもう思考などしていなかったし、種ヶ島はちらりとも視線を逸らさなかった。周囲の音さえも消え、種ヶ島の存在以外何も分からないような感覚に陥りながら、白石はゆっくりと近づいてきた唇を受け入れた。
優しく押し当てられる感覚に胸の奥が痺れる。ほんの少し顎を上げ、こちらからもそっと押し付けてみる。胸の痺れは止まずに増し、切なさに変わっていく。ふ、と微かに微笑む気配の後、種ヶ島の唇がちゅ、と小さく白石の下唇を食んだ。白石は思わずびくりと肩を揺らし、唇は離れてしまった。
「ふは、ごめんごめん」
「あ、いや……すんません、俺初めてで」
「初めて?」
「はい」
「さよか」
目を細め、種ヶ島が頷いた。今更のように顔が熱くなる。小麦色の綺麗な手が差し出され、真っ赤になっているであろう頬を優しく撫でた。種ヶ島は愛おしさが極まったように切なく笑みを深めると、
「嬉しいで。これから覚えていけばええよ」
と言い、もうひとつ優しいキスを落とした。
それからしばらくの間、ただ波の音を聴き、空と海を見た。右手はいつの間にか、あたたかい砂の上で種ヶ島の左手に触れていた。風が耳元を通り過ぎる音の中、すべてが通じ合うような沈黙が広がっていく。海は相変わらずあたたかく凪いで、砂浜にひたひたと寄せていた。