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種ヶ島の家は、とある小さな地下鉄駅の近くにある。とは言っても、街からは少し離れ、高いビルはほとんどなくなった界隈で、駅のある大通りから裏道を少し歩いたところにあるアパート周辺は十分に静かだ。白石は、手に食い込み始めたスーパーの袋を右手に持ち替えながら、ファミリーマートが目印の角を曲がった。種ヶ島の家へ向かう最後の角だ。大通りを走る車の音が急に遠ざかり、開店前の小さな居酒屋の提灯を横目に通り過ぎると、種ヶ島の住むアパートが見えて来る。この道を歩くのにも慣れたものだな、と白石はほのかな面映ゆさを覚えた。
種ヶ島と付き合い始めて、二か月以上が経っていた。大学生の長い長い夏休みが終わり、大学の第二セメスターが始まって少し経つが、道沿いの民家の庭から歩道に枝をこぼしている楓はまだ青く、夏と同じように茂っている――否、違った。目の前まで近づいてきた楓の先は、ほのかに赤や黄色に染まり始めている。気温はまだ暑いが、大気からはいつの間にか、あのむっとするような湿り気が消えた。目にはまだ見えないだけで、秋はもうこの街に来ているのかもしれない。
ピンポン。
入りますよ、の意味合いしか持たない呼び鈴を一音鳴らし、白石はドアに鍵を差し込んだ。キーケースに自宅の鍵と一緒に繋がれているのは、初めてここへ招かれたときに渡されたこの家の合鍵だ。まだ付き合いも短いのにいいのかと心配した白石を、「お前はええねん」と笑い飛ばした種ヶ島の屈託のない顔を思い出す。
「来ましたよ」
玄関から中へ声を飛ばすと、向こうでもぞもぞと気配が動き、廊下の向こうのドアが開いた。
「ちゃい☆あー会いたかったわぁ」
顔を出した種ヶ島は、白石の姿を認めると子供っぽく笑い、白石にキスをして甘えるように抱きついた。「来てもろて悪いな。買い物も」と言いながら髪に頬を寄せる種ヶ島は、今日も少々くたびれているようだ。
「おつかれさまです」
白石は二人分の今日の食事が入ったスーパーの袋を床に下ろすと、白いふわふわ髪を労わりを込めて撫でた。
夏の間、時間を作ってはショッピングモールへ、カフェへ、テーマパークへと白石を連れ出してくれた種ヶ島は、卒業論文の制作が佳境に入り、夏休みの終盤から大学か自宅に籠りきりだ。
それは、盛夏が過ぎようとする頃、白石と過ごす時間を作るために種ヶ島が無理をし始めているのに気づいた白石か、今後は種ヶ島の自宅で一緒に過ごそうと申し出たためでもあった。卒論の制作を進める種ヶ島の横で、自分も勉強や読書をするから、と。
『いや、俺ずっと作業してるし退屈させてまうやろ』
『だめなら卒論終わるまで会いませんよ』
『……』
『大丈夫。別に特別なとこ行かへんでも、一緒におれたら嬉しいと思うんで』
『それは……俺かてそうやけど』
そうして始まった時間は、もう何度目かになる。二人まとまった時間が取れる日を探し、白石が課題を持って種ヶ島の家を訪れ、翌日も時間があれば一晩泊まって帰るのがお決まりとなりつつあった。
ワンルームではあるが、大学生の一人暮らしにしてはやや広い、縦長の種ヶ島の部屋には、テレビの前に置かれたローテーブルと二人掛けのソファの他に、小さなダイニングテーブルセットが置かれている。今日は種ヶ島がソファとローテーブルに資料を広げていたので、白石はダイニングテーブルに荷物を置いて課題に取り掛かった。
種ヶ島は何やら行き詰まっているらしく、ソファの上で難しそうな本とにらめっこしている。その姿でさえ、雑誌の一ページのように様になるのだから不思議だ。家の中でだけ掛けている黒縁の眼鏡の向こうで、眉間に皺が寄っているのが見える。やがて何か書きつけ始めた種ヶ島を横目に見ながら、白石はこっそり微笑んだ。
勉強したいことがある、そのために大学院に絶対受かる。夏が始まったあの日、そう言って強く輝いた瞳を思い出す。コーチになりたい、とまっすぐに空を見ていた横顔も記憶に新しい。同じ輝きの宿る一生懸命な横顔は、白石を惹きつけ、少しだけ切なくさせた。
報われてほしい。それが、彼が遠くへ行ってしまうことを意味していたとしても。
◆
視界の端で白銀色の髪がかくんと揺れた。見ると、すぐそこのローテーブルで、両手をキーボードに乗せたままの種ヶ島がゆらゆらと船を漕いでいる。白石は、思わず綻びそうになる口許を手で押さえた。かわいらしい無防備な仕草をしばし見ていると、種ヶ島は危うくキーボードに頭をめり込ませそうなところではっと頭を上げた。思わずふふ、と鼻から笑い声が漏れ、半分閉じた目で種ヶ島がこちらを見て恥ずかしそうに頭を掻いた。
「なにみてんねんー……」
「すんません、つい。疲れとるんやないですか。少し眠ったらどうです?」
「いや、眠気覚ましがてら晩飯作ろうや。もう夕方やし」
種ヶ島はまだ眠たそうに言って立ち上がると、一つ大きく伸びをした。ずっと縮められていた長い手足が露わになって、部屋着のTシャツとジャージ越しにも明らかな美しい体躯が鮮やかに映る。しかし、その姿はしおしおと再びソファに座り込んでしまった。ぽんぽん、と左側の座面を叩くのでそこへ座ると、瞼の閉じたままの種ヶ島の頭がこてんと太腿に乗っかった。
「五分だけ寝かせて」
「ふふ、はい」
すぐにすやすやと寝息を立て始めた種ヶ島の髪をそっと撫でながら、よっぽど疲れているのだ、と白石は眉を顰めた。いつも「あとちょっと」と言いつつ夜更けまで手を動かしてしまう種ヶ島を今日はなんとしても早く寝かせようと決意し、白石は起こすのを忘れたふりをして、たっぷり十五分後にそっと種ヶ島の肩を揺らした。
ワンルームの部屋についた小さなキッチンは、二人並んで立つと肩をぶつけ合うようになってしまう。壁と種ヶ島に挟まれるようにして豚肉を湯通ししつつ、目の前でテンポよく葱を小口切りにしていく小麦色の手を見ながら、この狭さはなかなか好きだと白石は思った。
「葱入れんでー」
「はいどうぞ」
白石が一旦下がり、種ヶ島が奥のコンロで湯気を上げている鍋にまな板から葱を滑らせた。種ヶ島が戻ると、手前の鍋の中から火の通った豚肉を笊に取る。種ヶ島は包丁とまな板を置き、背後の冷蔵庫からきゅうりを取り出して洗う。入れ替わって、白石は一通り湯通しの終わった肉を冷水で冷やしにかかり、種ヶ島はきゅうりを切り始める。短い会話だけでそんな動作が繰り返されていって、白石は面白くなって笑いだした。
「なんやダブルスやっとるみたいや」
「ん?何?」
「種ヶ島さんとここで料理するん、テニスのダブルスと似てるんです。状況読んで、ちょっと合図したり目配せしたりして、それぞれ役割こなしたりカバーし合ったり」
「ふうん?俺らはええコンビか?」
「はい、めっちゃええコンビネーションやと思います」
「さよか。さすが俺らやなぁ」
嬉しそうにウィンクを飛ばす横顔を見て、白石は一瞬、テニスコートに立っているような感覚に囚われた。ラケットを持ち、青い空を背負ってチームメイトに声を掛ける種ヶ島が見えた気がした。彼はテニス選手ではないのに、その光景はすべてがとてもよく調和し、種ヶ島に似合っていた。いつか種ヶ島とテニスをしてみたい。水泳でバランス良く鍛え上げられた種ヶ島の体は、きっとすぐにコツを掴み、整った美しいフォームでラケットを振り抜くに違いない。
食器棚を覗き、二枚セットで揃えられているいくつかの食器の中から深皿を選んで盛り付ける。できあがった冷しゃぶは、料理に不慣れでも失敗がなく、栄養もしっかり摂ることができると気付いてこの夏よく作ったメニューだ。葱と油揚げの味噌汁は、最近独学中の栄養学の本の中で学んだことをふまえて選んだ。葱と豚肉の組み合わせは疲労回復効果を高めるという。少しでも種ヶ島の力になりますようにと、白石は小さく祈って鍋を見つめた。
種ヶ島が揃いの椀に味噌汁を盛り付けていく。白石は飯椀二つを棚から取り出した。ほとんどの食器が二つずつ揃えられている充実した食器棚を眺め、いまだに自分用の食器しか調達していない自宅の小さなキッチンのことを思った。来客用に二つずつ用意しておくべきだろうか。
◆
閉じかけた目を擦り、今夜も案の定「もうちょっと」と資料に貼りついた種ヶ島を、白石は半ば引っぺがすようにして浴室に突っ込んだ。遠く聞こえて来るドライヤーの音は、間もなく途切れる頃だ。種ヶ島が再びノートパソコンと資料の山の中へ戻って行かないよう、白石は一足早くベッドに潜り込んだ。部屋の一番奥に置かれたセミダブルのベッドで一緒に眠るのは、既に習慣となっている。
種ヶ島はいつも、今はまだ空っぽの白石の右隣で眠る。初めてここで二人で眠った日のことは忘れられない。客用の布団を使うものと思い込んでいた白石を種ヶ島がベッドへ手招いたとき、その意図を測り兼ねた白石は一歩も動けなくなってしまった。あの海で種ヶ島の体に確かな欲情を覚えてから、互いにそういうものを抱えていて、いつかはぶつけ合わなければならないのだろうと思っていたけれど、それがいつどのように訪れるのか、白石には全く分からなかった。今がその時なのかと尻込みした白石を見て、種ヶ島は眉を下げて言ったのだ。
『お前の怖がることは絶対にせえへんよ。一緒に寝よ』
おずおずと近づいた白石を安心させるように抱きしめ、種ヶ島は白石の隣に横になった。香水を纏わない種ヶ島の肌の香りがぶわりと強くなり、穏やかな表情で髪を撫でる種ヶ島を見るうちに、白石は味わったことのない安らぎに沈んでいった。傍らの体温に身を寄せるその夜の眠りは今までにないほどに深く、幸せだった。まだ何の危険も心配も知らず、世界一安全な母親の胸で眠る赤ん坊に戻ったようで、恋人の隣で眠ることはこれほど満たされる行為なのだと白石は生まれて初めて知ったのだ。
「ふ、もう寝る気満々やん」
浴室から戻って来た種ヶ島が白石をちらりと見て笑った。
「そうですよ。今日ははよ寝ましょ」
「はいはい。心配ありがとうな」
冷蔵庫から出したミネラルウォーターを一口飲むと、種ヶ島は苦笑しながら部屋の照明を落とし、まっすぐにベッドへと足を向けた。暗い部屋の中で、種ヶ島が毛布を避けてベッドに入って来る。その刹那、一瞬にしては長い時間、種ヶ島の瞳が熱っぽく白石を見下ろした。そのまま覆い被さられるのではないかと体が強張ったのは一瞬で、種ヶ島はすぐにその眼差しをひっこめて優しく額を合わせ、横になった。
種ヶ島は、ベッドの上では滅多にキスをしない。今回も避けられたキスが種ヶ島の辛抱を物語っていて、白石はどくどくと心臓を暴れさせながらも尋ねた。
「俺、布団で寝ましょうか」
「ん?」
「……その……、」
「……一緒に寝れたら十分やで。嘘やないよ。幸せすぎるくらいや」
ころんとこちらへ体を倒してそう微笑まれてしまえば、白石は頷くしかなかった。
やはり疲れていたと見える種ヶ島が立て始めた規則正しい寝息を聞きながら、白石は種ヶ島に背を向けるように寝返りを打った。体が火照って暑い。毛布を蹴飛ばしてしまいたくなるのを堪え、白石は寝間着の襟を静かに引いて風を送った。
種ヶ島だけではないのだ。隣で眠る美しい人の体温を、肌を、その中に眠る欲を意識すると、勝手に体が熱くなる。下半身が見知らぬ切なさに襲われ、思わずそこへ伸びそうになる左手を抑え込んで深呼吸を繰り返す。眠る種ヶ島の横でそんな自分の体に密かに対処するのは、これが初めてではない。
それでも、白石にはどうしたらいいか皆目分からなかった。男同士でのセックスのしかたを調べたことはもう何度もある。実践するには正直なところ気の引ける思いしかないその方法に踏み切るきっかけは想像できないし、そもそも性交の経験のない身には、恋人同士の性欲がどのように開示されていくものなのかも見当がつかない。種ヶ島への欲情をどう表現していいのか分からない。白石が微かな怯えや戸惑いを見せるたび、手を引いて本当に幸せそうに笑ってしまう種ヶ島を見るとなおのこと、こちらから何をどう始めたらいいのか分からなくなるのだ。いっそのこと、多少強引でも構わないから種ヶ島のしたいようにしてくれたらいいのに、などと勝手なことを思うしかなくて、今夜も白石は途方に暮れてため息をついた。
◆
「―――……」
耳元で声がして、ふと眠りから覚めた。体がじっとりと暑い。辺りはまだ真っ暗で、白石は重たい瞼でのろのろと瞬きをした。
「んん……」
「え、……!」
再び耳元で聞こえた吐息に混じる声で、白石は急に状況に気付いて覚醒した。種ヶ島が後ろから強い力で抱き着き、その手は胸や腹を大きく撫でるように動いている。種ヶ島の息は荒く、腰から尻の辺りに固く熱いものが押し付けられるように当たっている。突然の出来事に、白石はこれが自らにとって回避すべき危険であるのか、受け入れるべき待望の瞬間であるのか分からなくなって硬直した。しかし次の瞬間、種ヶ島の手がズボンの中へ侵入して性器に触れ、白石の中を犯しているかのような仕草で種ヶ島がひとつ腰を揺らしたことで、恐怖が他のすべてを塗りつぶした。ネットで見た男同士のセックスがこの体で行われようとしている?白石はぎゅっと目を瞑り、絡みつく腕を叩いて必死に訴えた。
「待って!俺まだ怖いです、男やし!」
「へ、……?……え、あれ……俺、」
必死に並べた言葉は情けなかったけれど、種ヶ島に届いた。我に返った、と言うより今目が覚めたといった様子でがばりと身を起こした種ヶ島は、どうやら夢うつつであったらしい。しばらくぱちぱちと瞬きを繰り返していたが、体が離れ、やがて双眸がまっすぐに白石を捉えた。白石はほっとして肩の力を抜いた。
状況を理解した種ヶ島は、さあっと顔色を失くして「ごめん」と呟いた。
「そうやった。そうやんな。ごめん、寝ぼけとったみたいや。怖がらせてごめん」
白石の様子を窺うようにもうひとつ距離を取り、今にも泣きだしそうな顔で謝る種ヶ島を見て、白石は急にすまなく思った。二人はれっきとした恋人同士であるのだし、種ヶ島が触れたがっていることも分かっていた。そして、白石が怯えるから手を出さずにいてくれるのだということも。さっき咄嗟に出た言葉こそ本心だ。結局自分は、この体のとてもとても狭いその場所に種ヶ島の一部を受け入れることが怖いだけなのだ。あれこれ理由をつけては種ヶ島の優しさにつけこみ、試してみることからさえも逃げて、彼の欲求に真剣に応えようとすることを先送りにしてきただけ。種ヶ島がしたことよりも、自分のしてきたことの方がよっぽど酷いように思えてくる。
「謝らんといてください!びっくりしただけやから大丈夫、それに……、その、俺、いつまでも覚悟決められへんくて、すみません」
「……無理せんとき。セックスなんかおまけや、おまけ。俺はお前と一緒におれることが大事やし、せやから今めっちゃ幸せやで」
種ヶ島は安心させるように笑って、柔らかくそう言った。またこれだ。この言葉にいつも甘やかされてしまう。白石は、ますます暗い思いになりながら頷いた。種ヶ島は、
「卒論疲れでエロい夢でも見てたんかなあ?ちょおシャワー浴びて来るわ」
と明るく笑って見せながらベッドを出た。白石は曖昧に笑ってその背中を見送った。繋がることはできなくても手淫や口淫はできるし、男同士なら兜合わせだってある。それらでさえ怖気づいて言い出せず、結局またも種ヶ島に我慢を強いた自分を軽蔑しながら。
明け方、白石はふと寒さを感じて目を覚ました。シャワーから戻った種ヶ島と隣同士で眠りについたはずなのに、その姿がない。このセミダブルのベッドは、一人きりで横になると本当に広い。種ヶ島自身は、「体でかいからちょうどええ」と意に介していない様子であったが、シングルベッドに慣れた体には寂しい空間だ。
暗い部屋の中を見回すが、ソファにもダイニングテーブルにも姿はない。手洗いへ行ったのかと少し待つが、帰って来ない。不安になって起き上がり、目を凝らして辺りを見ると、カーテンの向こうにその姿を見つけた。ベランダだ。音を立てないよう、カーテンの隙間からそっと覗く。
まだ深い青色の夜の中、ベランダの柵にもたれた背中が見える。スマホをいじっているらしい。不意に、白銀色の頭が空を仰ぐ。それから、青みがかって見える白いTシャツを纏った背が膨らみ、しぼんだ。後ろ髪を撫でつける右手に指輪が鈍く光るのが見えた。ため息をついて一回り小さくなったように見える背中は、すぐそこに見えるのに、なぜだかとても遠かった。窓ガラスに隔てられ、紺色の薄い布を一枚垂らしたような夜の向こうにいる種ヶ島の背中を見て、白石は急に泣きたくなった。
今日、いや、これまでもずっと、種ヶ島に与えられなかったもののことを思う。このままでは、きっと種ヶ島はどこかへ行ってしまう。そんな予感が奇妙な現実味を帯びて迫って来る。
それはそうだ。精神的なものばかりでなく、肉体的な充足も分かち合える方がいいに決まっている。それに、本当に無理なものならばともかく、与えられるかもしれないものを試みもせずにいるのは、恋人として不誠実なのではないか。
逃げるのをやめよう。怖くても、ちゃんと方法を学んで実行してみなければ始まらない。追い立てられるようにしてやっとのことで決意しながら、白石は種ヶ島のいないベッドへ戻った。
白石が寂しさに疲れて眠りに落ちるまで、種ヶ島は戻って来なかった。
翌日、種ヶ島はいつもと同じように優しく「おはよう」と言って、白石を朝へと招き入れた。何から何までいつものあたたかさだった。これまでどおりそれを甘受しながら、白石は謝りたくてしょうがなかった。この優しさは、種ヶ島が白石のために、苦痛と共に押し殺したものの上に成り立っているのかもしれない。
「種ヶ島さん」
「ん?どうしたん」
「あの、」
「うん」
「……や、なんでもありません。何言おうとしてたか忘れてもうた」
「ええっ、なんやまだ眠いんかぁ?」
一緒にいられることが大事で、幸せ。そう言った種ヶ島の言葉を嘘だとは思わない。けれど――。
白石は笑う種ヶ島に笑顔を返しながら、きゅっと拳を握った。昨晩垣間見たあの遠さを、焦燥を、決して実現させたくなどない予感を、絶対に忘れないでおこう。そして昨日決めたことを必ず実行するのだ。
種ヶ島は、昼からバイトが入っていた白石をいつものように家まで送った。最初に海へ出かけたときから、二人の時間を過ごした後に種ヶ島が必ず行うことだった。
ただでさえ時間が惜しい時期なのだから、というか、そもそも自分は男なのだし、力だって平均以上にあるつもりだし、自宅まで送ったりしなくていい。白石は何度かそう主張して、この習慣を廃止しようとしたのだが、これだけは種ヶ島が頑として譲らなかった。「別にええよ、勝手に後ろからついていくから」。最終的にそう言ってそっぽを向いた種ヶ島に、白石が折れた。一緒にいられる時間が増えるし、卒論制作中の運動にもなるからいいのだと種ヶ島は笑っていた。
「ほなまたな!」
「はい、また」
「ちゃい☆」
元気よく笑って去って行った背中が見えなくなると、白石はスマートフォンの検索画面を開いた。
ええと、まず何が必要なんやったっけ。何て検索すればええんや。ちゅうか、どこで手に入るんやろう……。
覚束ない手つきで文字を打ち込みながら、白石は踵を返した。肌寒い朝だ。シャツから出たむき出しの腕に貼りつくように、冷たい空気がとっぷりと街に溜まっている。太陽はまだまだ暖かく照っているけれど、日陰にはもう秋が来ているようだ。