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手洗いからの帰りにふとロビーを覗いてみると、青年はまだソファに座っていた。あれから誰か、あるいは何かが訪れた様子はない。逞しく広がった背中がひとつ大きなため息をついたように見えて、老画家は青年の方へと足を向けた。
昔、描いた絵が小さな賞を獲ったことがきっかけで、少しの間美術の客員講師として教壇に立ったことがある。その頃の性だろうか。彼はもう立派な大人に違いないけれど、一人で俯いている若者を見ると、どうにも落ち着かなくなるのだ。
彼は今度はゆっくりとこちらを振り向くと、小さく微笑んであいさつした。
「どうも。お客さん全然来うへんなぁ」
「この天気じゃあね」
少し躊躇ってから、老画家はなるべくやわらかく続けた。
「きみの方も来ないみたいだね」
青年はくるりと瞳を丸めると、微かに目を泳がせ、困ったように口を歪めて正面に向き直った。老画家は、斜め向かい側のソファにそっと腰を下ろした。彼は特に嫌がる様子もなく、肩を竦める。
「別に何も来うへんよ。俺の方は」
「じゃあ、来ないものを待ってるんだ」
「なんやそう言うとおもろいなぁ」
そう言って笑い、青年はテーブルのジュースの缶に手を伸ばしたが、飲むことなく元の場所に戻した。弱く抜けるような音を響かせたそれは、既に空であったらしい。「……けど、的を得てるかもしれへんわ」。再びソファに沈みながら、急にやわらかく呟く。
彼の不思議な瞳はますます静かに凪いでいたが、その向こうに、昼間は見えなかった翳が見えた気がした。何も波及しない、あるいはさせない水面の底に、彼は何かを、大事に沈めている。それを何やら放っておけず、老画家は口を開いた。
「よかったら、教えてくれないかい、きみが待っているもののこと」
「ええ?なんでやねん」
「せっかくこんな吹雪の日に、こんなところに居合わせたんだから。何かの縁じゃないか」
「縁はええけど、話してどうなるもんでもないわ」
「そうかな。差し詰め、私の退屈しのぎにはなるかもしれない。一人で座るのには飽きたからね」
青年は凛々しい眉を片方上げると、ぷっと吹き出して笑い出した。低く唸る暖房の音だけが満ちるロビーの天井に、快活な笑い声が響き転がる。しばらくそうした後、彼は少し憑き物が取れたようになって言った。
「退屈しのぎかぁ。そらええわ。ほいじゃあひとつ、退屈しのぎになるかどうか、話してみよか。なんやもう、話してしまいたいような気もするしな」
ドアの向こうで、ひゅるると鋭く風が鳴るのが遠く聴こえる。しばらく言葉を探すように瞳を揺らした後、青年はこう話し始めた。
「ひとつ、言うてもうたことがあんねん。── 十年前に」