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 彼のことを思うとき、決まって最初に目に浮かぶのは、横顔だ。じっとどこかを見つめ、何かを思う、静かな横顔。その顔をいつどこで見たのだったかは思い出せないのに、笑った顔より、泣き顔より、よく思い出されるのはそういう表情だった。 

 彼、白石蔵ノ介は、種ヶ島にとって、出会ったときから面白くてならない人物であった。賢いくせにどこかがずれていて、楽しいことが好きで、仲間想いで、真面目で一生懸命で── なぜだかかわいくてしょうがない、三つ下の後輩だった。近くで過ごすことができたのは、出会ってからあのW杯までの約二か月と、偶然大学が一緒になり、同じサークルでラケットを握った一年足らずの間だけだったけれど。 

 はしゃいで笑う顔や初心さは年相応であったのに、時々驚くほど大人びたところのあった彼は、その時も人知れず決めていた。ようやく聞くことになったのは、その年の冬だ。 

『春からアメリカに留学します』 

 それは、心理学の研究者を志していた種ヶ島が卒業論文の執筆を終え、久しぶりに白石をコートに誘った日のことだ。明らかに様子がおかしかった彼とのラリーを中断し、座るように促したコート横のベンチで、彼は強張った表情でそう言った。 

『テニス、どうしてもやれるだけやってみたいんです。現役終えるまでは、日本に戻らへんつもりです』 

 種ヶ島さんに相談もせんと、すみません。血を吐くように言って下げられた頭とぎゅっと握られた白い拳とを見て、種ヶ島は悟った。相談したくてもできなかったのだ。それは種ヶ島が諦めた道であることを、彼はよく知っていたから。 

『ノスケ。謝ることなんか一つもないで』 

 俯く白石に視線を合わせ、種ヶ島は心からそう言って笑いかけた。ただ、初めての悔しさがじくじくと胸を湿らせていた。彼は随分長いこと、悩んできたのだろうに。 

『……気付いてやれんで、ごめんな』 

 出会った頃から、どうしてか放っておけない、特別な後輩だった。だから誰よりもよく見て来たつもりだったのに、よりによってこの時、彼にとって最も難しく、勇気が要っただろうこの時に限って、何一つ気付くことができなかった。それは彼が成長した証であったのかもしれないし、種ヶ島を苦しめまいと固く誓って隠し通した成果であったのかもしれないが、春から近くで過ごしていながら頼りになってやれず、彼の最大の決断を一人きりでさせてしまったことは、種ヶ島にとって最初で最後の、失敗だった。 

 気付けなかったのは、浮かれていたせいもあるかもしれない、と最近になって考える。出会いから三年もかかって、ようやく近くで見ていられるようになった。それが嬉しくて、あの年は柄にもなく舞い上がっていた。毎日彼とボールを打って、学食で食事をして、笑い合う、そんなことが楽しくて、嬉しくてたまらなかったから。 

『……種ヶ島さん』 

 チームメイト、先輩後輩、そんなものだけでは説明のつかない情が深く根を張り、青々とした葉を茂らせていることに、本当はずっと前から気付いていた。肯定しないように、見ないように、二人揃って目を瞑ってきたものだから、始まりがどこであったのかはもうよく分からない。ただ、一足先に別れを覚悟した彼は、この時、瞑ったその目をもう開いていた。それだけは確かだ。 

『俺、種ヶ島さんが好きです』 

 こちらが急な報せへの驚きと悔いとでいっぱいになっているうちに、彼は口にしてしまっていた。これまで二人が馬鹿みたいに積み上げて来た、二人の間に横たわるものの正体を暴かないための努力を、消し飛ばす言葉を。 

 ただ受け止めてだけおけばよかったのかもしれない。そうか、分かった、だけどもうじき離れ離れになるのだし、今までどおり過ごそうじゃないか、お互いを辛くしないためにも。それでよかったはずなのに、思い詰めて揺れる瞳と、ぎゅっと寄せられた白い眉間を見つめ、彼の光る髪も、良く笑う頬も、澄み切った心根も、好きだと言ってくれた唇も、そのすべてが春になれば違う世界へと消え失せ、きっともうこの人生の中へ戻って来ることはないのだと理解したが最後、何も考えられなくなった。 

 ずっと近くで見ていられるような気がしていた。あのあたたかい瞳が見ていてくれるような気がしていた。それで十分だったのだ。でも、そうでないのなら。もう二度と、今のような日々が手に入らなくなるのなら。 

『……付き合おか、ノスケ』 

 胸を裂くような寂しさに笑みの一つも贈ってやれず、ただ握り締められたままの白い拳だけ両手に包んで、気付いたときにはそう言っていた。白石は数秒苦しそうに種ヶ島を見つめると、きつく目を閉じ、もう一度「すみません」と絞り出して、泣いた。 

 出会いから四年が過ぎていた。彼の体を抱き締めたのは、その時が初めてだ。なにひとつお前のせいじゃない、そう伝えたくて、震える肩を精一杯包んだ。空は冷たく曇り、日が落ちて暗くなっていくコートには細かな雪がちらついていた。あの年の初雪だった。 

 それからほんの少しの間、二人は恋人だった。 

 最後にこの美術館の前で見送った、彼が日本を去る日の朝まで。 

  

 「十年後の今日」。言い出したのは、どちらだったろう。それは、まだ若かった冬のあの朝、二人が交わした── 別れの言葉だ。 

 今思い返しても、辛い恋だった。ひたひたと、足早に迫って来る別れの日を見つめながら、よくもあれほど笑い合い、必死に愛していられたものだ。 

 辛い恋だった。けれど、いちばん幸せな恋だった。彼はいつも、種ヶ島が想うのと同じだけの想いを返してくれた。それを表すのを躊躇わなかったし、隣を歩けば、傍に居られるのが嬉しいと柔らかな頬が語る。出会った頃からそう予感していたけれど、これまで守ってきた薄い壁を取り払ってしまえば思ったとおり、否、思っていたよりはるかに深く、心はあっという間に溶け合い、誰にも触れられたことのない胸の奥に触れるぬくもりが信じられないくらいに心地よかった。抱き合うだけで目が眩み、涙が出るほどに幸せで、あたたかくて、彼も同じように感じてくれていると信じられた。別れの足音を聴く心の裏側はいつも寂しかったけれど、冷たい川底のきれいな石を二人で拾うようにして、楽しいことを探し、寄り添える時間をかき集め、一緒にやってみたかったことを端からやっては、懸命に笑って過ごしたのだ。 

 ちょうど二人の下宿の中間地点だったこの公営の美術館は、一緒に出掛けるときの待ち合わせ場所だった。先に着いた方は暖かいロビーを借りて待つ。彼がまだいないときはこのソファに座り、そわそわと入り口の方を眺めて、彼が駆けて来るのを待ったものだ。 

 幸せだった。二度と交わらない道を行く未来より、いつまでもそうして過ごしていく未来を思い描く方がはるかに容易かった。 

 だから、離れることには無理を要したのだ。 

 

 十年後の今日、まだ誰より一緒にいたいと思っていたら、ここへ来よう。 

 

 それは、遠く離れなければならない人の未来を縛れるほど子供ではなく、あたたかく脈打つ絆を自らの手で屠れるほど大人でもなかった二人が作り出した、一つのシステムだ。あの朝どうしても断ち切れそうになかったものを、十年という歳月がもたらすはずの変化と風化に預け、ゆっくりと終わらせていくための、約束の形をした装置。 

『誰より一緒におりたいと思ってくれてたら、修二さんもほんまに来てくれますか』 

『来る。誰より一緒におりたいと思ってたら、必ず来るわ』 

『また会えますよね』 

『会えるで。十年後の今日、また会えるから』 

『約束、ですよ』 

『ん、約束な』 

『約束』 

 再会する未来などないと分かっていた。果てしない歳月と変化の先で、留めようもなく過去になっていくであろう互いを、変わらぬ大きさで想い合えるはずがない、これが最後の別れなのだと。それでも、ままごとのように「約束」を唱えるしかなかった。あの朝二人を襲った凍えるような痛みをそうして和らげ、誤魔化して、ようやく白石と種ヶ島は繋いだ手を離すことができたのだ。そうでもしなければ、白石は旅立てず、種ヶ島は送り出してやれなかった。 

 それからしばらくの間、どのように暮らしていたのだったか。家の窓から見た晴れた空と、ベランダの隅に残った溶けかけの雪の色をやけに鮮明に覚えているだけで、それ以外は、よく思い出せない。 

 近隣の大学に在籍していた大曲竜次が訪ねて来たのは、どれくらい経った頃だったのだろう。ろくに家から出られない有様だった種ヶ島は、なぜか事情を知っていた大曲にひとしきり泣き言と寂しさをぶちまけ、酒に呑まれるようにして眠った次の日、やっと少しだけ前を向けた。 

 それは、白石の最後の真心だった。もし種ヶ島が苦しんでいたなら、自分のことを振り切れるよう、先へ進めるよう、助けてほしい。白石がわざわざ大曲の元を訪れてそう頭を下げていたことを聞かされ、それが彼の最後の願いなのだと思えば、少々無理矢理ではあれど、種ヶ島はようやく立ち上がることができたのだった。 

 単身アメリカへ渡った彼は、誰もいない異国の地でどうやってあの別れを乗り越えたのかと、今でも時々考える。彼が苦しみながらもプロ登録を果たしたのは、それから二年以上後のこと。時間は怒涛のように過ぎたに違いない。彼の歩んだ道の忙しさと厳しさが、彼にあの日の痛みを忘れさせてくれただろうか。 

 澄んだ朝日に舞う雪、涙を堪える白い額。 

 その景色は何年経っても嘘のように鮮やかだけれど、確実に遠ざかり、重なる新たな日常の下で、予想と違わず過去になっていった。それでも、ふとそれらを瞼の裏に見るたび、今も小さく祈る。俺にくれた心を他の誰かに渡していたって、俺のことなんか忘れていたって彼の自由だけれど、ただあの寒い朝が、もう彼を苛んでいませんように、と。 

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