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ぽつぽつと、けれど整然とした青年の言葉を聞き終え、老画家は呻くようにため息をついた。十年も前のことらしいのに、驚くほど鮮明に語る。まるで、彼がまだ十年前の冬の中にいて、そこから話をしているみたいに。
「ロマンチックな再会の日の話かと思ったよ。……違うようだね」
昔のこととはいえ、その恋人といたとき、離れたとき、若い青年の心はどんな痛みや温度を帯びて揺さぶられたのだろう。今も具に思い出せるほど彼の心に刻みつけられたその激しさを思い、老画家は慎重に口を開いた。すると、青年は急に明るい笑みを浮かべ、二度頷いた。
「そうそう、全然ちゃう。そうせな別れられへんかったから言うただけ。あいつもそれが分からん奴とちゃうし。あれからどっちも大人になって、それぞれ好きに、まあまあええ人生歩んどると思うしなぁ」
腑に落ちるものがなく、老画家は首を傾げた。彼が待っているものは何なのか。老画家はそう問いかけたはずだった。
「再会の日でもないのなら、どうしてこんな日に、わざわざここへ?」
青年は、実に明快に回答した。
「この先いらん心配せえへんために来た、いうとこやな。別れるためとはいえあんなこと言うてもうて、今日ここに来うへんかったら、俺は行かへんかったけどあいつは来てたかもしれへんとか、あいつはまだ俺のこと忘れんと生きとるかもしれへんとか、余計なこと考え続けなあかんやん。うぶで真面目な奴やってん。あいつならやりかねんから。せやから、今日一日ここにおって、あいつは来うへんかった、あいつはちゃんと終われたんやって、見ときたいわけや」
老画家は、それを聞いてようやく納得し、頷いた。けれど、彼の言葉は、遅れて微かな違和感を生んだ。流暢な説明は、まるでそれを何度もなぞったことがあるみたいに板についていて、台本を読み上げたような無機質さを帯びていた気がしたのだった。
その時、今日初めて入り口の自動ドアが開いた。
外の冷気がどっとロビーへ吹き込む。老画家はその時、凪いでいたはずの青年の瞳に激しい波紋が立つのを見た。ソファに沈んでいた体が、弾かれたように起き上がり、ドアを見る。顔には、老画家の足音に振り返ったときと同じ、痛々しい光が満ちた。
その先にいたのは、美術館の職員だった。除雪道具を片手に、ドアをくぐって外へ歩いて行く。ドアは実に不愛想に閉まり、幾分冷えた室温を残して、ロビーはあっけなく、元通りになった。
吹雪はいつの間にか去っていたらしい。老画家は、雲の隙間から窓の外に広がり始めた薄い光とは対照的に、青年の顔にふたたび満ちた強い光が、急速に潰えていくのを見ていた。
「きみは」
その横顔が、静かに胸を打った。この青年の瞳の異様な深さの理由を、今、見せられた気がして。
「"約束"を果たしに来たんじゃないのかい」
青年は、口を引き結んだままドアの外をしばらく見つめ、やがて口許だけで薄く笑った。
「さあなぁ」
── まだ誰より一緒にいたいと思っていたら。
彼らが十年前に唱えたという言葉を反芻し、老画家はその微笑みに目を瞠った。ドアの先に何かを見ているようなそれは、自嘲にしてはやわらかく、恋慕にしては悲しい、静かな笑みだった。