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老画家の去ったロビーで、種ヶ島は再びソファに深く凭れ、今日何度目か分からないため息をついた。間もなく、閉館時間になる。
(あーあ。あほやなぁ)
苦笑が滲む。別れを遂げるための呪文でしかなかったはずの言葉のために、まったく賢くない一日を過ごしてしまった。
けれど、仕方がなかったのだ。
彼のことを片時も忘れずに、なんて、おとぎ話みたいな十年を生きてきたわけではない。彼を足枷になんかしないように、ちゃんと過去の思い出にして、自分の人生を歩んできたつもりだ。それは彼が最後に願ってくれたことであったし、彼にもそうしてほしいと心から思ってきた。
大学の博士課程を終え、何かを評価されたのか、それともただ運が良かったのか、翌年から同じ大学の助教授の席に座ることができたから、研究活動はすこぶる順調だ。専門のスポーツ心理学は近年研究が盛んだし、若い大学生たちに時折講義をするのもなかなかおもしろい。何人か、いい関係を築いた女性もいた。
あれきり白石と連絡を取ることはなくなったけれど、きっと彼も同じようなものだろう。テニス選手のピークと言われる年齢を過ぎ、プロの中では高ランクとはいえない試合への出場が多いとはいえ、故障の少ない彼は、今も粘り強く世界で戦い続けている。映像が見られる試合は少ないけれど、かつてよりさらに抜け目なく、クレバーな機転に満ちた試合運びで戦う姿を何度も見た。いつの間にか、水を打ったようにしっとりとした空気を纏うようになった面差しから、彼は立派な大人に、男になったのだと悟ったのは、もうずっと前のことだ。それを寂しいとも悲しいとも、もう思わない。彼の姿を見ても、ただ懐かしさだけを胸に応援してきた。
ただ、疲れて帰る夕暮れの駅、なぜか眠れない夜更けのキッチン、隣で眠る女より早く目覚めた朝の窓際、そういうふとした場所にそれは現れた。一冬だけのあの日々が、感触や香り、その時抱いていた想いまでも鮮明に蘇り、それがもう現実ではないという事実に、胸がしくしくと痛み始めるのだ。何かが足りない、欠けている、寂しいと、前触れもなく泣き始める。
子どもの世界から一歩踏み出たばかりの、まだ大人になどなりきれていなかったあの朝は、十年も経ってしまえば、二人ともすっかり別の人間になっていると思っていた。知らない世界を知り、人生の長さを知り、彼とのことも、いくつもあった恋のうちのひとつになるのだろうと。今にして思えば、それこそなんて甘く、幼い見通しだったんだろう。一つずつ歳を取り、新しい人に出会えば出会うほどに確かになり、急に襲う滲むような寂しさをやり過ごすたびに分かっていったのは、むしろ、この人生に彼以上の存在はもう現れないということの方だった。
とはいえ、悲観していたわけでもない。生涯で最も深い絆を結んだ人と、色々あって一緒になれないなんてことは、そこらじゅうに掃いて捨てるほどある話で、悲劇でもなんでもない。ふと思い出し恋しくなる過去があったって、案外、新しく手ごろな愛や居場所を探す支障にはならないものだ。彼も、種ヶ島の知らない人たちと、彼自身の人生を作り上げているはず。あちらは生涯で一番の人なんて思ってくれているかどうか分からないが、少しはいい思い出として胸にしまってくれているだろう。間違っても、後悔なんてされていないといいけれど。
そんなふうにして、実に大人らしく、楽しい、充実した長い月日を過ごした。過ごしていたはずだった。それが唐突に崩れたのは、今から二か月ほど前の朝のことだ。
あの日によく似た、寒い初雪の朝だった。初雪が降ると、彼が想いを打ち明け、この胸の中で重い均衡が崩れた日のことか否応なしに思い出される。それはもう毎年のことで、珍しいことではなかったけれど、その日は違った。気付いてしまったのだ。これが、十回目の冬だと。
『誰より一緒にいたいと思ってくれてたら、修二さんもほんまに来てくれますか』
別れの朝、縫い付けられたようだった手と手を離すためだけに唱え合った言葉が、必死にこっちを見ていた潤んだ瞳が、急に目の前に現れた。あの時は果てしなく遠く思えたその日は、もうほんの二か月後まで来ていた。
彼は来るだろうか?
そんな馬鹿げた考えが頭に浮かんだのは、なぜだったのだろう。
思考は緩く走り出した。真面目で一生懸命だった彼の心根を思う。あれが別れの呪文、ままごとに過ぎず、彼がそのことを理解していたとしても、万が一、今も種ヶ島と「誰より一緒にいたい」と思っていたならば、彼はきっと、美術館へ行かなければと考えるだろう。あの時どういうつもりで言ったのであれ、かつて自分が放った言葉の内容に、責任を負って。
なら、俺はどうだ?
そう考えたとき、急に足が竦み、その感覚に既視感を覚えた。出会ってから三年間、彼と頑なに一線を守り合っていた頃に似ていたのだ。踏み越えれば何が起きるか分かっている、だから後退ってしまうその一線を、今度は自分の足で越えてみた。
もし。もしも、隔たった時間も距離も、常識も損得も、誰の都合も考えなくていいとしたら。望みどおりになるとしたら。俺は、誰といちばん一緒にいたい?
見慣れた自室のカーテンの隙間から、冷たい朝日が射していた。白く曇った空をちらちらと、頼りない小さな雪が降りてくる。彼といた季節、毎日のように舞っていたそれが、ひとひら降るごとに、蘇らせていく。
今までで一番寒く、他のどんな季節よりあたたかかったあの冬。誰よりも深く心に触れたまなざし。優しい声。混ざり合った体温。もう生きる意味を探さなくていいと思える、無限の安息。
彼だ。俺は、彼と一緒にいたかった。
(……行かな)
胸に、十年前の初雪の日と同じ、制御の利かない波が押し寄せる。同時に、これまでいくつも見た映像の中で、種ヶ島の知らない大人になっていった白石の姿を思い起こせば、冷たい諦めが波に混ざり、溢れていった。
彼は、きっと来ない。けれど── 。
種ヶ島は、開かない自動ドアをもう一度見つめて苦く口を歪めた。来るはずのない人を待つ、まったく賢くない一日。けれど、そう、仕方がなかった。
『約束、ですよ』
俺は、彼にだけは嘘がつけないのだから。
健気に涙を堪え、しがみつくように見つめてそう言ったあの日の彼を、裏切れなかった。だから今日、ここへ来るほかなかったのだ。誰よりも彼と一緒にいたい、心にひっそりと沈殿したその願いを、見つけてしまったからには。
今日という日が何も生まないのだとしても、十年前の彼に嘘をつかないために。